年が変わる前に買ったカレンダーの、その日にユーリは忘れないようにといち早く丸印を入れていた。カレンダーを捲るのはアッシュの仕事だったが、月頭のその印がなされた日は、その月が来るまで誰にも気付かれない。
いや、もしかしたら彼らは忘れないかも知れないけれど、去年はまんまと自分だけ知らないまま騙されてしまったので、今年こそは騙されないように、という意気込みも込めて。
赤印の日は着々と近付いてきている。思えば、こんな風に何かを企んでその日がやってくるのを待ちわびたことなど、片手で余る程しか無かった気がする。
眠っている時間が永かったからな、と腕組みをして考えに耽りつつユーリは目の前から窓の外を見上げた。
ゆっくりと、しかし確実に季節がひとつ巡りつつある。今日から春、といった明確な区切りは何処にも現れないけれど、月が変わるだけでも気持ちはそれなりに変わるものだと最近気付くようになった。
通り過ぎていくばかりの時間に眼を向けるようになれば、虚無に埋め尽くされていたはずの世界が不思議にも広く、色鮮やかなものに映る。季節毎に咲き乱れる花の違いや、食べ物の味もほんの僅かずつ変わっていって。
ああ、こうやって人間は年月を重ねて歳をとり、視界を広げて行くのだと。あれらと同じには到底なれないと知りつつも、ほんのちょっとだけ、羨ましさを感じてしまう。
明日は、月変わりの初日。
四月一日。
嘘の準備は、整った?
朝起きて、何気ないフリをしたまま普段通りの行程を順番にこなしていく。
食事を摂って、珈琲を啜りながら新聞を広げ読み、持て余した時間を散歩に浪費して、ちょっとした買い物に出る。
その買い物で、頭の中で組み立てていた計画を実行すべくとある店により、予め予約して置いたものを代金と引き替えに受け取って、城へ戻る。
今日は寝坊したらしい奴が若干寝癖の残る頭を掻きむしりながら、ようやく食後の珈琲に手を出しているところに遭遇しても、何食わぬ顔を装って台所のアッシュを訪ねた。
「ユーリ、それは?」
「仕返しの小道具」
「は?」
一年越しの仕返し、と言えば暇な事をする奴も居るものだと自分でも思うが、あの時はそれなりに驚いたし莫迦にされたような思いもあったから、やはり仕返しは必要だろう。一方的にからかわれたままでは、自分の沽券に関わる。
綺麗にラッピングされた箱をユーリから受け取って、中身に大まかな予想を立てたアッシュがやはりまだ分からない、という顔をしている。もしこれが自分への贈り物だったならどんなにか良かっただろう、と考えているのかもしれない。
作業台のテーブルに箱を置き、リボンを丁寧に解いた狼男の手が慎重に箱の蓋を取り除いた。気をつけて帰って来たユーリの苦労の甲斐あってか、中身は店で飾られていた時と寸分違わぬ姿形を保ったまま、箱の台座に鎮座していた。
ごくり、と甘党の男が喉を鳴らす。
「貴様にも後で分けてやる」
「……それは嘘じゃないっスよね」
「ああ、嘘だ」
ひとり分としては少々大ぶりの、丸いケーキ。飾り付けは控えめながら、硬くホイップされたクリームが全面に塗られて甘い香りが台所中に広がりつつある。季節のフルーツが内部にぎっしり詰め込まれているらしく、店員が受け渡しの時に説明してくれたのを思い出した。
生唾を飲んでそんなぁ、と情けない顔をする狼男はこんな時だけ、とても小さく見えるのが不思議。このまま退化して狼と呼ぶには語弊がありそうな姿に戻りはしないかと、少々心配になってユーリはケーキの蓋を慎重に閉めた。
嘘と断言されてしまい、目の前でお預けを喰らった犬が恨めしげな目線でユーリを見ている。口にやった指の先が涎で濡れていそうで、盛大な溜息を吐いたユーリは肩を竦めた。
「仕方がないな」
どうせ自分ひとり、と、仕返し相手だけで食べきれるとは思っていない。ホールの四分の三以上は、彼の口に運ばれる結果は買う前から目に見えていた。
最近評判が良いと聞くケーキ屋の、この春の新作なのだそうだ。そういう情報にも耳聡いアッシュが知らないわけはないはずで、もしここで食べさせてやらなければ来年、自分が彼に仕返しを受けそうな予感がする。
「但し、後からだからな」
先ずは、仕返しを実行してから、とアッシュにケーキを切り分けるように言い聞かせてからユーリはそっと、ドアを開けてリビングに場所を移しくつろいでいるスマイルの姿を探した。
何を企まれているのかも知らず、暢気に欠伸をしている。眠そうに目尻を擦り、興味無さそうにテレビのチャンネルを弄っている。そのうちに、マグカップが空にでもなったのか電源を切ってソファから立ち上がった。
慌てたようにユーリが扉を閉める。ちょうどアッシュが、四分の一に切り取ったケーキを皿に移し替えたところだった。隣には香りの良い紅茶が添えられている。
ユーリは何食わぬ顔を装ってテーブルの前に据えられていた、飾り気も無いスツールに腰を下ろした。皿に載っているケーキの、切れ目から溢れんばかりになっている果物に視線をやって、これは甘そうだ、と臍を噛む。
甘いものは嫌いでないが、好きでもない。四半サイズでも辛そうだ、と考えているとテーブルの対岸に居るアッシュが非常に恨みがましい眼を向けて来ていた。睨み返すと、きゃんきゃん鳴いて遠ざかる。
扉が開いて、差し込んだフォークで掬い上げたスポンジ生地から雪のような白い粉砂糖を零れた。甘く握った金属器が、薬指に嵌めた銀の金輪に擦れて微かな衝動を生む。
「うっ」
台所に爪先を入れたところで、そんな風に呻いたのは白磁のマグカップを胸に抱いたスマイルに他ならず。
彼は扉を半端に開けた状態のまま、気分悪そうな顔をして室内を覗き込んだ。いや、彼の顔色は元から悪いのだけれど。
「なんか、甘いんですケド……」
「何をしている、入ってくれば良いだろう」
「いや、だから……ネ?」
匂いからして甘いものを嫌悪するスマイルの反応も分からないでないが、ユーリの鼻はとっくにこの甘さに慣れてしまって麻痺していた。だから平然と言い放つ。向こう側でアッシュが苦笑していた。
ケーキの残りを大事そうに冷蔵庫へしまい込み、ついでだからと昼食の仕度でも始めようというのか食材を幾つか手にとって。手招きをしてアッシュにおかわりを注いでもらおうとしたスマイルだけれど、今手が放せないから自分でやってくれと彼に言い返され、渋面を作った。
ユーリはフォークを機械的に動かし、甘いケーキを口に運ぶ。だが思ったよりも甘さは控えめで、フルーツの味ばかりが先に立つ感じがする。
これは美味しいと言うべきか否か、判定に苦慮しつつユーリはちらりとスマイルを見た。どうにか台所に入ったものの、テーブルに置かれた物体に気付いてげっそりとしている彼に、自然笑みがこぼれる。
「貴様も食べるか?」
そう言って、フォークに差したスポンジと、それを多うクリームたっぷりを見せつけるように彼へ示せば当然ながら、スマイルは勢い良く首を横に振った。
ユーリの笑みが深くなる。
「見た目ほど甘くないぞ。果物ばかりで、むしろ物足りない感じだ」
それは本音から出た感想で、聞かされたスマイルはムッと眉根を寄せて顔を顰めた。さりげなく聞き耳を立てているアッシュが、後で午後のデザートになるだろうケーキの残りを思って冷蔵庫へちらりと視線を向ける。
「ホントに?」
勘ぐりを止めないスマイルに嘘じゃない、と強調して告げたユーリがほら、と自分が使っていたフォークに乗るケーキの欠片を更に彼へと突き出す。まだ渋面を崩さないスマイルが、だけれど断り切れないという顔をしてユーリへ躙り寄った。
爪先がテーブルの脚に当たる。
「口を開けろ」
「…………」
命令されて、間近に顔を寄せたスマイルが無言のまま口を開けた。すかさず、ユーリはその中へフォークを差し込む。唇が閉じられると同時に引き抜き、銀フォークの端には生クリームがこびり付く。
数回の咀嚼。その間、全員が固唾を呑んで見守っていた。
しばしの沈黙が漂う。ユーリの予想では、この後スマイルはケーキの甘さに苦しみ、ユーリは彼が騙されたと言って笑い飛ばしてやるつもりだった。
けれど。
「………ああ」
ごくりと喉を鳴らしてケーキを呑み込み、口許を拭ったスマイルは顔色も変えること無く息を吐きだして。
「本当だ、そんなに甘くない」
ユーリもアッシュも呆気に取られる感想を、平然と舌に載せて。
「え?」
まさかそんなはずはないだろう、とユーリは慌てて手元のフォークでクリームの表面を削り取り、口に入れた。
甘い。控えめとは言え、甘味系一切がダメのスマイルが平気で居られる程度とはとても思えないのに。思わずアッシュと顔を見合わせてしまったユーリの横顔へ、スマイルはにこりと満面の笑みを返した。
空のままのマグカップを音を立ててテーブルに置いて、さっきよりももっとユーリに詰め寄って顔を寄せて。
不気味な程に感情のない笑みのまま、囁きかける。
「あのさ、ユーリ」
これは、もしかしなくとも。
怒らせた、だろうか?
「ぼく、」
勿体ぶった調子で間を置きながら、喋る。アッシュが息を呑んだ、もしかしなくともスマイルは怒っている。
「君、嫌い」
「……え」
「ユーリなんか、大嫌い」
キッパリと断言して、彼は離れる。マグカップをテーブルに残し、彼は振り返りもせず台所を出ていった。勢い良く扉を閉めて、その後は気配さえ辿れない。
へなへなとユーリは全身から力が抜けて椅子にへたり込んだ。床にフォークが落ちる。跳ねた生クリームが散ったが彼はそんなところに気を配る余裕など何処にもなかった。
「あ、の……ユーリ。ほら、ほら今日はエイプリル・フールっスし!」
先に我に返ったアッシュが取り繕うように、冷や汗を噴き出しつつ必死になって両手を振り回しながら言って聞かせるけれどそんなことば、少しも説得力がない。あの時のスマイルの眼は本気で、心底怒っているのだと知らしめた。
ユーリの唇が青ざめたまま、震えている。奥歯がカチカチと小刻みに鳴って、座っているのもやっとだった。
自分のことばが彼に届いていない事を悟って、アッシュも静かになる。どうしようか、と心の底から困ってしまって、スマイルが残していったマグカップを洗おうと手を伸ばした。
瞬間、ガタガタっとけたたましい音を立ててユーリが椅子を薙ぎ倒し立ち上がった。落としたままだったフォークを踏みつけて、荒々しい態度で台所を出ていく。
或いは泣くかと思ったのだが、逆だったのか。どちらにせよ、修羅場は覚悟しておかなければならないだろうか。だったら自分の出る幕ではないし、出来るなら巻き込まれるのも御免だと、アッシュは残されたケーキの皿と床のフォークを交互に見やった。
まずは床の生クリームを片付ける事から始めようか。そう考え、雑巾を探し彼は視線を巡らせた。
案の定、探せばスマイルは洗面台の前に居た。
濡れた口許を、同じく濡れた手で拭っている。邪魔になるのか左手の包帯だけが剥かれ、白い渦が床に出来上がっていた。咥内にあった唾を吐き出した彼は、背後から迫る気配を察知して前傾姿勢のまま首だけを捻った。
やや剣呑な色を含んだ隻眼が鈍く輝いている。まだ怒りは解けていないようだったが、それはユーリもまた同じ。冷静に考えてみれば、あれしきの事でどうして「嫌い」と面と向かって言われなければならないのか。
笑い飛ばしてやるつもりだったのに、そんな気持ちは遙か彼方へとすっ飛んでいってしまった。残るのは理不尽な怒りばかり。
確かに先に騙したユーリも悪いだろうが、それだって去年散々自分がからかわれて笑われた事に対するささやかな復讐心が起因。元を辿ればスマイルが悪いという思考に行き当たるので、ユーリも引くに退けないままこめかみに青筋を立てている。
「何」
ラックから引き抜いたタオルで顔を拭いて、鏡に向き直ったスマイルが低い声で問うた。感情の抑揚の無い冷えた声に、しかし立ち止まる事もなくユーリは距離を詰める。タイル張りの床に散った飛沫を爪先で潰して、目の前まで行って。
ぐっと喉に力を込めて彼を睨みつける。若干スマイルが身長もあるため、どうしても見上げ気味になって迫力に欠けてしまうのが難点であったが、気にしない。
「スマイル」
怒気を孕んだ声で名を呼んで、剣呑な瞳を揺らすスマイルを見詰める。
「……嫌いで結構。私とて、貴様など」
「ユーリ」
口許を再度タオルで拭ったスマイルが、冷えたままの声で呼び返した。柔らかな布地越しに、少しだけくぐもった音色は音の響きも良い空間で思いの外伸びて消えた。
なんだ、と目くじらを立てたままユーリが片眉を持ち上げる。スマイルは顔半分を覆う包帯に更に、付け加えて口に押し当てたままのタオルの所為で読みづらい表情のまま、其処に立って何処かを見ていた。
何もない壁を振り返ってしまったユーリが、怪訝な顔つきで視線を戻す。そうするともうスマイルは何処か分からない場所から彼へと目線を戻していて、尚かつ薄い笑みさえ目許に浮かべている。
緩められた隻眼に、訝みを隠せないユーリ。
「ぼくが、甘いもの嫌いなのは知ってるよネ」
それも匂いだけで吐き気を催したがる程に重度だという事は、仲間内だけではなく甘いものが食べられないなんて人生の半分を損してるよね、と肩を叩かれるくらい知れ渡っている事。
勿論ユーリも知らぬはずが無く、ましてや口に入れたらどうなるかなど。目を閉じて思い描くまでもなく、簡単に予想がつくだろうに。
今、この場所で彼が何をしていたのか、も。
透明なグラスが水滴を垂らして逆さまに置かれているのを横目で見て、ユーリは頷いた。
「彼処で、吐いて欲しかった?」
口に入れたものを、あの場で吐露していたら。
想像して、ユーリは今度は首を横に振る。
「でショ?」
にっこり、と。
スマイルが笑って、ユーリはズドン、と頭の上に落ちてきた見えない石に首根っこが折られそうな重みを感じながら肩を落とした。
「ああいう、迂闊な事をするユーリは、嫌いだよ」
「……だが」
あの時のスマイルは、今の会話にあったような理由だけで怒っているようには見えなかった。顎にやった丸めた手に視線を伏したユーリを間近から見下ろして、スマイルは嘆息する。
悶々と考え出したら止まりそうにないユーリの、鮮やかな銀糸を眺めやって指先が完全に乾いているのを確認してから、そっと爪が当たらないように梳ってみた。さらさらと、抵抗も無くそれは彼の指の隙間を流れていく。
「ね、ユーリ」
握っていたタオルを降ろす。鋭い牙を指に押し当てている彼の手を包帯に巻かれた腕で留めて、綺麗な肌に囚われた金輪にそっと、触れるだけのキスをする。
そうやって漸く顔を上げてくれたユーリに、柔らかく微笑みかけて。
「嘘を吐くのって、体力いるでショ」
一時のごまかしの嘘でも、計画性をもって練られた予め用意された嘘であっても。
ちょっとした冗談のつもりでも、誤解を受けたまま放置すれば嘘は真実にすり替わっていつまでも根を残す。本意で無かった事が、本人の手を離れた場所で勝手に一人歩きを始めて止まってくれない。
誰も嘘の理由や、真意には気付かない。その嘘を吐いた本人が、心根を晒さない限りは。そして嘘を隠し通そうとすればするほど、見苦しい嘘が塗り重ねられていって益々、元に戻れなくなる。
気がついた頃には、遅すぎて。
ただ、苦しい。
「なーんで、エイプリル・フールなんて日があるんだろうネ」
諸説はあるが、有名なのはノアの箱船。中世ではその日だけ、君主と愚者が入れ替わったという説もある。だが、真実は分からない。誰が始めたのか、何故その日だけ嘘が許されるのか。
ただ、もしかしたら。
「覚えておいて。今日の嘘が明日には本当になる事だって、あるんだってコト」
「……済まなかった」
「イイヨ、謝らなくても。騙されたぼくも悪い」
「いや、私が変に意固地になっていただけで」
嘘を吐くことによって、真実を告げる苦労を和らげたり。
嘘を吐く事の辛さを身に滲みて思い知ったり。
そういう役目が与えられているのかもしれないと、身勝手に感じた。
「今度からは、もうちょっとかわいげのある嘘にして欲しいナ」
「善処する」
来年こそは、と。密かに心の中でユーリが誓ったのはまた別として。
穏やかに笑んで、顔を上げた彼はしかし視線の向こうで、ふと遠くを見やったスマイルの横顔に首を捻った。あれは、何かを考え込んでいるときの表情に似ている。
今日は四月一日、日付が変わるまであと半日以上残されている。
「ねぇ……ひとつ質問だけど」
顎に手をやって撫でて、どことなく上の空な彼が呟く。なんだ、と問い返せば細められた隻眼がユーリの双眸を捕らえる。
「ユーリって、そんなに、さ」
ぼくのこと、嫌い?
あんな意地悪で嫌がらせでしかない嘘を仕込むくらいに。嫌われていないのなら、精神的ダメージどころか肉体的ダメージも大きい、不得手な食材を使いはしないだろうに。
急に話題を引き戻して来たスマイルの意図を計りかね、ユーリはそれは悪かったと思っている、と唇を尖らせた。上目遣いに睨むと、緩んだ隻眼が僅かに笑っている気配を流しているのに気付く。
ああ、もしかしたらこれも、エイプリル・フールの続き?
不機嫌を追いやったユーリが、肩から力を抜いて溜息を零した。何をそんなに、拘ってくれなくても良いのにと思うが、どうせだから最後まで茶番につき合うのも悪くないだろう。
もとは、自分が始めた事なのだし。
「そうだな」
肩を竦めて両手を外側に向けて広げる。態とらしい落胆の様子をスマイルが晒して、それが殊更可笑しくてユーリは笑いが止まらない。
少々予定は狂ったが、彼を笑い飛ばす事は充分出来そうだ。
「美味かっただろう? 貴様の為にわざわざ作らせたんだ、光栄に思え」
「美味しかったヨ……」
とってもね、と思いだしたのか幾分常から悪い顔色を更に悪化させ、スマイルは視線を宙に泳がせた。だから、今の回答は間違いなく嘘。
クスクスとユーリが声を零して笑う。
「あー、もう。やっぱりユーリってば、ぼくの事キライなんだ……」
天を仰いで大袈裟に顔を手で覆い、スマイルが愚痴る。それから指の隙間に瞳を覗かせて、隠した表情に笑みを象らせた。
降ろされた彼の手が、ユーリの右手を拾う。薬指に嵌められた、銀の輪。
「なら、コレ……返して?」
要らないんでしょう? と問いかける。直後ユーリの表情が陰り、一瞬だけ凍り付いた。
「え……だって、これは」
「嫌いな相手から貰ったものなんて、必要無いでショ?」
そう言って彼はユーリの指を飾るそれを二本指で挟み、引き抜こうとする。慌てたユーリが肩ごと腕を引き戻して逃れたけれど、にこにこと悪びれもせず目の前で微笑んでいる彼の姿に、茫然とユーリは立ち尽くした。
信じられないと、目を見開く。スマイルが、小首を傾げた。
「嫌い、なんでショ?」
「だからって、これは……」
右手ごと身体で庇ったユーリが、怯えた眼で彼を見据え返す。しかしスマイルは冷たい笑顔のまま表情を変えてくれず、早く、と急かして手を伸ばしてくる。今度こそ身体を捻って逃げて、ユーリは背中を壁にぶつけた。
行き止まりであると知り、絶望に似た想いに打ちひしがれる。
「ちが……だって、今日は」
エイプリル・フール。嘘をついても構わない、一年で唯一の日。
でも、だからといって。
必ずしも、嘘を吐く必要だって無い。
「もう止める!」
身体を丸め込ませ、ユーリは叫んだ。泣きたい気持ちを懸命に堪え、声だけを振り絞り身体を戦慄かせて怒鳴った。
「もう嘘なんて、やめる!」
嘘を吐くのも、吐かれるのも。
疲れるし、哀しいし、悔しいし、痛いし、辛い。
ぷっ、と頭上で噴き出す声がした。顔を上げると、広げた手で口を覆って肩を小刻みに揺らしたスマイルが、必死になって笑いを堪えている姿があった。
最初から、全部企んまれていて。
今年もまた、ユーリは最終的に彼にからかわれた事になる。
いつもはケースに仕舞われていた指輪が、取り出した覚えもないのに机の上に置かれていたのも。
ユーリがケーキを持って帰ってきた時、通りがかったリビングに居たスマイルがなにも言わなかったのも。
差し出されたケーキを迷いもせず口に運んだのも。本気で怒っているように見せかけてみたり、一度は許したように見せかけて、埋めたはずの穴をもう一度掘り返してみせたり。
全部。
「スマイル!!」
「は~い♪」
心底愉しそうに笑って、スマイルは振りかざされたユーリの拳から飛び退いて逃げた。
「貴様、最初から仕組んで!」
「だって、ユーリがこそこそ企んでるみたいだったし? これは何か、お返しをしなくちゃな、って思っただけだもん」
少しも反省の素振り無く言ってのけ、カラカラと笑い声を立てる。眉間に皺を寄せたユーリが、指輪の飛び出た部分を凶器にすべく拳を硬く握り締めた。前に出した足に力を込めて、踏み込む。
威勢も立派に、懇親の力を込めた一撃は。
残念ながら目的地に到達することなく、逆に囚われて止められてしまった。その上、しっかりと手首を拘束されて、力いっぱい引きよせられる。
踵が浮いて、爪先立ちになったユーリが前傾になってバランスを崩した。倒れる、その手前でつっかえ棒代わりに立ちはだかるスマイルの胸に肩口から沈んで。
顎を掬われる。一瞬だけ視界が陰り、反応できずに見開いたままの目の前で、目を閉じたスマイルの顔が近付いてきていた。
反射的に身を竦めて、目を閉じる。
触れあうだけのキスは、ほんの一瞬。直ぐに離れて、彼独特の香りも感じ取る前に掻き消されてしまった。
拘束が解かれる。鈍い痛みを残す腕が、脇へと垂れ下がった。
「うん」
舌を出して自分の唇を舐め、スマイルが視線を宙に投げ飛ばす。
「やっぱり、嘘だったネ」
何が、と最早起こる気力も失せたユーリの前で彼は無邪気に目尻を垂らした。
「甘い」
「…………」
はあ、と。
ユーリが溜息を吐く。
自分の僅かに湿った唇に指を当て、味などしないだろうにと声に出さず呟く。
そして。
当分嘘は吐くまいと心に誓い。
最後に油断しているスマイルの腹へ、渾身の力を込めて膝蹴りを叩き込みユーリは踵を返した。
後ろで、いつまでもけたたましい笑い声を上げながら、そのくせ痛みに呻いているスマイルを置き去りにそう広くもない洗面所を後にする。
大股に数メートルの距離を進んでから立ち止まり、静かになった背後をちらりと窺って、追い掛けてこない事を確認してからそっと、自分の右手を抱き上げた。
薬指に輝くそれに、眼を細める。
「まあ、良いか」
自分にだけ聞こえる音量で囁いた。
「嘘の本音は、聞けたからな」
今年はこれで勘弁してやろう、と瞳を細めてユーリは笑った。
来年こそは、悟られぬようもっと念入りに罠を仕掛けて。今度こそ、彼を笑い飛ばすのは自分なのだと決意新たにユーリは歩き出した。
直ぐ後ろで、姿を消したスマイルが聞いているのにも気付かずに。