Go Home

 風が潮の香りを運んでくる。
 伏していた瞳を上げ、背後から吹き付ける風に誘われるままに視線を流せば、その先に広がる無辺の水面が世界の半分を埋め尽くしていた。
 テトラポットの群生が、コンクリートで固められた岸辺から触手を伸ばしている。鈍い灰色のそれらは、寄せては返す波に煽られても微動だにせず其処で顔だけを出し、異質な光景を形作っていた。
 いや、今となってしまってはもうその光景の方がずっと当然なのかもしれない。
 波浪による陸地への侵蝕を防ぐために作り出された、無機質な物言わぬものたち。ギリシアの四つ足の獣は、今や沈黙し打ち寄せる波に肌を撫でられている。
 あと何年すれば、それらは無に帰すのだろう。そんな事を思って波打ち際を眺めていると、不意に富士の峰よりも高い岩山の肌を撫でる天女の話を思い出した。
 一年に一度、空から舞い降りた天女が岩山をそっと優しく撫でる。その繰り返しで、やがて岩山が摩擦ですり減り消えて亡くなるまでの時間がひとつの単位となっている。劫……それは果てしなく長い、永遠にも等しい時間の区切り。
 夕暮れだった。
 今自分が立つ、アスファルトで塗り固められた黒色の車道よりも一段高くなったコンクリートの岸壁も、昼間の熱さを失って冷えきっていた。
 風が止まない。眼前に広がる水平線は徐々に橙色を強くした色彩に染まっていく。波の高さが影となり、陰影を浮き立たせて水面はどこまでも、静かだ。
 微風が誘う汐の香は鼻腔をくすぐり、または塩気を含んだ空気に触れすぎた髪が本意ではないままに固められてしまっている。
 身にまとうコートの裾が、頻りに風を受けて前後左右に揺らめいていた。強すぎず、弱すぎない微かな風に煽られ、黒に近い濃紺の布は頼りなくその場所で彷徨う。
 見下ろし、行き場もなく垂らしていただけの両腕をポケットに押し込んだ。それで少しはコートも押さえつけられ、思い出したように時折テトラポットに海水をぶちまける強い波と一緒に現れる風圧にも負ける事も減るだろう。
 踵でコンクリートを軽く蹴ってみた。音もなく、その場所が落ち窪む事もない。ただ革靴の底を伝って、脛の辺りにまで衝撃と振動が伝ってきただけだ。痛くもない。
 沈黙を保ったまま舌打ちだけを口の中で済ませ、下ろした踵を軸に身体を反転させた。
 目の前に改めて、広大無辺の海原がそびえ立つ。
 夕焼けは色濃さを増し、太陽はゆらゆらと雲と波に色を映して揺らいでみえた。水平線を一直線に目指して沈んでいく巨大な熱の塊は、真昼に見上げるそれよりもずっと大きく感じられる。
 地表に伸びる影は長い。1メートル程度路面より身の丈を延ばしている岸壁も、黒いアスファルトに細く長い影を落としていた。
 背後を車が行き過ぎる。田舎と言っても充分憚られる事は無さそうな、寂れた漁村の一画を走っていく乗用車も数は圧倒的に少なかった。
 運転手は気付いただろうか、岸壁にひとり背を向けて立つ青年の存在に。
 或いは気付かなかったかも知れない。交錯は一瞬だったし、車も他に走る影が見当たらないのを良いことに規定速度を軽く超える速度までアクセルを踏み込んでいたから。
 それに、今は黄昏時。逢魔が時。夕暮れが迫り、闇がひたりひたりと忍び寄る時間帯。
 物の怪に遭うような時だ、そしてその事実に気付かぬまま会釈をして通り過ぎる。薄暗く、もうそろそろランプに灯りを点けても良い頃である。そんな明るさの中で、注意を向けもしない岸壁に在るものになど誰が気付こうか。
 排気を撒き散らして呻り声を上げ、一瞬で通り過ぎて行ってしまった車の背中が小さくなっていくのをぼんやりと見送る。吹き返しのように戻ってきた突風に掬われた前髪を抑え込んで、指先に絡んだ塩気に苦笑いした。
 この季節、日が暮れるのは思いの外速い。さっきまで底部を水面に押しつけただけだったはずの太陽が、もう半ば近くまで身を沈めている。
 天頂の空は薄暗く、東から徐々に紫紺の闇が広がりつつあった。浮かぶ雲は西に残る光を反射して幾分明るかったが、それも日が沈みきれば無くなるだろう。
 そうして訪れるのは、夜。
 仕事の帰り道、その途中。たまたま予定していた帰宅コースが事故車両の撤去と実況検分で通行止めになって、大回りに海沿いを走ってみた。その道沿いに広がる光景は存外に素朴で、味わい深くありゆっくり走ろうかと語り合っていた最中に起きたガス欠。
 生憎と、素朴で質素で、閑散とした、寂れた漁村にはガソリンスタンドといった気の利いたものはまるで似合わず。目立つ派手な看板はひとつも見つけられなくて、困り果てた運転手は後部座席でふんぞり返っていた車の名義主に思いっきり蹴り飛ばされていた。
 その彼はきゃんきゃん吼えながら、この辺りの住人を掴まえてガソリンを分けてもらえないかの交渉を繰り返しているはず。だが見付かるのは、軒先でのんびりしている腰の曲がったお婆ちゃんばかり。
 まさかわざとではないだろうな、と掛かりすぎる時間に肩を竦めるしかない。若者に圧倒的な支持を受ける彼は、どうやら妙齢の女性にも充分通用する魅力を持っているらしい。
 本人がまんざらでも無さそうなところが、またおかしい。
 そんな彼を蹴り飛ばした張本人は、車が動き出すまで眠る事にしたらしい。シートを倒し、予め積み込まれていた薄手のケットを肩から被って横になっている。空調は止まってしまっているから、窓は全開で。
 今が真夏の盛りではなくて良かったと、彼を含める全員が思った。でなければ、もうとっくに、今は夢の中に在るはずの人物がぶち切れていただろう。
 ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく太陽を眩しそうに隻眼で見つめ、吐息を零した。一体どこまで行ったのか、一向に戻ってこない運転手の狼男の存在を気配で探るが残念ながら、届く範囲内では感じ取ることが出来なかった。
 本当に何処まで行ってしまったのだろう。彼の事だ、平気で隣町まで行っていそうだ。そうなると帰宅は深夜に及ぶかも知れない、そうなったらまた欠食吸血鬼が拗ねる。
 一難去ってまた一難を予想し、大仰に肩を竦める。風は涼しく、穏やかだった。
 日が沈む、闇が迫る。
 長く伸びた影が路面を埋める。彼は直立させていた足をそっと、半歩分ずつ前に進めた。
 車道との高低差は1メートルしかなくても、岸壁上からテトラポットが埋め尽くす岸辺までの高低差は彼の身長の倍を軽く越えている。落ちでもしたら怪我だけではまず済むまい、それが人であれば尚更に。
 少し行けば幅の狭い階段がある、そこから桟橋が伸びて良い釣り場にもなっているようだ。遠目に釣りを楽しむ人の姿が見えた。
 どう見てもこの辺りの住人では無さそうなその釣り人は、きっと岸壁の反対側歩道に寄せて停まっている車の持ち主だろう。残念なことに、アッシュはあの釣り人の存在に気付いていなかった。
 教えてやれば良かっただろうかと今更ながら思うが、アッシュがユーリに蹴られて飛び出していった時にはまだ自分だって、ここに釣りを楽しみに来ている人が居る事など知らなかった。
 だから仕方がなかったのだと、釣り竿を大きく振り上げたらしい釣り人の影を水面に身ながら考える。
 アッシュはまだ帰ってこない。
 日が沈む、ユーリが起き出してくる様子もない。
 ただ静かに、今日と言う日が終わりに近付いていく。長く伸びた影は徐々に薄れていくのだろう、そして存在も忘れ去られて誰も気付かない。
 だから、か。
 足許を見る事を忘れた存在は、己の存在を示す影に見向きもしなくなった。確かに自分はそこに在るのだと教えてくれる、物言わぬもうひとりの自分を忘れて。
「………………」
 打ち寄せる波が断続的な音を刻む。夕焼けの色に染まった水面がキラキラと輝き、眩しかった。
 飽きもせず見つめ続ける。瞼の裏側に、記憶の1ページに焼き付ける。
 彼は踵を鳴らした、衝撃だけが膝の裏側を伝って登ってくる。
 これはただの革靴で、東の悪い魔女が履いていた魔法の靴じゃない。踵を鳴らして願っても、懐かしい我が家へ帰る事は出来ない。
 懐かしい、暖かな温もりに満ちあふれている家には帰れない。そんなものは、とうの昔に無くした、どこにも無い。壊して、見失って、組み立て直す事さえ早々に諦めた。
 もう戻らない、手に入らない。だから欲しがらない、必要無いものだと割り切った。そうすることで、自分を守った。
 助けを求める声は、誰にも届かない。だから訴えない、求めない。
 必要、ないから。
 帰りたいと思える場所なんて何処にも無かった。
 帰る場所など無いと諦めたから、今此処にいる。
 日が沈んだ。
 闇が押し迫る、背後から空を呑み込んで。
 意識せぬまま、ポケットの中の手を握り締めていた。ぶるっと一度身を震う、背筋から首筋へ寒気が逃げていった。
 早く帰ろう、そう思う。此処に居続ける理由は何処にもないし、居なくてはならない理由もない。
 でも、何処へ?
 降って沸いたように落ちてきた疑問が、頭の上でスコンと跳ね返り足許を転がって岸壁から海に落ちていった。
 水飛沫も上げず、重量のない疑問は水底に消える。二度とこの手に戻らない。
 何処へ帰ろう。
 何処へ、還ろう。
 足が動かなかった、疑問に攫われていった答えだったはずの想いは水底に沈んだままだ、拾いに行くことも出来やしない。
 それに、拾ったところでどうなる。その先に待つ、もううんざりな絶望に身を浸すのか。
 夕焼けの名残も完全に西の空から消え失せる。水面は闇色に塗り重ねられ、鉛のように重いタールの渦が広がっている。
 小一時間しか経過していないはずなのに、海は一瞬で様相を変える。まるで人の心のようだと嘲笑って、握り締めた拳を解いた。
 瞳を伏せて、緩く首を振る。いつの間にかあの釣り人は姿を消していた。視線を返し、自分たちが乗ってきた車を探すけれど暗闇が邪魔をして見つけられない。
 置いて行かれただろうか、そんな風に思考が巡る。
 だって自分たちは確かに仲間だったけれど、首をすげ替える事なんて造作もないそんな急造仕立ての組み合わせだった。寄せ集めの噛み合わないピースを無理矢理に押し込んだ、不格好なメンバーだったから。
 いつ見捨てられるか、それとも自分が見捨てるのか。
 嫌われているとは思わなかったけれど、好かれている自信もなかった。傍に在る事の暖かさや、心地よさに自分を構成してきていたあらゆるものが崩れていくのが怖かった。
 北の魔女グリンダはドロシーに言った。何かを学べばいつでも懐かし家に帰ることは出来るのだと。
 彼女の出した答えは、思うだけじゃダメだという事。
 身近な、心の底から求めるのならとても身近な場所から探すのだと。
 スマイルは踵を鳴らした。少女がカンザスの故郷に帰る魔法の呪文は――
「スマイル」
 暗闇を裂く、透き通った声が頬を撫でる。
 振り返った。
 丹朱色をした隻眼にふたつの影が映し出された。
「何やってるっスか、帰るっスよ?」
 背の高い、耳の尖った青年が人なつっこい笑みを浮かべて手招きをする。
「早く来い、置いて行かれたいのか?」
 闇の中にあっても艶を失わないしなやかな銀糸の髪を持つ青年が、やや不機嫌そうに腰に手を当てて呼ぶ。
 後から聞いた話ガソリンは幸か不幸か、その場を通りかかったあの釣り人がユーリに脅されて置いていったらしい。状況を後から聞いて、どうしようもなく笑ってしまった。
 不本意だったらしいユーリは拗ねた様子で聞き流していたが、アッシュの「見せてあげたかったっス」発言には我慢も収まらなかったらしい。ちゃんと残量を考えておかなかったお前がすべて悪いんだろう、と容赦ない拳が飛んで行くのだった。
「帰るぞ」
 先頭を切り、ユーリが踵を返す。広い間隔で照明灯にか細い光が宿り、波音だけが耳に微かながら響いてくる。もう海は一面の闇で、水平線は空と混じり境界線は消え失せた。
「何処へ?」
 ぽつりと、呟く。
 アッシュは足を止め、ユーリは訝みながら振り返った。
 未だ岸壁の上から動こうとしない彼を見上げ、苛々を隠そうともせず、そして不遜に、ユーリは口元を歪めさせた。
「決まっているだろう」
 それとも本当に置いて行かれたいのか?
 鮮やかなルビー色の双眸を細めたユーリが笑む。アッシュは苦笑し、肩を竦めると止めた足を進めて先に車に向かって行ってしまった。エンジンを暖めるのだろう、キーが差し込まれた大型バンの車内に明かりが入り、そこだけがぼうっと浮き上がったかのようだった。
 スマイルが隻眼を伏せる。彼の足許には、影が無かった。
 今だけじゃない、昼の間も、あの夕暮れ時の最中も。彼の足許には、彼の存在を確固たらしめるだけの要素が欠けていた。
「帰るぞ?」
 語尾を上げ気味に、ユーリはスマイルを見つめ上げる。
「何処へ?」
 先程とまるで同じ質問が繰り返された。小さく、早くしろと言わんばかりにアッシュがクラクションを数回鳴らすのがそれに続く。
 ユーリが、ゆっくりと右手を彼へ差し出した。手を広げ、真っ直ぐに見つめ続ける。
「お前の、帰りたい場所へ」
 にっこりと、ユーリが笑った。
 その手を、スマイルの右手が掴んだ。
 段差を一息に飛び降りる。白いライトの明かりがふたりを包み込んだ。
 影が、走る。
「出発するっスよー!」
 窓から身を乗り出したアッシュが叫び、今度はスマイルが、手を握ったユーリを引っ張って車へ駆けて行った。
 彼の足許には細く長い影が、ふたつ。
 バタンとドアが閉じられる。駆け込んだ座席に二人して折り重なるように倒れ込んで、ケラケラとスマイルは笑った。
 アッシュがアクセルを踏み込む。ギアを入れ替え、すっかり遅くなってしまった時間を気にしながら彼は猛烈なスピードで海岸沿いの道に車を走らせた。
 スマイルはまだ笑い止まない。彼に抱き留められたまま、身動きできずスマイルにのし掛かっているユーリが怪訝な面持ちをする中で、唄うように、彼は呟いた。
「There’s no place like Home.」
「?」
 早口の台詞にユーリは首を傾げる。真下から見つめ上げるスマイルが、首を伸ばしてそんな彼に触れるだけのキスをした。
 驚きに閉口するユーリを前に、彼は片方だけの目でウィンクなんてしながら笑って言う。
「おうちが一番、って事さ」
 魔法の靴なんてないけれど。
 一度手に入れた想いは、きっと消えない。