Sink

 ちらりと、膝の上に広げた本から持ち上げた視線で何気なく窓を見た。
 光の射し込まないカーテンが、受け止める風も無く垂れ下がっている。白のレース地も外の薄暗さを受け、やや鈍い色に映った。
 外は雨。朝から、否、昨日から降り続けるそれは勢いを多少弱めたものの、未だ止む気配が一向に見られない。気紛れに取り上げたテレビのリモコンのボタンを押して、映し出された映像を幾度か切り替える。偶然時間帯が重なって、報じられていた天気予報ではまだ当分、この鬱陶しいばかりの雨は続くのだと言う。
 スーツに分厚い黒縁眼鏡、七三分けの髪型という典型的なキャスターが今後の予報を告げ、指示棒で天気図を指し示し解説する様をぼんやりと眺め、コマーシャルが挿入されると同時にユーリはテレビの電源を切った。
 握っていたリモコンを誰も居ないソファへ放り投げ、膝の上でくつろいでいる本を捲る。爪の先で貼り合わさっていた頁を剥がし、やや丸まってしまった角を抓んで右から左へと流す。
 だけれど、折角開いた続きを読み進める事なく彼の瞳は再び、虚無の窓辺へと流れていた。
 BGMで流しているクラシックは本当に静かで、自身の呼吸音に重なって殆ど気にならない。傍らの肘置きに沈めた右腕を支えに改めて窓辺に向いて、細めていた目を更に細める。
 雨音が微かに聞こえてきていた。クラシックの穏やかな曲調を乱す無粋な音であるはずなのに、ふたつが混じり合う不協和音でさえ今は心地よさを覚えてしまう。窓や壁、張り出した軒を叩く、空から降ってくる数多の声に耳を傾けると尚更音ははっきりと響いて、胸の奥を擽るかのようだ。
 瞼を閉ざす、視界をゼロにしてユーリは身体から力を抜いた。柔らかなクッションのソファに益々身体を沈め、広げたまま放置状態の本も結局栞も挟まれずに閉じられた。
 耳を澄ませば雨の音。一定のリズムではなく、バラバラに個性を主張しながら、それでいてアンバランスさの中に秘めた感覚があって。
 吐息を零す。それさえも自然の音楽の一端を担っている感じがして、ユーリは知れず口許を綻ばせた。
 昨日の昼前から止まずに続く雨は、今夜遅くを過ぎなければ終わりを迎えないと言う。もしそれが本当なら、明日の朝はきっと空気も澄み渡り、清々しい空が拝める事だろう。
 大気中に含まれる不純物すべてが、雨によって洗い流される。いわばこの雨は、空の洗濯なのだ。
 自分で思いついた単語に笑みを隠せず、我ながら恥ずかしいことを考えてしまったと頬を掻いた彼は、薄く瞼を開いて天井からのシャンデリア光も弱いリビングの一角を見つめる。今は誰も居ない城は酷く静かで、いつもなら心細ささえ感じてしまうのだけれど今日はこの雨の御陰で、常に雑音が見にまとわりつき多少気が紛れている。
 流していたCDはいつの間にか終わり、複数枚セットしておいたチェンジャーが自動的に次を読み出して数秒後には、違う曲がスピーカーから奏でられていた。一瞬だけ逸れた思考を引き戻し、閉じたものの膝の上に鎮座したままでいた本をリモコンの上に無造作に重ねて置く。ユーリの細い爪先が、分厚い本の重厚なカバーの表面を軽く削った。
 押し掛け同居人は双方とも外出中のはず。確かめたわけではないが、朝から気配が感じ取られないから多分そうなのだろう。
「アッシュは仕事として……」
 軽くなった膝の上に頬杖を移動させ、右を上にして脚を組む。前方に投げ出された爪先を持て余し気味に揺らして、ユーリは視線を斜め上方へ浮かせた。
 行き先不明者を若干一名、脳裏に思い浮かべてすぐに掻き消した。
 どうせ放っておいても、そのうち帰ってくるだろう。恐らく夕食の時間帯には。さして食事に興味も執着も持っていないようではあるが、三人揃って食事を囲むのを好む世話好きの料理人の意向を今のところ、彼は甘んじて受け入れているようだった。
 だから夕方を過ぎれば彼も、アッシュも帰ってくるはず。根拠もなく思い、ユーリは浮かせた視線を落とした。
 前を向いたままだと、自分の爪先だけが見える。真正面に大画面テレビが置かれているが、娯楽番組にはそもそも興味ない。どうでも良い番組を無駄に流し見するのも気が進まないから、結局真っ黒い画面はそのまま放置された。
 ふと見上げた壁時計は、郭公が鳴くにはまだ早い時を指し示している。振り返った先の窓の外は、絶え間ない雨が降り続く。
 しとしと、と。
 一体どういう了見でそんな擬音が生まれたのか、首を捻りたくなる雨が止まない。水の匂いは締め切られた窓の僅かな隙間を縫って、彼の鼻腔にまで届けられる。
 湿っぽい中に混じる微かな緑の匂いは、季節に芽吹くものたちの産声だろうか。
「止まないな」
 彼らは出先で、この雨に濡れていやしまいか。無用な心配を思い浮かべ、ユーリは数回瞬きをしてから揺らしていた爪先を引き戻して足を組み替えた。
 頬杖を外し、両手の指を互い違いに絡ませて膝の上に置く。伸び上がり、逸らせた背中をソファに委ね天井を仰いだ。視界に飛び込むシャンデリアの眩しさに、即座に瞼は降ろされる。
 退屈だ、と心の中で呟いてみた。
 一人きりの寂しさは、まだ雨の音に紛れて遠い場所にある。
 けれど、手持ち無沙汰のこの余りに余る時間だけは、彼方へ放逐しようにもどうにもならない。常ならば多忙の極みにあって気にもならないのに、こんな日に限って思い出してしまうから。
 雨の所為もあるかもしれない。この不定なリズムは心を掻き乱し現実を遠ざけるけれど、同時に落ちつきを取り払って陰鬱な気分を呼び込んでしまう。自分が果たして本当にこの場に在るのか、そんな疑問さえ諸手を挙げて引きよせて。
 余計な事を考えてしまいたくなる。普段ならまるで気にしないような事にまで思いは巡って、疲れるばかり。
 今度は盛大に溜息を吐いて、起こし気味だった背中を再度ソファへ押し込んだ。ずるずると身体を沈め、そのまま上半身を横倒しに倒れ込む。
 革張りの匂いが鼻を突く。けれど目を閉じて数回呼吸を繰り返せば、それも直ぐに慣れた。
 雨は止まない、ずっと降り続けている。
 それでも枯れない沢山の水は、あの澄んだ空のどこにあったのだろう。その空から降る雨は、何処へ行くのだろう。
 もしかしたらこの雨は、永遠に止まないかもしれない。水音は静かに、だがきっと窓の外では派手な音を響かせているのだろう。ぬかるんだ大地にはいくつもの大きな水溜まりが出来、溢れている。
 そうしていつか、この地表は雨に埋もれて水底に沈むのだ。今でさえ、こんなにも世界は水に満たされて包まれている。
 焦げ茶のソファに身を委ね、ユーリは目を閉じる。意識を窓の外にだけ向くよう仕向けて、雨音を片方の耳で拾い集めれば、自分が水の中で、むしろ深淵の海底で眠っている風に錯覚する。
 穏やかで静かで、安心出来る。そこになだらかな調子のクラシックが重なり合って、緩やかな睡魔がユーリを包み、見えないヴェールが彼の肩から身体へ降ろされた。
 西の空では、僅かながら分厚い雲間から微かな光が覗き始めている。やや弱まりかけている雨足を振り切って、水溜まりを器用に飛び跳ねて避ける足音に、ユーリは気付かないまま浅い眠りに沈んでいった。

「ただいまー!」
 頑丈で重い観音開きの正面玄関ドアを蹴り破る勢いで開いて、彼は大声をあげた。高い天井の玄関ホールは音響効果も抜群で、彼の少し高い声はよく響き城内を反響して吸い込まれていったが、残念なことに彼の元気溢れる帰還を知らせるの喇叭は誰にも聞き取って貰えなかったようだ。
 暫く待ってみたものの、反応は皆無。おや? と首を捻った彼は、胸元を抱えたまま口をへの字に曲げてむっつりと頬を膨らませた。
 もぞもぞと着込んだジャケットの前が不自然に動く。
「ああ、ちょっと待って」
 誰も出てきてくれないから、濡れそぼった前髪から垂れ落ちる雨の滴を拭うタオルも自分で用意するしかなさそうだ。早く着替えないと、身体が冷えて最悪風邪を引く事だって考えられる。
 そんなにヤワな体質をしているとは思わないが、このままでいる事は残りふたりの同居人もいい顔をしないだろう。出かける時にはちゃんと持っていたはずの傘は今現在彼の手元になく、代わりに男でなくとも誰しも一度は憧れを持ちそうな豊満な胸元が出来上がっていた。
 もっとも、そういうバストはこんな風にもぞもぞと落ち着きなく自分から動く事はないだろうが。
 水気を吸ってかなり重くなっている前髪を掻き上げる。額に貼り付いていた分も一緒に掬い上げて後ろへ流すと、巻き付けていた包帯が緩んで一部がずれてしまった。覆っている左目の睫毛までもが濡れ、逆立っている感じがする。
「びっちょびちょだネ……」
 自分の姿に改めて苦笑して、彼は抑え込んだままの胸元を解放した。途端、するりとジャケットの中にあった膨らみが下降して消滅する。狭くなっている裾から身を捻って現れたのは、濡れ鼠ヨロシク、濡れ猫が一匹。
 雨が降っていたけれど、本日発売の限定フィギュアがどうしても欲しくて出かけたまでは良かった。その時はちゃんと傘だってしっかり持っていて、止まない雨を躱して街に出たのに。
 肝心のフィギュアは目の前で売り切れてしまって、意気消沈したまま気を紛らわせようと立ち寄った本屋では、入り口の傘立てにおいた傘を盗まれた。似たような色と形をした傘が残されていたから、間違われてしまっただけかもしれないが、御陰で彼はこの冷たい雨の中走らなければならなくなった。
 コンビニでビニール傘を買っても良かったのだ。他にも傘を扱っている店はいくつか在った。けれどどうにも新しい傘へ即座に手を出すのは負けた感じがして癪に思えて、結局何も買わずにバス停まで走った。
 そうして見つけたのが。
 雨漏りするバス停の下、並んで置かれたゴミ箱に身体を突っ込んで過ごしている猫。
 多分毛並みは白いのだろうが、野良である事や雨に湿っている事もあってやや色もくすんで灰色っぽい。愛嬌のあるやや気の抜けた顔をして、ゴミ箱の縁から顔を出しバス停に駆け込んできた彼を見上げていた。
 この時既にびしょ濡れに近かった彼を不思議そうに眺め、小首を傾げさえする。笑われているような気がして、ムッと来たからバスが来るまでの十数分の間、猫を相手に散々遊んでからかって過ごす事に決めた。
 だけれどいざ、猫の首根っこを抓んで持ち上げようとしたところ。
 伸びたから。
 むにょ、と、幾ら何でも柔らかすぎるだろうと言いたくなる軟体動物的構造で猫の身体が伸びたものだから。
 瞬間的に思考能力がダウンして、目の前が白くなる。その間も摘み上げられた猫は不思議そうにするばかりで、あまり猫らしからぬ鳴き声でか細く鳴いてみたりした。
 ああ、これはひょっとしてお仲間なのだろうかと。
 こんな同類は聞いたことも見たこともないけれど、最近また珍種発見騒動が勃発していたりするから、こういう類もあり得るかもしれないとくらくら来た頭を押さえ込み、なんとか平静さを取り戻して首を振る。その間さえ、猫は暢気に間延びした声で鳴いていた。
 緊張感の欠片も無い光景に脱力感が否めない。どれだけの時間そうしていたのかも分からず、ひっ掴んでしまった猫を手放すタイミングも逸したまま気付けばその薄汚れて濡れた猫を抱え、ジャケットに押し込んでバスに乗り込んでいた。
 行き先不安なバスに暫く揺られ、乗り継いで降りた先で棄てていっても多分構わなかったに違いない。野良猫なのだから、どこでだってそれなりに適応力を発揮して生きていけるだろう。
 緊迫感のない顔をまじまじと改めて見つめ、雨を凌ぐ箱から放り出された彼は空を仰ぎ、一面の鈍色に溜息をつく。
 猫が鳴いた、ジャケットの隙間からやや苦しそうに顔を覗かせて。
 気の抜けた鳴き声が雨音に霞む。バス停から居城まではかなり距離があり、傘無しで行くには少々骨だと思われた。しかし走る以外方法はない。此処まで来てしまっては後戻りも出来ないし、傘を手に入れようにもそういう店は見渡す限りどこにも存在していなかった。
 人気もなく、車も無い。偶然を装って迎えに来てくれる存在も、今日は現れなかった。
 ほんの少し待ってみる事にしたが、次のバスが来る事も無く雨の中佇むという不毛な時間が無駄に流れただけに終始する。胸に抱えた猫が寒そうに震え、毛羽立った隙間から数滴の水が飛び跳ねた。
「……走るしか無いかー」
 諦めを含んだ声で呟き、鉛色の空を恨めしげに見上げて彼は足許の土を蹴った。寒いのか大人しくしている猫を服の上から優しく抱きかかえ直し、吐いた息を大きく吸って静かに降ろした瞼を決意の思いを込めて、見開く。
 直後、駆け出した。
 水溜まりを連続ジャンプで躱しつつも、タイミングが狂って膝上まで泥を跳ねさせた事も数回。降りしきる雨が容赦なく彼に打ちつけ、跳ね上がり気味だった毛先も総じて垂れ下がり大きな雫を簾のように連ねた。
 身体が芯まで冷えていくのが分かる。ズボンは裾どころか全体が泥水に汚れて地色を失い、羽織っていたジャケットをすり抜けた水気は背中全体に広がって、シャツが肌に貼り付いて来る。靴の中にも水は潜り込み、一歩前へ進むごとにびちゃびちゃと土踏まずの隙間で移動を繰り返していた。
 それでも自分の頭を庇うよりも、ジャケットの中に抱えた猫を優先させた前傾姿勢で、なんとか視界だけを確保させつつ誰も行き交わない雨の道を走る。
 そうしてやっと目の前に開けた城の重厚な扉を勢い良く押し開き、帰還を告げる雄叫びを挙げたのに誰も返事をしてくれなくて。
 ジャケットの裾を握り、軽く絞ればその場に小さな水溜まりが数個出来上がる。彼の足許で、同じように四肢を突っ張らせた猫が低く唸って全身を振り回した。
 逆立った毛並みから、一斉に水滴が放たれる。多少はマシになったかもしれないが、完全に身体を乾かすに至らなかったのが不服らしい猫が、また間の抜けた声で鳴いて彼を見上げた。
「タオルよりお風呂が先……かな」
 自分もこのままの格好ではいられない。袖から腕を抜いたジャケットも洗濯しなければならないだろう、濡れたままの服は兎角気持ちが悪いの一点張りで、貼り付いているシャツの喉元を抓み広げ、彼は天井を仰ぎながら溜息を零した。
 髪を掻き上げる、その指の隙間からまた新たな雫がいくつも滴っていく。足許の水溜まりは既に小さいどころの騒ぎではなくなっていて、大きなものが彼と猫を中心に徐々に範囲を広げて行こうとしている。
 この場所も、このまま放置して置いたら怒られるだろうか。
「やっぱりお風呂が先、先」
 床から視線を逸らし、彼は誤魔化し半分に唄うような声で言ってひょいっと猫を抱きかかえた。濡れた彼を嫌った猫がいやいやと首を振って逃げようと試みるが、がっしりと両脇から抱きしめられて叶わない。
「さ、お風呂お風呂~。沸いてなかったらシャワーだネ」
 ついでだから綺麗に洗ってあげるよ、と必死の抵抗を試みる猫に笑いかけ彼は濡れた足跡を引きずって風呂場へと向かって歩き出した。
 まるでナメクジが通った跡のような、濡れた一本筋が彼を追い掛けて続いていった。

 暖かな感触が手元に在って、向こう側からすり寄ってくる。それが思いの外柔らかくて気持ちよいものだから、こちらとしても引きよせて表面を撫で感触を楽しんでしまう。
 夢心地のままに何度も撫でる仕草を繰り返し、やがてくすぐったがり始めたそれが逃げようと藻掻くのを押し留め、抱きしめる。
「う、ん……?」
 柔らかすぎて、表面が凹む。伸びた、掌の上で。
 中途半端なところで漂っていた意識が水面に向けて傾く。感触を確かめつつ手の動きは休めないまま、ぼんやりと朧気な頭を緩く振って暗闇の視界を開かせる。
 眩しさに細められた世界に瞬きを幾度か。慣れるに従ってシャンデリアの明かりはギリギリまで絞られ、最初に感じた程明るいわけではない事を知る。柔らかな感触は以前手元にあるが、自分の現状を把握するのに意識が先だってその存在は一瞬だけ忘れられた。
 ゆっくりと、気怠い身体を起こす。不自然な姿勢でソファに横になっていたからだろう、変な風に寝癖がついた髪を掻きむしってぼんやりと周囲を見回す。
 なにも変化ない、寝入る前と同じリビングだ。違うのは雨の音が若干遠くなっているのと、無駄に流しっぱなしだったCDが止まっていた事と、あと。
「起きた?」
 頭に真っ白いタオルを載せて髪を拭いている、押し掛け同居人がひとり。袖無しのシャツを一枚だけ羽織り、左目以外に包帯を巻いていない姿。露出した腕からは仄かな湯気が昇っていて、彼が風呂上がりだと楽に想像出来た。
 連想するのは、この雨の中濡れて帰ってきたのだろうという事。
「傘はどうした」
「盗まれちゃった」
 寝起きの低い声で尋ねれば、彼は軽く肩を竦めてタオルを頭から外し苦笑した。
 ユーリが態とらしく溜息をついて、馬鹿者が、と呟く。貶されているというのにスマイルはへこたれた様子もなく暢気に笑っていて、余計にユーリを陰鬱にさせた。
 額を押さえ、ソファに斜め座りになっている身体を立て直そうと右腕を後ろに這わせる。力を込めて、柔らかなクッションに体重を預け腰を浮かせようとして。
 むにゅっ、と。
 明らかにソファではない柔らかすぎる、それでいて暖かく妙に生々しい感触が広げていた掌全体に伝わって。
 さぁっとユーリの顔から血の気が引いた。
 間の抜けた緊張感の欠片も感じさせない猫の鳴き声が、だけれどやや不機嫌そうな色を含ませてユーリの手元で、伸びた。
「うわぁっ!!」
 なりふり構わずユーリは仰け反り、押しつぶしてしまう寸前だった物体に仰天して目を見開きみっともなくも、悲鳴を上げた。
 背後でケタケタと笑うスマイルの声。
「なっ、なっ……なんだこれは!」
 目の前には、真っ白い毛並みの猫。やや太り気味だが愛嬌の感じられるつぶらな瞳が非常に可愛らしい。
 ただ、ユーリが押し広げた箇所が伸びてさえいなければ。
「何って、ネコ」
「見れば分かるそれくらい!」
「じゃあ、良いじゃない」
「良くない!」
 普通の猫がこんなにも柔らかく、弾力に富んで伸びるなんておかしいではないか。至って真剣に論弁するユーリに、再度笑ってスマイルはタオルを肩にひっかけると開いていた距離を静かに詰めた。
 ソファの上で猫が鳴く。首根っこをひょいっと掴んで、代わりに彼がそこへ腰掛ける。ユーリの隣へ。
「……どうしたのだ、それは」
「バス停で拾った。明日、晴れたら返してくる」
 理由は特にない。雨が降っていて、猫が居て、そこにバスが来た。だから連れて帰ってきた。飼うつもりはないし、彼処を住処にしていた猫かもしれないから近いうちにもと居た場所へ返しに行く。
 膝に置かれ、頭を撫でられると伸びていた猫は気持ちよさそうに身体を丸めた。こうしていると普通の猫なのに、と横から覗き込むユーリの視線に気付いたらしい。スマイルは口許を緩めたまま、寝入ろうとしている猫の首根っこをまた掴んだ。
 上に腕を掲げる。当然ながら猫の頭も引きずられて後を辿るが、後ろ足は依然スマイルの膝にあった。両者の視線が絡む高さにまで持ち上げられているというのに。
 気持ち悪そうにユーリが顔を歪めさせた。露骨に嫌な顔をした彼を笑って、スマイルは玩具にしてしまった事を猫に謝り、再び膝に落ち着けさせた。
「何処まで行っていたのだ?」
「ん~……街まで」
「その様子だと、目的は達せられなかったようだが」
「アタリ」
 首に回したタオルの端を弄って遊ぶスマイルの、どことなく弱った感じがする笑みを眺めユーリは窓の外を見た。組んだ足の爪先を手持ち無沙汰に揺らす。
 雨はまだ止んでいないようだ。若干外が明るくなっている気もするが、気のせいかも知れない。
 外を窺って気にしているユーリの横顔を今度はスマイルが眺め、タオルを肩から外しまだ湿り気を残している前髪を撫でるように拭った。猫の背も一緒に撫でて、今日一日中ひとりで城に籠もっていただろうユーリの心境を想像する。
 まず間違いなく、それらは楽しい時間ではなかっただろう。
 ふぅと息を吐く。なんだろうと振り返ったユーリの頭に、今外したばかりの水の匂いがするタオルを落とす。
 唐突に視界が白に埋められ、即座に払いのけようとしたユーリの手を上から押さえ込み、スマイルはソファにくつろいだ姿勢のまま上半身だけを伸ばした。
 目を閉じていても分かる場所に、唇を重ね合わせる。
 水の匂いと、タオルの味。向こうも同じものを感じ取ったようで、不味いと文句を言って離れた途端タオルは引き剥がされて床に捨てられた。踏みつけられこそしなかったが、現れたユーリの目は少しだけ怒りを含んでいる。
「なんで怒るかな、そこで」
「今、貴様は、これで! 頭を、髪を! 拭いていただろう!」
 言われてみればその通り。洗濯されて乾いたばかりのものならばまだしも、あれは使用済み。間違っても清潔なものだとは言い切れない。
 ユーリが怒るのも、無理ない。
「ゴメンナサイ」
「二度とするな」
「はーい」
 殊勝な返事だけを返し、スマイルは落とされたタオルを拾い上げるとソファの肘掛けに引っ掛けた。猫の背を慣れた手つきで撫で、しどけなく濡れた雨の庭を見やる。
「明日こそは、晴れると良いんだけど」
 偶の雨は心躍るが、こうも続かれると気が滅入る。
 ぽつりと呟かれたことばに、ユーリも相槌を返して頷いた。
「晴れたら、まずこの子をバス停まで返しに行って」
 それから街へ出て、今日は逃した獲物を探して歩き回るのだ。無くした傘も探してみよう、もしかしたら間違いに気付いた人が返してくれているかもしれない。あの本屋にも立ち寄って、雨の所為で駄目にしてしまったジャケットも、新しいものを仕入れに店を巡ってみよう。レコード屋も回って、お気に入りを探すのも悪くない。
 指折り数え明日の予定を諳んじていく彼の顔を盗み見て、ユーリは伸ばした指先でそっと猫の首許を撫でてみた。柔らかく、暖かい。生き物の鼓動が伝って来る。
 クスリとスマイルが笑った。
「一緒行く?」
 控えめな笑みのまま小声で囁かれ、理解するまで三秒ほど瞬きと共に必要としたユーリが直後、は? と首を捻った。
 失敬な、とスマイルが唇を尖らせる。
「だ~か~ら~、明日、晴れたら」
 一緒に出かけようよ、と誘っているのに何故そんな簡単な事を理解してくれないのだろうこの人は。いや、この吸血鬼は。
 間を置いてユーリが手を打つ。ああ、と呟いて。
 窓の外は未だ雨。けれど勢いも嘗てほど無く、雨音も徐々にだけれど弱まりつつある。明日は、晴れるかもしれない。
 晴れたら良い。水底に沈んだ気持ちを引き上げて、乾かしてくれる太陽が昇ればいい。
「そうだな」
 出かけてみるのも、悪くない。
 何気なく呟いて、ふと横を向けば満面の笑みを浮かべているスマイルが居る。
 それが何故か悔しくて、ユーリはそっぽを向いた。僅かに紅潮した頬を隠して、悪態を付く。
「言って置くが、晴れたら、だからな!」
 背中の向こうで、スマイルが堪えきれない笑みを必死で堪えているのが分かる。だから尚更悔しくて、益々顔を赤くしてユーリは怒鳴ってやろうと勢い任せに彼へ振り返った。
 刹那。
 吐息が絡まる。
 口付けられたのだと気付くまでに、また少し時間がかかった。閉じられている間近にある隻眼の、伏せられた睫毛を数えているうちに眠くなりそうでユーリもまた、目を閉じた。
 きっと明日は晴れるだろう。そうしたら揃って出かけよう。
 水底に沈んでしまった気持ちを引き上げて、もっと気楽に構えながら過ごそう。
 ちゅ、と音を立てて一度離した唇が名残惜しくなってまた口付ける。
 雨はもうしばらく降り続くだろう。
 膝の上で、猫が眠そうに欠伸をして一声鳴いた。