襟裏に通した細いネクタイを前で揃え、綺麗な形になるように鏡と睨めっこをしながら結ぶ。結び目を固く作ってから一度手を離してバランスを確かめ、若干右下がりだったのを修正してから椅子の背もたれに掛けていた上着を手に取る。
テーブルサイドに立てかけられている小振りのトランクを掴み、反対側の腕に上着をひっかける格好で彼は背筋を伸ばした。
「よし」
自分自身を鼓舞するように呟いて息を吐きだし、歩き出す。
扉を潜ると、廊下には光が満ちあふれ彼らの先行きを予兆させた。
リビングにある今月のカレンダーには、大きな赤い丸印が合計みっつ。そのうちの最初の印が明後日となった今日、城を出て今回のライブが行われる開催地へ向かう。半日を使って移動、その後打ち合わせで明日は本番ステージを使ってのリハーサル。
次にこの城へ戻ってくるのは、一週間後だ。
暫く住み慣れた我が家を留守にする時は、どうしても緊張が付きまとう。普段と同じように振る舞えるかどうか、ゆっくりと休むことが出来るかどうかも怪しい出先で、だからこそ平素と変わらないメンバーと顔を合わせて過ごせる事がありがたいと何度も思った。
合計するともう何度目か分からない、ライブ。しかし今回はいつにも増して演出に拘り、細部にまでユーリの考えを反映させている。その分彼に与えられる負担は大きかったが、彼がなによりも今回のライブを楽しみにしていたから出来るだけ、サポート出来ることは手を貸すことにみんなで決めた。
成功させたい、なんとしてでも。ユーリの為にも、それ以上にこのdeuilというバンドに関わった自分たちの為にも、と。
ユーリは階段を下りていく、玄関前の広いホールに先に準備を終えていたらしいアッシュの姿を見つけた。彼もまた、この一週間分を過ごすための品を詰め込んだトランクを足許に置き、仲間が揃うのを待っていた。いつもならば一番遅れて現れるのがユーリで、だからユーリが降りてくる事イコール、出発という図式が組み上がっていたのだが。
今日に限って、ラストはスマイルのようだった。ひとしきり視線を巡らせてみるが、あの透明人間の姿が何処にも見当たらない。
「スマイルはまだなのか?」
アッシュの近くまで行って問いかけると、この狼男は城主でありバンドのリーダーの言葉に苦笑を浮かべながら頷いた。珍しいこともある、とユーリが呟くのを聞いて何故か曖昧に、言葉を濁しながら同調の言葉を口にする。
「呼んでくる」
「あ……」
トランクを置き、身軽になった身体を振ってユーリは踵を返した。途端アッシュが何かを言いたげに顔を歪め、しかし結局声を呑み込んでしまったのを眺めることになりユーリは怪訝に思いながら首を捻った。
振り返って顔を見上げても、アッシュは何も言わず、だが何か言いたげに。困惑に近い表情を浮かべてユーリを見返していた。
「なんだ?」
「いえ、なんでも……」
言いにくそうに言葉を濁して彼は頬を引っ掻いた。感じる微かな痛みに、自分が思いの外指先に力を込めてしまっている事に気付いて気まずそうに手を引っ込める。
ユーリはその間無言で、アッシュの一挙一投足を見守っていた。そして短い息を吐きだしてから、徐に、
「お前は、私に何かを隠してはいないか?」
唐突な問いかけに、アッシュの方がぎょっとして身体を強張らせた。
「そんな事……っ」
「本当に?」
明らかに何かを隠しています、という態度を表明するアッシュの否定しようとする台詞に詰め寄って、ユーリは眉間に皺を刻み込む。不機嫌になりつつある彼に大急ぎで何度も首を振ってアッシュは否定しようとしたが、そのムキになってもいるような仕草こそが肯定を意味している事には、残念ながら気付かなかった。
ユーリの目つきが剣呑な色を含み始める。
「なにしてんの~?」
ちょっとした衝撃でひび割れてしまいそうな緊迫の空気を横から破り去ったのは、今までまったく存在の気配を悟らせなかった存在自身。間延びした暢気な声に肩すかしを食らい、思わず前のめりにつんのめってしまったユーリは倒れそうになった身体をかろうじて保った。アッシュもまた、どこか拍子抜けた顔をして発言者の姿を探した。
彼は、ビデオカメラを抱えてふたりの足許にしゃがみ込んでいた。本当に、一体いつからとふたりに言わせたがっているような居場所とタイミングである。
下からのアングルでユーリと、アッシュの顔を映像に収めたスマイルは最新式のカメラを片手ににっ、と表情を笑みで形作った。一気に毒気を抜かれ、ユーリはへなへなと身体から力を抜きながら数歩後退した。
「ユーリ?」
「遅いぞ貴様」
「ぼく、ずっと居たけど?」
気付かなかったのはふたりの方だよ、と右手を振って肘から下を透明化させて彼は笑った。その肩が小刻みに震えている。
「だったら、さっさと出てこい。出発するぞ」
額を片手で押さえ込んで悪態をつくユーリさえもカメラに収め、スマイルはゴメンね~と誠意の感じられない表情で謝った。アッシュが後ろで吐息を零す。
スマイルの右手は、消えたまま戻ってきていない。
「時間過ぎちゃってるっス、もう出発するけど忘れ物はないっスね?」
ホールの奧に鎮座している柱時計を見つめ、アッシュはユーリとスマイルの顔を交互に見た。ふたり同時に頷いて、少なくまとめられた手荷物をそれぞれ持ち上げる。その間もスマイルはカメラを手放さず、ずっとふたりの動きを映像に収めていた。
ライブがあるごとに、彼はこうやってカメラを取りだしてあちこちを録画して回っていた。ステージ袖、裏、その時のスタッフ面々、まだ組み上がっていないステージが完成していく様子、それからバンドメンバーの一喜一憂などを。
つまらないものを撮るな、とユーリはいつも言うのだけれどスマイルはやめなかった。そうやって撮り溜めされたビデオテープはもう随分な数になっていて、リビングのビデオラックの大半を占拠するようになっていた。
最近スマイルはそんなビデオを良く見返している。夜中にこっそりと見ているようで、ユーリは気付かないフリをしていたが本当は知っていた。
彼が、何かを自分に隠しているような気がしたのは、そんな事が背景にあったから。そしてアッシュが、ユーリの知らない事を知っているみたいで。
腹が立つ。
「撮るな」
レンズを向けてくるスマイルを手で押し返してユーリは足早に車に乗り込んだ。スマイルが遅れて続き、彼がドアを閉めるとアッシュはキーを捻ってエンジンを始動さる。背中に感じる振動に身を任せていると、運転席のアッシュがスマイルを振り返った。
「あとでそのカメラ、使い方教えてくださいっス」
エンジンが暖まるまでの間、暇つぶしの感覚で喋り掛けてきたアッシュにスマイルは苦虫を噛み潰した顔を作る。嫌がっている事が丸分かりの顔に、けれどアッシュはしつこく食い下がってきた。
「やだよ~」
「どうしてっスか」
「だってアッシュ、すぐ壊すもん」
台所の電子レンジ、今使っているものは三台目なのだが前の二台を壊したのは他でもない、アッシュである。リビングのビデオデッキも彼によって一度破壊された経験がある。洗濯機に関しては五台目。
彼は凶悪なまでに機械音痴だった。だからスマイルがビデオカメラを貸すのを渋るのも致し方ない事であり、ユーリも何故今になって唐突に、という思いでアッシュの横顔を眺める。
「今回はちゃんと気をつけるっス」
「やだってば~」
嫌がってカメラを胸に抱き込むスマイルから、強引に機械を奪おうと彼は腕を伸ばす。暫くじたばたと車の中で格闘が行われ、被害を被らない場所へ退避していたユーリの目の前で数分後、諦めたスマイルの電源を落とされたカメラをやっと差し出した。
ほくほく顔で受け取ったアッシュは、珍しそうにカメラを眺めてから簡単な操作方法を教えられる。
「時間は良いのか?」
腕時計の表示を眺めてユーリが尋ねる。アッシュの悲鳴があがって、彼は持っていたカメラを慌ててスマイルに押し返すと容赦なく、アクセルを床と平行になるくらいにまで踏み込んでくれた。エンジンが一瞬空回りし、直後、恐ろしいスピードで彼らを乗せた大型バンが路上へ飛び出す。
激しく上下運動を繰り広げた車内で、スマイルはカメラを胸に抱き込みながらユーリの方へ転がっていった。受け止め損ねたユーリは彼ごと反対側の扉に身体を押しつけられ、一瞬呼吸を詰まらせる。
ただ不思議なくらいに、スマイルからは重みを感じられなかった。
「アッシュ、安全運転!」
「了解したっス!」
なんとか身体を起こしたスマイルの叫び声に、全然聞いてもいないアッシュがアクセルを踏み込んだままハンドルを左に回した。また車体が傾ぎ、今度はユーリがスマイルの上に倒れ込んでくる。
ハンドルを握ったら豹変する性格さえなければ、と呟きながらスマイルは大事そうにカメラと、膝の上のユーリを抱きしめた。
居心地の悪さを感じたユーリは彼の手を振り払おうとしたものの、思った以上にスマイルの手に込められた力は強かった。抵抗を早々に諦めて彼の膝に居場所を改めると、目を閉じる。
「ユーリ、寝ちゃえ」
「無理を言うな」
この運転で眠れるはずがないだろう、と嘯くけれど。
優しく撫でてくるスマイルの手の平を感じているうちに、眠気が戻ってきてユーリはひっそりと欠伸をすると押し寄せてくる波に意識を委ねる事にした。
間も置かず夢の世界に沈んでしまった彼を見つめながら、スマイルは左目を糸のように細める。バックミラーにふたりの姿を観たアッシュが気付かれないように息を吐いた。
「いいんスか」
「なにが」
「いえ……」
前を見たまま問いかけるアッシュの声に短く返し、スマイルは震える右手を握りしめた。しばらく考え込むように視線を俯かせたのち、思い出してカメラを回し始める。
手始めにユーリの寝顔を収めようとして、さっきまでのアッシュを思い出し顔を上げた。ちょうど赤信号で車を停止させた彼も振り返ってきて、ぶつかり合った視線に気まずさが浮かび上がる。
「なに……」
「いえ」
言葉をかけようにもなにも浮かんでこなくて、唇を歪めたスマイルにアッシュは小さく微笑みかけた。スマイルの左手に収まっているカメラを指さして、ちらりと不安定に姿を現しては消す、を繰り返す右手に目をやる。
「今日からは、俺がカメラマンっス」
「どういう風の吹き回し?」
「その身体では、無理があるって……そう言って欲しいっスか?」
スマイルは口を噤んだ。恨めしげにアッシュを睨むが、青に切り替わった信号に促されて視線を戻してしまった彼には通じなかった。
運転を再開させて会話を一方的に中断させたアッシュに舌打ちし、スマイルは入れたばかりのカメラの電源を切った。ひっくり返ってしまっている自分の荷物を爪先で蹴り飛ばし、背中をクッションに沈み込ませる。
ユーリは眠っている、目覚める気配は感じられない。さっきの自分たちの会話とも言えない言葉のやりとりを聞かれた素振りも無い。
安堵したように息を吐く。胸の上からすぅっと力が抜けて、一緒になって全身が薄らいでいくように感じられた。
再度、舌打ち。
「スマイル」
「分かってるよ」
バックミラーに映し出される異変に声を荒立てたアッシュに苛々した様子で答え、彼は上着のポケットから小瓶を抜き取った。
透明な小瓶、飾り気もなにもないその中に押し込められていた白い錠剤は随分と中身を少なくさせていた。アッシュが以前、遠目ながらに見た時の半分以下になってしまっている。
「ちゃんと前、見ててよ?」
ちらちらと感じる視線を睨んで、スマイルは瓶の蓋を取り払い錠剤をひとつ手の平に転がした。水も使わず唾だけでそれを呑み込む。
瓶に残されている錠剤が車の振動でカタカタと揺れ、瓶の内側に身体を打ちつけていた。飲み過ぎを叱っているようで、スマイルは身体が落ちつくのを待ってから荒々しい仕草で小瓶をポケットに押し戻す。
その間、彼は一言も言葉を発しなかった。アッシュもまた、気に掛けながらも運転に集中して無言。ユーリに至っては夢の中、だ。
「大丈夫……っスか」
恐る恐るな問いかけを投げかけてくるアッシュに、スマイルは意地が悪そうに口元を歪める。ユーリを見下ろし、銀色の髪を撫でてふっと視線を外へ流した。
高速で走り抜けていく車の窓から見える景色はぼやけていて、形を捕らえきる前にあらゆるものが後ろへ流れて行ってしまう。
「大丈夫じゃ、ない……正直言えば。でも」
これだけは、譲れない。
最初は微かに震えた声で、けれどしっかりと迷いのない瞳で断言する。無意識に握るハンドルに力を込めながら、アッシュは黙って彼の言葉を聞いている。
スマイルの膝の上でユーリが身動ぎした。けれど目覚めようとしているわけではないと判断して、彼はひとつ息を零すと言葉を続けた。自分自身に言い聞かせるかのように、真っ直ぐに見つめる先にあるものは果てしない虚無。
「昔、言われた。人の願いは強ければ強いほど、想いは形となって還ってくる、と。だからぼくは諦めない、まだ最後だと決まったワケじゃないんだから」
決して諦めない、迷わない、立ち止まらない。例え宣告されて変えられない未来が確約されてしまってても、それが最終地点だと自分で選んでしまわない限り道はまだ、どこかに残されているだろう、と。どれだけか細く頼りない糸であっても、繋がっていればきっとなんとかなる。
自分から断ち切ってしまうような真似だけは、したくない。
「絶対に、成功させてみせる。ぼくが理由になって、ユーリの全部を無駄になんかさせたくない」
今回のライブを形にしようと頑張って、みんなを支えながら突き進んできたユーリの思いに応えられないようで、なにが運命共同体か。彼の努力と、時間と、思いを裏切らないためにも、ライブは成功させてみせる。
それが、境界線になるとしても。
「今回だけじゃなくって、また次も……あるんスよ?」
「それは、君に任せる」
「無責任っス」
時間は果てしない未来へ続く一本道だ。今が終わっても、次がやってくる。明後日から始まるライブが成功で幕を下ろしても、きっとユーリは満足しないだろう。
必ず次のステップを目指したがる。上昇を続けようとするだろう。
その時に、彼が居ないのは如何なものか。そう言いたがるアッシュに首を振って制し、スマイルはまたユーリの髪を撫でた。癖のない艶やかな銀糸がするりとスマイルの指をすり抜けて零れ落ちていく。
拾っても、拾っても溢れ出して掴むことの出来ないもの、そんな表現を象徴しているようだった。
「そうは言ってもねぇ……。それとも、なに?」
困ったように視線を巡らせて言葉を探しながら、スマイルは自分の右肩を抱いた。小刻みに震えていた身体は薬剤の効能で徐々に平静さを取り戻しつつあるが、効果の持続する時間は着実に短くなりつつあった。
一日五錠ではとても足りない。残り一週間、本当に保つのかさえ危うい状況にあることは誰よりも彼自身がよく知っている。アッシュに心配されるまでもなく、スマイルは自分の身体が抱えている問題を理解している。
だからこそ、無責任と詰られようとも怒ることが出来ない。
本当に無責任なのだ、皆を置き去りにしてしまおうとしている自分は。だけれど、それ以上に。
この先に待っている今以上の日々を、想像できても実現させることが出来なくなってしまう悔しさも、大きいのだ。誰にも告げられずに、胸の中に押し殺したまま消し去ってしまおうとしている思いの強さは、今にも彼を押しつぶしてしまいそうだった。
消えたくないと、泣き叫びたくなる。だけれどそんな事をしたって、結局は無駄だから。
運命は決まってしまった。あとは其処へ向かうだけで、抗ってもうち破る事は出来ない。
だったらせめて、僅かながらに残されている時間を自分の思うように、満ち足りた気持ちで終わりを迎えられるようにするしかないではないか。
もうこれ以上、新しい日々への未練を生み出すような事を、言わないで欲しい。
「アッシュの命、ぼくにくれるの?」
茶化すように、本当に冗談の気持ちでスマイルは嗤った。底意地悪く、絶対に彼が頷くことはないだろうと高をくくって、尋ねる。
前を見たまま、アッシュはけれど……頷いた。
「構わないっス」
「……バカじゃないの」
そんなこと、出来るはずもないのに。ちょっと考えれば誰にだって分かることだ、人の寿命を奪う事も与えることも、所詮は不可能な術。だけれど挑むようにフロントグラスを睨み付けながら走り抜ける車線を見据えているアッシュの、逡巡無い返答にスマイルは顔を歪めさせた。
くしゃり、と自分の前髪を握って俯き、顔を隠す。
ユーリは目覚めない。その事に安堵している。今目を覚まされて、泣く寸前になっているこの顔を見られでもしたら言い訳も出来そうになかった。
「今の、笑って過ごすトコだよ」
掠れる声で返したけれど、アッシュは返事をしてくれなかった。最近微妙に意地悪くなっている彼を思って口元を強く横に結び、自分の髪を掻き乱す。
「最後くらい笑わせてくれたって良いじゃない……」
「ダメっス」
不意にアッシュが言う。驚いて顔を上げると、フロントグラスに映し出された彼の顔と視線がぶつかった。
どきり、とした心臓が痛いくらいに締め付けられる。
「スマイルは、絶対に消えたりしないっス」
根拠のないことを、と笑い飛ばそうとしてスマイルはそれが出来ない自分を恥じた。
視線を逸らす。今、アッシュの顔もユーリの寝顔も、真正面から見つめ返す事が出来そうになくて窓の外ばかりを眺める事を徹底させる。
じくじくと胸に刺さった棘が傷口を広げ、周辺を化膿させ始めている、そんな感じ。
痛い。
だけれど声に出して告げる事も出来ず、スマイルは唇を噛んで吐き出そうとした息さえも呑み込んだ。
車は走り続ける。流れていく景色を見つめながら、スマイルはすべてを誤魔化すかのように静かに目を閉じた。
赤い丸印、その最後がやってくるまであと一週間を切った。
忙殺される日々を送るメンバーは互いに自分のことに必死で、打ち合わせがある時以外は短時間の休憩を送ったり、体を動かしたりと周囲に気を回す余裕さえもなかった。
だから、誰ひとりとして気付かない。
夜中にこっそりと部屋を抜け出しているスマイルの事に。
誰かと一緒に居る必要があるとき以外、誰の目の前にも現れなくなった彼を。
今までスマイルの役目だった映像記録の役割はアッシュに任せられ、だからこそ余計にスマイルの存在は人々の頭から抜け落ちる事になってしまっていた。
ライブ初日の終了後に開かれたささやかな酒宴の席に彼は当初、ユーリの横に座って杯を傾けていた。しかし気がつけば彼の姿はどこにも見当たらず、だがほろ酔い気分で上機嫌になっていた仲間達は誰も彼を捜そうと立ち上がらなかった。
ただひとり、アッシュだけは途中で席を立ち、一時間ほど帰ってこなかったのだけれどそれに関しても、何処へ行っていたのかを尋ねる声がついに上がらなかった。
ユーリだけが怪訝な顔をしていたけれど、アッシュは問いかけを巧く誤魔化してすべて躱してしまった。
スマイルが、居ない。
一番騒ぎたがる奴が居ない。
それを誰も不思議と思わない。まるで彼の存在自体を忘れ去ってしまっているような、そんな空気が夜になると訪れる。
ひたひたと音もなく忍び寄ってくるなにかを、身体の奧が感じ取っているのにその中身がまるで分からない。ただ無性に不安になる。
なにか、自分はとても大切なものを失おうとしているのではないか。
そう思っていても、果たして何を失いかけているのかがまるで分からないまま、時間だけが無為に過ぎていく。
ライブの準備、打ち合わせと本番に向けてのリハーサル、それに何よりもファンを前にした派手なステージが忙しさに拍車をかける。考える時間を奪われ、不安だけが膨らみながらも正体を掴むことが出来ないまま、また時間は過ぎ去っていく。
取り戻せなくなる前に気付かなければならないと、心ばかりが焦っていくのに環境がそれを許してくれない。
誰かが、居なくなる。
そんな不安が胸を去来する。それを疲れによる錯覚だと自分に言い聞かせて、考えないようにしているうちにやがてざわざわと頭の中で騒いでいたものも静かになった。
漸く落ち着けて、ユーリは息を吐く。
「ユーリ」
手遅れに、なる前に。
アッシュがホテルのロビーでくつろいでいる彼に声を掛けた時、ユーリはひとりだった。既に時刻は夜半を過ぎ、明日いよいよファイナルを迎えるライブへ気が高まり押さえ切れず眠れなかったのだ。
てっきりアッシュも同じだと思ったユーリは、丁度良い話し相手を見つけたと彼を見上げ、ソファの向かいに座るように顎をしゃくる。けれど彼は首を振り、直ぐに済むからとその場に立ち続けることに固執した。
昼間に散々向けられたビデオカメラは、今彼の手にはない。ただ癖になってしまっているのか、アッシュの手は中途半端に空気を掴んで曲がっていた。
「眠れないのか?」
「ええ、そうっスね……明日、ですから」
明日。
城のカレンダーに描かれた赤い丸印。
あれを書いたのは他でもないスマイルであるが、あの印が隠している本当の意味を知っているのは本人と、アッシュだけだ。ユーリはあれを、ただの単なるライブの日程を意味するものだと思っているに違いない。
スマイルは他の誰よりも、ユーリに知られる事を拒んだ。理由は分かる、言われなくても。だからこそアッシュは彼に言うべきだとスマイルに勧めたが結局は無駄に終わっている。
彼にも意地があるのだ、これと決めたことは貫き通すだろう。
ざわざわする、胸の中が。
自分は、そして彼は、こんなにも沢山のことを考えて苦しんでいるというのに彼独りだけが何も知らされず、気付きもせずに居ることに不平を覚える。
知らない方が良かったのかもしれない。だけれど、知ることで少しでも彼の中にある自分の位置が部分的にであっても、ユーリより高い場所に居られた事にも優越感を感じてしまっている。
ユーリよりも彼のことを、分かってやっているという自負が生まれてしまっている。
だから、こそ。
それが胸の痛みを増幅させているのだと気付く。
真実を教えられる事と、教えられないことの差。それがそのまま、彼の心の中にある自分たちのランクとなっているのだから。
もやもやする。消し去ってしまいたい、この感じを。
「そうだな、いよいよ明日だ」
アッシュの言葉を額面通りの意味で受け止めたのだろう。組んでいる膝の上に結んだ指を弄り、ユーリは胸の中の興奮を抑えるのに必死という声で呟く。僅かに前に傾いでいる彼の身体の、後頭部を見下ろしながらアッシュは荒い息を吐いた。
引き裂いてやりたいと思った、彼の余裕を。
大事にされている、その綺麗な心を塗りつぶしてやりたかった。
「ええ、本当に。明日……スマイルが」
「アッシュ!」
吐き出した分の息を吸い込む。そして呟こうとした言葉は、けれど途中で背後から飛びついてきた人物によって絶妙なタイミングで遮られてしまった。
背中にへばり付き、両腕を肩から前に回してぶら下がる格好で飛びかかってきたのは他でもないスマイル。勢いを殺しきれずに前につんのめり、傾いてしまった身体をユーリが座るソファの背もたれに落とすことで耐えたアッシュが唖然と、首だけを振り返らせた。
そこにスマイルの、笑っているけれど怒っている左目を見つけて表情を凍らせる。
「アッシュ君……今、言おうとしたでショ」
「そんなこと……」
「嘘」
吃驚しているユーリには聞こえないように耳元で囁いて、スマイルはアッシュの尖っている耳の先端に噛み付いた。
小さな悲鳴を上げてアッシュが身体を揺らし、反動で床に降り立ったスマイルが今度はソファ越しにユーリへ抱きついた。甘えるように頬を押しつけ、ゴロゴロとネコ真似で喉を鳴らす。
「ユーリ、眠れないよぉ。一緒に寝よ?」
「なにをバカなことを……」
片目を細めながら言うスマイルに、ユーリは苦笑しながら彼の頭を撫でる。だがきっぱりと拒否の回答を口に出し、暑苦しいからと離れるように彼を押し返した。スマイルはあっさりとユーリから離れ、残念そうに石を蹴り飛ばす仕草を繰り返す。
噛まれた耳を押さえたまま、アッシュは茫然とした面持ちでそれらを見つめていた。だけれど唐突に、スマイルに振り返られて全身が毛羽立つ。
「振られちゃったー。しょーがないからアッシュ君で良いや」
ユーリに軽口を叩いてオヤスミ、と告げる。それからするり、と固まっているアッシュの腕に手を絡めると引きずるように、歩き出す。
「え、あ、ちょっと!?」
「私も寝るか。明日遅れるなよ?」
「分かってる、ユーリこそ寝坊しないようにね。オヤスミ」
狼狽したままのアッシュを置き去りに言葉を交わしたスマイルとユーリはそれぞれ別方向へ歩いていった。フロアごと貸し切っているホテルのこの階には、他に客が居ないので多少騒いだところで苦情が飛んでくる事はない。
フロアの通路、端にある非常出口への扉の前で立ち止まるとようやく、スマイルはアッシュを解放した。後ろ手に回した腕を結び合わせ、上半身を彼の方に突き出す。
瞳はさっきよりもあからさまなまでに、笑っていない。
「アッシュ君?」
ユーリに言ったら絶交だと言ったはずだが。下から見上げて問いかけるスマイルにアッシュは返事を詰まらせ、なんとか逃げ切ろうと突破口を必死に探す。だけれど現場を押さえられた事がなによりも痛い、考えても逃げ口は見当たらなかった。
せいぜい本当に逃げるための階段が、背中を押しつけている壁の隣にあるくらいで。
「だって、スマイルは」
「明日だよ」
さらりと、他人事のように彼は断定してみせた。そしてゆっくりと、アッシュの前に己の右手を翳す。包帯を解いていけば、下から現れた腕はかろうじて輪郭を認められる程度の濃さしかなかった。
十日前に確かめたときは手首までだったものが、今では肘よりも奧にまで浸透してしまっている。喉を鳴らして唾を飲み込んだアッシュを、彼は軽い調子で笑い飛ばした。
「今日、どれくらい飲んだと思う?」
常にポケットに携帯している錠剤の瓶を取りだして振り、彼は問うた。透明な小瓶に残されている量は底が見えるくらいに僅かで、減り方の速さにアッシュは言葉もなかった。 一日十錠どころの数ではないはずだ、絶対に。
答えられないでいると、スマイルは取りだした瓶をまたポケットに戻す。飲まないのか、という視線での問いかけに彼は肩を竦めた。
「残り、少なすぎるからね。明日の朝、まとめて全部……飲むよ」
そうすれば一日、なんとか保つだろうから、と。
ライブのリハーサルを終えて、本番をこなして、それが済むまでで構わない。ライブが無事に終幕を迎えさえすれば、その瞬間に消え去っても構わないのだと彼は笑いながら言う。
どこまでも楽しげに、そして、哀しげに。
彼の表情が揺らぐ。
「本当に……消えて?」
「ずっとそう言ってるでショ?」
抗えないさだめに抵抗を表明して、やっとこれだけなのだ。
「俺の命、分ける事って出来ないんスかね」
「出来たら、分けてくれるの?」
先日、車の中で繰り広げられた会話がこの場に戻ってきて、スマイルは苦笑った。けれどアッシュは真剣な表情のまま頷いてみせ、彼を辟易させる。出来るはずのない事に執着するのは良くない傾向だと諌めてみても、アッシュは否定しなかった。
じっとスマイルを見下ろして、逸らさない。先にスマイルの方が疲れ果て、溜息を零すしかなかった。
「君がそこまで徹底的にバカだなんて知らなかった」
俯き加減で爪先を床に擦りつけるスマイルを見下ろし、アッシュは乾いた声で笑う。スマイルは暫くそのまま下を向いていたが、やがて吹っ切るように頭を振って髪を掻き上げた。同時に視線も持ち上げ、アッシュの事を鼻で笑い飛ばす。
むっ、となった彼を更に笑って、隻眼を緩めて。
長い長い息を吐きだした。
「本当、もうちょっと器用だったら良かったのにねぇ、君ってば」
「俺、不器用じゃないっスよ」
むしろ不器用なのはユーリの方だと言い返そうとしたアッシュを手で制し、スマイルは髪の毛をくしゃくしゃにしながら首を振る。そっちの意味ではない、と。
言外に告げて。
にっこりと、微笑む。
「でもぼく、そういう君のこと結構、好きだったよ」
過去形にされた。
「今は?」
「今も好き。でもさっきは嫌いになりそうだった」
初めて聞く、彼が発した単語。
冗談でもなんでもなく、本音で語られた単語。
お手軽にも、ただそれだけの事なのに嬉しいと感じてしまっている。アッシュは息を呑み、それから手で緩みそうになる口を押さえ、目を閉じた。
感慨深い思いで呼気を吐き出す。目を開けば、微かに霞んだような気がするスマイルがまだ、そこに立ってアッシュを見上げていた。
「だから、アッシュ。ぼくに嫌われたくなかったら……これだけは守って」
我ながら都合の良いお願いだと自分で自分を笑いながら、彼は言った。視線を遠くへ外し、何処でもない場所を見つめている。
非常扉の位置を示す緑色の明かりだけが、夜中である為に押さえられた照明の下で煌々と輝いている。
窓のない世界では、月も見えない。
スマイルは視線を戻した。僅かな躊躇を見せたあと、ゆっくりと唇を開く。
「ぼくを」
どうか。
願いを。
叶えて。
最後の。
祈りを。
届けて。
彼、に。
「忘れないで」
消さないで。
無くさないで。
失わないで。
手放さないで。
例え残らなかったとしても。
確かに在った、と覚えていて。
「ぼくは消える。姿形だけでなく、人々の中から、その存在さえも」
記憶の中から、あらゆるものの中から、“スマイル”という存在が在った事が失われる。
明日が終わって、明後日が訪れる時にはもう、誰もきっと彼のことを覚えていない。最初から居なかったものとして扱われ、誰も思い出さない。
思い出せなくなる。
存在の、消滅。
居なくなる、彼はこの世界から忘れ去られる。誰の中にも残らない、彼はなにも遺せない。
愕然と、アッシュはその場に立ち尽くす。
「きっと君も、ぼくを忘れる。だから、良いんだ」
好きでいてくれて有難う、とスマイルは寂しげに微笑んだ。
でも。
もし。
ほんの少しだけ、期待している。
どうか、忘れないで。
このぼくを、忘れないで。
覚えていて。
消さないで。
「消したりなんかしない!」
アッシュは叫んだ。けれどスマイルは、ずっと微笑んだまま表情を変えてはくれなかった。
「俺は絶対に、スマイルのことを忘れたりなんかしない!」
寂しそうに、嬉しさに紛れさせた哀しみを浮かべて、スマイルは笑い続けた。
「ユーリの事、よろしく頼むね」
それだけが心残りだと彼は言う。ぽつりと、付け足すように或いは、自分への語りかけのような台詞をあとに繋げて。
「ぼくはね、正直言うとユーリのこと、ちょっと苦手なんだ」
思いがけなかった言葉に驚き、アッシュは目を見開いて彼を凝視した。スマイルが苦笑する、右肩が小刻みに震えていた。
「だって、さ。ユーリだけなんだ」
ぼくがぼくで、居られなくなる相手。
一緒に居たいと思うのに、一緒にいると自分を見失いそうになる相手。
誰よりも近くに在りたいと願っているのに、近付きすぎて自分の心を覗き込まれるのが恐い相手。
すべてを知りたいと求めてしまうのに、知ってしまうのが恐ろしくて躊躇を覚えてしまう相手。
ことばに出来ない感情を抱く相手。
それが、ユーリ。
「スマイル……」
「バカなのはぼくも同じだよね。ぼくはずっと、ユーリが恐かった」
変わってしまう自分が、ユーリによって変えられていく自分が。誰にも左右されず、自分ひとりでも生きていけるはずだったのに、いつ消えても構わないと思ってきていたはずなのに。
いざその時が目の前にやって来た時、なによりもユーリと別れなければならないという事実が恐かった。
スマイルが自分の身体を自分で強く抱きしめる。手を伸ばそうとして、アッシュは寸前で止めた。自分にその資格がないことは分かっている、彼に手を差し伸べられるのは自分では決してないのだ。
たったひとりだけが、それを許される。
「明日、さ」
緩く首を振って、ガラにもない事を言ったと笑い飛ばしてスマイルは改めてアッシュを見た。中途半端に右手を浮かせていた彼に気付かないフリをして、告げる。
「絶対、成功させようね」
誰もが忘れられない夜になるようにしよう。誰もが覚えている夜を迎えよう。
アッシュは頷いた。力強く、自分に出来る最高の笑顔を彼に向けて。
彼を忘れる人が誰も現れませんように、と。
祈り続ける。
そして夜が明けて。
運命の日が、訪れる。
ばいばい、と最後の言葉はとても簡単。
悪い冗談だとユーリは初め、笑い飛ばそうとした。人を莫迦にしていないで、さっさと戻ってこいと虚空へ呼びかける。
けれど返事はない。
冷たい夜の風だけが寂しげに空を漂い月を隠して流れていく。思わず身震いしてしまったユーリは自分で自分を抱きしめながら、己の吐き出す息でさえもこだまして来そうな雰囲気を漂わせている空間に視線を流した。
「…………」
なにかを、呟こうとして。否、誰かの名前を呼ぼうとして、ユーリは開きかけた唇を微かに動かした。けれど音に零すべき肝心の名前がまるで思い出せなくて、彼は自分の行動に驚きと疑問を抱きつつ上唇を浅く噛んだ。
誰も居ない暗闇に包まれたステージ。
機材は既に運び出されていたが、大がかりなセットだけは明るい時に解体すべきだという事から骨組みだけがそのまま残されていた。僅か数時間前までは凄まじい熱が立ちこめていたライブ会場も、人が去ってしまってからは空虚で寂しい限りの空間に変貌する。ステージを踏みしめながら歩けば、足音が意外なまでに遠くまで響いていった。
誰も、居ないはずだ。だからこんなにもこの場所は寂しい。
だが、とユーリは数歩進みステージの中央部分、あの熱気が充満するライブの最中に自分が立っていた場所に至って改めて周囲を見つめて、ユーリは違和感を覚え振り返った。
さっきまで、ここに誰かが居たような気がする。
だのに此処に居たのは自分だけだったと、靄に包まれているようなはっきりとしない頭がそう数分前までの記憶を再生する。
誰かと、話をしていたはずだ。乾燥を潤そうと何度も唇を舐めて唾を飲み込んだ感覚が、身体の中に残っている。だけれど頭の方がその感覚を否定して、誰かが居たという思いをうち消そうとする。
ちぐはぐで、噛み合わない。持ち上げた右手の中指で唇に触れ、確かに此処に他者の熱を受け止めたはずだと訴えてみても脳裏にその光景はまったく浮かんでは来なかった。
そもそも、ではいったい誰が居たと言うのだ?
ユーリは顔を上げた。やはりそこに誰も居ない。
暗い闇が両手を広げているばかりだ。だけれど、ふと、自分の足許に異質なものが転がっている事に気付いて首を捻りつつ、ユーリは膝を折って腰を落とした。左手でそれを取り、顔の前にやって薄暗い星明かりに晒してみた。
透明な、小瓶。
中身は、ない。
「薬瓶……?」
そうは呟いてみたものの、小瓶の表面には中身や成分を記すラベルの類が一切貼られていなかった。きつく締められている蓋を取り去って中を覗き込んでも、底の辺りに白い粉が数粒固まっているだけで中身は残っていなかった。手の平に逆さにした瓶を振ってみたが、粉は指先に落ちず吹き込んできた風に流されて夜に紛れた。
いったい何故こんなものがステージに落ちているのだろう。片づけをしていたスタッフが落としたのだろうか、だとしても妙な話でユーリは蓋を閉め直した小瓶を改めて見つめながら首をしきりに捻ってみた。
だが考えたところで答えが出てくるはずがなく、ユーリは中身のなくなった小瓶を胸のポケットに押し込むと立ち上がる。
確かに誰かと話をしていたはずなのに。
自分は、とても怒っていたはずなのに。
実感がわかない。何を怒っていたのかも、誰に怒っていたのかも分からない。そもそもそういった事があったという記憶は、頭の中がきれいすっぱり否定してくれている。
白昼夢でも観ただろうか、と月明かりの遠い夜空を見上げて彼は思った。
ここは街中からかなり外れた場所にあって、だからこそあれだけ派手なステージを演出できたのだけれど、夜が来るとやはり寂しすぎる。早くみんなのところに帰ろうと踵を返そうとして、ユーリは下からの視線に気付いた。
振り返る。ステージに人の姿はなかった。
その代わり、いつの間に訪れたのか音もなく忍び寄っていたらしい黒い毛並みをした猫がいた。
猫、と呼ぶには多少語弊がありそうな巨躯をしているが。言い直すとしたら、黒豹に近いだろう。しなやかな体躯に無駄なものは感じられず、獣の身でありながらユーリに美しいとさえ思わせる雰囲気を纏っている。
なによりもユーリを驚かせたのは、見るものの目を見張らせるその左右不対の色をした瞳だろう。
左目が血のように赤く、右目が目映い太陽の輝きを思わせるくらいに見事な金沙色をしている。だがユーリを驚かせたものはもっと別のところにあった。初めて見えるだろうはずのこの黒い艶やかな毛並みをした猫に、自身が既視感を覚えた事に自分で驚いている。
知らないはずだ。
だのに、自分はこの猫と面識がある。
理由は分からないのに、はっきりと確信出来るなにかが胸の中で塊になってユーリの躰をずん、と重みで引き留めている。
黒猫が、静かに微笑んだ。いや、そう見えただけかも知れない。
嗤う、哀れむように。
ユーリは身震いした。何故か、この黒猫がとてつもなく恐ろしい存在に思えて来たのだ。逃げだそうとさえ思った、しかしそれ以上に知らないはずなのに知っていると、体でも心でもない自分の中にあるなにかが訴えかけてくるこの存在に、興味があった。
知りたいと思ってしまったその好奇心がユーリをこの場に踏み止まらせる。
胸ポケットの中の小瓶が、重くなった気がした。
「覚えていないようだね」
さらりと滑らかな黒髪が手の平から零れていくような、珠を転がすような美しい声が響き渡る。一瞬、誰のものかと誰何の声を上げながら周囲を見回してしまったユーリに、からからと軽い調子の笑い声が被さった。
此処だよ、とからかうように告げる声は確かに、ユーリの足許に在る黒猫から発せられたものであった。
「猫が……」
「狼男がドラムを叩いているんだ、今更何を驚くことがあるって言うんだい?」
揶揄する声に頷き、ユーリは自分らしくなく動揺してしまっている事に気付く。言われてみれば確かにその通りで、自分が驚く事はないと思い直すと唾を飲み込み改めて黒猫を見下ろした。
そして、問う。
「覚えていない、とは」
「お前さんが今の今、ああ、あたしがお前さんの前に現れるちょっと前の事だけどね。誰と話をしていたか、という事さ」
「…………」
ユーリは黙り込む。やはりさっきまで誰かと一緒だったという感覚に間違いはなかったと言うことだろう。だが言われても実感は戻って来ることがなく、本当に彼女の言葉を信じても良いものかと疑ってしまいそうになる。
承知済みなのか、黒猫は婀娜な女性の声で続けた。
「あたしの事も、覚えていないんだろう?」
「……そのようだ」
知っている気はするが、具体的にどこで会ったのか、どういう関係があったのか、名前がなんであったのか、そういった付随する情報がまったく頭の中から導き出せないでいる。こめかみを押さえ込んだユーリを見上げ、黒猫は無理ないことだと嗤った。
そういう風に、仕向けられたのだから、と。
「誰に」
反射的に問いかけて身を乗り出そうとしたユーリをやんわりとした表情で見つめ、黒猫は視線をスイッと逸らした。そのまま誰も居ない観客席だった場所に顔を向け、遠いところをオッドアイで眺める。
「そうだねぇ……」
敢えて言葉で言い表すとしたら、それは”世界”という奴だろうね、と。
寂しげに呟く声はユーリに語りかける、というよりもむしろ彼女が彼女自身へ言い聞かせるような、そんな空気があった。
ユーリは黙り込み、胸に片手を置いた。居場所が定まらず虚空を指先が掻いた先で固いものを見出し、取り出せば先程ここで拾った小瓶が現れる。今となっては中に何が入っていたのかも分からない、誰のものかも分からない瓶。
握りしめると、自分のものでない体温を感じたような気がした。当然、錯覚だろうけれど。
「あの子はね、最初から……居なかった。理論を歪めてあたしがあの子を世界に導いた。だからあの子は、正しい理論によって世界から押し出されて姿を消した。こう言ったところで、お前さんは分かりはしないんだろうけどね」
自嘲気味に嗤ったような気がして、彼女の言葉に耳を傾けていたユーリは整った眉目に皺を刻む。
「それは……貴女が言っているその”誰か”は、私の知っている存在なのか」
「知っていた、だよ坊や」
くるりと顔の向きを戻した黒猫が言う。
過去形。忘れ去られた存在、誰も知らない存在。
だけれど、確かに存在したはずの、誰か。
誰?
胸の中がわさわさしている、何故忘れてしまったのだとユーリを責め立てる声がする。反対に忘れてしまう方が幸せで居られるのだと庇う声もある。
反目するふたつがせめぎ合い、ユーリの中で争っている。
「お前さんは悪くない、勿論あの子もね。しばらくは違和感を覚える事もあるだろうが、それもじきに消えるさ」
居なくなった存在ではなく、最初から居なかった存在に切り替わるだけだと彼女は告げた。
ばいばい、と寂しげに告げた声が耳の奧で響いている。
消えない木霊が頭の中で繰り返し響いている。
どれだけ頭を振っても、消そうとしても、否定しようとしても、この声は無くならない。
「なんの冗談だ、これは……」
知らない存在の声がする。覚えていない誰かが自分を呼んでいる、切なく哀しい声で、狂おしいくらいにユーリを求めている。
それなのに、自分はあの声の主の名前さえ思い出せない。
「覚えているのかい?」
黒猫が尋ねた、ユーリは頭を押さえたまま首を振った。
覚えていない、だけれど忘れても居ない。
思い出せない、けれど否定出来ない。
だって、自分は。
自分は。
彼の手を、掴もうとしたのだから。
彼に、行くなと叫んだのだから。
忘れたくないと、たとえ世界が許さなくても、彼の事を忘れたくないと、願ったのだから。
「覚えてなどいない……だが」
忘れることだって、出来ない。
出来るはずがない。
だって、自分は、彼のことをこんなにも。
こんなにも……?
「……足りないんだ」
胸の中にぽっかりと穴が空いている。そこに填め込まれたピースが自分の許可なく抜け落ち、どこかへ転がって消えてしまった。
なにかが、足りない。自分の中で当たり前のようにそこにあったものが、今そっくり全部消え失せてしまっている。
わさわさする、落ち着かない。
気付いてしまった事で、尚更に。気分が悪い。
いつ、消えていいと許した。勝手に自分の心の中にあれだけずかずかと踏み入ってきておきながら、自分だけ勝手に楽になって置き去りにして、我が侭が過ぎるぞと、顔も思い出せない輪郭さえもおぼろな誰かに向かって怒鳴りつける。
地団駄を踏むように足を床に叩きつければ、ステージが揺れるくらいの音が響き渡った。
黒猫がぎょっとしたようで、それからカラカラと喉を鳴らして笑い出す。その笑い声さえも癪に障って、ユーリは無意識に握りしめた拳をつきだして怒鳴っていた。
「うるさいぞ貴様!」
「目上に対する態度がなっていないようだねぇ、坊や」
ぞくりと背筋が粟立ちそうな迫力を密やかに込めた視線を向けられ、出した腕を引っ込めることも出来ずに硬直したユーリだったが今彼女が発した台詞には、どこか聞き覚えがあるような気がした。
確か、そう。以前に言われたときもこんな風に自分が身勝手に怒鳴り、静かにたしなめられたはずだった。
そして自分の後ろには、自分たちの様子を眺めながらひとり我関せずで笑いながら見つめている存在があったはずだ。そう、彼は確かに……ここに居た。
自分の隣に、いつだって隣に。お節介なくらいに、居て欲しいと思うときに必ず側に居てくれた。
どんなに突き放しても、無視しても。関わらないようにしていても、突っぱねても、拒んでも、どんな時も。
側に居てくれたのが彼ではなかったのか。
思い出した。
何故忘れていたのか、それ自体が不思議に思えてくるくらいに、彼はいつだって空気のように隣に立って笑っていたではないか。自分の隣で、あんなにも笑って、居てくれたではないのか。
どうして、例え一時であっても、彼のことを忘れてしまったのだろう。
あんなにも、求めて止まなかった存在なのに。
何故。
「坊やの所為じゃないさ。世界がそういうさだめをあの子に背負わせていただけで」
涼しい声で彼女が言う。遠くへと流した視線の先に、果たして彼女は何を見据えているのだろう。ユーリよりもずっと長い間彼と共に暮らし、ユーリよりも遙かに彼のことを知っているだろう彼女に、一時嫉妬に似た感情を抱いた事があったのに。今は他の誰よりも、彼の事を案じて探している目をしていると感じられた。
ああ、そうだ。彼女は紛れもなく彼の、母親だったのだ。
「だとしても、いやだからこそ……私は、悔しい」
庇うような事を言われても嬉しいとは思わなかった。握りしめた拳が傷を生み出す事さえ構わずに力を込めて、ユーリは小刻みに震えている己の身体を見下ろした。
「悔しい。どうして、止められなかった!」
「さだめ……だと言っても、納得しないのだろう?」
「当たり前だ!」
消え去る事が逆らいようのない運命だったとしよう、彼がそれを知っていた事も認めよう。だったら何故、教えてはくれなかったのか。一緒に……あんな風な別れ方をしなくても良い方法があったはずなのに。
ひとりだけで悩んで、ひとりだけで受け入れて、ひとりだけで去っていこうとして、だけれど最後の最期だけ、身勝手な事をして。
忘れないで、などと。
自分で言っておきながら。
忘れてくれて構わないと、笑うなんて。
許せないではないか。
現にユーリはこうやって彼を思いだした、忘れてしまっていた一瞬を悔いて恥じた。彼の勝手に振り回されて、言いように踊らされている自分を情けなく思っている。
そもそも自分がここにやって来たのは、どこにも見当たらない彼を捜そうとしてアッシュにこの場所を教えられたからに他ならない。
ライブが終わって、スタッフ一同も交えての打ち上げに一向に現れない彼を捜して、ユーリはあちこちを彷徨った。その結果アッシュに耳打ちされた誰も居ないライブ会場へ足を向けて、ようやく目的の人物を見つけた。
彼は、ユーリが今立っている場所に腰を下ろし、唄を――歌っていた。
懐かしいメロディーを口ずさんでいる。その曲が彼と、ユーリとが初めて出会った雨の日、街中の片隅でギターを片手にした彼が歌っていたものだと気付くのに時間は掛からなかった。
ユーリを見つけ、ゆっくりと立ち上がった彼の姿は半分ばかり闇に溶け、もう既に、存在は希薄になってしまっていた。それでも彼は笑って、ユーリに触れようと手を伸ばした。
凍り付いたユーリに寂しげに微笑みかけて、彼は何度となく悔やみの、そして謝罪の言葉を口にした。ごめんね、と繰り返すごとにユーリを撫でる彼の指先から体温が失われていく。やがて輪郭だけになってしまった彼の手は、存在しているユーリの上を空回りして行くようになって、動けないままユーリは幾度と無く彼の名前を呼び続けた。
ゴメンね、と彼が笑う。
哀しいのに涙が出ない。それが余計に、哀しかった。こんな時にも泣けない自分が恨まれて、唇を噛みしめると寂しげに彼は首を振った。
キスを。
しようと、して。
重なったはずなのに、もう、なにも感じられなかった。
触れあったはずなのに、彼の存在はなによりも遠かった。
君と出逢えて良かった、と彼は言う。
随分と長い間世界中を彷徨った中で、君に出逢えてからの数年がそれまでの数百年よりも遙かに、幸せだったと彼は笑う。
何度も名前を呼ばれた。その度に胸が締め付けられて切なくなった。
それでも、自分は泣けなかった。
今頃になって涙が溢れてくるなんて、卑怯だ。
彼の前で、彼に逝くなとも言えず泣けなかった自分が悔しい。
もし泣けていたら何かが変わっていたかも知れないと思うと、悔しくて、哀しい。
「うっ……」
顔を押さえ、彼女の前であるに関わらずユーリは。
涙を、流す。
彼女は何も言わなかった。茶化すこともからかうことも、慰める事もなく。静かに、過ぎ行く時の風を感じながらユーリを見つめていた。
今でも耳を澄ませば、世界に融けて消えていった彼の声がする。ユーリを呼び続け、笑っている彼の顔が思い浮かぶ。
それなのにもう、彼はどこにも居ない。
探しても、見付からない。
誰も、覚えていない。
彼の事を、誰も、思い出せない。
あんなにも彼はこの世界が大好きだったのに。あんなにも笑うことが好きだったのに、人を喜ばせて笑わせて、愉快な気持ちにさせるのが好きだったのに。
彼が、居ない。
もう、どこにも居ない。
見付からない。誰の心の中にも、彼を見つけだすことが出来ない。
世界から、世界中から忘れ去られてしまった。
「スマイルっ……!」
涙声で名前を呼ぶ。
返事があるはずは、当然なく。
黒猫は双眼を細めた。左側の血の色をした瞳が僅かに色を揺らがせる。
彼女が、言った。
その日を最後に、”スマイル”と呼ばれていた存在は世界から姿を消した。
誰の心にも彼の存在は宿らず、誰ひとりとして彼を覚えているものはなかった。
彼は消え失せた。
世界中が、彼の存在を否定した。
一週間ぶりに帰り着いたユーリの城には、山のように積み上げられていたはずのスマイルが録画したビデオや彼が購入したもの、そういったものが一切残されていなかった。
彼が使っていた部屋は物置になっていて、埃が積もりずっと使われていなかったかのような様相に変わってしまっていた。
今までのdeuilの活動を記録する映像や写真、そういったものからも彼の姿は抹消されていた。代わりに観たこともない、まったく知らない誰かが彼の居た場所に収まっていた。
スマイルを撮影した写真は一枚も残っていなかった。ビデオに関しても同様だった。
ただ、その中でひとつだけ。
アッシュが持っていた、今回のライブを裏から撮影するためにスマイルが用意していたビデオカメラ。その中に、まだ残量が半分以上残っていたテープに、ほんの僅かな時間だけ、彼の姿は残されていた。
まるで奇跡のように。
彼はビデオ映像の中で、笑っていた。
彼らの事を好きだと公言していたファンも、彼と一緒に沢山の仕事をこなしてきたアーティスト仲間たちも、誰もが彼を忘れていた。
ビデオの中で、彼は静かに微笑んでいる。ばいばい、と、あの夜にユーリへと告げた時と同じ笑顔を浮かべ、彼は今もあの場所に佇んでいる。
彼は消えた。
誰も覚えていない。
ただユーリと、それからアッシュと、このビデオテープだけが。
彼の存在を、忘れられないでいる。
黒猫は言った。
もし奇跡を願うのなら、と。
自嘲気味に笑って丹朱色の左目を閉ざす。
ビデオの中で、彼が笑う。
控えめな声で、囁きかける。
右側だけの丹朱が細められる。
闇空の下、ユーリが月を見上げながら呟く。
夜に融けていく誰の耳にも届かない声で。
ルビー色をした鮮やかな瞳を伏せて。
言葉が、重なる。
願いが、重なる。
人の願いが強ければ強いほど
思いは形となって還ってくるでしょう
いつか、いつの時にか、必ず
貴方のもとへと――――――