端午

 ゴールデンウィーク中は、家族旅行で出かける人も多いのか町中は静まりかえっている。会社も休みなのか交通量も全体的に少なめで、大通り沿いにあるレンタルビデオショップ帰りの綱吉は信号待ちをしながら、走りすぎていく自家用車を見送りつつ、考える。
 家族連れでどこかへ行くのだろう、父親がハンドルを握り、母親は助手席、後部座席には子供達が笑顔で並んでいる車が心持ち多い。逆にトラックなどは少ない。
 青信号に変わったので、横断歩道を歩き出す。すれ違う人はおらず、昼間だというのに寂しさを感じる交差点を足早に通り過ぎて、彼はすぐ先の角を曲がった。
 連休中であってもどこかへ出かける予定もなく、普段の週末同様に自宅に居候している子供達の相手をして、母親の手伝いをして、大量に出された宿題を片付けて。出かけるといっても近所のコンビニエンスストアや、今のようにレンタルショップに足を向ける程度。遊園地やら、行楽施設に遊びに行く予定は一切入っていない。
 山本は連休でも部活動は変わらずあるようでそちらが忙しく、獄寺は実家から呼び出しを受けたとかで海外へ。おみやげを買って来るとは言っていたが、変な置物だったら受け取りは拒否出来るだろうか、少し心配になる。
 ハルも学校のイベントがあるようで、連休前に一緒に遊べないと言って子供達を残念がらせているのを心苦しそうにしていた。京子に至っては予定すら聞いていない、誘う理由もなければそんな勇気もない。
 だから結局、自宅に引き籠もる他、綱吉に道はない。ひとりで遊園地に行っても仕方がないし、子供達を連れて行くにしてもひとりでは面倒を見切れないのは明白。小遣いにだってゆとりは無い。
「あーあぁ」
 大きく溜息をついて、空を見上げた。恨めしくなる程の快晴に、五月初旬とは思えない陽気。半袖でも充分まかり通れる気温で、長袖で出歩いていた綱吉はそれを僅かに後悔していた。短い距離をゆっくりと歩いていただけなのに、背中にじっとりと薄く汗が滲み出ているのが解る。
 吹く風も生温く、決して心地よいとは言えない。しかしそんな風を受けて、彼の頭上では大きな鯉のぼりが悠然と泳いでいた。
 この辺りは綱吉の住む区画とは違い、古くからの住民が多く、大きな庭を持つ平屋建ての家が数軒並んでいた。そのうちの一軒に、小さな子供がいるのだろう、庭先にポールを立てて吹き流しと三匹の鯉を泳がせている家があった。
 高いコンクリートの壁で庭の様子は一切見えないが、頭上高い位置にある鯉のぼりは近い位置からでもよく見える。父親、母親、子供、と教わった下へ行く程小さくなる鯉の姿は、仲の良い家族を想起させた。
 綱吉の家には、一度も飾られた事がない。
 幼い頃から父親が不定期でしか居着かず、また完全に姿を見かけなくなって久しい。季節のイベント事にも疎く、また一緒に暮らしている母親もあまり執着が無いようで、沢山売っていたからと柏餅を買ってくる年もあったが、基本的に何かをやろう、という意識は感じられない。
 だから綱吉も、そういうイベントはあまり自分と縁がない物と割り切った考え方をせざるを得ず、余所の家は余所の家の事だから自分には関係ないと、なるべく見ないようにしてきていた。
 だが、問答無用で視界に飛び込んでくるものは、どうあっても避けようがない。そして、見てしまうとやはりどうしても、心で納得していたつもりでも、羨ましく思えてしまうのは人間としての性だろう。
「……」
 こんな大きな鯉のぼりを欲しいとは思わないが、こうやって毎年必ず庭に飾ってくれる父親がいる家庭は、少しだけ、ねたましい。
「あーああ」
 再度大きな溜息をついて肩を落とす。考えたところで仕方がないのに、最早後ろ姿さえ朧気にしか覚えていない父親を恨めしく思っても意味がない。居ない人に愚痴を言ったところで仕方がない。
 家に帰ろう、そうすれば考えなくて済む。額に手を置き、ゆるゆると首を振る。
 自宅で待っている子供達も、日本の風習でこどもの日があるのを知らないのだろう。知っていたらきっと大騒ぎだ、下手に教えない方が自分の身の安全も保証されるというもの。さっさと忘れてしまうに超した事はない。
 止めていた足に力を入れ、綱吉はけれどまだどこか、ぼんやりとしたまま俯き加減に前方に延びる道を進み出す。己の足先ばかりを映す視界に、他人の爪先が見えたのはそんな一瞬。
 え、と思う間もなく、前傾気味だった綱吉の頭が何かにぶつかって止まった。柔らかいけれどしっかりとして、綱吉の体重を受けてもびくともしない。そして下ばかりを見ている綱吉の目には、綺麗に磨かれた黒い革靴。綱吉の薄汚れたスニーカーも一緒に見える。
「え、と……」
 これは、正直自分で認識するのもすごく恥ずかしい以外の何物でもないが、もしかして自分は、ぼんやりとしすぎていた所為で、通行人と正面切ってぶつかってしまったのだろうか。
 でも大体、普通、避けてくれるものではないのか。いくらこちらがぼーっとしていた分悪いとはいえ、こんな悪戯のようなことを仕掛けてくる人なんて、よほど性格が悪いとしか思えない。
 気候の穏やかさから来るのとは違う汗が首筋を伝い落ちていく。顔を上げるべきか、このまま下を向いたまま逃げ出すべきかで悩み、考え、どっちも選択できずにその場で硬直したままの綱吉は、口の中がカラカラに乾いていくのを実感しながら、流れる汗を拭いも出来ず、瞳だけを左右に動かして必死に言い訳を考えている。
 と、そんな彼を見越したのだろうか、頭上から聞き覚えのある溜息混じりの声が、落ちてきた。
「で? 君はいつまでそうして僕に頭をぶつけたままでいるつもり?」
 皮肉を含む薄笑いの声に、綱吉の視線が揺れた。ほぼ反射的に身を引き、脊髄反射で構えを取ってしまうのは最早仕方のない事。
 目の前に居た人物。艶がかった黒髪に、切れ長の細い目、休日だというのに相変わらずの学生服姿で、学ランは袖を通さず肩に羽織っただけの彼。綱吉の中学を実質的に支配し、挙げ句この周辺地域一帯でも名を知らぬ者は潜りだとさえ言われている、強権の持ち主。
 雲雀恭弥。一年ほど前の綱吉であれば、姿を見るどころか名前を聞くだけで震え上がっていた人物だ。
「別に、好きでぶつかったわけじゃないです」
 それが今や、目の前にしても普通に口答え程度なら出来るくらいになっている。予想もしない関わりの結末には、綱吉自身も驚きを隠せない。
「大体、気づいてたんなら避けてくれれば良いじゃないですか」
「君が、気づいてなかったみたいだったから、避けなかったんだよ」
 唇を尖らせて反論を試みる綱吉に、雲雀は少しも悪びれた様子もなく、ポケットから抜き取った左手を口元にやって、笑いを押し殺して綱吉に言った。思わず口をぱくぱくと、金魚のように開閉してしまった綱吉に、彼は更に喉を鳴らして笑った。
 からかわれている、明らかにそうだと解る彼に、綱吉は地団駄を踏む。
「そもそも、僕に気づかない君が悪い」
 左腕を伸ばして人差し指を立て、綱吉の額を押した雲雀の台詞はあまりにも不条理な唯我独尊的思考だったが、下手に逆らって彼を不機嫌にさせても、綱吉に良い事はひとつもない。頬を膨らませるのが精一杯の抵抗で、最終的には綱吉が折れて彼の言い分を認める他ないのだ。
 突かれた額を抑え、綱吉は上目遣いに彼を睨み付ける。だがその視線を無視して上向いた雲雀に、つられるようにして見上げた空には、あの大きな鯉のぼりが緩慢とした動きで泳いでいる。時々煽られて形を乱すものの、地平とほぼ平行に、川を泳ぐのと同じ動きを見せる布の鯉は、今日という日を表す象徴として綱吉の目に映る。
 季節から置き去りにされていると、綱吉に強く意識させる、憎きもの。
「欲しいの?」
 それなのに、食い入るように見入ってしまっている綱吉へ、傍らの雲雀が不意にそんな事を言う。
「え?」
 横を向いた綱吉の声が上擦っていたのに、雲雀は果たして気づいただろうか。彼は綱吉から再度他家の鯉のぼりを見上げている。その横顔は何を考えているのかさっぱり読み取れない。
 どう答えて良いのか解らず、綱吉は顎を引いて口を閉ざした。
 彼に家庭の事情を教える義理はない、そもそも鯉のぼりを見上げていただけで何故「欲しい」のかと問えるのかが解らない。そんなに自分は、物欲しげな目であれを見ていたのだろうか。
 横目で見た鯉のぼりの姿は、確かに、幼い頃は欲しいと強く願ったけれど叶えられなかったものに他ならず。しかし現在、中学生にもなった自分には、そこまで執着心があるかと問われれば、答えは否だ。
 否と、言い切れる筈なのに。
 雲雀に、即答で、欲しくないと、返せなかった。
 そんな自分が浅ましく思える。雲雀なら、この人なら、或いは、叶えてくれるのではないかと、心のどこかで淡い期待を抱いている。それが解るから、綱吉は自分の小ささが恥ずかしくなる。
「まあ、さすがに僕でも、あれは無理だけど」
 肩を竦めた雲雀の声に、綱吉は彼を見た。ひょっとして自分は、彼に遊ばれていただけなのかと勘ぐったけれど、雲雀は相変わらず表情から感情が読めない飄々とした素振りで広げた手をポケットに押し込んでいた。
 綱吉は何も言わず、雲雀を見ている。その彼は少し顔の角度を傾け、前を向いたまま瞳だけを綱吉に向けた。同じ男であってもドキリとさせられる流し目に、綱吉は思わず半歩下がってしまった。心臓を直接掴み取られた錯覚に陥り、理由もなく、この場から逃げ出したくなる。
 どうしてだろう、頬が赤く染まって、熱い。
「で?」
 綱吉の変化など一切構わない雲雀の、ハスキーボイスが五月の風に流される。
「欲しいの?」
「……」
 どう答えて欲しいのだろう、この男は。無理だと言われたばかりの鯉のぼりを、それでも欲していると言える程綱吉は豪気ではない。
 だが、熱に浮かされた思考が、少しだけ綱吉を素直にする。
「俺んち、父親いないから……こどもの日とか、祝った事全然ないんで」
 鯉のぼりどころか、五月人形も無かった。ダメツナと休日まで遊んでくれる親しい友人も、居なかったから、チャンバラごっこなんて真似もした事がない。最近でこそ友人が増え、騒がしい子供達相手に色々な遊びを体験するようになっているけれど、ひとり遊びになれていた幼少期でそういった記憶は、皆無。
 我ながら寂しい子供時代だと、自嘲気味に笑ってしまいたくなる程に。
「兜とか、鯉のぼりとか、正直、ちょっと、羨ましいっては、思います」
 視線が脇に流れる、雲雀を直視しては言えなかった。こんな惨めな自分を彼に知られるのは嫌だったのに、一度舌の上を滑ったことばは、止め処なくあふれ出てしまう。
「ふぅん」
 雲雀の相槌は素っ気なさを通り過ぎて、無感情だ。しかし変に同情されたりするよりはずっと良い、少なくとも今の綱吉には彼の無関心ぶりが嬉しかった。
「じゃあ」
 言いたい事は言ってしまった綱吉が、胸の奥に溜まっていた息を吐く。一緒に違うものが出て行った気がして、少し気持ちが軽くなったのを感じた。
 雲雀が間髪入れず、綱吉の肩を押す。
「おいで」
 意味が分からず前に倒れ掛けるのを、足を出して堪えて綱吉は雲雀の背中を見上げる。
 有無を言わさぬ強引さで、彼は綱吉の都合など一切無視し歩き出していた。足の長さから違う彼との距離は一瞬で広がって、綱吉は慌てて駆け出す。「来い」と言われたからには、ついていくしかあるまい。彼を無視して家に戻ったりしたら、後でどんな酷い目に遭わされるか。
 想像するだけで寒気がして、早足で彼に追いつき、斜め後ろをついていく。雲雀は大通りへ戻る道を無言で進み、角を曲がって、綱吉が先程用事を済ませたレンタルビデオショップの前を素通りした。
「あの、雲雀さん」
 何処へ行くのだろう、人通りの少ない道を進むうちに不安が胸を過ぎる。青信号を渡って、五台は並ぶスペースがある駐車場を抱えたコンビニエンスストア前で漸く、彼の歩調は少しだけ弛んだ。どうやら、ここが目的地らしい。
 駐車場は、いつもなら複数台の車が並んでいるのだけれど、今日は珍しく一台も停まっていない。ガラス張りの店内では、制服を着た店員が暇そうにレジの中で雑誌を読んでいるのが見えた。
「雲雀さん?」
「待ってて」
 雲雀がコンビニエンスストアで買い物をする、というのはあまりにも似つかわしくなくて変な顔をしてしまいそうだった。前を行く彼を見上げると、そう言われて仕方なく綱吉は店の入り口横で待つ。
 こういう場所がそぐわない彼の買い物姿を見るのはなんとなく嫌で、綱吉は店を背に立つ事にした。背中で両手を結び、背筋を伸ばして空を見上げる。白い雲と青い空のコントラストはこの季節ならではの鮮やかさで、目に眩しい。走りすぎていく乗用車の表面に反射された陽光に目を細め、することもないので前の道を通った車の数を無意識に数えていた。
 その数が十六台目を数えたところで、雲雀が店を出てくる。
 手には何故か経済専門の新聞紙、それから白いビニル袋。彼はその袋を綱吉に問答無用で押しつけると、徐に新聞を広げた。
 まさか読むのではなかろうかと不審に思っていると、その予想は見事に外れた。彼は複数枚重なっている新聞の大半をはぎ取ると、店の外に並んでいるゴミ箱にいきなり放り込んだのだ。そして手元に残った大判一枚きりの新聞紙を、いきなり逆三角に折り始める。
 何をしたいのかさっぱり予測できない。混乱する綱吉は、袋の中身が何であるのか確認するのも忘れ、通り過ぎる人が怪訝な顔をしているのも構わず、新聞紙を数回折り曲げ、畳む作業を繰り返す。
 やがてそれは、菱形になり、両側が上に折り返され、角が出来、菱形の下部分が上部分に重なるように折られ、反対側も処理をされ。
「え……?」
 真ん中に手を入れて空間が作られると、雲雀は唐突に、それを綱吉の頭に載せた。
 癖毛のお陰できちんと頭に被るところまではいかなかったけれど、出来上がったそれは、幼稚園児が作って喜んでいそうな、新聞紙で出来た、兜飾りに他ならず。
 目を丸くした綱吉に、仏頂面の雲雀が、有無を言わさず彼からビニル袋を奪い取る。
「君には、それくらいで丁度良いよ」
 ほら、と袋から出したものを突きつけられた。受け取ったそれは、二本セットでパックに入った粽。
「丁度良いって……」
 どうしてだろう、胸の奥がちくちくする。バカにされているのだろうか? そうじゃないと解っているのに、素直に喜べないのは何故だろう。
「俺、そんな、子供じゃないですよ」
 そう言いながら、被せられた新聞紙の兜の両端を掴んで、目が隠れるくらい深くまで被り直しているのは、何故だろう。
 目頭が熱くなって、雲雀を真っ直ぐに見返せないのは、何故だろう。
「子供じゃ、ないですってば……」
 嬉しいのに、嬉しくないはずがないのに。
 口答えしてしまうのは、強がった態度を取ってしまうのは。
 きっとこの場所では、素直に、彼に甘えられないからだ。そう思う事にする。
「雲雀さんこそ、子供みた……いひゃぃいひゃい!」
 泣き笑いのまま言おうとしたら、いきなり彼の右手が綱吉の左頬をつねった。思い切り頬の肉を引っ張って、捻る。驚きと痛みに呂律が回らなくなって、最後まで上手く言わせて貰えなかった。
「いいんだよ」
 静かな声が降る、青空にキラキラと輝く瞳が、綱吉を優しげに見下ろしている。
 悔しい、そんな顔をされたら、もう何も言えない。
「今日は子供で、いいんだよ」
 許されるし、許してあげるから。そう告げる瞳に、綱吉は顔を伏せた。
 ならば、良いのだろうか。子供みたいにはしゃいで、彼の好意に甘えて、喜んでも、良いのだというのか。
 堪えていた涙が一筋こぼれ落ちる。彼の指はそっとそれをすくい上げ、優しく頭を撫でてくれた。
 こどもの日に初めて食べた粽の味は、少しだけ、しょっぱかった。