顔を上げて、視線を巡らせる。万年筆を持った右手の甲で軽く目尻を擦ると同時にクチを開けば、出てきたのは欠伸だった。
窓のカーテンから光が射し込んでいる。薄くもない布地を透かして、窓枠が筋となって浮かんで見えた。
気付かないうちに夜が明けていたらしい。道理で眠いはずだと、更に視線を巡らせて、けれど届かずに椅子を僅かに退くと上半身を捻らせて壁の時計を見上げてみた。まだ完全な夜明けには少々遠いようだが、既に太陽は半分ほど頭を出しているに違いない。
薄明かりに導かれるように席を立つと、思い切って窓のカーテンを両手で掴み左右に開いてみた。
「……っ」
眩しさに反射的に目を閉ざすがカーテンは開いたままで堪え、瞼越しにでも感じる光を思いつつ徐々に慣らしていく。深々と息を吐くと同時に肩からも力を抜いて、強く握り締めていたカーテンから手を離した。
白く曇った窓硝子が目に入る。手で触れると、霧のように細かな結露は互いに結びつきあって大きな粒をいくつも作り、重みに絶えきれず垂直な壁を滑り落ちていく。
結んでいた口許を綻ばせ、観音開きの窓を閉じている鍵を外した。軽く押すだけで、それは左右に均等に開いていく。
「寒っ」
流れ込んできた冷気に思わず呟き、両手で身体を抱きしめてしまった。
まだ空の一部は暗闇の名残を残したままだったが、それもじきに光に掻き消されてしまうだろう。揺れるカーテンの裾を指先で払って、身体を抱いたまま今一歩、窓に近付く。
朝の冷気が頬を撫でて室内に流れ込んでいく事も構わなかった。一気に冷え込んだ室温に軽く笑って、上唇に絡んできた銀糸の髪を払う。
震え上がりそうなくらいの寒さなのに、不思議と身体の内側は暖かい気がした。朝の陽射しを浴びているからだろうか、これは昼間の突き刺すような熱光線とはまた違った趣がある。
夏とは違うからかもしれない。初冬の、未だ寒さに順応しきれない季節の変わり目の早朝は、思った以上に朝の空気は澄んでいて心地よかった。
身体の中が冷え切りそうな冷たい空気を、思い切って腹の中に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。さっきまであった眠気は一瞬でどこかへ吹き飛んでいった。残ったのは、凛とした大気に溶け込むかのような、霞みにも似た自身の存在。
はぁ、と改めて息を吐く。
「寒いな」
ずっと室内に籠もっていたのだ、ある程度は暖房も効かせていたからやや厚手のシャツを一枚羽織っているだけ。この状態で寒くない方が異常だろうと、自分の呟きに自分で笑って明けていく空を見つめ続ける。
吐く息は僅かに白く濁っていた。
普段は透明で見えないものが、朝の冷え込みの中、今だけこうやって色を持ち視界に収まる光景が不思議な気がして、何度も強めに息を吐きだしてみる。しかしやがて、色は薄れていつもと同じように、吐く息は見えなくなった。
そこに確かにあるのに、掴まえられずまた見ることも特別な時、特別な方法を介してでしか出来ないもの。
窓枠に凭れ掛かって腰を軽く退いて落とす。暫くそのまま朝の風を浴びて、忘れた頃に戻ってきた眠気を欠伸で噛み殺す。
「…………?」
けれど、ふと。
独特の香りが漂ってきて、眉根を寄せた。身体を起こし背後を振り返るが、匂いの源流は此処ではない。
眉目を顰め、横を向いた瞬間に吹き込んできた風で煽られた前髪を抑え込む。目に入りそうになった細い糸を追い払って、時計を一瞬だけ睨んだ。それから再度、窓から身を乗り出して外を向く。
死角に入っているのだろう、存在は確かめられない。だが、彼であることを疑いもしなかった。
窓枠に置いた手に力を込め、爪先で立つ。更に背に神経を集約させると、縮んでいた異形の証のひとつである黒色の翼がむくりと身を起こした。広げる、かろうじて窓の幅を通り過ぎるまでに。
そうしてユーリは、たんっ、と右の足で床を蹴る。空気の渦が一瞬だけその場に出来上がり、一瞬で消えた。空気抵抗を生み出した翼がばさりと音を立てる。重力を遮断して浮き上がった身体は、巻き上げられた空気の中心にあって優雅に佇んでいた。
もう一度、ばさり、と翼が空気を叩いた。
左足で、もう一度床を蹴る。前へ、勢いをつける目的で。
するりと彼の身体は開かれた窓をすり抜け、未だ明け切らない冬の始めの空へ放たれた。
窓枠に指を引っかけ、空中で身体を反転させる。窓を越えた瞬間は下を向いていた頭が正常な位置に戻され、同タイミングを狙い狭めていた翼を今度こそ広げきった。
両手を真横に伸ばしたその幅よりもずっと長い漆黒の蝙蝠羽が、鋭い牙を天に剥けてピンと張られる。それはこの冬の冷え切った空気にも臆することなく、悠然と風を受けて彼を支え続けた。
ユーリは階下を見た。正確には、自室より下にある城の外側と、広大な庭、その両方を包み込む巨大な黒い森林帯。漸く完全に全景を覗かせた太陽に照らされた、すべての大地を。
クン、と鼻を鳴らす。吸い込んだ空気の冷たさに麻痺しかかった感覚を叱咤して、城の外壁をまた軽く蹴り飛ばした。張り詰めている空気を切り裂くように翼を操り、空を滑る。
耳元で、風が唸った。
「わっ」
そうして、ユーリの細い肢体が地上に激突しようかという距離にまで迫った時。
通り過ぎていった風の欠片が、驚きに飛び出たらしい声を拾って来た。瞬間的にユーリはそちらを向き、同時に翼を繰って自身の落下を停める。器用に空中で支えもなく身体を回転させて視界を正常に戻し、声が聞こえた場所を探す。
とっくに通り過ぎた城から飛び出ているバルコニーの底面が、見上げた先にあった。ユーリの部屋からも、完全にとはいかないがほぼ真下に位置している。雨よけの庇の下に入ってしまえば、部屋の窓からだと死角になる場所もある。
口許を歪め、ユーリはバルコニーを睨んだ。空中で身体を静止させる為、常に動かし続けている翼に指令を送り数メートル先にあるそこまで自分を運ばせる。
非常にゆっくりとした動きで、バルコニーの手摺り越しに足許から舐めるように視界は持ちあがって行く。
「……やあ」
そこに居たのは、既に逃げ切れないと悟ったのかやや引きつり気味の笑みを浮かべている、彼。
「スマイル」
怒りを裏側に隠している事がありありと伝わってくる、棘のある声でユーリは誤魔化しに入ろうとしている彼の名をわざとらしく呼んだ。
「おはよう」
返ってきた朝の挨拶には答えず、ユーリはバルコニーの手摺りを越えるとその段階で翼を折り畳んだ。力を抜くと、見る間にそれは萎みもとのサイズに戻っていく。相変わらずの鮮やかな仕草に、スマイルは目を細めていた。
が。
「スマイル?」
にっこりと、これもまた非常に態とらしい笑顔を浮かべユーリは目の前に立つ男に右手を差し出す。
「ナニ?」
こちらもわざとらしさで応酬し、笑顔で差し出された手をスマイルは握り返す。直後に思いっきり力を込めて振り払われてしまったが。更に反対の手でボディーにアッパーが。
流石にさほど力を込められていなかった事もあり、スマイルは蹲る程のダメージを受ける事はなかったが、それでも多少は痛かったらしい。いつものコートに身を包んだ上から、殴られた箇所をしきりにさする。
「出せ」
「鐚一文、払えません」
「貴様は私を、そこまでして怒らせたいのか?」
しらばっくれようと惚け続けるスマイルに、握った拳を叩き込んでからユーリは、今度こそ膝を折った彼を見下ろして言った。
「……とっくに怒ってるじゃないか~」
殴られた頭を撫で、唇を尖らせながらスマイルはなんとか立ち上がる。そして左手で、コートのポケットを漁った。
取り出されたのは真っ赤なパッケージが目を引く、煙草。半分近く減っている為か、表面が若干凹んでいた。
受け取ったユーリは、蓋を開けて中身を確認し不機嫌そうな顔を作る。
「没収だ」
「……やっぱり?」
「あれ程言って、何故分からない」
「ん~、でも一本くらいなら、ね?」
「ダメだ」
「徹夜明けなんだよ。お願いだから、見逃して!」
両手を顔の前で合わせて頭を下げるスマイルを物珍しそうに眺めるユーリだが、頑として首を縦に振ろうとはしない。
煙草は禁止、城内は当然だが禁煙。アッシュもユーリも吸わないので、必然的に多数決で愛煙家は排斥される運命にあった。
「私とて、昨夜は眠っておらぬぞ?」
ニューアルバム用の曲の締め切りは迫っている。追い込みも甚だしいところであり、睡眠時間が削られるのは誰もが同じだった。
「でもさ~~」
愛煙家と嫌煙家とでは感覚が違うんだよ、とスマイルは言い張ってみるもののユーリに通じるはずがない。もとより、両者は考え方が根本から違っているので煙草の利害を互いの立場から主張しあっても、平行線から進む事はないのだ。
かくしてスマイルの煙草はユーリの手によって握りつぶされた。ジッポまで回収されなかっただけまだ良いか、と明るく染まった空を見上げスマイルは深々と溜息をつく。緩く首を振って、揺れたコートの裾に視線を落とし、それからユーリを見る。
城のバルコニーとはいえ、朝の冷え込み対策からコートを羽織っているスマイルに対し、ユーリは部屋を飛び出した時の格好のまま。即ち、やや厚手とはいえ上に羽織るはシャツ一枚。
「寒くない?」
彼が吐く息は、かろうじて白かった。
問われ、ユーリは改めて自分の格好を見つめ直す。言われなければ恐らく忘れたままだったのだろうが、思い出した途端寒気が背筋を這い上がってきた。
「そうだな」
身体を浅く抱き、白さを取り戻している自分の吐く息を見て軽く笑う。
「だが、悪い気分はしない」
凛としているからだろうか、朝だから余計に空気が澄んでいて心地よく感じられる。寒いという部分を除きさえすれば、文句のない朝だ。もうひとつ、仕事の締め切りに追われての徹夜明け、という点がなかったなら満点を記録していただろう。
更に言えば、スマイルの喫煙を発見しなければ。
口に出して言ってやると、彼はばつが悪そうに頬を掻いた。視線を浮かせ、悩んだようにあちこちを漂い結局はユーリに帰ってくる。
「寒い?」
先程の問いかけとはまた微妙にニュアンスが違う問いかけをしてきて、ユーリは笑った。身体を抱いた手で腕をさする。熱は起こらない。
「そうだな」
俯いて視線を落とし、ユーリは呟いた。
ぱさり、と。
降ってきたやや重いけれど柔らかなものに、驚いてユーリが目を見張る。
薄色のシャツを着ただけのスマイルが、そこに立っていた。
肩からずり落ちそうになった、さっきまで彼が着ていたはずの彼の体温を残しているコートを胸で交差させた手で掴み、ものを言いたげな目でユーリは彼を見た。
「寒いんでショ?」
「だが、これではお前が」
納得がいかないと、羽織っているだけのコートを突き返そうとしたユーリの動きを先に制して、スマイルは笑う。平気だと言って。
「だって、ほら」
しっかりと彼にコートを纏わせて、スマイルは軽く肩を竦めた。空気に溶けるように、彼の身体が透き通った。
彼の身体越しに向こう側――城の壁が見える。辛うじて残った輪郭だけが、彼の存在を希薄ながらユーリの目に見える世界に遺していた。けれど、それ以外はまるで透明な板にマジックでなぞっただけのようなものに等しくて。
目に見えなくて、特別な条件が揃わない限り在ると思い出せなくなるもの。
ユーリの目の前で、彼が吐いた息が白く濁る。
輪郭だけのスマイルが、更に色を薄くする。
呟く。
「こうすれば、風もぼくの存在に気付かなくて通り過ぎていく」
だから寒くないと、彼は自嘲気味に自分を笑って、言う。
自分を傷つけることばを、平気で吐き捨てる。それを、平気だと嘘をつく。
「スマイル」
「ナニ?」
もう目を凝らしても見えない彼の、笑い声を頼りに距離を詰める。近付く、手を伸ばす。
片手で彼のコートを握り締めて、もう片手はみっともないまでに明るい朝の光の下、手探りで存在を求める。
掴んだのは、シャツの裾だろうか、袖だろうか。
「寒いのだろう?」
「ユーリ……」
「寒いに決まっているだろう!」
平気だ、とそれでも言おうとしている彼の声を大声で遮り、掴んでいるコートを思い切り引っ張る。見えないけれど在るものを包み込んで、透明なスマイルの頭目掛けて放り投げる。
「わっ」
驚いて、反応が遅れたスマイルの姿は見えなかったけれど、頭上に落ちてきたコートによって隠された輪郭がはっきりと滲み出る。その頭の高さから大体を想像して、ユーリは手探りで掴んだそれを引き寄せた。
がちっと互いがぶつかり合う音が鈍く響いても、構わなかった。
「痩せ我慢なら、するな!」
唇に触れたはずの、柔らかな熱に向かって怒鳴りつけ、ユーリはコートだけが浮いている異様な光景を突き放した。尻餅をついたらしいスマイルが、じんわりと世界に色を戻していく。身体を支えている左手とは逆の指が、赤くなった唇の滑りを掬い上げていた。
ユーリはユーリで、舌先で下唇についた生暖かな液体を舐め取っている。
「煙草は、嫌いだ」
苦い。
吐き捨てるように言って、彼は踵を返した。茫然としているスマイルをバルコニーに残し、扉を潜って城内にさっさと戻っていく。
「……痩せ我慢、ね」
完全に現れた己の左手を見つめ、スマイルは頭から被ったままでいる自分のコートを引きずり下ろした。けれど袖を通す気分にはなれず、膝にかけたまま暫く反省の意味も込め、緩みそうにない朝の冷気に自己を晒してみた。
吐く息は絶えず白い。
「そう……見えるのかな」
自分にとっては当たり前の事、けれど他人から見ればまったく別のもの。
「ユーリ」
居なくなった人の背中を探して、バルコニーを見渡す。だけれど去っていった背中はどこにも見出せない。掲げていた手は力無く沈んだ。
「ぼくは、“可哀想”じゃないよ?」
微かに笑って、囁く。
吐く息はもう、見えなかった。