Holiday 3

 赤と青と、と。
 握って筋立った拳を、甲を上にして両方差し出されて問われ、何事かと面食らった。
 だが彼はまるで気にした様子もなく、重ねて答えられずに居た問いかけを繰り返す。赤か、青か。
 しかし彼が何を指してその二色を口に出しているのかがさっぱり分からず、だが左右の腕を自分に向けて差し出して、あまつさえ手を握っているものだから恐らく、両の拳にひとつずつ、その彼が言う「赤」と「青」いものが握られているのだろうと想像する。
 だったら、いっそ右か左かを選択させれば良いものを、と心内で愚痴にしかならない溜息を零した。
 買ったばかりの荷物を入れて貰った紙袋を持ち直す。両の手で紙の取っ手を握ると、中のものが袋の内側に擦れてかさかさという音がした。
「右」
 答えないままではいつまで経っても先に進めそうになく、諦め調子に呆れつつ彼の利き腕とは違う方を顎でしゃくる。すると彼はやや残念そうにし、けれどちゃんと答えてくれた事を嬉しそうに笑い、ずっと握っていた手袋の嵌められた右の手を開いた。
 指を解くと同時に甲を裏返して掌を上向かせる。そうでないと握っていたものが落ちてしまうから、という至極当然名理由で。
 解きほぐされた五指の隙間から見えたのは、そして間を置かずに白日に晒されたものは。
 赤色の、キャンディー。透明な包装紙に包まれ、楕円に近い球体がひとつだけ彼の手の中に転がっていた。続けて彼はもう片手も同じように広げ、両手の小指同士をくっつけあった。
 ひとつの手に、ひとつずつ。左手に乗っていたのは同じ形状をした、だがやや緑がかった青色をしているキャンディー。市販されている、大袋に個別包装で放り込まれた飴玉だろうと容易に想像出来た。
 しかし分からないのは、彼が何故こんなものを持っているのか、と言うこと。
 確かに今自分たちが居るのは町のど真ん中であり、ちょっと外れればコンビニエンスストアも多数見受けられる。ファッション街の一画だから直ぐ目に入り距離内でこんなものを扱っている店は探し出せなかったが、自分が買い物に執心している間彼の姿は殆ど見かけなかった。その時間はさして長くはなかっただろうが、コンビニを探して飴玉を買って帰ってくるだけの余裕はあったかもしれない。
 怪訝な面持ちのまま彼の手にある飴玉を見つめ、色々と一瞬で考えを浮かべては消していく。その百面相のような表情は、大きめの色濃いサングラスと前髪も若干長めになっているショートボブのウィッグで隠されて見えないはずだ。本来の髪の色を誤魔化す小道具として被っている帽子の鍔も一役買っている。
「イチゴ味、ね」
 結局は彼の問いかけに赤と答えたと同じ事になるのだろう。右手に握られていたキャンディーを持ち直し、彼はそれを自分へ差し出してくる。
 拒む理由もなくて、素直に受け取った。だがまじまじと透明な袋に大事にしまわれている赤色のキャンディーを、すぐに口に入れる気にはなれなかった。
 そもそも、彼はこういった甘いものは大の苦手のはずだ。自分もそれほど好きというわけでもない。わざわざ自分に食べさせるためだけに買ってくるとは、少々考えにくかった。
 引っかかりを覚えている自分に既に気付いているはずの彼を窺い見ると、漆黒のサングラスで色違いの双眸を隠した彼は苦笑しながら肩を竦める。
 全身黒尽くめのロングコートを着た大男が、飴玉をふたつ。その図式は多分、通り過ぎるたびにひそひそとした歓声を上げながら、或いはぎょっとしてそそくさと足早に去っていく周囲の人間には奇異に映っている事だろう。
 唯一手元に残った、恐らくはメロン味の飴玉を利き手で弄びながら、しかし袋を破いて口に入れようとはせず、彼は自分がイチゴ味を食べるのを待っているようだ。
「どうしたのだ?」
 これは、と袋のギザギザになっている端を抓んで持ち、尋ねる。
「貰った」
 即答で返され、出足を挫かれた格好になりそこで一度会話が途切れる。誰に、とでも問うべきなのだろうが一旦詰まってしまった言葉はなかなか戻ってこない。数回喘ぐように唇を動かして息を吸い、漸く二の句が続いた。
「……どこで」
 まさかその辺で配っていたわけでもあるまい。なんの宣伝文句も書かれていない透明の包み紙を改めて見つめ直して、呟く。今度こそ笑って、彼は自分から紙袋を奪った。長い腕を伸ばし、スッとあくまで自然に、自分の腕に引っ掛けられていた取っ手を取ると簡単に腕から抜き取って自分の方に引き寄せる。
 慣れた仕草であり、そして彼に荷物を引き渡す自分の動きにも慣れたものがあった。彼は受け取りやすいようにと、腕を曲げて彼の方に指先を向けて角度を若干上げ気味にして。
 ひゅぅ、と囃すような口笛を聞いた気がしたが無視を通す。
「良いのあった?」
 だが口笛があった方向にどうしても目が向いてしまって、結果彼から視線を外す事になった。側頭部に受けた質問に、慌てて目線を戻して彼を見上げながら頷く。
 行こうかと促され、人の出入りが多いビルの入り口脇から離れる。後方にあったビルは地上三階、地下一階という広さでありながら履き物だけを専門に扱う店がひとつ入っているだけ。此処に来ればサンダルからブーツまで揃うという謳い文句であり、丁度シーズン前の最新モデルが入荷されたと聞いて立ち寄ったのだ。予め雑誌で調べていた事もあり、目当てのものは直ぐに見付かったが別の、ノーチェックだったブーツにも心惹かれてしまい、結局数十分悩まなければならなかったのだ。
 それで自分がひとり悩んでいる間、彼は退屈だからとフロアを出ていってしまい、その結果入り口で数分だけ彼を捜し、待つ事となった。そうやって戻ってきた彼の、開口一番があの二者択一である。
 ビルを離れ、出来るだけ人通りが少ない方を探して歩く。だが休日の繁華街でなかなかそんな都合のいい場所が見付かるはずもない。少し歩いてから、適当に休めそうなベンチを見つけたが、生憎とひとり分しかスペースは残っていなかった。
 すれ違いざまにぶつかった人の足に紙袋が引っ掛かり、攫われそうになって彼が取っ手を引っ張る。カサカサと乾いた音を立てる袋は、そこそこに重いはずだ。
 ひとつに選べなくて、結局両方とも買ってしまったのだから。
「それで? 誰に貰ったんだ」
 この飴玉は、とベンチに腰を落ち着けた自分がベンチ傍らに立った彼に改めて問う。なんだかんだとはぐらかされてしまった回答を求めて視線を持ち上げると、ポケットから取りだしたらしい青色の飴玉も自分の方へ押しつけてきた。
 彼はこういうものを食べないから、仕方がないと受け取ってやる。二つに増えた飴玉は、だがあまり重さも変化を起こさない。
「お婆ちゃん、だったよ」
 彼が言うには。
 自分がブーツ選びにあまりにも夢中になっているので退屈だったから、どこかで暇を潰そうと店をまず出た。するとそこで、前から歩いてきた老婆とぶつかってしまった。
 視力の殆どない左目の死角から歩いてきたようで、更に色濃いサングラスもあったからかなり近くに来るまで気づけなかったようだ。ぶつかった衝撃で老婆は尻餅を付き、今のは自分が悪いからと彼も素直に謝って彼女が起きあがる手伝いをした。
 彼女は彼が差し出した手に捕まって起きあがった。そして徐に、彼を細い瞳で見つめてから首を捻った。
 すまんが、●○線の改札口はどっちだろうかね、と。
 駅員で道を尋ねるように彼にいきなり、そう言ったそうだ、この老婆は。一瞬何のことか分からずにきょとんとしてしまった彼に、もう一度同じ事を告げる。
 要するに、その人は道に迷っていたのだ。駅をでて乗り換えようとしたは良いものの、人の流れに押しやられて目的地とは逆方向に流されてしまったらしい。彼が聞いた線名は、最寄り駅とはてんで反対方向だ。
「……そうなのか?」
 地名や地理に疎いままに問い返すと、そうなの、と彼は苦笑って鼻を掻いた。知らない場所での反応など、皆似たり寄ったりで彼が同じ風に説明した時、老婆も今の自分とまるで同じ台詞を口にしたと言う。
 地上からの行き方を説明したのだが、そんなもの覚えきれないと老婆が駄々を捏ねた。仕方なく、彼は駅舎が見えるくらい近くまで彼女を連れて行き、ホームの行き方まで丁寧に教えて帰ってきたらしい。
 その返礼が、あの飴玉ふたつだ。
 有難うと何度も礼を述べ、最後に老婆は彼の手を両手で握り頭を下げた。そうして彼の手には、赤と青の二色が残された。
「安い報酬だな」
 袋の両サイドを閉じている三角形の切れ目に指を沿わせて、透明フィルムを破く。簡単に手元に転がりでた赤色は、見るからに合成品を使っているのが分かる、少々毒々しい感じがしないでもない色だ。口の中に入れると、多少の粉っぽさがまず先だって、それから人工甘味料らしい味が舌の上に広がる。
 自分を店の前で待たせる事までしておいて、得られたものが安っぽい量販品の飴玉ふたつっきりだとは。割に合わないのではないかと言外に告げると、彼はそういう事は言わないの、と人の頭を帽子の上から撫でてきた。
 嫌がって払いのけようと手を持ち上げると、指先を躱しながら彼の手が一足早く逃げていく。カラカラという笑い声がそれに続いた。
 表面だけが溶かされた飴玉が右の、歯の外側に零れ落ちてまるでぷぅ、と頬を膨らませているような形になる。舌先で掬い上げて口腔内に戻し、奥歯で軽く噛むと表面が少しだけ剥げ落ちた。
「人助け、だよ」
 だから報酬云々の話になるのは、おかしい。親切心でやっていることに金銭が絡めば、それはもう親切心だけの問題ではなくなる。損得、ではないのだから。
 だからこの飴玉は、彼の親切心に対する老婆の親切心の返礼でしかない。「ありがとう」という言葉のおまけでしかないのだ。ただ彼女は、彼が甘いものを一切受け付けない厄介な体質所持者だという事を知らなかった。
「ぼくが勝手にやったことだ。頼まれはしたけれど、無視する事だって出来たんだよ」
 それを、丁度退屈しのぎにもなるだろうという理由で引き受けて、わざわざ駅の傍まで連れて行って、更に彼女がその先も困らないように丁寧な説明までして。結果的に戻ってくるのに少し時間がかかり、ユーリを待たせる事になってしまったけれど、と。
 どうやら気にしていたらしく、言い訳のようにぽりぽりと頬を引っ掻きながら彼は言った。若干視線が泳ぎ気味。
 笑ってしまった。口の中で、甘ったるいイチゴ味が溶けていく。
「なら、もし今此処で別の老人が道を尋ねてきたら、お前は安請け合いの親切心で目的地まで連れて行ってやるのか?」
「まさか」
 意趣返しの質問のつもりだった。だのに彼は、即答で否定した。
「何故?」
 問いかけはすんなりと喉をついて出る。本気で驚いてしまっている自分に気付いて、立ったままで居る彼を座ったまま見上げた。
 サングラスが外される。一人掛け用のベンチの、両側手摺りに手を置いて彼はその異端なる双眸が周囲に漏れないよう、顔を寄せてきた。
 キスを、想像した。まさかこんな人前で、街中で。
 だからつい肩が強張って、ぎゅっと瞼を閉じて小さくなってしまった。爪先に力が入り、アスファルトの地面を擦る。
 笑う気配だけが傍にあった。
「だって、ユーリが此処に居るのに」
 ぼくが君を置いて行くと、本気で思ってる?
 囁く声が間近で聞こえる。吐き出される息が鼻先を掠め、熱が伝う。
 彼がもう一度楽しげに笑った。
「ユーリがぼくの目の前に居る間は、ね。ぼくの中の優先順位は、何を捨て置いても」
 君、なんだよ?
 目を見開く。その時にはもう彼は顔を離し、ベンチに手を置いて前屈みにしていた姿勢も戻し、季節外れ気味な黒のロングコートのポケットに両手を突っ込んでいた。赤と金という取り合わせの色違いな瞳をサングラスで隠し、普段から何を考えているのか分かりづらい表情がより一層、悟られ辛くなっている。
 あの時、あの言葉を彼が囁く瞬間。
 彼がどんな顔をし、どんな風に瞳を揺らしていたのか、今となっては闇の彼方だ。どうして目を閉じたりなどしたのだろう、と後悔しても遅い。
 ベンチは横に幾つか並んでいて、他のベンチには見知らぬ人が座っている。もしや聞かれやし無かっただろうかと不安げに両側を窺ってみるが、余程声を潜めて自分にだけ聞こえる音量で囁いたのだろう。傍に居た人たちは誰も気付いた様子無く、変わらないまま自分の世界に浸っている。
 ホッと安堵の息をもらすと、彼は何かを誤解したらしい。
「それに、方向音痴のユーリを置いてけぼりにするなんて度胸、ぼくにはないよ?」
 がんっ、と。
 聞いた瞬間地面に置いていた踵が、自分の直ぐ前に立つ男の爪先にめり込んでいた。分厚い皮のブーツが凹んだまま暫く元に戻らなかったところからして、かなりの力で踏まれたのだろうと言うことが傍目にも分かる。
 さすがにこれには周囲の人も気付いたようだが、関わり合いになってとばっちりを食うのはゴメンだと判断したのだろう。誰もが見なかったフリを貫き、大丈夫かという声をかけてくるものもない。
「お前など知るか!」
 もう何処にでも行ってしまえ、と声高に叫んで周囲の目も気にせず、立ち上がる。足許に置いていた、買ったばかりのブーツが入った紙袋を取り、さっさと去ろうと立ち上がって。
 けれど。
「持つって」
 勢い良く腕を振り袋を後ろに飛ばしそうな勢いだったところを、彼が手を伸ばしてきて取っ手を握る自分の手に重ねてくる。
「当たり前だ!」
 振り返って怒鳴り返し、手の握りを緩める。取っては自分の指先を抜け、彼の中に。
 周囲の人がぽかんとして、自分たちを見ている。だが人目などもとから気にしない性質なので、今更視界に収めるような事もしない。
「行くぞ!」
 今の今、「お前など知らない」と叫んだばかりなのに、まだその台詞から一分と経過していないのに。
 ついてこい、と傲慢なくらいに勝手な事を言って足早に歩き出す。その後ろを、一件強面な黒ずくめの男がやれやれ仕方ないな、と肩を竦めてからお騒がせしました、と言わんばかりにその場に偶然居合わせた人たちに軽く会釈をし、追い掛けて歩いていく。
 痴話喧嘩にもなっていない喧嘩は、だがしかし直ぐにその場の人々にも忘れ去られるだろう。なにせ当人達も、既に覚えていないのだから。
「ドコ行く?」
「そうだな……」
 あと買いたいものに何があっただろうか。追いついて横に並んで、声をかけるとユーリはもう普段の機嫌に戻っていてスマイルを苦笑させた。
「ついてくるか?」
「うん」
 だってユーリ、此処にいるし。
 媚びへつらいも、照れもおくびに出さず当たり前の事として告げる。
 ユーリが笑った。
「なら、案内しろ」
 買いたいものを口答で列挙し、立ち並ぶ繁華街のビルを見上げた。壁のようにそそり立つそれらの配置を思い出しながら、スマイルが了解、と小さく呟く。
「どこまでも、ついていくよ」
 君の行く場所へなら、どこにだって。
 聞こえないフリをして、ユーリはまた歩き出した。