ポケットから鍵を取り出し、ドアノブのすぐ上にある鍵穴に差し込む。カチリと歯が噛み合ったのを指先に感じ取ってから一気に左に回せば、重い物が一緒になって回転する感覚が手首を伝った。
「よし、と」
もうひとつあるロックも鍵を交換して解除して、役目を終えた金属片を引き抜いて安堵の息を吐く。自然と頬が緩まり、尖り気味だった気配も瞬時に弛んだ。
続けて足許に置いた荷物を取ろうと腰を屈め、下を向く。鍵束を握る左手はそのままに、右腕を真っ直ぐ伸ばそうとした矢先だ。
「ひー! 寒い、さっむーい!」
「うっ」
ドン! と、横から伸びて来た手に勢いよく突き飛ばされてしまった。
待ちきれなかった青年が、甲高い声で叫ぶと同時に銀色のドアノブへと手を伸ばした。右手で掴んで捻り、力任せに扉を開く。
外開きのドアに荷物を跳ね飛ばされそうになって、彼は慌てて大事な戦利品を抱えあげた。両手にぶら下げ、一歩半後退してそれなりに重量もある扉の攻撃を回避する。
一瞬で急上昇した心拍数に頬を引き攣らせて、雲雀恭弥はドタドタと玄関に飛び込んでいった背中にため息をついた。
慣性の法則で自動的に閉まろうとするドアの向こうで、忙しくブーツを脱ぐ後ろ姿が見えた。膝丈のロングコートを翻して、一直線に廊下を走っていくところで目の前が暗くなった。
挟まった空気を押し出して、音立てて扉が閉まった。内と外を区切る境界線にそっぽを向かれてしまって、雲雀はもうひとつ嘆息すると、両手にぶら下げた荷物を右手一本に集めた。
鍵だけ持った左手でノブを回して、閉ざされたばかりのドアを開く。脱ぎ捨てられた黒のブーツが、さほど広く無い玄関の左右に転がっているのが真っ先に目に飛び込んで来た。
「ちょっと、ちゃんと揃えなよ」
「えー? なんですかー?」
あまりの行儀の悪さに辟易しながら声を張り上げるが、きちんと届かなかったらしい。奥から響いて来た返事に会話を続ける気力を無くし、彼は仕方無く上がり框に荷物を下ろすと、横倒しになっているそれらを拾って右隅に並べてやった。
畏まって鎮座する靴を満足げに見下ろし、続けて自分の靴も脱いで隣に揃える。施錠してフックも起こし、ずっと握ったままだった鍵を靴箱の上にある、おおよそ男ふたり暮らしには似合わない小鳥のぬいぐるみの尻に隠して、彼はついでだと着ていたコートのボタンも外した。
増えた荷物を両手に分けて持ち、フローリングの廊下を踏みしめる。外出している間は当然暖房など入れていないので、通路の空気は外に負けないくらい冷えていた。
「綱吉?」
先に中に入った青年は、いったいどこに消えたのだろう。所在を探して視線を揺らめかせた矢先、微かに聞こえた物音に彼は肩を竦めて苦笑した。
入ってすぐのところにある階段は無視して真っ直ぐ進み、四十五度の角度で放置されていたドアを開けてその奥に滑り込む。途端に明るい日射しが舞い込んで、薄暗さに慣れていた雲雀の瞳を刺した。
立ちくらみを覚えてふらつき、持った荷物を落としそうになった。右目を閉じて顔を顰めた彼の遙か前方で、白いカーテン越しに太陽が意地悪く笑った。
「ふいー」
ピー、という電子音に続き、いかにも心地よいと言わんばかりの脱力しきった声が聞こえた。カウンターキッチンと椅子がふたつ向き合うテーブルの更にその先で、薄茶色の毛玉が小さく、丸くなっていた。
「綱吉」
「あー、あったかーい。しゃーわせー。生き返るぅ~」
呼び掛けるが、返事は得られない。嬉しそうに目を細めて独り言をぶつぶつ呟いている青年の足許には、白い外見の四角い箱が置かれていた。
暖気を吐き出し始めたばかりのストーブ前に陣取り、コートも脱がずに両手を揉みほぐしている。弛緩しきった横顔は愛らしい限りだが、生憎と今の雲雀には、彼の独善的な行為を許せるだけの余裕は残されていなかった。
ふたり分の食材を袋ごとテーブルの上に置き、コートは椅子の背凭れに引っかけて、彼は疲れを訴える肩を交互に回した。
「せめて上着くらい脱ぎなよ。あと、手は洗った? うがいは」
「ええー」
「それで風邪引いても、看病してあげないよ」
口うるさく言えば途端に不満顔を向けられて、雲雀は口を尖らせた。熱を出しても自業自得だからね、と言い足して踵を返し、開け放ったままの扉を抜けて洗面所へと向かう。
人に注意しておきながら自分はやらない、というのはルール違反だろう。蛇口を捻って冷たい水で、石鹸も使って丹念に手を洗った彼は、口も濯いで雫を散らし、ついでに鏡を見ながら乱れていた前髪を軽く整えた。
自宅に戻ってから身だしなみを整えるのも変な話だが、見窄らしい格好で居続けるよりはずっとマシだ。そんな風に己に言い聞かせてリビングに戻るが、目に飛び込んで来た光景は先ほどとなんらひとつ、変わってはいなかった。
買って来たものもそのままならば、ストーブ前で蹲る青年もまた、そのままだった。
「ひふー」
「まったく」
だらしなく笑って温もっている彼には呆れるばかりで、最早小言のひとつも言う気になれない。肩を落として黒髪を掻き回し、雲雀は自分のコートをポンと叩いて、ソファやテレビが置かれた一画に向かった。
進行方向と右手に窓があり、左手には陽光がたっぷり降り注ぐサンルーム。そのもうひとつ奥には襖があって、洋風なリビングとは趣が異なる和室が設けられていた。
沢田綱吉はそのサンルームとリビングとの境目に近い場所にいた。
「コートくらい脱ぎなって。ほら。置いて来てあげるから」
「わーい。ヒバリさんが優し……いでっ」
歩み寄り、低い位置にある肩を小突く。振り返った童顔の青年が満面の笑みで茶化して来たのを拳で黙らせて、雲雀は渡された焦げ茶色のコートを左手にぶら下げた。
殴られた場所を撫でさすり、頬を膨らませた綱吉であるけれども、未だ温まりが足りないのかストーブ前から動く様子はなかった。
確かに今日は、最高気温も例年よりずっと低く、場所によっては雪が降るとも言われていた。幸いにも外出中は雪雲を見かけなかったが、風が強いので、一時間後にどうなっているかまでは分からない。
サンルームにちらりと目をやって、雲雀はまだ湿り気が残る唇を舐めた。
「手洗い、うがい。風紀を乱したら許さないよ」
「ふぁーい」
「返事はきちんと」
「はいっ」
しつこく諭し、もう一発軽く頭を殴り飛ばす。跳ね放題の髪の毛を揺らして、綱吉は声を張り上げた。
一緒になってピンと伸びた背筋に溜飲を下げ、雲雀は爪先で床を蹴った。踵から着地して後退し、くるりと反転して自分のコートも引っ掴む。
どんな時でもきびきび動く彼を見送って、綱吉は甘い色をした頭を撫でた。
あまり意地を張って反発しても、喧嘩になるだけだ。それはそれで面白く無いし、楽しくない。腹をくくって立ち上がって、彼は名残惜しげにストーブから離れた。
カウンターを回り込んで手を洗い、食器乾燥機の中にあったコップを使ってうがいをする。がらごろ言わせた水を吐いて唇を拭ったところで、形を崩した白いビニール袋が目に入った。
「冷蔵庫、入れとかないと。ヒバリさん、また怒るな」
この家で同棲生活を始めて、そろそろ一年。それなりに長い付き合いだが、一緒に暮らして初めて気付いた事も存外に多かった。
時間にうるさいのは前から知っていたが、金の管理も驚く程細かかった。当初は無駄遣いなど絶対に許さないという立場だったけれど、最近は一緒に買い物に行けば、菓子のひとつくらいなら大目に見てくれるようになった。
ゴミ出し、風呂掃除は交代制。食事は綱吉が朝食、雲雀が夕食を担当していた。但し互いに忙しい身の上なのと、揃って夕飯を食べる機会があまりないというのもあって、雲雀がキッチンに立つ機会は全くと言っていいほど無かった。
不公平だと思うが、彼が提示した同居の条件がそれだったのだから、あの時は頷かざるを得なかった。随分と懐かしく感じる記憶に目を細め、綱吉はろくに拭いてもいない手で袋を漁った。
牛乳やヨーグルトなどの冷蔵保存が必要なものだけを選んで冷蔵庫に押し込み、残りはそのままテーブルに捨て置く。それくらいの片付けは、雲雀も文句を言わずにやってくれるに違いない。
「俺はもう働いたもんねー」
なにをやるのも、負担は半分ずつ。それもまた、ひとつ屋根の下で暮らす際に示された条件だ。
誰も居ない場所で得意げに胸を張って、彼はパタパタと足音を響かせた。二階に上がった筈の同居人がまだ戻ってこないのを確認して、いそいそと向かうは例の四角い箱の前だ。
「ふぅ」
一段落ついたと息を吐き、膝を折ってしゃがみ込む。両手を前に伸ばすと、暖かな風が掌を包み込んだ。
冷水に両手を浸した所為で、折角取り戻した血流がまた淀んでしまった。一秒でも早く正常な状態に戻してやらなければ細胞が壊死してしまうと、熱心に手を重ね合わせて指を蠢かせる。
冷え切った部分から染みこんでくる暖気に、頬が緩んで戻ってこない。目尻を下げてにんまり笑っていたら、後方でパタンと乾いた音がした。
振り返らずとも、何が起きたのかくらいは想像がついた。テンポ良い足音が続けて聞こえて、彼は四肢の力を抜いて腰を床に落とした。
後ろに一メートルも行けば絨毯が敷かれ、革張りの立派なソファだって置かれている。だというのに冷たいフローリングを選んで座り込んだ彼に呆れ、セーターも脱いで身軽になった雲雀はゆるゆる首を振って長いため息をついた。
「ちょっと」
「痛い」
乱暴に尻を蹴られて、綱吉がぴょん、と飛び上がった。瞬時に身体を半回転させてストーブに背中を向け、じんわり痛む場所を温める。
それでも尚場所を譲ろうとしない彼に眉目を顰めて、雲雀は首の後ろを爪で引っ掻いた。
リビングは広い。食堂やキッチンとを区切る壁は存在せず、二十帖もある空間全体を温めるには相当のエネルギーが必要だ。こんなコンパクトなファンヒーターひとつでは、到底賄いきれない。
しかも現在進行形で、暖気を吐き出す送風口は綱吉の身体に塞がれていた。
これでは温風の大半がその場に停滞して、部屋はちっとも暖まらない。
現にキッチンの周辺は帰宅直後の気温と大差なく、上着なしでは肌寒さを覚える程だった。
「綱吉」
「なんですか、もう。駄目です、此処は俺の席だから譲りませんよ」
追加で蹴られそうになって、綱吉は牽制で腕を振ってそっぽを向いた。心地よい温さの風を独り占めして、テーブルの上を無言で指し示す。
ぐちゃぐちゃになったビニール袋ふたつを見やって、雲雀は苛立たしげに舌打ちした。
けれど覚悟した苦情は聞かれなかった。渋々といった風情で歩き出し、黙々と買って来たものを整理して、それぞれ決まった場所に収納していく。
醤油や砂糖など、重たい上に片付ける場所がバラバラなものばかりが残されている辺りに、綱吉の狡賢さが表れている。面倒ごとを回避する能力だけは一人前だと、雲雀は誰にも聞こえない音量で呟いた。
もっとも、これくらい神経が図太くなければ、マフィアのボスなど勤まらないのだろうが。
無邪気でいられた子供の時間は終わった。数年前に成人式を済ませ、一応は社会人として独り立ちした事になってはいるが、雲雀も綱吉も、その身を置く職場はあまり大っぴらに出来るものではなかった。
片やマフィア、ボンゴレの十代目。片や風紀財団代表理事。
両者とも表向きはチェデフ同様、真っ当で健全な企業を装ってはいるものの、実体はかなり不穏だ。両隣や真向かい等に暮らすご近所様が真実を知ったら、大騒動になるのは間違い無い。
綱吉がこっそり籠に入れていたチョコレート菓子だけをテーブルに戻し、雲雀は使い終えた袋を畳んで引き出しに押し込んだ。数が増えて来たかとひとりごちて、背筋を伸ばしてカウンター越しにリビングを見る。
薄茶色の頭が、ストーブの前でリズミカルに揺れていた。
「つーなよし」
「はーい?」
「寒い」
名前を呼べば、つられてリズムを取ってしまった。
やや間延びした呼び掛けは、けれど格別指摘されなかった。きょとんとしながら振り返った青年にひっそり安堵して、雲雀は素っ気なく言ってカウンターを叩いた。
コン、と響いた固い音に首を傾げ、綱吉はややしてにんまり笑った。
「ナッツー」
けらけら笑いながら呟き、胸ポケットを漁って何かを取り出す。銀色の細長い装飾品を指に嵌めて、彼はごてごてした表面にそうっと唇を押し当てた。
可愛らしい音を立ててキスをして、丸みを帯びたフォルムにオレンジ色の炎を注ぎ込む。
刹那。
「ガウっ!」
ぼふん、となにかが破裂するような音が部屋に轟き、白い煙が綱吉の真横に湧き起こった。
一瞬ストーブが爆発したのかと危惧するが、そんなわけが無いと一秒後に気付いて雲雀は胸を撫で下ろした。煙はすぐに晴れて、空中をくるくる回転したオレンジ色の毛玉が綱吉の腕の中に収まった。
仰向けになり、四本の足と短い尻尾を機嫌良く揺らして、天空ライオンのナッツが楽しげに吼えた。
「ガウ? ガウガウ、ガウ!」
「あはは。こら、やめろって。くすぐったい」
呼びだされた理由は分からぬものの、大好きな綱吉に抱き抱えられて嬉しそうに身を捩る。ぺろりと指を舐められて、ナッツの主人たる青年もまた声を弾ませた。
成長期に入った綱吉はそれなりに背も伸びたが、ナッツは相変わらず掌サイズのままだ。もふもふした柔らかな毛並みも、鮮やかなオレンジ色の鬣も、昔からなにひとつ変わらない。
甘えて擦り寄ってくる仔ライオンを抱き抱えて、彼はぼうっと突っ立っていた雲雀に顔を向けた。
ダイニングテーブルの傍で惚けていた青年が、はっと我に返って息を吐く。いったい何のつもりかと訝しむ中、綱吉がナッツを手に立ち上がった。
不敵な笑みを浮かべる彼に、雲雀は警戒心を抱いて身構えた。
「落とさないでくださいよ?」
「え――って、君。ちょっと」
「ガッ、ガウ? ガゥゥゥッ!」
眉を顰めた彼に口角歪め、言うが早いか綱吉が僅かに腰を落とした。両手で掴んだナッツを、勢いつけて空中に放り投げる。
いきなりぽーん、と宙に舞い上がった獣は吃驚して目を見開き、緩い孤を描きながら足をじたばたさせた。
怖がっている悲鳴に心がきゅう、と締め付けられる。咄嗟に両手を伸ばし、雲雀は落下に転じたナッツを胸で受け止めた。
ぼふん、と鼻からシャツに突っ込んできた小さな生き物に安堵の息を吐き、目を吊り上げて前に向き直る。
「いきなり、なにするの。危ないだろう」
「平気ですよ。ヒバリさんなら絶対落とさないって、分かってたし」
「そういう問題じゃない。……ナッツ、大丈夫かい」
信頼してくれるのは嬉しいが、それにしたってナッツが可哀想だ。暖房器具を譲らない代わりに、その子を貸してやると言い放った綱吉に首を振って肩を落とし、雲雀は目を回している獣の頬を指の背で叩いた。
擽られ、目眩を起こしていたナッツが身を捩って鼻を愚図らせた。
「ガウ~~」
酷い目に遭ったと弱り切った声で鳴いて、スンスン言いながら雲雀のシャツに顔を押しつける。気のせいか、尻尾の炎が小さくなった気がした。
一方の綱吉はストーブの前にまたしゃがんで、暖気を独占して満足げだ。
「酷いご主人様だね」
「ギャピ!」
「ナッツ?」
「ガッ、ガウ。ガウガウ、ガウ~~」
カイロ扱いされたナッツに同情して囁き、喉や首の後ろも撫でてやる。ところが、いったい何が悪かったのか、天空ライオンは急に甲高い声をあげたかと思えば、嫌がってじたばた暴れ始めた。
慌てた雲雀が束縛を緩めた隙に逃げ出して、床を飛び跳ねながら主人の元に帰ってしまう。いつもは気持ちよさそうにしてくれるのにとショックを受けて、雲雀は呆然と立ち尽くした。
空っぽになった両手を見つめ続ける彼と、太腿に擦り寄ってくるナッツとを交互に見つめ、綱吉はほんの一寸凹んでいる鬣を梳いた。
「ガ~ウ~~」
「ヒバリさん、何かしました?」
「してないよ」
同じ場所を撫でられているのに、ナッツの態度が明らかに違う。嫌がらせに引っ掻いたのかと疑われて、雲雀は声を荒らげた。
即答で否定されて、綱吉もまた顔を顰めた。ごろんとひっくり返ったナッツを抱えあげ、首を捻る。尻尾の炎はすっかり元気を取り戻していた。
顔よりも高く掲げたナッツの足の下に、雲雀を見る。彼はまだ動揺が抜けきらないようで、線の細い体躯がわなわなと震えていた。
愛する小動物に拒まれたのだから、それも仕方が無い。同情しながらも苦笑を禁じ得ず、綱吉は猫のように長く伸びているナッツに目を細めた。
「なあ、どうしたんだ、お前。……って、ああ。そっか、もしかして」
当初は匣の中にいた彼は、いわば綱吉の分身だ。大空の炎を糧として、時に勇敢に戦う生物兵器だ。
日頃は雲雀に甘えてべったりのナッツが、今日に限って彼の手から逃げ出した理由。もし自分だったらと仮定して、彼は得心がいった様子で頷いた。
導き出された答えに相好を崩し、上機嫌なナッツのおでこをぴん、と弾く。
「ヒバリさん、手、冷たいから」
「なに、それ」
「寒いのは嫌だもん、なー?」
「ガウ!」
笑いながら告げられて、雲雀がムッとした。拗ねる彼におかしさがこみ上げて来て、綱吉はナッツに向かって高い声を響かせた。
どうやら答えはこれで合っていたらしい。元気いっぱいの吠え声に綱吉は呵々と声を震わせ、雲雀は冷徹な目でひとりと一匹を見つめた。
「冷たい子たち」
ぼそりと吐き捨てれば、綱吉が肩を竦めて目尻を下げた。
揃いも揃って温かい場所に居座り、動こうとしない。露骨に拗ねている二十代も半ばにさしかかった男を見上げて、彼は足を崩し、ストーブの前から十センチ程横にずれた。
直風を浴びようと隙間に潜り込もうとしたナッツを引っ掴んで膝に載せて、確保した空間をぽんぽん、掌で叩く。
「どうぞ」
「いいよ、別に」
「温かいですよ」
呼びかけたら渋られて、クスリと笑って尚も手招く。二度も誘われては断りきれず、雲雀はいかにも仕方無く、という風情で足を前に滑らせた。
短い距離を勿体つけて進み、綱吉の真横にどすん、と腰を落とす。
「わひゃ」
「狭い」
肩がぶつかる距離で座られて、圧迫感に思わず悲鳴が出た。身じろいだ彼をじろりと睨んで、雲雀は梃子でも動くものかという決意と共に吐き捨てた。
暖風を浴びて、芯まで冷え切っていた身体が熱を取り戻して行くのが分かる。但し真正面ではなく少し左にずれているので、温かいのも半分だけだ。
胡座を掻いて、横に飛び出した膝の分余計なスペースを使っている彼に苦笑を浮かべて、綱吉はじたばたしているナッツをぎゅっと抱き締めた。
自分はもう充分温もったからと、もう少し右に居場所を移そうと腰を浮かせる。
それを、勘違いしたのだろう。
「何処行くの」
「え?」
「なんでもない」
「……ああ。どこにも行きませんよ」
素っ気ない雲雀の呟きに、彼は間を置いて頬を緩めた。
広げた距離を詰め、突き出ている膝にナッツを置いて上半身を左に傾ける。肩に寄り掛かって来た綱吉をちらりと見て、雲雀は左膝を起こし、そこに肘を衝き立てた。
頬杖をついて、そのついでに顔の前に来た袖を捲れば、腕時計の代わりにゴツゴツしたブレスレットが現れた。
鋭利な棘を撫でて、薄く笑う。表面をサッと撫でた瞬間、紫色の炎が銀色の突起に吸い込まれていった。
ポンッ、とナッツの時よりも小さく軽い音が炸裂した。
「クピィ?」
「ガウ!」
空中に現れた棘を背負った生き物が、一回転した後に雲雀の左膝に着地した。滑り落ちそうになるのを堪えて首を傾げる姿に、いち早くナッツが反応した。
声高に吼えてスクッと起き上がり、狭い足場を物ともせずにジャンプして反対側に飛び移る。重みのバランスが崩れ、雲雀の身体が左側に大きく傾いた。
「キュピー!」
「おっと」
ナッツの前脚に弾かれたハリネズミが泣き喚き、転落寸前のところで雲雀が手を滑り込ませた。まさか落ちるとは思っていなかったナッツは反省したのかしゅんとして、三角形の耳を前に折り畳んだ。
「大丈夫だよ」
目に見えて落ち込んでいる子ライオンを撫でて慰め、ロールも床に下ろしてやる。喉を擽られたナッツは、今度は嫌がらなかった。
今のは不慮の事故だから、ロールも怒ってなどいない。ごめんね、とでも言っているのか頭を垂れた獣に微笑み返し、長い鼻を伸ばしてツンツン、と自分よりも大きな生き物に擦り寄った。
鼻同士をぶつけ合って、そのままじゃれ合って床の上を転がり回る。
なんとも微笑ましい光景に相好を崩し、綱吉ははたと我に返って背筋を伸ばした。
「別にいいのに」
「え?」
「なんでも」
凭れ掛かっていたのを、姿勢を正して座り直してしまう。心地よい重みが消え失せたのを不満に思いながらの独白は、綱吉の耳には届かなかった。
もう一度言ってくれるよう目で訴えられるが、繰り返し言えるような台詞ではない。照れを誤魔化して首を振り、彼はリビングを駆け回っている二匹を目で追いかけた。
「仲良いですねー」
気を取り直した綱吉も同じ光景を眺め、しどけなく笑った。朗らかな微笑みに目を細め、雲雀は小さく頷いた。
「そりゃあ、ね」
ナッツが綱吉の分身だというのなら、ロールだってそうだ。あの二匹が仲違いする日など、恐らく永遠に、ありはしない。
得意げな顔をしている彼を横目で盗み見て、綱吉は大粒の眼をぱちぱちさせた。あまりに自信満々だった彼の返答の意味を、ちょっとの時間考え込んで。
「ぶっ」
咄嗟に両手で口を塞いだものの、それでも漏れた息が不協和音を奏でた。
いきなり噴き出されて、肩をぶつけられた雲雀は何事かと身を竦ませた。テーブルの足許で団子になっていたナッツとロールもが、必死に笑いを堪えている綱吉を怪訝な目で見つめた。
「なんなの、急に」
「いえ。あはは、いえっ、いえ、なんでも。なんでも……、なっ」
腹筋が引き攣って、上手く喋れない。同じ台詞を何度も繰り返す彼に呆れて、雲雀は盛大に嘆息して腕を伸ばした。
反対側の肩を抱かれて、ぐいっと乱暴に引き寄せられた。
「ヒバリさん」
「少し、黙りなよ」
「……ンっ」
ストーブを蹴りそうになって、綱吉は急いで膝を引っ込めて迫る胸を手で押し返した。けれど雲雀は抵抗を力業でねじ伏せて、綱吉の唇を乱暴にかっ攫った。
眇められた黒水晶に映る自分を見たくなくて、慌てて目を閉じて喉を鳴らせば、唇を重ねたまま雲雀がクツリと笑った。
騒がしかったテーブル周辺もが静かになって、ストーブが熱風を吐く音ばかりがリビングに響き渡る。その中にくちゅりと濡れた水音が混じって、綱吉はうっすら涙を浮かべ、琥珀の瞳を歪ませた。
甘い痺れを発する舌を咥内に引っ込め、意地悪い顔をしている男をねめつける。雲雀は薄く笑い、窄められた唇を指で小突いた。
押しつけられた指先を浅く咬んで、綱吉は物言いたげな眼差しに含み笑いを零した。
「ヒバリさん、まだ冷たい」
「そう?」
「そうですよ」
皮膚に残る湿り気を拭い取った指を追い掛けて膝立ちになり、胡座を崩した雲雀の足許に潜り込む。両腕を高く掲げて肩に抱きつけば、耳元で雲雀の笑う声がした。
腹に力を込めて、彼はゆっくり後ろに倒れていった。上に覆い被さって、綱吉はトクトク言っている心臓をシャツ越しに撫でた。
早鐘を鳴らす鼓動に掌を重ねて、目を細める。
「だから、俺が温めてあげます」
意味ありげに囁き、首を前へと。
優しい温もりに包まれる夢を見ようと、雲雀も静かに目を閉じた。
2012/01/14 脱稿