りぃぃん、と。
鈴の音色にしては若干異なる、けれど最も表現するのなら鈴が一番近いだろう音が聞こえた。
ユーリはコーヒーカップに伸ばしていた手を止め、真っ白い陶器のカップから沸き上がる湯気の向こう側を見つめた。瞳だけを左右に揺らし、音の発生源を探す。
けれど見渡せる限りの範囲内にはそれらしきものを見出せず、仕方なく中途半端に持ったままだったカップを口に寄せ、まだ熱いコーヒーをひとくち含んだ。
夏も終わって、徐々に涼しくなろうとしている。季節外れだからと、軒下に吊されて真夏の間ずっと風に揺られていた風鈴は取り外されてしまった。僅か三ヶ月と満たない期間だけ其処にあっただけなのに、見慣れてしまった風鈴が見当たらないとどこか寂しさに似た感情を覚えてしまう。
あれはちょうど、今ユーリが持っているカップの形を模した造形をしていた。底の抜けたコーヒーカップがちりんちりん、と乾いた甲高い音を立てる様はどうも滑稽だったのだが、音色自体は悪くなかったのでユーリは気に入っていた。
どこに片付けられてしまったかは知らないが、来年もあの場所にまた吊されるのだろうか。専用に取り付けられた金具が錆びてしまう前に、次の夏は巡ってくるのだろうか。
思いを飛ばしながらふたくち目のコーヒーを口に運ぶ。舌先に乗るほろ苦さが熱さに混じり、独特の風味が鼻腔に抜けていった。
ほぅ、と息を吐き両手でカップを持つ。
鈴のような音色がまた、響いた。
左から聞こえてくるようで、左に目を向ければ今度は右から聞こえてくるような気がする。まったく発生源を掴めないその音に、眉根を寄せて立ち上がろうかと一瞬考えてしまったユーリの背後で、アッシュがおや、という顔をして足を止めた。
彼の手にはユーリ用に、と用意した彼の新作ケーキが乗った盆が。フルーツをふんだんに使ったそれは見た目カラフルで、表面にスプレーされた赤いチョコレートが色鮮やかに天井のライトを浴びて輝いている。
甘そうだ、と見た瞬間に今度こそ顔を顰めさせたユーリに構わず、アッシュは気を取り直してからリビングのテーブルにケーキの皿を置いた。焦げ茶色の丸盆を胸に抱き、どうぞと言わんばかりに彼の前に立つ。
レースのように波打った縁取りの小皿に載せられたケーキは、小さいがボリュームが在りそうだった。
添えられた銀色のスプーンを握ったものの、どこから手を着けて良いものか悩み、ユーリはやや丸みがかった山なりのケーキにトッピングされた切り身のグレープフルーツを小突いた。
「今回のは自信あるっスよ!」
胸を張って言ったアッシュが、早く食べてみてくれと期待に満ちた目を輝かせてユーリを見つめる。この城で甘いものを食べられるのがアッシュ以外ではユーリしか居ないから、味見役を任されるのは仕方がない事かもしれなかったのだが。
ユーリだって、甘いものが得意というわけではないのだ。食べられない事はない、その程度。
溜息を吐く。目の前のケーキは確かに旨そうではある、が、ここ数日甘いケーキばかりをデザートに出されてはいい加減飽きる。
アッシュの新作が真っ先に楽しめるのは喜ばしいことなのだろうけれど、どうも実験動物にされている感がしてならなかった。芸術品並みの完成度で彩られた表面のチョコレートを突き崩すと、中はグレープフルーツのムースがぷるぷると震えながら現れた。
鈴の音色が聞こえる。ユーリが苦々しい思いでやや酸味の利いたムースを口に運んで居る間に、アッシュが何かに気付いたらしく背後を気にして振り返った。
「…………」
ああ、だがこの味はしつこくなくて悪くないかも知れない。そんな感想をユーリが思い浮かべながら、口からスプーンを引き抜く。
アッシュがユーリの向こう側を見て、あ、と呟いた。
「アッシュ君!」
彼が何かを言う前に、広いリビングにスマイルの声が響く。
ふたくち目に取りかかろうかとしていたユーリの手が止まった。いい加減冷め加減のコーヒーカップからは、もう湯気も立たない。
りぃぃん、という音色がした。今度ははっきりと、ユーリの後方から。
「どうしたんスか?」
「キュウリ、ある?」
「は?」
透明なプラスチックケースに、薄緑色の蓋をした籠を持ったスマイルがぱたぱたと小走りにふたりへ駆け寄って、そう問う。けれど話の脈絡がさっぱり分からないでいるアッシュの間の抜けた声に、生温いコーヒーを喉に押し込んだユーリが漸く背後を向いた。
後生大事にスマイルが抱きかかえているケースの三分の一ほどは、土が敷き詰められているようだった。それ以外にも古木の切れ端らしきものが横たわっているのが見える。だけれど、それが一体何であるのか、ユーリにもアッシュにもまだ分からない。
鈴の声がまた響く、さっきよりもずっと近い場所から。
アッシュはスマイルが抱きしめているケースを改めて見つめ直した。えへへ、と言う風に彼が笑う。
「キュウリ……茄子でも良いんだけど。あと竹串かな」
「スマイル、それは?」
さっきからりぃん、りぃぃん、というか細く高い声を奏でているものは、どうやらスマイルが抱きしめるそれから響いているらしいとアッシュが結論付ける。指をさして問い返すと、彼はああ、と頷いて籠の蓋についている取っ手を握り顔の前にかかげた。
ぴたりとそれまで響いていた音色が止まる。中を覗き込んだアッシュは、そこに来てやっと納得顔で一度頷いた。
「キュウリで良いッスか?」
「充分」
冷蔵庫の野菜室に残っている食材を順番に思い浮かべながら、アッシュは改めて聞き返してから踵を返した。ふたりの会話に混じれなくて、ユーリは面白く無さそうな顔をしてケーキに飾られていたフランボワーズをスプーンの背で押しつぶす。
ふてくされた背中が丸まっている事を笑い、スマイルがユーリの、テーブルを挟んで向かい側のソファに腰を下ろした。ケーキの皿からは距離を置いて、抱えてきたケースを天板に載せる。
いかにも安物だと分かる大量生産品のケースに入れられているものは、話の感じからして生き物なのだろう。すっぽりとスマイルが抱き込めるサイズからして、それは昆虫の類か。
りぃぃん……
ケースから微かに、またあの鈴に似た音色が響く。
「食べないの?」
手が止まったままでいるユーリを見つめ、スマイルが小首を傾げた。
「貴様が変わりに食べるか?」
ムースをスプーンで掬い上げて彼の方へ差し出すと、途端スマイルは苦々しい笑顔を作って激しく首を横に振った。分かり切っていたその反応に冷たい視線を返し、ユーリはムスッとした顔のままスプーンを口に突き立てる。
程なくしてアッシュが、三センチ程の幅で輪切りにしたキュウリを持ってきた。ご丁寧に、一本ずつ串刺しにしたものを、合計でみっつ。
「これで良いッスか?」
「ありがと」
機嫌良さそうにアッシュから串に刺さったキュウリを受け取り、彼はそれを一旦テーブルに横たえさせてからケースの蓋を外しに掛かった。
またユーリの手が止まる。噛み潰した野いちごの酸味が舌いっぱいに広がり、ほろ苦い顔をして唇をへの字に曲げた。
スマイルは慎重に蓋を取ると中の柔らかい土に串を刺していった。
「でもどうしたんスか、それ」
彼の手付きを見守っていたアッシュが、腰を屈めてケースの中を覗き込みながら問う。残り僅かになったケーキをつまみながら、相変わらず会話に混じれないユーリがそれを不機嫌な顔で聞いている。
スマイルが笑った。
「ん~……貰った。買い物したら、おまけだってさ」
雄と雌、一匹ずつ。そう言って薄緑色をした蓋を小突いたスマイルの動きに反応したのか、震えるような音色が小さく響く。
「でも、もうそんな季節なんスね」
「まだ暑い日も多いからね~、仕方ないよ」
けれど暦はもう秋で、これから少しずつ空気も温み凛と張るようになっていくのだろう。水は冷たくなり、風も乾いていく。
ユーリを置き去りにふたりだけでどんどん会話を進めていくふたりを睨みながら、荒々しい態度で彼は最後のケーキを口に入れた。乱暴に奥歯で噛み潰し、ロクに味を楽しむこともせずに呑み込んでしまう。ガシャン、とスプーンを空になった皿に戻したところで、音に気付いたスマイルにやっと視線を向けてもらえた。
「ユーリ?」
何を怒っているのだろう、と不思議そうに彼はユーリを見つめ返す。けれどユーリは答えず、黙ったまま落ち着きなく中身のないコーヒーカップを弄りながら彼を睨み続けた。
そうすること、約二十秒。もっと短かったかも知れないが、もう少し長かったかも知れない。時間の感覚が微妙になっている事に苦笑し、スマイルが先に根負けして肩を竦めた。
「鈴虫」
これ、と透明のプラスチックケースを指さして。
りぃん、りぃぃん……
まるで応えるかのように黒い小さな虫が鳴いた。二匹のはずなのに、鳴き声は片方だけ。
アッシュがケーキ皿とコーヒーカップを片付け始める。ユーリは殆ど構うことなく、自分の前から消えていく食器に一瞥を加えただけで口出しはしなかった。だが、台所へ戻ろうとするアッシュにひとこと、コーヒー、と告げる事は忘れない。
ぼくも、と便乗してスマイルも手を上げた。アッシュがはいはい、と苦笑って小さく頷いた。その間もずっと、鈴虫は音色を奏で続けている。
良く聞けば人の手が作り出した風鈴とは、まるで音が違う。
「珍しい?」
興味深そうにケースの中を覗いているユーリに、スマイルが尋ねる。
「一匹しか鳴いていないぞ?」
「ああ、うん。それは仕方ないよ」
無料で配られているものだから、不良品を掴まされたのではないかと言うユーリに、スマイルは些か困ったような顔をして頬を掻いた。どうやら自分の説明が足りなくて、誤解を招いてしまったらしい。そうじゃなくて、と前置きし彼は先程土に刺した串のキュウリにいつの間にか乗っていた一匹を指さした。
「鳴くのは雄だけなんだよ」
鈴虫が鳴くのは、求愛行動だ。雌へ居場所を知らせようと、他の雄よりもより大きな音を響かせようとするから、秋の夜長によく言う鈴虫の合唱が起こる。
これは一応、卵で来年にも遺せるようにとつがいで配られていたのだと説明している傍から、雄の鈴虫がまた鳴き始めた。鳴いては休み、休んではまた鳴くの繰り返しだが、雌はキュウリに夢中のようでなかなか振り向いてもらえないでいる。
その素っ気ない態度に何を思い浮かべたのか、スマイルが口端を歪めさせながら鼻の頭を引っ掻く。見ていたユーリが怪訝な顔をするが、敢えて口には出さずに置いた。
「振り返ってやれよ~?」
こつん、と衝撃が行かぬ程度に優しくケースをつついてスマイルが呟く。雌は相変わらず、雄の求愛行動には無関心を貫いているようだった。
「素っ気ないな、卵は期待するだけ無駄じゃないのか?」
そもそも、来年まで卵を無事に残しておけるかどうかさえ随分と怪しいものだ。視線を向けると、困ったようにスマイルは笑い、そのうち庭に放すよ、とだけ答える。
「私の城を虫の巣にするつもりか」
「まさか。害虫じゃないんだし、良いじゃない」
「喧しいだろう」
大量に発生してくれて、その分音が大きくなったら。それに鈴虫が本領発揮で鳴くのは夜になってからだ。
「つれないねぇ……」
秋の夜長の情緒じゃないか、と口を尖らせて言うスマイルに、ユーリが睨みを利かせる。相変わらず、鈴虫の雌も雄に振り向きもしない。
りぃん、りぃん、りぃぃ……
雄はそれでも、懸命に羽根同士を擦り合わせて甲高い音を生み出している。まるでそれが義務であるかのように、そうする事で導かれる結末が、自信の運命だと位置づけているかのように。
それは、鳴き続ける。じりじりと後退するように動き、雌へと近付いて。
やがて雌は、雄の求愛行動に応じて卵を地面に産みつけるだろう。無数の、白く細長い小さな卵を。
だが今は、振り向いてもらえない相手へ懸命にアプローチを繰り返す哀れな雄の鳴き声を楽しんでおこう。風鈴の季節は去ったけれど、涼しげな音色を奏でるものは新たに訪れたのだから。
「玄関に置いておくね」
いつまでもここに置いてもおけないから、と虫かごのケースを抱え直しスマイルはソファを立ち上がった。追いすがるように視線を上げたユーリに、置いてくるだけだから、と彼は台所から新しいコーヒーを注いだカップを盆に乗せて戻ってくるアッシュを顎で示す。
くるりと踵を返し、スマイルは玄関へと向かって歩き出した。背中に、視線を感じる。
求めれば、拒絶して無視を貫く。追い掛ければ逃げる、でも自分から逃げ出したら物言いた気な視線だけを投げつけて、泣きそうな顔をする。
我が侭で、横暴で、自分勝手で。
玄関の静かで暗い一画にケースを置き、彼はそっと蓋を撫でた。空気穴が細かく開けられたケージで、漸く落ち着けたらしい鈴虫がまた細く鳴き始める。
この求愛行動はいつか報われるのだろうか。その結末を知っていても、彼は雌を求め続けるのだろうか。
皮肉を笑って、スマイルは肘をつき床にしゃがみ込んだまま今暫く、鈴虫の音色に聴き入る事に決めた。
秋、それが終わる手前。
力尽きた鈴虫の雄は産卵前の栄養補充として、雌に食われる。
相手を食らい尽くしたい程に好かれるのであれば、それもまた本望だろうか。
不意にそんな事を考えて、コーヒーが冷めるという声に呼ばれるまで彼はずっと、鈴虫の前を動けなかった。