ふとした瞬間に気付くことは、未だに多い。
それはクセのようなものだったり、習慣になってしまっている事だったり。服の趣味だったり読む本の傾向だったり、好んで耳に入れたがる音楽のジャンルだったりと様々。
もう数えるのも面倒になるくらいになる程長い間の時間を共にしているようで、案外思うほどには時間の経過は短いのだと思い出させられる瞬間。自分はまだまだ彼のことを知り足りていないのかと、実感させられる。
例えば今、テレビを見ている彼。
リビングの中央にあるソファにどん、と腰掛けて目の前の最新式テレビモニターを凝視している彼が見ているものは、御多分に漏れず彼が大好きで愛して止まないロボットアニメである。彼曰く、正しくは「痛快ロボットヒーローアクションアニメ」らしいのだが、その辺は実害が出ないのでどうでも良い事にしておく。
どう考えてもおおよそ現実的ではないフォルムをした、ずんぐりむっくりのロボットが合体し敵側の悪のロボットやバケモノを倒したりする、単純明快な内容だ。その単純ぶりが幼児層に受けているのかどうなのか、番組自体は結構な長寿ものになっているらしい。やはり興味がないので良く知らないが。
彼が何処をどう間違ったのか、という経過については触れないでおこう。「カッコイイじゃない?」という彼の説明だけでは、価値観がまったく違ってどう見てもそう思えない自分には理解できない。
ともあれ、彼はこのアニメが好きだ、大好きだ。
そして彼はこのアニメが放送されている時間帯には、必ずテレビにかじり付き、ビデオデッキは当然ながら標準録画がセットされ、音量は最大に近いまで引き上げられる。かなり広く音響効果も抜群に宜しいリビングルームと、隣り合わせで尚かつ壁で区切られていないダイニングルームでは聞こえてくる音量もさほど違わない。
そのリビングに座っている彼を、遠くダイニングの椅子に腰掛けて自分は眺めているわけだが。
温くなってしまった珈琲カップに口を付け、苦みが増しただけのあまり美味しいとは言えなくなっている黒い液体を喉へ押し流した。リビングから漏れに漏れてくる音楽は、いまいち効果音と台詞ばかりで騒がしい限りだ。
眉間にも自然と皺が寄ると言うものだ。
けれど彼はテレビ画面に釘付けで、握りしめた拳を小刻みに振るわせながら乾いてしまったらしい喉を潤そうと、喉仏を上下させて唾を飲み込んだらしかった。そのうちにトスン、と右手だけが下に落とされてまた跳ね上がってくる。ソファの背もたれで見えないだけで、あれは膝の半月板を軽く叩いて戻した時の仕草だ。
左手は左右にフラフラと揺れる。上下に動き膝を叩くのは、何故か常に利き腕とは反対の右手の仕事だった。その事に気付いた時、それとなく尋ねてみたのだけれど彼自身はそのクセに気付いていないようだった。無意識のうちに動かしてしまっているようで、そのアンバランスさがおかしかった。
他にもある。
彼はソファに深く腰掛けるときは、背中を半分近くまで沈めて通常は肩胛骨よりも下に来るソファの背もたれに、後頭部を預けるようにして座る。逆に浅く腰掛けるときは本当に身体の一部をソファにひっかける程度にしか座らず、体重移動がスムーズに出来るように配慮しているようだった。当然今は深く腰掛けている。
ただテレビを、特にギャンブラーZ絡みを見ている時だけは違っていて、深く腰掛けていても背筋はピンとしっかり張って伸びているのだ。綺麗な姿勢で、真っ直ぐにテレビを凝視している。ただし内容がギャンブラーZ関係ではあるが。
膝は角度を保ち、行儀正しい。ただ右手が膝を叩いた直後にだけ、叩かれた右の膝がひょいっと持ちあがる。踵が上がる所為だ。その反動も使って右手を再び胸の高さまで戻しているようなものだが、タイミングの良さには辟易させられる。そしてこちらもまた、彼にとっては無意識の産物らしい。
見方によっては貧乏揺すりのようでもあるが、興奮した状態がもたらす一時的なものだから注意するにも値しない。放っておいても実害はないのだから。
しかしあの大音響だけは、やはりどう考えてもいただけないものがあるけれど。
言って聞くような性格だったら、とっくの昔に状況は改善されているはずだから、今までの注意も生返事だけで実がなった過去はない。彼がテレビに熱中している間は、彼になにを言っても馬耳東風なのだから。
テレビを見ている時以外でも、ギャンブラーZ関係での注意事項に関しては完全にシャットアウトしてくれているのか、暖簾に腕推し状態。効果が期待できないと随分前に察した段階で、注意するのは無駄なので余程でない限りしないようになって久しい。
音量も、ライブステージでの爆音を考えればまだ可愛い方だろう。
難聴になるのでは、と危惧させられる事は多々あるものの。むしろ彼の耳の方が遠くなる可能性があるだろうに、勘の良さも手伝って彼はなかなか耳聡い。
テレビに釘付け状態の今なら、まだマシであるけれど。
今週放送分も佳境に入ったらしく、効果音と絶叫音声が交互に入り乱れている。そこへ更に、バロック調の重々しい雰囲気が伝わってきそうなイメージでバックミュージックが挿入されて、画面を見なくても展開がある程度予想出来た。成る程、確かにお手軽単純な勧善懲悪アニメである。
彼の握り込む手に力が込められる。はらはらと心配そうに揺れていた口元が開かれ、画面内部のキャラクターに合わせて巨大ロボットの必殺技が叫ばれた。
例えるなら、今の一瞬だけで城内に特急電車が走り抜ける時の高架下で測量されるだけの大きさが、響き渡ったことに相当する。
あっさり言うなれば、騒々しいの一言で片づくが。
眉間を押さえ、皺を寄せてこめかみに指を置く。軽く推すと微かな痛みが発生した。視線を戻せば必殺技が敵を粉砕した爆発音の直後、清々しいばかりの笑顔を彼は浮かべていた。ようやく彼の頭がソファの背もたれに沈む、脱力した時のポーズだ。
とりあえず今日の一番の波は去った。子供に戻ってしまっていた彼も、半刻もすれば普段の彼を取り戻すだろう。本当に彼はこの時だけ、純粋無垢で馬鹿馬鹿しいほどに愚かなまでに、子供になる。
好きなものを好きと言い張り、主張する子供になる。
画面上では最後のシメが展開されているようで、音楽も一転して静かで穏やかな調子のものに切り替えられていた。普通に面と向かって言われでもしたら、赤面するだけでは済みそうにない台詞が、ぽんぽんとスピーカーから流れてくる。
暑苦しいも此処まで来ればいっそ潔いくらいで、感極まった笑顔で画面上のヒーロー達に「良かった」を繰り返す彼もそこまで行けば茶化す気も失せてくるものだ。毎回毎回お約束な展開を続けていながら、いつまで経ってもそれに慣れようとしない彼に拍手を送りたくもなる。
密やかな溜息を零し、本編のラストからCMを挟んで次週予告とエンディングが流れ出した画面を見入っている彼を、横から見つめる。口の中に残っていた珈琲の苦みも、いつの間にか消え失せていた。
もうひとくち飲もうとテーブルに手を伸ばし、けれど持ち上げたカップの中身が焦げ付いたように黒くくすんで、タールのように底に貼り付いているだけなのを見てしまうと、飲む気力も萎えた。
もとより飲めるほど、残っていなかったわけなのだが。
視線を戻す、エンディングは最後のテロップを長し終える寸前だった。当然彼はまだ終わりきっていない番組を見ていると、今までの経験上思いこんでいた。
だから視線を持ち上げたと同時に彼と視線が合ったことに、テーブルへ戻そうとしていたカップを危うく取り落とす寸前まで驚いた。その上こちらが驚く事も見越していたのか、目があった瞬間ばっちりにこやかに微笑みかけられてしまった。
不意打ちも甚だしい。
我知らず赤面しそうになっている顔を片手で押さえ、もう片手で無事にカップをテーブルに救済した後、彼に向き直る。だけれど、もう終わってしまった番組後に流される無為のようなコマーシャルの一部を彼は眺めていて、拍子抜けしたと同時に赤面をもたらしていた顔の熱も引いていった。
彼はソファから立ち上がり、ビデオの録画を止めてテープを取りだし、電源を切ってまたソファへ戻る。座る直前にクリスタルガラスのテーブルに無造作に置かれていたリモコンを拾い、チャンネルを変えてニュースへ切り替えた。
音量も下げられる。一気に室内が静かになった。水が跳ねる音まで聞こえてきそうだ。無論、無茶だが。
再び彼がこちらを向く。ニンマリと笑う。
「ナニ?」
ヒトの顔ずっと見てて、ぼくってばそんなにオトコマエ?
いけしゃあしゃあと自分を指さしながらケタケタ笑う彼の台詞に、自分は首を振って肩を竦めてみせた。そんなはずはないだろう、と鼻で笑い飛ばす。
「消えたり出たり出来る特技を持った奇妙な動物が、ひとり百面相をしている様を観察していただけだ」
「あ、ひっどー」
ヒトの事、そこまでこき下ろして言うかなぁ。ぶぅ、と唇を尖らせた彼が途端に不満顔で文句を連発させるが、その間も百面相は続いていてこちらの笑いを誘うばかりだ。
斜に構えてクールを装っているように見える彼でも、時としてこんな風に表情豊かになる。それはきっと、あのアニメが影響して子供の部分が強調されてしまっている時間が、今もまだ彼の中で続いているから。
物静かで、時として意地悪く茶目っ気もそこそこに持ち合わせ、けれどむき出しの感情は滅多に露わにしない彼と。
今のようにくるくる変わる表情を持ち、声も高く笑ってじたばたと手と足を同時に動かす子供のような彼と。
本当の彼がどちらなのか、分からなくなってしまう時がある。
どちらも彼なのに、どちらかの彼を目の前にした時もう片方の彼は演技という仮面を被った偽物ではないのか、と疑ってしまいたくなる。
だから、信じたくて彼を見つめる。
今まで自分が知らなかった、彼さえも気付いていない彼を見つけたいと想うから。
「ユーリってば、そんなにぼくの顔が面白い?」
「愉快だな」
腕と足を組んで椅子にふんぞり返った自分をソファの上に膝を立て、背もたれに肘と頭を置いて拗ねている彼が見つめている。距離は遠いが、互いの視線は充分なくらいに近いところで絡まっていた。
尖らせた唇を更に突きだし、彼はぷいっと視線を逸らした。右側だけの瞳も閉じられたようだけれど、彼は左に首を捻ってくれたので結局のところ、自分に見えたのは包帯に包まれた顔左半分と濃紺の髪だけだった。
苦笑う、子供の一面が抜けきっていない彼がどうしようもなく可愛く思えてくる。
まともに見つめれば、可愛いなどという言葉も鳥肌が立つ立派な大人で、しかも男であるのに。口に出して言えばきっと彼はまた拗ね直すので言わないが、口元に浮かべた笑みだけでも何を想像していたのか、しっかり予測されていたらしい。
「ユーリ」
怒気の込められた彼の声が耳を打つ。
「ぼく、もの凄く傷ついたんですけど」
ソファの背もたれに両手を載せ、顔を半分まで手の高さよりも低くする。見えるのは髪の毛と丹朱の隻眼、左目があるはずの位置を覆い隠している白い包帯。見事なまでのコントラスト。
そういう仕草が、だからいい大人のくせに可愛いと思えてしまうところで、笑みを崩す事なくユーリはもう一度肩を竦めた。
「傷ついたのか?」
「ウン、そう。ユーリの所為」
こくんとソファの向こうから頷いて返す彼に、今度は溜息。呆れているのではなく、笑いを誤魔化す為の吐息だ。
仕方がないな、と首をゆっくりと左右に振って立ち上がった。途中背中をぶつけたテーブルが、テーブル自体は揺れたりしなかったもののソーサー上のカップがかちん、と小さな音を零した。
椅子を戻す、振り返った先の彼はまだ顔半分でこちらを見ている。背もたれに邪魔されて見えない口元は、けれど案外笑っているのではないだろうかと想像出来た。
「では、慰めてやらないといけないな」
穏やかな歩調でダイニングルームからリビングルームに向かって歩き出した自分が言った言葉に、彼が一瞬間の抜けた顔をする。隻眼を見開き、こちらを凝視してから「おやまぁ」と妙に感極まった呟きを漏らしてくれた。
「雨が降るかも」
ユーリ自らそんなことを言うなんて、と。
感心したような驚いたままのような、なんとも判別のつきにくい声で呟かれ、ついこめかみに力が加えられる。ひくっ、と引きつった右の頬に彼はすぐに気付いた。
「ほぉ?」
「あ、今の嘘」
もう少しで手を伸ばせば届くだろう距離に達していた自分を見上げ、彼は慌てて首を振り同時に手も振り回して必死に否定しようとした。だがもう遅い、その本音はしっかりと聞かせて貰った。
撫でてやろうと思って構えていた右手で、殴ってしまおうかとも考えたがそれは止めておく事にした。代わりにめいっぱい指を広げ、柔らかなクッションのソファに彼の頭を上から押しつぶし、思い切り革張りの表面に埋め込んでやった。
皮なので密着性もそこそこ宜しく、なおかつ通気性は悪い。
一分もしないうちに彼は呼吸困難を訴え、ギブアップとロープ代わりとばかりにこちらの腕をばしばしと叩いてきた。余程苦しいのか、力もさほど強くなくてまるで痛くなかった。
手を離してやると、彼は首を伸ばして天井を仰ぎ、ぷはーっと声を上げながら息を吐いて、吸った。胸の上下が服の上からでも分かるくらいの深呼吸を、五度ほど繰り返す。
それから、やおらこちらを振り向いて。
「ユーリってば、鬼!」
「そうだ、私は吸血鬼だが?」
「……ソウダッケ?」
「血を吸われたいか?」
「遠慮しマス」
ひとこと怒鳴られて、けれど淡々と返してやると出鼻を挫かれた彼はあっさり降参の旗を振り回した、それこそ盛大に。大漁旗のように。
そういう仕草も、おかしい。
けれど彼らしいとも思う。
やがて怒ったり拗ねたりする事に疲れたらしい、彼はソファにふんぞり返って深く腰掛けた。いつものように背中を沈め、頭を背もたれに預けて気持ちよさそうに足を伸ばす。
「ねェ、慰めてよ」
さっきの分も含めてね、と彼は笑って言った。
彼の真後ろから若干左にずれた位置、背もたれ側に腰を引っかける格好で体重を預ける。条件次第だな、と答えると彼は身体を丸くして膝を抱えて座り直し、それから自分の横を軽く叩いた。ひとり分のスペースが空いているソファの黒光りする表面が、彼の手に合わせてぱこんぱこん、と浮き沈みを繰り返す。
座れとの意思表示に、腰を上げるとまだ芯が入って固くしっかりしている背もたれの、一番後ろの部分に利き腕を置いた。爪が食い込まない程度に握り込み、床を蹴る。その瞬間に背中の翼を動かして気流を作れば、自分のこの身体は簡単にソファを飛び越えた。
すとん。
綺麗に彼の示した場所に落下する。まさかこういう手段に出るとは思っていなかったらしい彼が、手を引っ込めるタイミングを誤ったらしく尻で踏んでしまったのはこの際、ご愛敬と思って貰うしかない。
引き抜いた手をぷらぷらと揺らした彼は、横目でこちらを見ると上半身を左右に揺らした。持ち上げていた足を真横に投げ出し、バランスを取りつつこちらに頭を倒す。
綺麗にそれは、膝の上に収まった。
「ひとつめ。膝枕」
行儀悪く足だけで靴を脱ぎ捨て、完全にソファに乗った彼がにっ、と笑う。膝の上に頭を載せられ、動くに動けなくなっていたこちらはまともに彼の企んだ笑顔を見落としてしまった。
視線を逸らそうにも、向こうは自分の膝に乗っていて、仰向いたままの彼には今の自分がどんな顔をしているのか筒抜け状態に他ならない。誤魔化すにも限度がある。
赤くなっている事なんて、見られなくてもきっともうばれているのだろうけれど。
悔し紛れに口元を手で隠す。それで少しは彼の視界を遮られるだろうと考えていたら、甘かったようで下から伸びてきた左手に囲いは奪われた。
「ふたつめ」
無邪気なままの笑顔で、彼は告げる。
「唄って?」
ギャンブラーを、と言われた時には瞬間で裏拳が彼の脳天に送り込まれていた。無意識と言うものは、げに恐ろしきものなれど。
殴られた方はケタケタと愉快そうに笑っていて、なんだか怒る気が萎んだ。
彼は、と言うとひとしきり笑ったあと両手を伸ばして身体との角度を直角にした。つまりは、天井に向けて腕を持ち上げただけなのだけれど。
指を広げ、天井からの明かりを遮るようにして、顔に手を翳す。
目を閉じる。パタン、と落ちた彼の両手は片手だけ頭上に残され、人の上着を抓んで放さなかった。
「じゃー、ユーリの好きな曲」
唄ってよ、と、もう一度。
彼はねだり、そして一緒に唇までも閉ざしてしまった。もう口を利かないつもりなのか、反論は聞き入れない姿勢を全身で表示してくれた。
ふぅ、と息を吐く。これで何度目の溜息だろうか、そんなことをふと思った。
「何が良い」
「なんでも?」
「なら、子守唄だな」
嫌がるかと思ったが、返事は「それで良い」のひとことだけ。苦笑って、自分もまた目を閉じた。
歌詞を脳裏に思い浮かべながら、胸の中でリズムを刻む。舌の上を転がって唇から溢れ出すのは、穏やかなテンポの優しい唄。
微睡みが溶けていくように、唄声も心に融けた。