雪が降る。深々と、音もなく静かに。白い雪は地表の汚れすべてを覆い尽くして隠そうとするかのように、人々のエゴや欲望を浄化しようと必死になっているかのように、雪は降り続けている。
朝方一度止んだ雪は、昼前にまた本降りになり夜を迎えた今も絶えず降り続けている。庭に作られた巨大雪だるまも、頭の上に新雪を積もらせて頭が重そうだった。崩れてしまうだろうからと、スマイル個人所有のカメラで記念撮影を終えた後帽子になっていた逆向きに被せられていたバケツだけは取り除かれていた。今それは雪だるまの足許にあって、降り止まない雪を中に抱き込んでいる。
あの小さな双子の雪だるまだけが、ユーリの手によって冷凍庫へと保護されていた。アッシュは嫌がったけれど、城主の命令に逆らい続けるはずがない。業務用の巨大な冷蔵庫の一角は綺麗に片付けられ、今はこぢんまりとした雪だるまがふたつ、並んで鎮座している。恐らくあれは、この先も当分あそこに在り続けるだろう。
居場所を失った食材は常温で保存するわけにも行かず、使い道が今のところ無さそうなものだけを狭まった冷凍庫に押し込んで、残りは今夜の食事に出される事になった。昼過ぎからアッシュは台所に引き籠もり、クリスマスの特別メニューに腕を揮っている。
リビングの角に並ぶ豪勢過ぎる音響設備からは、静かなチャッペルの趣を醸し出す音楽が流されていた。絶え間なく。
自動的にCDを組み替えるコンポが時折響かせる電動音以外はまるで違和感を抱かせない静かな空間で、窓辺に佇んだユーリは飽くことなく外を眺め続けていた。
陽が暮れて、窓に自分の姿が映るようになっても。ガラス窓に添えた右手が冷たさに痺れ、感覚が遠くなっている事にもまるで構わずに。
流石に服は着替えた、いつまでも夜着にシーツを纏っているわけにいかない。スマイルが適当に選んだ服が、自室のベッドにそのまま残されていたから、それに袖を通して。
黒のハイネックセーター姿の自分を、鏡になった窓に見つめて半透明な姿の向こう側を凝視する。
白に染まる世界。一年でただ一日だけの、聖なる夜に降る雪はまるで、地上に蔓延るあらゆる罪を許し浄めようとしている風に映る。
だがそれすらも、思い上がり甚だしい神々のエゴだろう。
罪は消えない、永遠に。そこに生きるものたちが在り続ける限りは。
伏した瞳に爪先が見え、靴の先で軽く窓を蹴ってみた。強い風が吹いているのか、庭木が左右に激しく揺れ動いていた。リズムを刻みながら、風雪に耐えている彼らの強さが羨ましくも思えた。
きっと自分であったなら、一晩冷たい風に晒されるだけで根本からぽきりと呆気ないくらいに折れてしまうだろうに。彼らは毎日毎晩、夜風の冷たさを、昼の照り付けに堪えているのだ。
せめてもう少し強くあれたなら良かったのに。自分さえも信じられず、ましてや他の誰かに縋りつきながらすべてを委ねるのに恐れを抱いている自分が嘘に出来たなら。
もっと楽だっただろうに。
冷たい窓に額を押しつけ、瞼を閉ざした。荘厳な聖歌は深いハーモニーとなって後方から響いている。胸を締め付けるその歌声は、涙が出そうなくらいに優しくそして痛い。
血が通わない指先を軽く握り、胸に押し当てる。揺れた左の手首に嵌めたブレスレットが、袖に掠めた。
銀色だが柔らかな色合いのそれは、窓とはまた違う冷たさを放っている。光沢のある輝きは褪せる事なく、ユーリの手元で放たれ続けてきた。
普段は感じることがない不安が、この季節になると毎年と言っていいほど必ず巡ってくる。考えても栓のない、永遠に終わりが来ないメビウスの輪は心を迷わせて疲れさせる。やがて身動きがとれなくなって、時間に置き去りにされるのか。
そんなはずはないと、囁く声は毎年聞かれるけれど。揺るぎない自信と確信は、抱けないまま時は過ぎる。
「…………」
「そんなに見つめ続けたら、窓に穴が開くヨ?」
窓に映るのは自分の姿だけ。けれど間近で降った声に振り返れば、真後ろの空間が少しだけ歪んで見えた。
聞き慣れた軽口、戯けた調子。そしてとても深く、穏やかな声。
「貴様か」
透明なまま背後に立つなと、毎回口を酸っぱくして言い聞かせているのに彼はちっとも守ろうとしない。不意打ちを狙っているのだろうか、近付きすぎた気配はしかし振り向きざまに繰り出されたユーリの握った拳に衝撃を受け、離れていった。
彼が透明であった為、ユーリからはいったい拳が彼の何処に当たったのか分からない。ただ骨のある箇所だったようで、自身の拳も少々痛んだ。想像するに、腰骨の辺りか。もう少しずれていたら危なかったかも知れないと、そんな事が一瞬頭を過ぎって消えた。
「痛いな~、もう。ユーリってば、相変わらず乱暴なんだから」
案の定腰骨に当たったらしい、さほど強い力を加えたわけでも狙ったわけでもないのでそう痛いものになったはずはないのだが、スマイルはぶつぶつ文句を口にしつつ、透明化を解除して姿を現した。
朝、雪にまみれた服とはまた違っている。濡れてしまったので着替えたのだろう、今は紺色のデニム地のシャツを着ていた。そして、いつもつけている左耳のピアスが無かった。
「人の後ろを取ろうとした貴様が悪い」
自業自得だと言い放ってつれなくあしらおうとするユーリの、つっけんどんな態度にスマイルはいつもと同じで表面だけの笑みを浮かべた。
「気を付けマス」
「どうせ」
「どうせ?」
「守らないくせに」
視線を逸らしたまま、けれど先程よりは瞳に威勢を込めずユーリが呟きを零す。ぽりぽりと、気力が削がれてしまった彼を見下ろしてスマイルは頬を掻いた。そしてやおら手を伸ばし、断りなくユーリの頬に手を当てる。
指先で細いラインをなぞり、耳朶まで辿って全体を押しつけてきた。
「冷たい」
「貴様の指がな」
「違う」
確かにスマイルの手自体も冷たかった。けれどそれ以上に。
「ユーリ、冷たい」
ずっと窓辺に佇んでいたからだろう。暖房が効いているとは言え、外と室内を隔てている薄い窓硝子一枚の傍にずっと居たのでは意味がない。指摘され、ユーリは引っ込めていた自身の手を背に隠した。
感覚が未だ麻痺したままの右腕に、左手首に嵌めたブレスレットが当たる。
「いつから此処に居た?」
問われても答えられない。
「風邪でもひきたいワケ?」
まさかね、と自分で言った事をすぐさま否定して返すスマイルを見つめ上げる。彼は不遜に笑んで、触れている右手を離した。
体温が逃げていく。そこだけ暖かさを取り戻しかけていたのに、一瞬で熱は雪降る外の寒さに奪われて前以上の冷たさが胸の奥から沸き上がってくる。
反射的に、ユーリは背に回していた両手を伸ばしそうになった。けれど握ったままだった右指が上手く動かなくて、躊躇が生まれる。中途半端になった手は虚空を漂い、また脇に垂れ落ちるだけだった。
俯いた視線が霞む。何を求めていたのか自分でも分からなくなって、吐きだした息を呑み込んだ瞬間。
スマイルが、ユーリを掻き抱いた。
伸ばした両腕がしっかりとユーリの背に回り、離さないという意思表示のつもりか固く結び合わされる。肩口に頭を押し込められたユーリが、驚愕を隠せぬまま茫然と向こう側の壁と天井のつなぎ目を見つめた。
深々と雪は降る。世界を白に染め上げ、始まりも終わりもない時を招き寄せる。
「ユーリ」
触れあった場所が、服の上からでも分かる熱が、泣きたいくらいに痛い。
「ユーリ」
「……何」
「泣かないで」
「泣いてなど居ない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だよ、泣いてる」
「泣いてなどいないっ!」
「泣いてる。心が、泣いてる」
「っ……」
「否定しないの?」
「したところで、どうせお前は信じない」
「そう……だね。信じない、君のことばは」
「…………」
「ユーリはウソツキだから、だから、信じない」
「貴様にだけは言われたくない」
「だって」
「なに」
「だって、ユーリはぼくの言葉を、ちっとも信用してない」
「それは……」
「ぼくを信じられない?」
「そうじゃない」
「なら、信じたくないだけ?」
「……そうじゃ……」
「ないって、違うって言い切れる?」
「………………」
「ぼら、やっぱりユーリはウソツキだよ」
「どうしてそうなる」
「今朝、君は頷いたのに」
「……」
「ぼくはずっと、君の傍に居るよ?」
「……だが」
「うん、未来の事は分からない。絶対、なんてことばに保証はないよね」
「…………」
「でもね、それでも」
「スマイル」
「今は、ぼくを信じてみて」
「……今だけ?」
「お試し期間中デスから」
「巫山戯ているのなら、離せ」
「真面目だよ」
「どこが!」
「あのね、ユーリ」
「……なに」
「君ってさ、かなり我が侭だよね」
「悪かったな」
「ううん、悪くないよ。ユーリらしいな、と思う」
「……貶されている気分だ」
「まさか。でもね、ユーリ、君はひとつ忘れてる」
ぎゅっと、強く抱きしめられる。
背に回された腕が、腰が折れそうなくらい強く力を込めてくる。痛いと悲鳴をあげそうになったユーリを遮るように、スマイルが呟く。
彼の方が泣きそうなくらいの声で。
近すぎて互いの表情が見えないようにして、彼は。
「ぼくだって、我が侭なんだよ」
君に負けないくらいに我が侭で、自分勝手で、自分ではどうしようもないくらいに。
「ねえ、ユーリ。答えてくれないかな」
君と一緒に居たいと思っているのは、ぼくが勝手に思いこんでいる独りよがりなのかな?
君は迷惑に思っているのかな。本当は一緒になんか居たくないのかな。君の傍には居ない方が良いのかな。
不安に揺れる声がユーリの耳朶を掠めていく。
「ユーリ、教えて」
微かに震えている彼らしくない声に、ユーリは息を呑んだ。答えなければならないと分かっているのに、喉の奥でことばが詰まって音にならない。
「ぼくは、迷惑……?」
違う、と。
言えなくて、ユーリはぼやけてしまった白い境界線を瞼の向こう側に隠すと、やっと解れてきていた手で彼の肩を怖々と抱いた。
「……ああ、そうだな」
迷惑な話だ、確かに。
首根から頭にかけてを軽く数回叩いて、込めすぎている力を抜かせてからユーリは漸く、はにかんだように笑う事が出来た。お互いの距離が開いて、双方の視線が絡み合うようになってから、なんだかおかしくなってくる。
「どうしようもなく、迷惑な話だ」
大体お前は、人の安眠は妨害するし隙を見せればすぐに抱きついてくるし、要らぬちょっかいは出してくるし、必要外の出費は多い上に荷物はどれも大きかったり嵩張ったりして場所をとるし、重いし。好き嫌いは実のところ多い上、曲の趣味も一方的で偏って挙げ句万民受けしないものばかりで。
どうしようもなく、手間が掛かって世話が焼けて、その上更に。
傍に居ないと、落ち着かないだなんて。
「迷惑三昧だ、貴様は」
「……ドーモ」
言いたい放題言われてしまい、最早反論する気力も起こらなくてスマイルは力の抜けた顔でそっぽを向いた。ユーリが笑う、カラカラと声を立てて。
やれやれと、間を置いてスマイルは気を取り直し肩を竦めた。改めてユーリを真正面に見つめ、腰に手を置く。
「んじゃ、迷惑ついでに受け取ってくれる?」
ポケットに潜り込ませた指が挟んで取り出したもの、とても小さな赤い石。
瞬間、漂ってきた蠱惑的な香りにユーリは立ち眩みに似たものを覚えた。怪訝そうにスマイルを見つめる、笑っている彼が顔の横で見せたものはどうやらピアスらしかった。片耳分だけしかないそれは、色合いだけならばガーネットのようでもある。
しかし違う。
片手で頭を押さえたユーリの細められた紅玉色をした双眸を満足そうに眺め、スマイルは袖から覗く真新しい包帯が巻かれた手首をこれ見よがしに示してみせた。
「貴様……嫌がらせに近いぞ、それは」
「そうかもしれないね~。でも、これくらいしないと君は、ダメだろうから」
受け取ってくれるよね、とにこやかな笑顔で問われ首を横に振る事は出来なかった。なにより、漂う匂いが彼を誘って止まない。
スマイルの手によってユーリの左耳に嵌められたピアスからは、絶えずユーリにとっては魅力的な他にことばでの表現のしようがない香りが漂っている。
「……落ち着かない」
「そうだろうね~」
「楽しそうだな」
「だって、さ。これで、さ」
スッと近付き、頸部に触れるだけのキスをされて。軽く歯を立てられて、表面を吸われて。最後には舐められた。
ぞくりとした感覚が背筋を走り抜ける。膝が震えた。
「君はぼくの事、一瞬でも忘れられなくなる」
言ったでしょう? とスマイルは嗤った。
「ぼくは、我が侭なんだよ」
ひょっとすればユーリよりも万倍、自己主張の激しい我が侭な性格なのかもしれないね、と他人事のように言って彼は濡れた唇に自分の人差し指を押しつけた。
「迷惑な」
心なしか重くなったように感じる左耳に触れ、ユーリは呟く。指先から伝わってくる波動は、暖かく柔らかい。
落ち着かない、けれど安らぐ。
「私からの返礼も決まったようなものだな」
ピアスが外された彼の左耳を見上げ、意味ありげに微笑むと彼もまた、企み顔で笑い返してくる。
傍にいる、ずっとずっと傍にいる。
ことばを嘘にしたくない、どうか信じて欲しい。絶対などということばに保証は無いけれど、守り続ける誓いをここに刻む。
滴り落ちた真っ赤な液体に舌を這わせ、表面を優しく舐め取りながらスマイルはユーリの手に口付けた。何度も、何度も。
指に掬い上げた暖かさが残る鮮血を集めて、凝縮させる。固く、小さく練り上げて形にしていく。目に見えない不可思議な力を込めて、この世界でたったひとつきりの奇跡の石を創り上げる。
赤く染められた唇に指をなぞらせ、引きよせられるままにユーリは爪先を伸ばした。赤に沈んだ指先を彼の左耳に押しつければ、似通っているけれど微妙に色合いが違う揃いのピアスがそこに生まれる。
僅かに沈んだ感じのする濃い赤と、目を見張る程に鮮やかな色合いを醸し出す赤と。
互いの瞳の色に似た真っ赤な宝石が、ひとつずつ。それぞれの、左の耳に。
「ユーリ」
そっと、名前を紡ぐ。大切なものを守る腕を伸ばし、もう一度その細い身体を抱きしめる。
「傍にいる」
決して離れない。離れろと命じられても、こればかりは聞き入れられない。これは、自分の我が侭だから。
「スマイル」
力の抜けた声でユーリが彼を呼んだ。
「さっき、貴様は私を我が侭だと言ったな」
それが君らしい、とまで。つまりはスマイルにとって、我が侭を言わないユーリはユーリではないのだ。
何かを企んでいる目つきで真下から見上げられ、スマイルは一瞬だけ隻眼に影を奔らせる。しかしユーリは気付かなかったフリを通して、口許を不敵に歪めさせた。
爪先立ちになって、触れるか触れないかの距離で彼に囁きかける。舌先で踊る熱を孕んだ吐息が、煙のように白んで刹那のうちに消え失せる。
窓の外は一面の銀世界。地表を埋め尽くすだけでは飽き足りず、地上に有るものすべてを覆い尽くして沈めてしまおうとしているようなそんな雰囲気さえあった。
他にもう、なにも見えない。雪の白さに眼を焼かれ、まさに目も当てられない。
軽く口付けて、笑った。
「お望み通り、我が侭を言ってやろう」
触れあうだけのキスが返される。自分が付けた傷は既に殆ど塞がっていたけれど、ユーリを惑わせる芳しい香りはまだそこにこびり付いたままだ。更に左耳から絶えず放たれる、蠱惑的な匂いが拍車を掛ける。
挑戦的な瞳で、軽く睨んだ。
スマイルが困ったような顔をして、けれど笑い返す。
キスの合間に囁いた。彼にだけ聞こえる声で。
「私の、傍に居ろ」
返事は無かった。代わりに、次のことばをキスに奪われた。