Leisurely

 轟々と風が吹き荒れている。
 飛ばされてしまいそうな、とまでは表現も届かないもののそれでも、まとまりを欠く髪がざんばらに乱れ、風の進行方向に流されながら漂うのを視界に収めることが出来る程度には、強い風が吹いている。
 その中で、彼がひとり。
「ん~?」
 飛んでいきそうになる荷物を両腕で胸に抱え直し、薄曇りの空を恨めしげに見上げたスマイルはけれど、通り過ぎようとした一瞬の視界で佇む彼を見つけ、頭が認識したときには二歩進んでしまっていた身体を一歩半、戻した。左右で三十センチ少々間隔が開いている足をそのままに、腰から上だけを後ろに反らして首だけを左に振る。
 相変わらず両耳からは風の呻り声が低く聞こえてくる。
 ほんの少し顎を上向けて、斜め上方を見つめる。こちらの存在には気付いた様子もなく、何処を見ているのか定かではない視線を抱いた彼が、そこに居た。
 城からはみ出た出っ張りのようなテラスの手摺りに、さほど幅も広くないそこに腰を下ろして、流れる風に身を奪われぬようにだけ留意しながらもやはりどことなく虚ろげな表情をして。
「ふぅん」
 なんだろう、と思いつつ顎を引くついでに小さく頷く。考えが彼の許へ風と一緒に流されそうになって、つい緩めてしまった腕から抱きかかえた紙束の一枚がするりと抜け落ちた。
 地上でもかなり強い勢いを持っている風に攫われそうになったのを、慌てて片腕を伸ばし端の端を掴んで彼方へ行ってしまうのを寸前で防ぐ。ほっと安堵の息を零し、手元に戻して再度抱き直してから視線を上向ける。
 やはりユーリは、銀色の髪を風に自由にさせながらテラスに腰掛けていた。動いた様子はない、動きそうな様子もない。
 なにを、しているのだろう。或いはなにを、見ているのだろう。
 彼の視界に収まっているだろう世界を見ようと、ユーリの顔が向いている方角に視線を流してみた。けれど地上からとそれよりも高い位置からでは見える範囲も、見え方も大幅に異なってくる。到底彼と同じ視界を得ているとは言い難く、スマイルの視界に広がるのは城を包み込む不気味な程に静かな雑木林とその手前に伸びる、かろうじて家人の手が加えられた花壇の一画程度だ。
 ではユーリは、一体なにを見ているのだろう。興味を惹かれ、再度彼を見上げる。
 テラスの手摺りに座り、両手でしっかりと身体を支えてテラスに釘付けにしておきながら両足は自由で、時折風に倣ってぶらりぶらり、と不安定に揺れている。遠目では判別がつきにくい表情も、笑っているとは言い難く空虚な様に似ていた。
「ユーリ」
 この場から名前を呼びかけてみても、恐らく吹き荒れている風に阻まれて届かないだろう。先程から煽られてちらちらと視界を横切る、己の濃紺色をした前髪を邪魔だと片手で押さえ込み、スマイルは吐息を零す。
 今は先に、この邪魔になるだけの荷物を片付けてしまうのが先だろうか。出先ではさほど風も強くなかったから、油断してしまった。それだったら先方の好意に甘えて、紙袋にでもまとめて入れて貰えば良かったと今更に後悔しても遅い。
 姿勢を正して止めていた歩を進める。城内に入ってしまえばこの鬱陶しいばかりの風からはひとまず、身を守れるし書類が飛ばされてしまう事もなくなる。
 重厚な構えをしている正面玄関に向かい、観音開きの扉を片方だけノッカーで叩く。返事はなく、けれどギギギ…という低く重そうな音を微かに響かせてノッカーのある方の戸が自然に外側へ開かれた。勿論誰かが押し開けてくれたわけではなく、無人の玄関に自分ひとりがかろうじて通れるだけの幅から滑り込む。するとまた、扉は黙って勝手に閉じられた。
 何度やっても薄気味悪いものだが、いい加減慣れて驚かなくなった。旧式の自動ドアだとでも思っていれば良いか、と開き直っている面も強い。ともかく、これでやたらと耳の側でうるさく唸っていた風からは解放された。
 すっかり崩れてしまった髪型を手で簡単に直し、皺が出来上がっている抱えていた書類も軽く伸ばしてやってから更に先へ進む。迂回経路も使わず、玄関ホールにある半螺旋階段を登って自分が使っている部屋に向かった。そしてドアを開け、机の上に持って帰ってきた書類一式を放り出し、上に着ていたジャケットも脱いでベッドに放り投げる。
 くるりと踵を返して入ってきたばかりの扉へ向かう、開け放していたから廊下側の光が室内に長く伸びて影になっていた。
 まだ跳ね上がっていた髪を手の表面全体を使って押しつぶす感覚で直してから、後ろ手に扉を閉めて左に続く廊下の先にある階段を見る。ひゅっ、と息を吐いて口元で笑みを作った瞬間、スマイルの姿がそこから掻き消えた。
 霞が溶けるような、見事な瞬間技。
 そのままの姿で彼は階段を下り、廊下を若干進んでとある扉に手を掛けた。この瞬間にだけは息を殺して気配を断ち、細心の注意を払いながら慎重に行動を起こす。
 テラスでは地上で感じたよりも僅かだが、風が強く冷たい感じられた。
「ユーリさん?」
 吸い込んだ息を吐きだしながら、彼の背中に呼びかける。けれど吹き荒れる風がそれを邪魔して、声は届かない。
 スマイルは見えない身体のまま肩を竦めた。
 警戒心の塊のような面もあるユーリが無防備に背中を晒している。ちょっと押せば、地上に落下しかねない場所に鎮座坐しているに関わらず、だ。もっとも彼は一応飛べるから、無惨にも地面に激突、という事はないだろうけれど。
 いや、無警戒であればそれもあり得るか。
 考えがそこに及ぶと、試してみたいという気持ちが急にむくむくとわき起こり始める。そんなことをして、一生彼と口を利いてもらえなくなっても構わないのか、と問う理性と好奇心が鬩ぎ合っている間に、また一際強い風が吹いた。
 バランスも危うい心許ない場所に座しているユーリの躰が、一瞬大きく傾いだ。
「あっ!」
 つい、矢のような声を上げて前に飛び出してしまった。
 ぐらりと揺らいだユーリの躰を支えるところまでは届かなかったけれど、波打った彼の左腕を掴む事には成功して、自分の側へ、つまりはテラスの内側へと引っ張る。ユーリは見えないものの力に驚いたような顔をしたけれど、直ぐに何事かを察したらしく表情を緩め、流れる力の方向に体重を預けてきた。
 ユーリの両足が揃って手摺りを乗り越え、爪先が天を仰いだ直後に床へ沈んだ。その数瞬前には、彼の右腕が真っ先に彼方へ伸びて上半身がスマイルの胸に落ち、受け止め損ねたスマイルの全身がテラスの床に転がっていたが。
 どすん、と。
 ふたり分の体重を一気に喰らったテラスが小さな悲鳴を上げた。けれどもっと沈痛な、潰された蛙の如きうめきを上げたのは腹部にユーリを直撃されたスマイルだろう。ぐえ、と内臓が口からはみ出そうな感じがする声を出した後、透明だった身体を戻すと同タイミングで両手足の先を痙攣させ、しばらくの間まともに動けなかった。
 事もなくスマイルをクッションにして衝撃を免れたユーリが、のそのそと彼の上から退く。上から青い顔をしているスマイルを覗き込み、大丈夫かと問う。
「う~~」
 大丈夫とは思えない声を低く呻かせて、スマイルは恨めしげにユーリを見た。けれどその時にはもう、彼はスマイルから注意を逸らして遠い場所を見つめていた。
 一体何処を見ているのか、視線の先を探ろうとスマイルはまだじくじくと痛む腹を片手で押さえ、片手で身体を支えながら上半身を起こした。
 テラスの床に直接腰を落とし、変わらず吹き荒んでいる風に纏っている服の端々や髪を自由に弄ばれながら、ユーリはどこでもないどこか、を見つめていた。その紅玉の双眸に映るのは、確かに目の前に広がる景色に他ならないだろうけれど、彼は恐らく、そんなものを見ては居ないだろう。
 輝きが曇った瞳を間近に見つめ、スマイルは苦笑を零す。
「ナニしてんの?」
 ずっと聞きたかった事を口に出して問いかける。五秒ほど反応を遅れさせ、ユーリが振り返った。
 固く冷たい床の上に直に座り直した彼の双眸が、興味津々と分かる隻眼を睨むように見つめている。片方だけの瞳に映る自分自身に笑ったのか、直後表情を緩めた彼が皮肉を言いたがっている顔をした。
「何をしているように見えた?」
 からかおうとしているスマイルの心理を逆手に取ったユーリの、意地悪い問い返しにスマイルが引き寄せた膝を横向きに倒して中途半端な胡座を造り首を振った。
「ボーっとしてるように見えた」
 実際、なにもしていなかったように思う。感じたままの事を告げたスマイルに、ユーリはまったくだ、と同調の言葉を零して頷いた。
 おや、珍しい。素直な反応を返すユーリに驚いて目を見張ると、表情で心情を悟ったユーリに小突かれてしまう。つい笑みが溢れて、笑っているとまた横から張り手が飛んできたがそれは避けた。
「で、結局」
 あんなトコに登って、座って、なにを見ていたの。顎を酌ってテラスの手摺り部分を示したスマイルに、ユーリはああ、と相槌を打っただけで言葉を途切れさせた。
「なにも」
 ただ、そうだな、と。
 今になって理由を考えているような横顔をしながら、彼は今では手摺り越しになってしまっている光景を眺めている。それはほんの少しだけ、さっきまでの彼が前にしていた世界とは異なっているのだろう。眉根をそっと寄せ、短い息を吐きだして二度ほど首を振った。
「風が」
 ぽつりと零れ落ちた彼の紡いだ単語に導かれるように、スマイルは天を仰いだ。
 花曇りの空、薄い灰色の雲が視界一面を覆い尽くしている世界。その下を駆る風は自由だが、少々乱暴者だ。未だ吹き止むことを知らず、我が物顔で地上を荒らし回り、そこに身を沈めている彼らを包み込んでは嬲って去っていく。
 ふくれ上がった前髪を押さえ込み、最早手櫛程度では直らなくなってしまった髪型を思ってスマイルは舌打ちした。ユーリもかなり毛先があちこちに向いて跳ね上がり、角が立っているみたいに普段は反対側に倒れている毛が逆方向に立ち上がってしまっていた。
 改めて眼にするとおかしくて、ぷっと吹き出してしまうとユーリはむっとなって頭に回した手で手探りに乱れを直そうと試みた。けれど鏡の無いこの場所ではなかなか上手くいかず、悪戦苦闘している間に自分で尚更変な風にしてしまって、スマイルの失笑を買う羽目に陥っていた。
 最終的には、ふてくされた顔をしてユーリは髪型を直すことを放棄してしまった。見かねたスマイルが手を出そうとしたけれど、直前で弾き返されてしまって結局そのままだ。
 両足を揃え、ふてくされた顔を立てた膝の上に置き、三角形になっているユーリがしっかりと膝裏で手を結びあわせている様はまるで、叱られて部屋の隅の方で拗ねている子供のようだ。
「風が、どうしたノ?」
 ひとしきり笑い終え、表情を戻したスマイルが気を取り直し咳払いをひとつ、わざとらしくしてから問い直す。ユーリが途中で途切れさせた言葉を掘り返して来た彼に、ユーリはじろりと不機嫌な眼を投げつけた。
 だが、それもすぐに終わる。彼は結び合わせた両手に若干の力を込めて胸の方に抱いた腿ごと引き寄せ、床に貼り付いていた足裏を浮き上がらせた。揺りかごヨロシク前後に揺らぐ彼の身体が、吹き抜けていく風にリズムを合わせているのだとすぐに知れた。
 珍しいものを見る目つきで己を眺めるスマイルに、やはり不機嫌さを隠さないユーリが一度だけ軽く睨んだ。
「答えが必要か?」
 しつこく、一旦は途絶えた会話をぶり返さねばならないほどにその話題がお互いにとって、重要なものだとは到底言い難い。必要性のない会話を繰り返す事を嫌うユーリらしい言い分に、スマイルは黙って首を横に振った。
 半分だけ胡座、残り半分は膝を立てて腕で抱き込むような姿勢をとっていた彼が歯を見せて笑う。
「うぅん。でも、聞けるのなら聞きたいカナ」
 あんな場所に座って、風が強くて吹き飛ばされてもおかしくないのに、ぼんやりと空ばかりを眺めていた君が、その綺麗なルビーになにを見ていたのか、が。
 気にならないわけがない。なんとなくだが想像できたものの、彼の口から直接答えを聞けるものなら、聞いてみたいと思うのが道理ではないだろうか。
 確かに会話を続けなければならない必要性はどこにも存在しないかもしれないが、ここで途絶えさせなくてはならない必要性もまた、存在していない。屁理屈だと笑われるかもしれないが、つまりは、そういう事。
 スマイルの笑顔に、ユーリが諦め調子で小さく肩を竦める。ぺたりと足裏を床に貼り付け直し、両手を解いて右腕だけを空へ突き立てた。
 広げられた指先から風が逃げていく。自由を性分とするそれらは、形あるものが掴めるものではない。
 そうだな、とやはり今頃になってから考え込んで、ユーリは眉間の皺を深くした。
「風が、吹いていたから……か?」
「ぼくに聞かれても」
 自問するユーリの問いかけにスマイルが苦笑を返す。
「風が吹いてたから、手摺りに座ってたわけ?」
 ではそこに座って、何をしていたのか。
「なにもしていない」
 続けざまの問いかけには即答で断言し、ユーリはきょとんとした眼でスマイルを見つめた。その質問は既になされ、質問者自らが答えを導き出していたはずではなかったかと言いたげな視線に、それはそうだが、とスマイルは言葉を濁した。
 ふっ、とユーリの表情が緩む。
「敢えて言うなら、そうだな。……なにもしない事を、していた、と、なるか?」
「はぁ」
 分かったような分からなかったような、曖昧な顔をして相槌を返したスマイルの間抜けな表情にユーリがカラカラと笑った。
 なにもせず、なにかをしようとも思わず、目の前に広がる世界も見つめず。虚ろに、ただ無為に過ぎる時間の中で意識を漂わせていただけの、時間を過ごしていたのだと言い直したユーリの言葉がスマイルの頭を通り過ぎていく。
「退屈してたの?」
「そうとも言うな」
 暇を持て余していたとも言い換えられるだろうが、別段暇だからする事が無くて困っていたわけでもないのだと、ユーリは言い直す。
 暇だった事は確かだが、だからと言って急いで何かをやろうと思ったわけでは断じてない。何もしない時間を過ごしていた、それだけなのだ。
「ふぅん」
 短い相槌を打って、スマイルはとりあえず頷いてみる。
「今更じゃない?」
「そうかもしれないな」
 暇を――有り余る時間を持て余しているのは、何も今に始まった事ではない。そしてそれは、ユーリだけが該当している事でもない。むしろ二百年という時を眠って過ごしたユーリとは違い、その期間もずっと目覚めたまま過ごしてきたスマイルの方が余程、何もしない時を過ごしてきている。
 すべては今更。
 何もしていない、空虚な時間を有り余らせているからこそ何かをしたいと、そう思って動いているのではなかったか。言外に様々な事を含ませて告げたスマイルのひとことに、ユーリは俯き一度だけ頷いた。
「あー、でもマァ……分かる、よ」
 偶に。
 せせこましく在る事に疲れた時、ふと自分の中の時を止めてしまいたくなる事が、全くないとも言い切れない。
「デモ、次からは止めてよね、ああ言うの。心臓に悪いカラ」
 テラスから落下するビジュアルバンドのボーカリストなんて、格好悪いこと極まりない。茶化したように言ったスマイルに、ユーリはそんな事をするはずがないだろう、とやはり拗ねた顔で手を出してくる。
 スマイルは難なく躱してくれたが。
「次は、ちゃんと呼んでよネ」
 ぱしん、と飛んできたユーリの手をキャッチして、自分の側へ引き寄せたスマイルが彼の耳元で囁く。
 耳殻に吹き込んだ、趣の異なる風にユーリは顔を顰め、パッと奪われていた手を取り戻すと後ろに下がって距離を作った。警戒心がオーラとなって全身から噴き出したユーリに、傷つくなぁ、と笑ってスマイルが頬を掻く。
「ユーリさん?」
「もういい、何も言うな近付くな。貴様が言いたい事は大方、分かった」
 しっしっ、と犬を払う時のように手を振ってユーリが早口に捲し立てる。遠くで、雲が途切れその上で輝いているはずの太陽が切れ目から光を零し始めていた。
 空が明るくなる、強かった風が徐々に弱まりだしていた。もう耳を覆うあの低い呻り声も聞こえない。顔を上げたスマイルに、ユーリがそっと息を吐く。立ち上がり、埃を払って軽く腰を回して伸びをした。
 見上げる格好になったスマイルを一瞥し、何もない空間で右手を開き、そして握る。
 風が握れなかった。けれど、違うものは残ったはずだ。
「そうだな、ひとりで居るのも退屈極まりない」
 幸か不幸か、この城には騒がしいばかりが取り柄の存在がふたりも揃っている。一歩城から外に出れば、更に騒々しい面々と顔を合わせる機会も増える。
 ひとりで暇を持て余し、退屈な時間を空虚に潰しているのはなんと勿体ない事だろう。
「でショ?」
 してやったり顔のスマイルが床の上で胡座を組み直し、隻眼を細めて笑う。
 雲が裂け、陽射しが舞い降りてくる。それはこのテラスや城を囲む暗い森の頭上にも等しく訪れ、夕暮れ前の一時を明るく染めようとしていた。
「まったく、貴様に諭されるとはな」
 情けない、とやや沈み顔で呟いて視線を伏せたユーリだったが。
「そういう殊勝な台詞は、逆立ってるその髪の毛どーにかしてからにしないとカッコ悪いヨ?」
 未だ直せずに放置されていた髪型の事を指摘され、ユーリのこめかみに血管が浮いた。
 直後、台所でのんびり夕食の下ごしらえをしていたアッシュの耳にも聞こえるような、凄まじい轟音が響き渡った事は、言うまでもない。