彼は今日も、その場所にいた。
小高い丘の頂上にぽつんと、寂しげに腕を空へと伸ばしている木の下。
まるでそこが彼の定位置であるかのように、決まってその場所の西側に座っている。ほんの少し根が盛り上がって、土と緑の草の間から顔を覗かせている、その隙間に腰を落ち着ければ直接地面に座る必要もないから。
それは彼が座る為に、この木がわざわざ彼のために用意してくれた椅子のようだった。
以前、彼が居ないときに。
こっそりと黙って座ってみたことがある。けれど彼女には少し窪みが大きすぎて、丸まった根の表面に滑ってしまった腰が窪みに落ちてしまった。
それ以来彼女はその場所に座らなくなった。彼に内緒で座ってみたことも、その後の事が恥ずかしくて誰にも言えなかった。
今日は彼が居た。いつもの場所で、いつものように木の根っこに腰を預けて地面へと両足を投げ出している。背中をゆったりと伸ばして木の幹に預けて、とても心地よさそうに目を閉じていた。
そっと近付く。
けれど、彼まであと五歩という距離で無情にも吹き付けた突風が彼女を包み込み、左手で持った空白の鳥籠をかしゃん、と揺らした。
鍵の無い扉が開かれ、そして閉じられたその音だった。
あ、と彼女が細く微かな声を出す。
気付かれただろうか、と不安げに音を立てた鳥籠から前方へと視線を戻した彼女は、おっとりとした動作で閉じていた瞼を開く彼を見つめて、残念そうに溜息を零した。
数回の瞬きのあと、彼はまだ少し眠たげに目を擦って欠伸をひとつだけ。左腕だけを頭上へと持ち上げて、軽く首を左右へと回した。
それから、改めてまだ五歩分の距離を詰められずに居る彼女に向かって、微笑みかける。
「おはよう」
「こんにちは」
時間で言えばもう昼をとっくに通り過ぎて、本日二度目のおやつの時間。けれど今の今まで木の下で浅い眠りを楽しんでいた彼にとっては、今が目覚めの時間なのである。
すれ違ってしまった挨拶に、彼はやれやれといった感じで肩を竦めて見せた。
彼女が微笑む。左手一本だけだった鳥籠を持つ手を両方に増やすと、やはり揺れ動いた所為で鳥籠の扉がかしゃん、かしゃん、と喧しく喚いた。
「お散歩?」
「ううん」
ちがうよ、と囁き声で返して彼女は思いきって三歩分の距離を詰めた。
足の裏にカサカサと新緑の葉が擦れる。柔らかな地面の上で育つ彼らもまた、とても柔らかく優しい感触がした。
「あなたは?」
手を伸ばせば届きそうな距離で立ち止まる。鳥籠が膝の頭にぶつかった。
木の根本に腰を下ろしている彼を、立ったままの彼女が見下ろす。彼がこうしている時しか見ることの出来ない彼を、ほんの少しだけ物珍しそうに眺めながら彼女は小首を傾げた。
青く透き通った風が通りがかり、艶のある彼女の黒髪を幾本か掻き乱して逃げていった。浮き上がってしまった髪の毛を右手で押さえ込み、僅かに重みが増したように感じられる鳥籠を左手でしっかりと握りしめる。
彼は、笑った。
座れば?
そう言いながら彼は、自分が腰掛けている木の根の直ぐ横の空気を叩く仕草をした。本当にそこにクッションでもあるかのようなパントマイムに、つい頷いて返してしまった彼女は彼へ真っ直ぐ向いていた爪先の方向を若干、軌道修正させる。
彼の隣、右側。
彼女の、定位置。
言われた通りにその場所に立って、すとんと腰を落とす。彼の居る場所よりはちょっとだけ低い位置になる地面の、乾いた草が生い茂る土の上に。
鼻の先を、ほのかな緑の匂いが漂っていく。土の匂いがそこに混じり、あとは時折吹き付ける風が遠くから、何処かの草原に咲き乱れる花々の薫りを届けてくれる。
身体から力を抜いて、鳥籠を大事に自分の右側に置く。スカートの下の両足を膝で折り曲げて足首を抱いて引き寄せると、自然に三角形が出来上がる。頂角へ顎を乗せると、そのまま彼女も目を閉じた。
なにをするわけでも、なにかをしたいわけでも、なくて。
ただ、此処にいる。
目を閉じていると色々なものが感じられる。目に見えるもの以外に存在している沢山のものを感じ取って、掴み取るのが好き。
時間に無駄なものはない。
こうやってじっと、なにもせずに居る時間もきっと、なにか意味があってとても大切な事だから。
彼女は吐き出した息をスカートの布地に染みこませ、それが地面に落ちて吸い込まれて消えるのを待った。膝が受け止めた熱も、五秒とすれば呆気なく冷えてしまう。
「なにか」
ふと、彼がぽつりと音を言葉にして転がした。
彼女は目を開き、顔を上げて首を曲げる。彼の方を見上げれば、澄んだ空の色に混じって赤い鮮やかな色が見えた。
片方だけの、アンバランスさが宿った彼をじっと見つめ、次の句を待つ。
彼は困ったように苦笑いを浮かべて、珍しく言葉を躊躇しながら、それでも。
視線を逸らそうとしない彼女の、黒い髪で覆われた小さな頭を撫でながら、言った。
「嫌なことでも、あった?」
どきり、と。
一度だけ高鳴った心臓はすぐに元通りの速さに戻ってしまう。けれど俯かせてしまった視線は誤魔化しようがなくて、彼女は一瞬逡巡したあと、控えめに頷いた。
彼は、けれど、それ以上は何も言わずに。
ただ、そうなんだ、と相槌を打っただけで彼女の頭をひととおり撫でた後、彼は自分の胸の上に手を戻してしまった。
なんとも肩すかしな彼の動作に、軽くなった頭を自分で押さえてみた彼女は、自分とは大きさから全然違っている彼の手を思い出しながら自分で撫でてみた。
違う、と呟く。
「え?」
「うぅん」
聞こえてしまった彼女の呟きに、思わず問いかけの視線を投げつけてしまった彼に首を振って返し彼女は目を伏せる。一緒に唇も浅く噛みしめて、呼吸と一緒に吐き出してしまいそうになった言葉を呑み込んだ。
そうしなければ、とてもとてもたくさんの泣き言を言ってしまいそうだったから。
けれどそんな事をしてしまったら、きっと彼は不必要な自分の色々とした事まで抱え込んでしまいそうで、彼にそんな事をさせたくなくて。
させるわけには、いかないから。
だから、言わない。
「なんでも、ないよ」
少し無理をして微笑んで言うと、彼は難しい顔をして彼女を見つめた。木の幹に預けっぱなしだった背中を立たせて、膝の上に肘を載せて頬杖を付いて。
鮮やかな血の色にも似た瞳が、彼女だけを映し出している。
居心地が悪くなって、揺れた彼女の踝に伸び盛りの緑色をした草がゆらゆらと揺れた。
柔らかならかな表面が白く、陶器のような彼女の肌を擽っている。昼間の太陽からいっぱいの栄養を集めて背伸びをしている若草が、まるで彼女を慰めているかのようだった。
彼女はそんな青草に手を伸ばし、白く筋の走っている裏側を爪の先でなぞる。短く丸く整えられた爪の間に、若草の先端が突き刺さる。
ちくりとした痛みは一瞬、血は出ない。
自然界の幼子は、彼女を慰めこそすれ傷つけることは限りなく、不本意なのだろう。どこまでも優しい彼らに、痛んでしまった右手を抱きしめて彼女は再び俯いた。
彼はその間もずっと黙り込んでいた。彼女を見つめていた事は、感じる視線で彼女自身も気付いていただろうに言葉を求める事もなく、時間だけが過ぎていく。
風が吹く、時々鳥が頭上を駆け抜けていく。飛行機のエンジン音は遠くて聞こえない、白い雲は西から東へゆっくりと。
太陽は、静かに地平線へ。
からっぽの鳥籠。
それと同じくらいに、からっぽなもの。
やがて、彼は吐息と共に頬杖をやめて背中を木の幹に凭れ掛けさせた。穏やかに過ぎていくだけの時間に目を閉じ、時間と一緒に通り過ぎている色々なものへ耳を傾ける。
例えばそれは風の声だったり、今から芽吹こうとしている植物の産声であったり、木の根から吸い上げられた水が枝葉まで届けられる音であったり。
そんな、身の回りにあるけれど見失いがちな色々な事。
隻眼を閉じた彼の横顔を眺め、彼女は膝を伸ばして両足を草の上へと放り出した。少し考えてから、脇に置いている鳥籠を取って胸に抱きしめる。
背中を、真後ろの優しい木に預けて。
彼と同じように、目を閉じた。
からっぽの鳥籠を抱きしめる。
からっぽの自分の心を愛おしむ。
それほど背の高くない、幹も太くない、まだ生まれて長くない木ではあるけれど、それでもまだ彼女よりはずっと年上で、大人で。
何も言わずに、抱きしめ返してくれる。
風が吹く度に豊かに緑を茂らせている枝がわさわさと、控えめながらも喧しく騒ぎ出す。彼女に降り注ぐ優しい木漏れ日が、涼しさと暖かさの中間という空間を作りだしている。
彼がこの場所を好む理由がなんとなくだけれど、分かった気がした。
この場所は、とても静かだ。俗世から遠く、町並みの喧噪も聞こえず、無機質で硬質な機械処理されたノイズは届かない。
けれどまるで騒々しいわけではなくて、自然の音色やあって当たり前だと皆が忘れてしまっているものがこの場所では、手をのばせる距離で残っている。
小高い丘の上で、この木だけがぽつんと寂しげに見えるのは錯覚なんかじゃない。
本当はこの木は孤独なのだ、周囲から孤立して、大勢の中に混じることが出来ずに置いて行かれてしまった、忘れられてしまった存在だから。
彼がこの木の根もとに腰を下ろすのは、同じだから。
では、やはり同じようにこの場所に来る自分は……?
彼女は自問して、答えが見付からずに首を振った。
からっぽの鳥籠を抱きしめる。
とりかごのとりは、まだみつからない。