日曜、たまたま予定が空いてしまった正午前。
お暇デスか? そう誘った外出準備中の彼の言葉に頷いたのは、ただの気紛れだった。
一緒来る? 袖を通したジャケットの前を整えながら続けた彼がにっこりと微笑む。退屈しのぎにはなるよ、と重ねられたことばに、何処へ行くのか興味を惹かれたのは額面通り退屈だったからだ。
有り余りすぎる時間を持て余して、けれど一度目覚めてしまった以上また眠りに戻るのも億劫。
じゃあ、おいでよ。待ってるから。
壁時計を見上げて、まだ時間の余裕はあるよと笑った彼に促され、ソファから立ち上がりコートを取りに自室へと向かう。玄関ホールで待ってるから、と手を振った彼は本当にそこで待つらしく大時計前で立ち止まって座り込んでしまった。
半螺旋の階段を登りながら、視線で彼を射抜く。こちらの視界に収まっている事に気付いているのか居ないのか、膝の上で肘をつき眠そうに欠伸をしている彼を見やってから残りの階段を登りきった。
どこへ連れて行くつもりなのかは知らないけれど、なによりも退屈嫌いの彼が自分を誘う程だ。多少は楽しませてくれる場所なのだろう。
適当に軽い素材のコートを選び、袖を通しながら部屋を出る。階段を下りる自分の姿を見つけた彼が立ち上がり、歩調を合わせて玄関へと向かう。
階段から直接扉へ向かった自分と、ぴったりタイミングを重ねて到達を果たし横に並んだ彼が笑う。呆れた顔を向けて、玄関脇に立てかけてあるポールからマフラーと手袋を取った。
城主の意図を汲み、城の正面を守る扉が厳かに自分から道を開いた。外気が流れ込み、温められた空気に埋もれていた一角に冷たい風が吹き込んできた。思わず首を引っ込めて身体を縮めてしまった自分へ、先に外へ出た彼が手を差し出して誘う。
「行こう」
たまたま時間が出来て、暇を持て余していた冬の朝。
陽射しは強くも弱くもなく、丁度いい具合に太陽を雲が隠してくれているようなそんな微妙な天気の日。
「どこまで?」
「そこまで」
差し出された手を払い、自分の足で前へ進み出ると後方で扉が、やはり誰の手も借りずにひとりでに閉じられた。閂が嵌められる音が響き、振り返るともうそこに巨大すぎるあの城は見当たらなくて。
自分たちは「人」の住む世界の道に、取り残されたように立ち尽くしている。
「行こう」
彼が歩き出す、この超常現象に構うことなく。
その後をついて、遅れないように自分も歩き出す。どうせ気にしたところで分かるはずがないのだ、この世界と自分たちが本来暮らす世界とがどうやって接しているのか、など。
分からなくても問題ないのだ、誰も気にしないから。
そう、気にしなければ良いだけのこと。
当たり前のこととして、そこに空気があるのと同じように受け止めてしまえば良い。共存などという調子の良いだけの甘い考えではないが、棲み分けは出来ているのだ。
彼らが受け入れるのなら、自分たちも受け入れるしかない。世界は違えど、お互い「生きて」いる事に大差ないのだから。
時間の流れ方は根本的なところから違ってしまっているが。
人混みを分けて道を進む。恐らくそこに居た人々には、唐突に現れた存在として自分たちは映っただろう。
けれど誰も気にしない。深く考えない、関わらない。
其処にいるのに、空気と同じように見えないものとして受け止める、空虚な関わり方を選んだ人間達。吐き出す白い息に濁った空の向こう、やはり濁った色をしている蒼だっただろう空間を見つめて頭を振った。
自分が知っていたこの世界は、こんな風じゃなかったはずなのに。
遠くに置き去りにしてきた記憶を掘り出して、比較対象にするのは好きではなかったけれど考えてしまう。少なくとも眠りに籠もる以前のあの時代では、人々はもっと自由だった。
更なる自由を得たはずの人間は、今、もっと違うなにかに束縛されて不自由だ。
「ユーリ」
歩みが緩くなっていた自分を呼び、数歩先で立ち止まっていた彼が振り返っている。ジャケットに放り込んでいたはずの左手を出して、自分の方へ差し出して。
促されて前へ進み、やはり手は拒否を示して振り払って横に並んで歩く。何を考えていたのか、彼は聞かない。干渉しない。
何故と問えば、野暮でショ、と彼は笑う。言いたいことがあるのなら、君は自分から言うでショ?
黙り込んで、君が胸の中にしまい込んでしまっているものは、ぼくがおいそれと触れて良いものじゃない。君を考え込ませて苦しめて、刺さった刺のように君を傷つける事であったのならその限りじゃないけど、でも、君が言いたくないと思っている事には出来るだけ、ぼくは触れない。
ユーリだって、ぼくの中にある棘にはあんまり触れないでショ?
「貴様にそんな殊勝なものがあるとはな……」
「永く生きてるからネ」
色々ありますよ、と茶化して呟き彼は行き場のなくなった両手を頭上に持ち上げて頭に乗せた。濃紺の夜空を思い出させる髪が、腕の重みで一部沈み込む。変装のつもりなのか普段から全身を包んでいる包帯を解き、左目には黒の眼帯。跳ね上がってばかりいる髪も後ろに流して、それだけなのに随分と印象は違って見える。
透明人間という分かり難いキャラクターを持っている彼は、ある意味誰にでもなれて、誰にもなれない。今目の前にいる彼が、本当の彼というキャラクターではない可能性だってあるのだ。
見えないからこそ、本質を見抜くのが難しい。
「ユーリ、行きすぎ」
並んで歩きながら、また考え事に没頭してしまっていたらしい。呼び止める声が今度は後ろから響いて、慌てて振り返ると彼は普段だと市民公園として解放されている大きな広場を持つ場所の、入り口に立っていた。その傍らに、墨で力強いけれど達筆ではない文字で看板が。
骨董市。
聞けば年に二回、この広場を使って催されているという。毎月一度フリーマーケットも開催されている広場は、昼という時間帯もあってか随分と人が多かった。
素人が家にあったものを持ち込んで雑多に並べている店舗があれば、違う一角では骨董を専門に扱う商人が出張市の如く商品を並べているところもある。素人ばかりが集まる場所はさながらフリーマーケットの延長であったが、専門店が並ぶコーナーでは本格的に壺や額が並び、真剣な顔をした客が商店主の説明を熱心に聞いている光景が見て取れた。
物珍しさに、視線が浮く。
「ここか?」
「うん。暇つぶしにはなるでショ」
こういうトコに来ると、なかなか見付からないギャンブラーZのフィギュアだったりが見付かったりするんだよね、と彼は楽しげに笑って言った。恐らく今回もそれが一番の目的だったのだろう。
だが、成る程。広い公園の一帯を埋め尽くすように並んだ店舗(うち半分が、素人出展者の店らしい)を端から端まで見ていくだけでも、時間を潰すことは出来そうだ。
人が多いのが少し難であるが、街中を彷徨うよりも少ないようなので贅沢も言っていられない。
「どうする? 一緒に回る?」
再びズボンのポケットに手を入れた彼に尋ね掛けられ、暫く考え込んだ。一緒に回っても問題ないのだけれど、どうせ彼はフィギュアを探す事中心で巡るのだろう。自分はそちらにはまるで興味がないので、付いて回るメリットは何もない。
だけれどこれだけの人出で、初めて来た骨董市のどこをどう見て回れば良いのかも分からないままひとり放り出されても、正直困る。彼は好きなように巡ってくれば良いだけだと言うものの、どう巡るのが良いのかさえ分からない。
返答に窮していると、彼は溜息をついて肩を竦めた。
「じゃ、行こう。適当にぶらぶらしてみるのも、結構楽しいよ」
そう言って彼は左手だけをポケットから抜き取った。三度目に差し出された手を、今度は拒まずに握り返す。人出の多いところでこういう事をするのには抵抗が残ったけれど、この場所にひとり置き去りにされることを思えば妥協も仕方なかった。
彼は時々、茣蓙いっぱいに拡げられた玩具やら、何の役に立つのかさっぱり不明なものを売っている場所で立ち止まってにわか店主とのやりとりを繰り返した。値段の交渉が専らだったけれど、偶に、これは何処で買ったのかとか聞いていてもさっぱり分からない専門的な会話を繰り広げたりもして、彼はそれを愉しんでいる。
店主たちは最初こそ彼の風貌に驚き、顔を強張らせる。けれど話し込んでいくうちにすっかりうち解けて、外見からの偏見紛いは別れる頃には完全に消し去ってしまっていた。
誰とでも親しくなれるのが、彼の凄さなのだろう。時折すれ違う人にも挨拶されたりするのは、彼がこういう催事に頻繁に出入りしている事の証明に思えた。
ただ、それでも。
彼の親しさには一線退いたものがあると、感じる。相手が人間であれば顕著に、自分たちを前にしても時々、感じる事。
彼はいったい、どこに「本当」を持っているのか、と。
時間が過ぎていく。かなりの店を回っただろうか、少し歩き疲れを覚え始めていた矢先、ふと、視界に収まった小さなものに目を奪われた。
「ユーリ?」
同じ調子で歩いていた彼が、思わず立ち止まっていた自分に気付き名前を呼ぶ。周囲を気にしての遠慮がちな呼びかけに、気付いてはいたけれど返事をせず半畳もない空間にちょこん、と並んでいるものたちを見下ろす。
気付けば、その場でしゃがみ込んでいた。
品揃えが多いとは言えない、統一感があるとも思えないがらくたばかりが並んだシートの上。周囲に埋もれるように売れ残っていた、木組みの箱を取り上げた。
「なに、ソレ」
「さぁ」
飾り気も殆ど無い、シンプルな作りの箱。表面に浅く彫り物が成されており、蝶番で閉じられた蓋を開くと、中身はジュエリーケースのようだった。
ただ外見の大きさに比べ、中は随分と狭い。
これは何か、店主に聞こうと顔を上げる。外見からしてどう見ても怪しいふたり組を警戒している事が見てすぐに分かる顔をした、まだ若い青年が訝しげに視線を返してきた。
「コレは?」
彼が自分の手の中にある箱を指さし、青年に尋ねる。売れ行きが芳しくないのか、退屈を持て余していた感じの青年は小さな欠伸をし、警戒は解かず座っていた椅子から身を乗り出した。
両手の平に収まっている箱を見て、ああ、と頷く。
「オルゴールだよ」
面倒臭そうにことばを返した青年に、言われて逆に箱を返してみた。成る程、確かに銀色の螺旋が申し訳程度に填め込まれている。だが回してみても手応えは返ってこず、当然音もならなかった。
怪訝に思って視線を青年に向けると、彼は億劫そうに頷いた。
「壊れてるから、百円で良いよ」
かなり年代が入っているようで、シンプルだけれど上品な趣があるオルゴールはどう見ても、街中で騒いでいる若者代表という格好をしている青年と似使わないものがあった。恐らく小遣い稼ぎのつもりで、家からこっそり持ち出してきたものを並べているのだろう。
本来の持ち主の許可を得て販売しているのか気に掛かったが、手の中に収まっている、壊れたオルゴールはやけにずっしりと重く感じられて、手放されることを拒んでいるように思われた。
ちらりと傍らで立ったままの彼を見る。視線を受ける前に、彼は財布を取りだしていた。
「本当に百円?」
「ああ。それ以上出してくれるってんなら、喜んで受け取るけど?」
財布を広げながら尋ねた彼の言葉に、にやりと笑って青年は言い返す。苦笑った彼が銀色の硬貨を一枚取りだして青年の手に押しつけた。
「まいど」
硬貨を握りしめた青年が、その腕を軽く掲げて早く何処かに行け、とばかりにつっけんどんな態度を取った。財布をポケットに戻した彼は肩を竦め、行こうと座ったままでいる自分に声を掛ける。
オルゴールを持ち直し、促されるままに立ち上がった。オルゴールが軽くなる。
箱の中が狭く感じられたのは、底にオルゴールの機械が組み込まれているからなのだろう。
人混みを抜け、空いた空間に出てベンチに腰を下ろした彼の横に並んで座る。
「そういえば」
箱の底を眺め、中を開ける場所が無いかどうか確かめていると不意に、横で彼が呟いた。
「曲名、聞きそびれた」
「鳴ると思うか?」
壊れているオルゴールを彼の目の前に突きだし、尋ねる。すると彼は驚いたような、呆れたような表情を浮かべて向けられた小さな木箱を受け取った。蓋を開き、中を確かめる。何の手応えも示さない螺旋を回してみて、側面を軽く叩いた。
会話は、その間も途絶えずに続く。
「鳴ると思ったから、買ったんじゃないの?」
「買ったのは貴様だろう」
「お金を出したのはぼくだけどネ。欲しがったのはユーリじゃない」
「欲しい、と言った覚えはない」
「でも」
欲しかったんでショ?
問われれば頷いて返すしかない。
何故これが欲しくなったのか、まったく分からないのだけれど。壊れているオルゴールを買う酔狂者と思われただろうか、何の役にも立たないものを好んで買うなど。
意味もない事なのに。
自嘲気味に笑ってみる。けれど彼は、首を振った。
「ユーリに買って貰いたかったのかもしれないよ、この子が」
古いものには命が宿る、という。いきなり動き出して喋る、なんてことが起こるわけではないけれど、なにか不思議な力が宿る事は否定しがたい。そして自分たちは、そういった感覚が鋭敏だったりする。
骨董市という特性もあって、古いものが一箇所に集まっているこの場で、ユーリの波長に合ったのがこのオルゴールであったとしたら両者が惹かれあうのも、別段不思議ではない。そしてこれは、君の手元に行くことを望んだのだろう、と。
一息でそう告げて、息を吸って吐いてから、彼はベンチの背もたれに沈めていた身体を立てた。座り直し、向き直る。
コツン、とオルゴールの壁面を指先で叩いた。
「あと、それから。直るよコレ、多分」
中を開いてみないとまだ分からないけれど、こういうものは作りが単純な分部品さえ揃っていれば案外簡単に直せるのだと、言う。テレビや冷蔵庫のような、部品があっても自分で修理出来ないものとは違う。多少複雑な部分もあるものの、こういった手巻きオルゴールが鳴らないのは、バネと発条のどちらかが壊れてしまっているのが原因になっていることが殆どだろう。
だから箱を壊さずに中を開くことが出来ればなんとかなるかもしれない、と彼は言った。
「そう……」
「どうする?」
まだ昼過ぎで、どこかで昼食を取って残りの時間をゆっくり過ごしてもそれはそれで構わないけれど。
どうしても気になるようなら、今すぐに城に戻って修理に取りかかっても良いよ、と彼が笑いながら告げて。
本当なら彼はまだ此処に残って残りの店も見て回り、欲しいものを探して歩き回りたいはずだ。誘われてついてきたのは自分で、だから主体として動く中心に居なければならないのは彼なのに。
いつの間にか彼は自分を中心にして動き回ってくれている。
自分を、二の次に回してまで。
そこに、意味があるのだろうか。彼にそこまでしてもらえるだけの何かが、自分にあるとは思えないのに。
「お前は……」
だから巧く言葉が継げなくて、横から覗き込むような視線を向けて静止してしまって、また伏し目がちに視線を泳がせた自分は、結局彼の方にちゃんと向けないまま遠くを見つめるしかなかった。
「お前は、まだ、何も買っていない……だろう?」
自分に構わなくて良いのだと含ませて、告げる。
けれど途端、彼は吹き出して、失礼ではないかと怒りにまかせて振り返ろうとした瞬間に眼前に、嬉しそうに微笑む彼を見た。
言いたかった、怒鳴りつけてやろうと今頭の中で用意した台詞がスッと抜けていく。開きかけた口を閉じることも出来ず、中途半端に開いたまま惚けていると、余計に笑った彼がぽんぽん、と頭を叩いて来た。
そして蓋を閉じたオルゴールを、強引に手に押し込んだ。
「良いんだよ、ユーリ」
もう帰ろうか、とベンチから立ち上がって彼は遠くを見た。
吐き出す息が白い。他の誰よりも、彼の存在がこの空間で際立って異彩を放っている。
これだけ大勢の人が居る中で、彼だけを強く意識した。背中しか見えないのに、彼が今、どういう風に視線を伏して微笑みを浮かべているのかが分かる。
彼が、次に何を言うだろうかという事までも。
彼は言うだろう。きっと。
『君が』
「君がしたいように」
『したいように、ぼくが』
「ぼくがしたいんだ」
『したいんだ』
瞳を閉じた。頭の中で浮かべた彼の声と、耳から流れ込んでくる彼のことばが重なり合って響く。
「だから」
『だから、ね。ユーリ』
「ね、ユーリ。帰ろうか、今日はもう」
『帰ろうか、今日はもう』
両手の中のオルゴールを握りしめる。
「ユーリ」
顔を上げた。そこには変わらない笑顔を浮かべる彼が立っている、いつものように左手を差し出して。
「帰ろう?」
問いかけに、頷いた。左手に自分の右手を重ねると、強く握りしめられる。
彼が何故、こんな風に自分に接してくれるのかは知らない。信じていないわけではないけれど、「本当」の彼が今目の前に立つ彼であるという自信も、無い。
ただ、それでも。
この手を握っている強さと暖かさが、偽りでない事だけは……信じたい。
その日の夜のうちに、折れ曲がっていた発条を取り替えられ、シリンダーも綺麗にさびを落とされたオルゴールは買ったときとはまるで別物のように輝いて見えた。
螺旋を回し、テーブルに置く。
流れ出したメロディは、耳に慣れた懐かしい音色。甲高いものの、柔らかさを含んで心地よい曲は、シューマン作曲の、トロイメライ。
彼は言っていた、オルゴールが自分を呼んだのだと。
波長が重なって、惹かれあったのだろう、と。
もし、そうだとしたら壊れていたオルゴールは、こうして自分の手元へやって来た事を幸せに思ってくれているのだろうか。再び元の音色をこうやって奏でることが出来るようになった事を、喜んでくれただろうか。
もし……もし、本当にそうだったら、嬉しい。
きっとこれからオルゴールの蓋を開き、トロイメライを聴くたびに今日の事を思い出すのだろう。
冬の凛として冷えた空気に、静かに響き渡っていくメロディ。
顔を伏せ、オルゴールの乗るテーブルに額を押しつける。やがて音色はゆっくりと緩み、静かに消えていった。けれど耳に残る、優しいトロイメライ。
「スマイル……」
その名を呟き、目を閉じた。思い浮かぶのは冬の空を背負った彼の横顔。静かに流れるトロイメライ。
聞きたくて、けれど聞くのが恐くて訊けなかったのは。
このオルゴールのように、自分の側に居る貴方は。