Ribbon

 ユーリは、朝が苦手だ。
 時間が許す限り、ずっと眠っている。放っておくと、夕方日が傾くまで起きてこない。日が沈んできてから目覚める事もよくある。そして普通に、時計の長針と短針が重なり合う時間帯にはまたベッドに潜り込む、というのだから奇妙な話だ。
 そのままずっと目覚めなかったらどうしよう、と危惧する事も希ではない。そして不安を覚えるたび、そっと彼の寝室に忍び込んで彼の寝息を確かめてしまう。不安はこれまでずっと杞憂で済んでいたが、この先もそうであると考えるのは浅はかというもの。
 吸血鬼の眠りは、いつも気紛れに訪れるから。
 そして今日もまた、ユーリは起きてこない。
 本日は、お仕事。しかもユーリの苦手な朝早くからだ。
 スタジオの都合とかで、番組収録が早朝スタートになってしまったらしい。いつもならばもっと余裕のある時間帯に設定して貰えるのだけれど、今回限りはどうしようも無かったらしい。平謝りされては、こちらも承諾しないわけにもいかなかった。
 で、一番問題の。
 ユーリが起きてこない。
 彼はこのバンドのリーダーであり、すべての決定権を所有している。彼がノーと言えば反対意見を提示しても結局、彼が決めた通りに行動するしかない。逆らえば、雷が落ちてくる。
 だから一番困るのが、ユーリの居ないところで色々と決めなければならないことが生じてくる場合。勝手なことをしたとユーリに叱られたくはないが、勝手をしないと事が進まないという事態もなるべく避けたいところであり。
 門の前にアッシュが車を出し、エンジンも充分温められた状態でスタンバイされて、そろそろ半刻。ちらりと城の中央ホールから壁に据えられている大時計を見つめ、スマイルはひとつ溜息を吐いた。
 あと四半刻以内に出発しないと、収録に間に合わなくなってしまう。荷物をまとめた鞄に結ばれている、ひも状のリボンを指先で弄りながら彼はまた視線を戻し、今度はアッシュへと目を向けた。
 彼もまた沈痛な面持ちで、落ち着きなくその辺りをうろうろとしている。
 呼びに行けばいい、という問題ではない。こっそり、部屋の主にばれないように侵入して出ていくのは構わなくても(本来はダメである、当然ながら)、主人に断り無く部屋に入る事は許可されていない。ユーリは寝ているところを叩き起こされるのが、なにより嫌いなのだ。
 だから、もし彼がまだすやすやと夢の中であったとしても、ベッドサイドまで行って耳元で「起きろ!」と叫ぶ事は命を失いかねない事。その直後、山よりも重くダイヤモンドよりも硬い怒りの鉄槌が降り注がれるだろうから。
 実際、一度はスマイルもアッシュもその鉄拳の制裁を喰らった事があるため、二度とやりたくない、というのが本音である。
 指先にくるくるとリボンを絡め取り、スマイルはもう一度重苦しい溜息を落とした。アッシュがばん! とその場で勢い良く床を蹴る音が、静かなホールに痛く響いた。
 反射的に肩を竦めてしまったスマイルの指に絡んでいたリボンがするりと、結び目を解いて鞄から外れた。いったい誰が巻いたものなのか、焦げ茶色の手提げ鞄には不釣り合いな薄水色のリボンを改めて見つめ直し、彼は首を捻った。
 まあ良いか、と指に巻いたままのリボンごと手をコートのポケットに入れ、その中に落とす。
 ユーリが目覚めて来ず、このままではスタジオに間に合っても着替えをしている余裕が無さそうなだと判断し、スマイルもアッシュも既に衣装を着込んでいる。車の中で着崩れしないか不安ではあるが、コートなので大丈夫だろう。
 残る問題としては。
 スマイルはそこまで思考を巡らせ、視界を頭上にある螺旋階段へと向けた。そこに人影は見当たらず、空虚な空間がぽっかりと穴を広げて待ちかまえているだけに過ぎない。
 はあぁ、と。
 頬杖を付いて床の上に座り直す。また苛々とした様子でアッシュがくるくるとその場で回り始め、そんなことをしていたら余計に落ち着かなくなるよ、と声をかけるが果たして彼に届いただろうか。
 ふぅ、と。
 今度こそ諦め調子で息を吐き出し、スマイルは無言のまま立ち上がってコートの、床と擦れ合ってしまっていた部分を軽く叩いた。埃を落とし、本当に軽くだけれども皺も伸ばして、それから背筋を伸ばす。ずっと座ったまま待っていたので身体中がその体勢で固まってしまっていたらしく、各所で骨が擦れて音が響いた。
 嫌そうな顔をしてアッシュがこちらを見る。苦笑を零して返し、軽く肩を竦めて首を振ってやった。
 ひんやりとした空気、張り詰めているだけのホールが一瞬緊張する。
 ああ、と古めかしい大時計を見やってスマイルはその元凶を悟った。
 ボーン、と腹の底に響く音色が時計から発せられる。繰り返されること、七回。何故か真夜中にだけ鳴り響くことを控えてくれる便利な機能を勝手に持ち合わせた大時計は、時々予想もしなかった時に音を響かせてくれた。
 まるで人間のように気紛れなところを持つ時計が、午前七時を告げた。同時に、アッシュが盛大な溜息をついてがっくりと肩を落とす。
「じゃんけんでも、する?」
 握り拳を片手分、持ち上げてスマイルは笑った。負けた方がユーリを起こしに行く、という提案に気乗りしない顔でアッシュは彼を見つめ返す。どことなく、視線が死線を彷徨っている感じだ。
 その彼の姿にスマイルは喉を鳴らしてまた笑い、上げた手を下ろす。視線を持ち上げ、何もない空間であるはずの階段上を眺めた。
 にぃ、と彼の唇が歪む。
「アッシュ、車に荷物」
 それから朝ご飯とかも、とバスケットに入れられているサンドイッチ(ひとり分)と飲み物も彼に預け、スマイルはひとり階段へ向かった。数段飛ばしに駆け上る。背後では、数秒遅れで気がついたアッシュが慌てて、荷物を両手一杯に抱え持ち玄関を走り出ていった。
 アイドリング中だった車のエンジン音が、再起動をかけられてけたたましく響き渡る。あの調子だと、規定速度を軽く百キロオーバーで走り抜けてくれそうだ。必死の形相になって居るであろう彼を想像して苦笑し、スマイルは最後の一段を昇り終えた。
「ユーリ」
 着地と同時に、彼を呼ぶ。
 ユーリは、今目を覚ましたばかりです、と顔に書いてあるような表情でうむ、と一度頷くに留まった。
 かろうじて寝間着から衣装……こっそりとスマイルが枕許に用意しておいたのだけれど、それに着替えてくれていて内心、彼はほっと安堵する。
「起きてる?」
「……眠い」
 そりゃぁ、そうでしょうけれども。でも貴方よりも遅い時間に眠って貴方よりも早い時間に目覚めて準備も万端な自分たちは、では一体どうすれば良いのでしょう?
 思わず問いそうになった言葉を笑いで噛み殺し、スマイルはひととおりユーリの服装をチェックしてみた。大丈夫だとは思うが、寝ぼけた頭のまま着替えたようでボタンの掛け違いがあっては大変だからだ。
 もっとも、ざっと見た感じではその様子はなく、またしても安堵の息を零してスマイルは肩に預けていた緊張を下ろした。
 それに伴い、同じように落ちていった視線がふと、ユーリの胸元へと注がれる。
「ユーリ」
 曲がってる、と彼が指さしたのはユーリの胸元に結ばれている細いリボンタイだ。それが見事に、縦結びになってしまっていた。
「ん? あぁ……」
 本当だ、とカメの歩みの反応でユーリは視線を落とし、かなり不格好な結び方になっているリボンを見下ろす。縦に曲がってしまっているそれを確かめ、しゅるり、と片方を引っ張って解いた。
 スマイルが焦れったく思いながら待つ前で、ユーリは不器用な手付きでもってリボンを結び始める。だが眠たさが勝るのか直ぐに瞼が落ちてしまいそうになり、あまつさえ身体までよろめいている彼がまともにリボンを結べるはずがない。
 よくこれで転ばずに着替えられたものだ、と感心しながら眺めて待っていると、階下からアッシュの怒鳴り声が聞こえてきた。もう出発しないと幾ら急いでも間に合わない、という内容の叫び声に、スマイルは頭を掻く。
 今のアッシュの叫びでもってしても、ユーリの眠気は飛んでくれなかったようだ。今にも立ったまま眠りに堕ちてしまいそうな感じを醸し出している彼に、大袈裟に肩を竦めて天井を仰ぐ。
「貸してご覧?」
 仕方なくスマイルは左手をユーリに向けて差し出した。
 とろんとした目でユーリが彼を見返す。しかしそれ以上動かない彼に結局は痺れを切らして、結局のところスマイルは強引にユーリの手から結びかけのリボンタイを奪い取った。
「スマイル?」
「じっとしてて」
 下手に動かれると、首締めちゃいかねないからと、有る意味恐いことを口に出してスマイルはユーリを黙らせた。黙らせるどころか、何かを勘違いしたユーリが呼吸まで止めてしまっていたのには、気付いたときさすがに苦笑うしかなかったけれど。
 細いタイの裏側に人差し指を添え、親指とを使って器用に楕円を作り、間に通して行く。少しでも形を崩してしまっては、胸元というところは人の視線が集まりやすい場所でもあるため、全体のバランスを壊してしまいかねない。だから急ぎながらも焦らず、慎重にスマイルはタイを結ぶ。
 再度アッシュの怒鳴り声がホール内を反響していった。
「はい、出来た」
 ぽん、と出来上がったタイの上を軽く掌で押して叩き、スマイルはにっ、と笑ってユーリを見る。綺麗に出来上がったリボンタイを見下ろしたユーリも、まだ半分頭が眠っているのだろうか。珍しく無防備に笑顔を向けてくれた。
 お願いですから、普段からもっとそういう笑顔を向けてください。切に祈りたくなるのをなんとか押し留め、スマイルは急かすアッシュの方へとユーリを誘い始めた。
 けれど階段を三段ほど降り、先に行くユーリの後頭部を見下ろしてからふと、ある事に気付いてしまった。
 ――跳ねてる。
 そう、ユーリのあの艶のある銀糸の髪がひとふさ、つむじの下辺りで見事なまでに跳ね上がってしまっていたのだ。
 心の中で慌てて、手摺り越しに大時計の文字盤を確かめる。もう時間がない、ドライヤーを持ってきて櫛を通す余裕はどこにも見当たらない。車の中でセットし直すのにも、恐らく楽勝で百キロオーバーのまま走ってくれるだろうアッシュの運転の中でやったとしたら、余計にあちこち跳ね上げてしまいかねない。
「う~ん……」
 しばし、悩む。無意識にポケットに差し入れた左手が、指先になにかを発見して絡め取った。
 取りだしてみると、それは先程、自分で鞄から抜き取ってしまった薄水色をしたリボン。少し結び癖がついてしまっているけれど、全体的に細めなのであまり目立たない。長さも、ユーリの跳ねている髪と見比べてみて申し分なかった。
 彼は怒るだろう、確実に。
 でも、元はと言えば時間通りに起きてこないユーリが一番悪いわけだから、と。
 必死に自分の中で言い訳をして、でも顔はにこやかに楽しげに、それからとても嬉しそうにリボンを真っ直ぐに伸ばし、ユーリが歩いている中を邪魔しないようにだけ気を払って。
 アッシュが玄関のドアノブに手を置いたまま、忙しなく手招きを続けていた。ちらりと最後に大時計を振り返って時刻の確認。玄関の重厚な扉を潜り抜けると、それは自動的に閉まってなおかつ、内側からかんぬきまで勝手にセットされてくれた。
「何してるんスか……」
「ちょっとね~」
 跳ねを誤魔化してるんだよ、と訝むアッシュに笑いながら告げ。
 ユーリの綺麗な髪の毛に、違和感無く溶け込んでしまっている水色をしたリボンをきゅっ、と強めに結んだ。跳ねている髪以外にの回りの髪を少しだけ取り込んで、寝癖を目立たなくさせてみたが案外、おかしくないところが可笑しい。
 アッシュは渋面を作ったが、急いでいるので深くは追求してこなかった。素早く運転席へと乗り込み、シートベルトを装着する。
 スマイルもまた、ユーリを押して車の後部座席に一緒に乗り込んだ。シートの上に置かれていた鞄を思わず蹴り飛ばしてしまい、形が崩れてしまったそれを抱き直して足許に下ろす。
 けたたましいエンジン音が耳に響いて、サイドブレーキを解除したアッシュがクラッチを踏んで一息にアクセルを全開にした。
 ぐわん、と背中がシートに押しつけられるGが発生する。
「アッシュ、安全運転!」
「了解っス!」
 偶にハンドルを握ると人格が変わる、という奴が居るけれども。
 アッシュも実のところ、例外ではなかったりして。
 冷や汗を背中に流しながら、スマイルは内心ドキドキしている心臓を片手で押さえ込みふーっと長い息を吐き出した。目まぐるしく移り変わって背後に流れていく景色に目をやる気力も起こらない。
 ひとまずここまで来ておけば、なんとかスタジオ入りはギリギリだけれど時間に間に合いそうである。例え間に合わない時間であっても、アッシュが強引に間に合わせることだろう。
 スマイルは車の発進時に崩してしまっていた姿勢を直し、それから傍らを見た。そこにはユーリが座って……いなかった。
「寝てるよ」
 三人分並んで吸われるだけのスペースがある座席シートに上半身を横たわらせて、自分の手を枕にすやすやと寝息を立てていた。行儀良く、なるべく衣装を型くずれさせないようにしているのは良いことだったが、緊張感はまったく感じられない。
 あと数十分で仕事が始まる事を、きちんと理解できているのだろうか。不安になった。
 が、やはり起こすのには忍びなく。
 眠っているときは大人しいのにな、と整った寝息をこの、最高時速百五十キロオーバーな自家用車内で立てているユーリをずっと眺めていたスマイルだったけれども。
 だから、わざとではないのだけれど。
 ユーリの髪に結んだリボンのこともすっかり、忘却の彼方へと旅立たせてしまったあとで。
 しかもスタジオに待機していたスタッフの誰しもが、ユーリの雷を知っているので追求しなかっただけかもしれないのだけれど。まさか衣装の一部だと思われていた、という事はないだろうが。
 あのリボンは結局最後まで解かれる事を知らなかった。
 そして、後日。
 収録された分のビデオがユーリの城へ届けられ。更にリビングの大型スクリーンでそれをチェックしていた彼の背後で。
 こそこそとスマイルが姿を隠そうとした中、ユーリの怒号が城を傾けるくらいに響き渡ったと言うことは。
 もちろん、冗談などではない。