情無

 重い一撃に綱吉の身体がぐっ、と沈んだ。
「十代目!」
 上空で繰り広げられる激しい攻防を見上げていた獄寺が、悲鳴のような声を上げて蒼白になった。右半身が斜めに傾き、今にも崩れ落ちそうになっていた綱吉はその絶叫でハッと我に返り、続けざまに襲って来た緑色炎をすんでの所で回避した。
 直前まで彼がいた場所を、凄まじい勢いで高熱の塊が駆け抜けて行った。後方で炸裂音を響かせた熱塊の行く末を見守る事なく、彼は奥歯を噛み締めて全身に力を漲らせた。
 気を抜けば死ぬ。ぴりぴりと肌を刺す殺意に心を砕かれる前にと、綱吉は甲を覆う武器の下で強く拳を握り締めた。
 敵は、次はどこから。
 近付いては離れ、離れては不意を衝いてまた接近を繰り返す厄介な相手を探し出そうと目を凝らし、闇を凝視する。地上から立ち上る灰色の煙が邪魔でならず、鼻腔を刺激する油の臭いもまた不快だった。
 車で移動中を狙われた。同乗者は果たして無事だろうか。獄寺が一緒に居るので平気だろうが、心配は心配だ。
 頼りになる右腕は、恐らく本部に救援を求める連絡を入れている筈。それまで持ちこたえれば良いだけの話だが、月のない闇夜に乗じて襲って来た連中の正体も、人数も、まだ何も分かっていなかった。
 囲まれたら終わりだ。闘える綱吉や獄寺はまだ良いが、車には他に、戦闘力が皆無に等しい穏健派ファミリーのボスも乗っていた。
「下は……いや、考えるな」
 狙われたのが誰なのかを熟考している暇はない。今は目の前の戦闘に集中すべきで、この際余計な思考や感覚は排除してしまおうと、綱吉はほんの少しだけ肩の力を抜いた。窄めた唇から息を吐き、肺いっぱいに満ちるように吸い込む。
「ぐわっ」
「獄寺君?」
 そこへ唐突に、聞き慣れた声が紛れ込んだ。
 明らかな悲鳴に、集中が乱された。咄嗟に名前を呼んでしまい、視線まで下を向いたところで、彼は背後から迫り来る黒々しい気配に気付いて背筋を粟立てた。
 ぞわりと来る悪寒に襲われて、頭は動けと命令するのに身体は言うことを聞いてくれない。
「しま……っ」
 こんな罠に嵌るなど、中学生以下だ。
 一瞬で血の気が引いた。見開かれた琥珀の瞳に、勝利を確信した男のいやらしい顔がいっぱいに映し出された。
 雷の炎を身に纏って、綱吉を真っ二つにせんと巨大な武器を高く掲げている。身の丈くらいありそうな刀身の剣は片刃で、切り裂くというよりは「叩き潰す」のを主体にした、言ってしまえばただの鉄の塊だった。
 そこに硬化の効力を持つ雷の炎をコーティングしているのだから、これが振り下ろされた時に発揮される力がどれほどのものかは、出来るなら想像したくなかった。
 全身の骨が砕け散る様を脳裏に描き出して、綱吉は発作的に両腕を頭の上で交差させた。鮮やかなオレンジの炎をその一点に集中させて、少しでも衝撃を回避しようと身構える。
 闇の中で男がにっ、と口角歪めて笑った。貴様の貧弱な力で防げるものかと、勝利を確信しての笑みだった。
 偶然見えた表情に、日頃は眠っている負けん気が途端に膨らんだ。ぼっ、と日の出を思わせるオレンジ色が一層輝きを増して、綱吉を包み込んだ。
「なにぃ!」
 急激に膨張する炎に驚愕し、大剣を掲げた男が僅かに怯んだ。腕の隙間から睨み付け、綱吉は振り下ろされようとしている鉄塊に焦点を定めた。
 素早く構えを解き、大空の炎を両の掌へと集約させる。
 大空の炎は、調和の炎。あらゆるものを石化させ、無効化させる能力。
 こんなちゃちな相手に砕かれてしまうような、見た目ほど柔らかい力ではない。
「うおぉぉぉぉぉおっ!」
 振り上げられた拳は、簡単には止まらない。勝敗は既に決したと、直感的に悟ったところで、中空に身を躍らせた後の男が退くなど不可能に等しかった。
 先ほどまでの穏やかで優しげな顔立ちから一変したボンゴレ十代目に臆し、鋭い眼光に恐れおののいて周囲への注意を疎かにする。
 それは眼前の敵に気を取られていた綱吉も同じだった。
 ひゅっ、と不自然な風に頬を撫でられて瞬きをして、下から駆け上ってくる覚えのある気配にふるりと身震いする。視界に音もなく紛れ込んだ鋭い棘が、一瞬にして巨大化してふたりの間に割り込んだ。
 黒い影を背負った男が前を塞いだ。
 荒々しい緑の炎が、呆然とする綱吉に襲いかかった。
「――っ!」
 刹那、鼓膜を突き破る轟音が空を貫き、痺れるような痛みが彼を飲み込んだ。冬場に浴びる静電気の、その何十倍もの衝撃に頭がくらりと来て、飛び散った炎に網膜を焼かれて目の前が真っ白に染まった。
 視覚も聴覚も遮断されて、自分の身になにが起きたのかまったく把握出来ない。息さえ止めて声を殺した綱吉は、吹っ飛ばされて背中から落ちようとしている自分に遅れて気付き、慌てて炎を逆噴射させた。
「ぐ、う」
 ぐんっ、と引っ張られるような感覚に呻いてどうにかバランスを取り戻し、首を振って瞬きを繰り返す。なんとか視力を回復させようと瞼に張り付いた残像を払い除けて二秒後、彼は弾き飛ばされる直前に見た光景に騒然となった。
 ただでさえ青白かった顔色をより悪くして、紫色に変色した唇を噛んで浅く息を吐く。
「ヒバリさん!」
 見れば地上から天に向かって棘を持つ球体が、まるでおとぎ話に出て来る豆の木のように積み上げられていた。
 裏返った綱吉の声に、針球体の頂上に居た男の肩がピクリと跳ねた。その手前には、綱吉に躍りかかろうとしていた敵組織の男がいて、大剣を振り抜いた状態で停止していた。
 斬撃を左に持ったトンファーで受け止めて、右腕は綱吉の位置からでは見えない。そう思っていたら白目を剥いた男の身体がぐらりと傾ぎ、剣の重みに引きずられる格好で地上へと落ちていった。
 雷の炎は掻き消えていた。雲雀が右腕を振り、男の腹を抉ったトンファーを握り直した。左手に構えたトンファーが、微細な震動を受けてパキリと不穏な音を響かせた。
 恐ろしい程ギミックに富みながら、強度はまるで損なわれていないと評判だった彼のトンファーも、今の一撃は防ぎ切れなかったらしい。ぺきぺきとヒビを増やし、やがて真ん中でぽっきり折れてしまった愛器に合わせ、彼が足場にしていた針球体の表面にも次々と亀裂が産まれ始めた。
「ヒバリさん……?」
 獄寺の呼んだ増援の中に彼が居たのは、神の気まぐれとしか思えない。足許に注意を向ければ、あちらはとっくに終わった後のようで、襲撃者は大半が捕縛され、怪我人の搬送作業が始まっていた。
 あそこで雲雀に庇われずとも、綱吉は問題無くやり過ごせた。が、助けられたのは事実。この場は礼のひとつでも言っておくべきだろうと考え、後ろからゆっくりと近付く。
 その手前で。
「え?」
 唖然と綱吉が見守る中、音ひとつ立てずに針球体が木っ端微塵に砕け散った。
 上にいた青年諸共暗くも明るい地上に落下していく破片に、彼は。

「よっし、これで終わりだ」
「怪我人を叩かないで」
 ぺしっ、と小気味の良い音が部屋に響いた。うっすら傷痕が残る腕と肩を抱いて苦々しい顔をした雲雀を見下ろし、了平はご満悦の表情で白い歯を見せた。
 彼の脳天気さと気楽さは、ボンゴレ十代目ファミリーの中でも群を抜いている。親指を立てて「もう怪我人ではなかろう?」と聞かれてしまい、雲雀は疲れた様子で肩を落とした。
 治療の為に脱いでいたシャツに袖を通し、ボタンを上から順に留めていく。一方椅子から立ち上がった了平は機嫌良さそうに鼻歌を歌い、のんびりした足取りで歩き出した。
 白一色の四角い部屋にはちょっとした治療道具以外、ベッドと椅子くらいしか無い。使用目的が明確に示された空間には窓すらなく、内と外を繋ぐのは厳めしいデザインの扉ひとつだけだ。
 了平が向かう先を一瞥して、雲雀は興味なさげにため息をついた。
 身なりを整えていく仲間に苦笑して、了平はドアの前で足を止めた。
「あんまり無茶はするな」
「誰に言ってるの」
「俺は怪我なら治せるが、傷までは消せないからな」
 嫌味なのか愚痴なのか、兎も角独り言を残して短髪の青年が部屋を出て行く。告げられた意味不明な言葉に緩慢に頷いて、雲雀は椅子に座ったままネクタイを首に回した。
 しゅるりと襟の裏に通し、慣れた手つきで結ぼうと指先に力を込める。
「……っ」
 途端に左肘から肩に掛けて鈍い痛みが走り、薬指が痺れてひとりでに反り返った。
 太さの異なる布がだらりと垂れ下がり、先端が当て所なく揺れた。荒い息を吐いて唾を飲み、雲雀は思うように動かせない左手を呆然と見つめた。
「痛みますか?」
「!」
 引きつけを起こして小刻みに震えている掌を注視していたら、真後ろから声が飛んできた。完全に油断していた彼は大仰に肩を跳ね上げ、飛び出そうになった心臓を服の上から押さえ込んだ。
 いったい、いつから。
 まるで気配を感じさせなかった相手が誰であるかは、振り返って確かめるまでもなかった。
 それでも顔を向けてしまったのは、知りたいという、人として誰もが持ち得る願望の帰結だろう。長い時間をかけて息を吐き、雲雀は目を吊り上げて睨んでくる青年に相好を崩した。
「やあ」
「やあ、……じゃないです。やあ、じゃ!」
 久方ぶりの再会を果たした時のように、簡単な挨拶ひとつで済ませようとしないで欲しい。憤りを隠しもせず怒鳴り、綱吉は凭れ掛かっていたドアから離れてツカツカ歩き出した。
 大股で、足音を喧しく響かせながら短い距離を詰めて雲雀の前に立つ。両手は腰に当てて胸は反らせて、少しでも迫力を持たせようという努力を欠かさない。
 威圧的な態度に肩を竦め、雲雀はネクタイを諦めて脱ぎ捨てていた上着に手を伸ばした。
 それを、綱吉が横から払い除けた。
「なにするの」
 打たれた手首を庇い、雲雀が不機嫌そうに口を尖らせた。落とした黒いジャケットを改めて拾い上げて、付着した埃を払い落とす。但し痛むのか、左腕はあまり動いていなかった。
 右腕一本を忙しく働かせる彼を見下ろし、綱吉は長袖シャツの所為で見えない引き締まった体躯に思いを馳せた。
 あの時、綱吉の前に割り込んだ雲雀は攻撃を防ぎ切れずに片腕を負傷した。
 上腕骨にヒビが入り、その周辺の筋肉にも負荷が掛かって一部が破損してしまった。真ん中で折れてしまったトンファーのようにならなかっただけマシ、というのは山本の弁だ。
 了平の炎の効果で傷は癒えたものの、ダメージが全て消えたわけではない。無理をすれば、折角繋いだ骨が今度こそ砕けて、晴れの炎でも治せなくなってしまう。
 そうなれば自然治癒を待つしかなく、雲雀も思う存分動き回れなくなる。数ヶ月単位の入院生活が必要で、縛られるのをなにより嫌う彼にとって、それは苦痛以外のなにものでもない筈だ。
 けれど、その怪我だって、本当は。
「それは俺の台詞です」
 不満げな視線を跳ね返し、綱吉が鼻息荒く捲し立てる。黒い前髪を揺らし、雲雀は怪訝に眉を顰めた。
 怒られる理由がまるで分かっていない表情に苛立ちを募らせて、綱吉は落ち着きなく床を蹴って頭を掻きむしった。
 言いたい事は沢山あって、了平の治療が終わるのを廊下で待っている間に一通りまとめて来たというのに、いざ本人を前にした瞬間、真っ白になってしまった。いったいなにから話すつもりだったのか、五分前の自分を捕まえて問い質したい気分だった。
 薄茶色の毛を何本か引き抜いて床に落とし、彼はゆるゆる首を振って顔を上げた。
 上着を膝に抱いた雲雀が、黙って続きを待っていた。目が合って、吸い込まれそうな艶がかった黒い眼に胸がトクンと高鳴った。
 心臓がきゅうっと窄まって、息苦しさに襲われた。年甲斐もなく恥じらい、顔を赤らめて、綱吉は言葉を求めて琥珀色の瞳を左右に泳がせた。
 黒のネクタイを結びもせず、襟元もボタンを嵌めずにいる男の頸部に、薄く残る傷跡が見えた。
 そこだけではない。着衣に隠れて普段は見えないけれども、彼の全身にはそれこそ数え切れない傷痕が刻みつけられていた。
 古いもの、新しいもの、形や大きさも様々だ。傷を負った状況もそれぞれ異なっている。ただ彼が負傷する原因だけは、全て同じだった。
「次やったら、許しません」
 今回だってそうだ。思い出せる全ての記憶を振り返り、綱吉は声を絞り出して呟いた。
 長めの前髪を垂らして顔を伏し、表情を隠す。最初は真一文字に引き結ばれていた唇も、そのうちに我慢が利かなくなったのか、何度も開閉を繰り返した後に上唇を噛み締める形で落ち着いた。
 喘ぐような息継ぎが聞こえなくなって、雲雀は嘆息と同時に腰を浮かせた。背もたれの無い椅子の上で向きを変えて、立ち尽くす青年が正面に来るように座り直す。
 座面から押し出された空気が変な音を立てた。それを笑いもせず、綱吉は真面目に聞こうとしない男を渾身の力で睨み付けた。
「許しません。次あんな真似したら、絶対!」
 雲雀が来なくても、勝てた。
 雲雀が庇う必要など、どこにもなかった。
 なにも問題無かった。確かに一寸危うい瞬間もあったけれど、攻撃を回避する術は残されていた。構えだって出来ていた。
 雲雀が乱入してくる理由など、どこにも存在していなかった。
 それなのに彼は、無理矢理介入して来た。
 しなくて良い怪我を、負った。
 肩を震わせ、目に涙を溜めながら怒鳴る彼を雲雀はじっと見つめた。ひと通り文句を言い終えて荒い息を吐く綱吉に目を眇め、シャツの上から今し方了平に治して貰ったばかりの左腕を撫でる。
 掴んで軽く握れば、今度は中指に痺れが走った。ピクリと痙攣を起こしたのが面白くて笑っていたら、ダンッ、と荒々しい足音がひとつ響いた。
 前を向けば綱吉が怒り心頭の様子で拳を固くしていた。
「綱吉」
「約束してください」
 切羽詰まった声で、必死に懇願された。今にも零れ落ちそうな涙を見上げて、雲雀はふっ、と鼻から息を吐いた。
「いいよ、許さなくて」
「……え?」
「許してくれなくていい。許されるつもりもない」
「ヒバリさん、なに言って」
 平然と、呆気ない程簡単に。
 さらりと告げられたひと言の意味を取りあぐねて、綱吉は何度も瞬きを繰り返した。
 後ろ向きに崩れそうになった身体を、右足を僅かに引く事で保ち、右手は額にやって俯いて目を見開く。見えるのは白一色の床ばかりだが、脳裏では昨晩の出来事が、音声付きで際限なく再生され続けた。
 崩れ落ちる針球体、一緒に落下する雲雀の身体。
 意識を失ってはいなかったが、雲の炎を維持するのが難しかったようだ。急ぎ下に回り込んだ綱吉が抱き留めなければ、彼の体躯は地面に叩き付けられていただろう。
 そうなったら、こんな怪我では済まなかった。
 わざわざやらなくて良い事をやろうとする、彼の真意が見えない。自分の身体を酷く痛めつけるだけの結果に終わって、綱吉にまでこうやって詰られているのに、どうして平然と笑っていられるのかが分からない。
 混乱する彼に目尻を下げて、雲雀はもう二度、三度と腕を撫でた。
「許して貰おうだなんて、最初から思ってないよ。沢田綱吉」
「なんで。変な事言わないで」
「どこが変なのさ。ああ、ねえ、君。この傷、いつのか覚えてる?」
 消えない傷痕を無数に作り出し、当面は不便な生活を強いられるというのに、全く反省の色が見られない。意味不明だと混乱して頭を抱える綱吉に向かって話題をすり替え、雲雀は左袖を捲って手首を表に出した。
 周辺の皮膚に比べて、赤黒くくすんでいる場所があった。ウズラの卵ほどの大きさの楕円形をした痣に目を落とし、綱吉は露骨に嫌そうな顔をした。
 忘れる筈がない。それもまた、彼が綱吉を庇って敵の攻撃を受けた際に出来たものだ。
 襟から覗いている頸部の傷は、崩れそうになった建物から脱出する時に落ちて来た瓦礫を受けて出来たものだ。血が大量に出て、あの時は流石に駄目かと覚悟した。
 思い出すだけでも冷や汗が出る。幸いにも医療班が頑張ってくれたお陰で一命を取り留め、後遺症もなく日常を過ごせてはいるけれど。
 小鼻を膨らませて苦悶の表情を浮かべた綱吉に、雲雀は満足げに頷いた。袖を整えて傷を隠し、肌寒さを覚えて上着を羽織る。左腕は、依然動かしづらそうだった。
 つい手伝ってやろうとして、思い留まって綱吉は歯軋りした。行き場のない右手で左上腕を握り締めて、椅子の上の青年から目を逸らす。
 先ほどまでの怒りは何処に消えたのか、今はとてつもなく哀しげにしている彼を見つめ、雲雀は頬を緩めた。
「君は、物覚えが悪いから」
「なにをいきなり」
「こうでもしないと、ね」
「……ちょっと待って」
 急に悪口を言われて視線を戻した矢先、立て続けに言われて綱吉は閉口した。琥珀色の瞳を零れ落ちんばかりに見開いて、カチリと音立てて嵌ったパズルのピースに息を呑む。
 確かに綱吉は、学生時代からとんでもなく頭が悪かった。理解力に乏しく、記憶力は皆無に等しい。難しい本は枕代わりにしかならず、イタリアに渡って数年経つ今も、現地の人々との会話に事欠く有様だ。
 忘れっぽいのは本当なので、否定出来ない。問題はその後だ。
「まさか、そんな事の為に」
「そんなこと扱いは、酷いね」
 茫然自失としたまま言葉を重ねれば、雲雀が素っ気なく言って立ち上がった。
 結べないネクタイは諦めて引き抜き、丸めてジャケットのポケットへ押し込む。身長差が逆転して見上げなければならなくなった綱吉は、目の前を塞ぐ男の綺麗で意地悪な微笑みに圧倒されて瞬時に顔を伏した。
 勝手に赤くなる顔を隠し、じわじわこみ上げて来る感情が外に漏れていかないよう、きつく唇を噛み締める。
 雲雀の傷を見る度に、綱吉はその日の事を思い出す。
 絶対に、忘れることはない。
 その瞬間だけではない。その前後に起きた出来事、会話さえもが記憶に留め置かれる。魂に刻みつけられ、永遠に色褪せない。
「そこまでしなくても、俺は忘れません」
「さあ、どうかな」
 だがなにもそうまでせずとも、綱吉は雲雀と過ごした日々をちゃんと覚えているし、忘れてなどいない。中学生時代に起きた事件の数々、殴られた痛みや冷たく吐き捨てられた台詞だって、きちんと心の中に残されている。
 こうまで信用されていなかったとは、思わなかった。あんまりな事実に怒りを通り越していっそ憐れみすら抱き、綱吉は深く肩を落として項垂れた。
 その垂れ下がった前髪を掬い上げ、雲雀は艶々している白い額を親指で擽った。
 皮膚を引っ張られ、微かな痛みに瞳だけを上向ける。彼は笑っていた、とても楽しそうに。
「むぅ」
 そんな顔をされたら、怒れない。頬を膨らませた綱吉の不満げな眼差しを受け流し、雲雀は剥きたてのゆで卵にも負けないおでこに触れるだけのキスを落とした。
 ご丁寧に、ちゅ、という可愛らしい音を大袈裟に響かせて。
「ちょっと、なに」
「それにね、小動物」
 不意打ちも良いところで、まさかくちづけられるとは思っていなかった綱吉は少女のように頬を赤らめた。
 触れられた場所を手で隠そうとする彼を妨げ、雲雀が細い手首を掴んで外に追い払った。前に出て距離を詰め、漆黒の双眸を眇めて意地悪く微笑む。
 最近は呼ばれる事が減っていた、あまり嬉しくない愛称をくちずさまれて頬が引き攣った。硬直している綱吉を近くからじっくり堪能して、雲雀は薄い唇をぺろりと舐めた。
 獰猛な肉食獣に品定めされている気分だった。落ち着かなくて逃げようと藻掻くが、怪我人相手に乱暴に出来ないとブレーキが掛かってしまって巧くいかない。せめてもの抵抗にと膝で蹴ってみるものの、効果はまるで無かった。
「あの、ヒバリさん」
 放してくれるよう訴えて顔を上げれば、すこぶる愉しそうにしている男がそこにいた。
 窄めた口から息を吐き、耳朶を擽って小声でことばを紡ぎ上げる。囁かれたひと言に瞠目して、三秒後、綱吉は遠慮も気遣いも忘れて彼の胸を突き飛ばした。
「さっ、さいってい!」
「危ないね」
 後ろにふらついて椅子を蹴倒した雲雀が、衝かれた場所を撫でながら苦情を言う。だが綱吉は文句を無視し、未だじんじん熱を持つ耳を片手で覆い隠して肩を怒らせた。
 顔のみならず首まで赤くしている彼を眺め、椅子を起こした雲雀が声もなく笑った。
「性格悪いです、ヒバリさん。最低。有り得ない。酷い。俺は貴方の玩具じゃないです」
 地団駄を踏んで大声で捲し立てるが、どれひとつとして雲雀にダメージを与えられない。軒並み跳ね返されてしまって、一分としないうちに息が切れて罵声は途絶えた。
 肩で息をする彼を見下ろし、雲雀が肩を震わせた。
「今更だね」
「この……変態!」
 雲雀の性格が歪んでいるのは、綱吉だってとっくの昔に把握済みの筈だ。
 それでも彼が良いと、選んで決めたのは綱吉自身だ。当時の決断は間違いではなかったと信じているし、今後もその決意は変わらない。
 ただ時々は、少しだけ、どうして彼の手を取ってしまったのかと過去の自分に首を捻りたくなることもある。
 怪我をした雲雀を見て哀しそうに、辛そうにしているところを眺めるのが楽しいなど、そんな風に思われていたなど。
 出来るものなら一生知りたくなかった。
「馬鹿、人でなし。ろくでなし。甲斐性なし!」
「最後は否定したいところだね」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。僕は充分、君を守ってあげているだろう?」
 左腕が伸びてきた。傷を負ったばかりの手で抱き締められた。
 抗えなくて、綱吉は鼻を愚図らせて息を止めた。こみ上げて来る感情が表に出てしまうのを防ごうと踏ん張るが、叶わない。
「ヒバリさんなんか、永遠に、許してあげないんだから!」
 鼻声で怒鳴って、拳を振り上げる。
 雲雀は黙って、痛くない一撃を受け止めた。

2012/01/07 脱稿