Thorn

 がしゃん、ごとん、がらがら……ずどん。
 床下を響いてくる怒濤の轟音を足の裏で聞きながら、はてこれはなんだろう、とアッシュはのんびりとした風情で首を傾げた。
 今は午後、昼食と夕食のちょうど中間辺りの時間帯。お仕事の打ち合わせは午前中に片付けて、残るセッション等は夕食後の時間を使おうという事になっての、しばしの自由時間だ。
 ユーリは食後の昼寝にと早々に部屋へ籠もってしまって、アッシュは台所で新作おやつの制作中。前に作ったものはスマイルのみならず、ユーリにまで「甘すぎる」と不評であったため、今度は甘さを控えめにしての再挑戦でもあった。
 今回は自信があるぞ、と腕まくりに意気込んで昼食の片づけとほぼ同時に作成に入った彼だったけれど。どうも普段以上に仕事の効率が悪くて進みが遅い。
 それもこれも、さっきからひっきりなしに足裏に伝わってくる振動と騒音が原因だった。
 ユーリの城は広い、はっきり言って借宿ではあるものの部屋を拝借して住み込んでいるアッシュは城内に、果たしてどれくらいの総数で部屋があるのかを把握していなかった。もしかしたら城主であるユーリ自身さえも知らないのかもしれない、前に城内を探索していたスマイルが階段裏に秘密の小部屋を見つけてはしゃいでいた事を思い出す。
 ここは本当、退屈しないね、というのがその時のスマイルの弁だ。彼は頭に蜘蛛の巣を貼り付け、あちこち擦り傷だらけになっていたのに本当に楽しそうだったから、多分今日もまたどこかから地下に潜り込んで探索を実行しているのだろう。
 暇が無いときは唐突に何処かへ出かけてしまって行方不明になったりするのに、暇なときも予告無く姿をくらましてくれるから、一緒にバンドを組んでいる方としては良い迷惑なのだけれども。
 どがんっ。
「ああ、また……」
 一際大きな音が伝わってきて、アッシュは泡立て器のクリームをボゥルに落としながら苦笑する。悲鳴までは聞こえてこなかったが、多分何かを落としたのか躓いたのかしたのだろう、台所のこの位置でもはっきりと分かるくらいに響いてきたから、本人には相当巨大な音が襲いかかったの違いない。
 風呂を沸かして置いてやった方が良いだろうか、おやつが完成する頃には戻ってくるだろうけれど、彼はきっと埃だらけでもの凄い状態になっているだろうから。
 うん、そうしよう。アッシュはひとつ頷いて自分に決意を表明すると、手早くボゥルのクリームを掻き混ぜていく。コンロの上にフライパンを置いて、薄く油を引いてからコンロの火をセット。
 ちらっと壁時計を見上げ、焼き上がりまでの時間を計算しながらフライパンに薄く広げた生地を載せる。
 さっきまで散々響いていた音は、次第に小さくなってきていた。探索のやりすぎてお腹が空いたのか、それともどこかぶつけて痛みに耐えかねたのかは分からないが、ともかく地下室からスマイルは去っていったらしい。そのうち戻ってくるだろう、とアッシュはフライパン上のパンケーキに意識を戻した。
 薄力粉にバターとクリームチーズを練り込んだ生地は、表面に焼き色を付けて外側をカリッと仕上げるのがポイント。
 鼻歌混じりに上機嫌で焦げ目のついた生地を器用にひっくり返し、裏側にもしっかりと焼き色をつける。さて上にはなにをトッピングさせようか。生クリーム以外にも、ジャムでも案外いけるかもしれないし。
 楽しげに考えながら一枚目を焼き上げて、二枚目に移ろうとしたところで、ガタン、と今度は地下からではなく随分と近い場所で物音がした。
「?」
 コンロのガスを切り、アッシュは音がした方角を見た。開いたままの扉の向こうで、リビングがなにやら騒々しい。
「アッシュ君!」
 物音は足音に変わって、叫び声に似た呼び声にアッシュはフライパンの取っ手から手を放して完全に身体ごと振り返った。薄い湯気を立てている、今まさに焼き上がったばかりのパンケーキの向こう側で、悲壮な顔をしたスマイルが右手を抱えるようにして立っていた。
 なにやら尋常ならぬ雰囲気を感じる。スマイルの頭にやはり前回の如く、千切れた蜘蛛の巣が乗っかっているのはさておいて、彼の表情はやたら真剣で逆におかしいくらいだ。
「どうしたんスか?」
 なるべくやんわりと、彼の気に障らぬ程度に柔らかな表情で問いかける。地下室に潜ってそのまま上がってきたらしくスマイルの全身は、テーブルを挟んで台所のコンロと入り口、というほぼ対角線上にあるアッシュの目から見ても分かるくらいに埃まみれ。その状態で頼むからキッチンに入ってくれるなよ、と言いはしないが切に心で願ったアッシュの気持ちが通じたのか、スマイルは入り口前で足を止めたまま膨れっ面で彼を睨み返していた。
 抱きしめている右手は、そのままで。
「?」
 却ってそれが、彼の右手になにかがあると勘付けさせてアッシュはまた首を捻る。
 焦れったくなったのか、スマイルはその場から叫んだ。
「とげ抜き、どこ!?」
「は?」
「だから、とげ抜きだってば」
 これ、とスマイルは見えない事を承知の上でアッシュに向かい、それまで庇うように抱いていた右手を突きつけた。広げた手の平の、中指が少し赤くなっていることだけかろうじてアッシュは把握した。
 するとさっきのリビングからした物音は、彼がとげ抜きを探して薬箱を求めた時の騒音だったのだろうか?
 焼きたてパンケーキが少し冷めつつあった。
「トゲ?」
「刺さったの!」
 見れば分かるでしょう、と見えていない相手に向かってまた怒鳴ってスマイルは頬を膨らませる。
「そこに無かったっスか?」
「無かったから聞いてるんでショ!」
 どことなく間抜けな会話が展開される。痺れを切らしたスマイルが「ああもう!」とその場で地団駄を踏んだ。
 アッシュの記憶の限りでは、とげ抜きは薬箱の一番端のごちゃごちゃと色々なものが詰め込まれたスペースに押し込んであったはずだ。もとから小さいものであるし、紛れてしまっては見つけるのも大変だろう。
「どんな具合なんスか?」
 とりあえず先にトゲがどんな感じで刺さっているのかを見せてみろ、とアッシュは言った。けれどスマイルはその場から動こうとせず、伺うように室内に目をやっている。
「スマイル?」
「ん、だってほら、ぼく今もの凄く汚いし」
 地下から一直線で上がってきてしまったから、リビングはまだしも食物が並ぶキッチンにまでこの状態で立ち入るのは気が引ける、と彼は出しかけた足を引っ込めた。ああ、とアッシュは頷いてから改めて首を振った。
「そこで、埃払ってくれれば良いッスよ」
 言いながらテーブル上のパンケーキと、まだ焼いていない生のままの生地をシンク台の方へと移す。そしてアッシュはテーブルを回り込み、スマイルの側へと寄った。
「どれっスか?」
「中指」
 差し出された右手を取り、アッシュは尋ねる。返事は先程感じた通りの解答で、またもうひとつ頷いてアッシュは彼の指先、第一関節の腹に目を凝らした。
 刺さっている、確かに。木……だろうか、薔薇なんかにあるトゲとは違う。
「何やったんスか?」
 コレ、と持ったままの彼の手を反対の手で指さすと、スマイルはばつが悪そうに上目遣いになってアッシュを睨んだ。
 言いたくなければそれでも構わないっスけどね、とやや呆れた調子で言い返してやれば、スマイルはむくれた顔のままぼそりと、
「額縁」
 それだけを口にして視線を逸らした。
「額?」
「落ちてきた奴、退けようと思ったら刺さった」
 かなり年代物らしく、作りが甘くなって痛んでいたその木組みの額縁がささくれ立っていた場所に運悪く、スマイルは手をやってしまったらしいとの事だった。初めはもっと大きな刺だったのだが、左手で抜こうと頑張っている間に皮膚からはみ出ている部分が千切れてしまった、とも。
 だから彼の右手中指に刺さった刺は、皮膚の内側に潜り込んでしまっている部分だけが残されている事になる。
 そしてスマイルの見通しは甘く、この深さではとげ抜きではもう抜き取ることが出来そうにないと、アッシュは見た瞬間に思った。多分、途中で折れてしまわなければとげ抜きでも対処出来たかもしれないが、もうこれでは無理だ。
 正直に告げると、スマイルは途端泣きそうな顔を作る。
「え~~~~!!!!?」
 思い切り、不満顔。だけれど彼にアッシュを責める権限は無い。元々初期に対処を誤ったのはスマイル自身であり、アッシュは客観的な立場から事実を言ったまでなのだから。
 けれどじくじくとした鈍い痛みを延々訴え続けている右手をスマイルは抱えており、その痛みをぶつける矛先は今目の前にいるアッシュに向くしかない。不条理だとは思いつつも、どうしようもなかった。
「痛いっスか?」
「当たり前でしょ~~!?」 
 痛くなかったら放っておくよ、とまで言ってのけてスマイルは自分の右手をアッシュから取り返した。
 取れないかもしれない、と言われた途端に痛みが増してきた気がして、効果は期待できないのに息を吹きかけて冷ましてみたりする。確かに刺の刺さった箇所は僅かだが熱を持っていて、小さく膨らんで赤くなっていた。
「抜く方法はあるっスけど」
 ベースを弾くスマイルにとって、右手は例え利き腕でなくとも弦を押さえるのに必要不可欠であるし、なにより傷の在処が中指。放置しておくことも出来かねるので、アッシュはその昔幼い頃に実際、祖母にやられたとげ抜き方法を思い出して呟いてみた。その方法を使えば、とげ抜きだけでは抜けなくなってしまったものでも摘出する事が可能だ。
「本当に!?」
 聞いた瞬間弾かれたようにスマイルが顔を上げる、その片方だけの目がキラキラと輝いていた。
 その期待に満ちた眼差しに、アッシュはほんの少しだけ後悔を覚える。
 正確には抜く、のではないのだ。
「ちょっと待ってるっス、取ってくるっスから……」
 けれど考える以上、他に良い手段が思いつかない。アッシュはスマイルをひとまずその場に置いて、必要な道具を取りに向かった。リビングの床の上に落ちていた薬箱には視線だけを向けて、他のメンバーは殆ど触りもしない箱を開けて、一本だけ抜き取って他は元あった場所にしまい込んで。
 一分足らずで戻ってきたアッシュはやはり今度もスマイルの横を素通りし、フライパンが乗ったままのコンロの前に立った。ボッ、と空いている方に火を入れる。
「アッシュ君……?」
 なにをするのだろう、とスマイルが怪訝な面もちで横からアッシュの手元を覗き込んだ。
 刹那、逃げだそうとした彼の腕をアッシュが先手を打って拘束。
「い……嫌いやいや~~~~!!!!!!!」
 まるで子供のように叫び、じたばたと暴れて逃げ出そうと藻掻くスマイルを片手で掴んだまま、アッシュはコンロの火で加熱消毒したまち針を構えた。
 そう、とげを抜く最終手段は。
 皮膚を裂いて、肉に食い込んでしまっている部分を抉り出す、という方法。
「ずっとそのままでも良いんスか!?」
「嫌だけどそれも嫌~~!」
「我が侭言わない!!」
 じたじたと抵抗を続けるスマイルを足も使ってしっかりと拘束し、後ろから羽交い締め状態にしてかなり強引にアッシュはスマイルの右手中指に熱したまち針の先を突き刺した。
「っ…………!」
 一瞬の熱と、それに続く熱。本当はそんな音なんかしないはずなのに、針が皮膚を貫いて薄い表面の皮を剥いでいく音が耳の奧に響いてきた。
 チリッ、と刺が刺さった最初の傷口である部分に細い、熱された所為で黒く変色した金属が差し込まれる。それは薄皮を裂いて行き、奧に残ってしまっている小さな刺の欠片目指して一直線に進んでいく。
 最終的にスマイルは、その針が進んでいく痛みに耐える方に意識を集中させたので暴れるのをやめた。必死に堪えているのが良く解る、奥歯を強く噛み合わせて更にきつく目を閉ざして、左手は握りしめて口の前だ。
 不覚にも、そんな風に懸命に痛みをやり過ごそうとしている彼があまりに意外すぎてつい、アッシュは刺を抉り取る事を一瞬忘れて彼に見入ってしまった。
 痛みが変な位置で止まってしまった事に気が付き、スマイルがそろりと右目を開く。半分涙目になっているそれでアッシュを見上げると、彼はハッとした様子で慌ててまち針を持ち直した。
 持ち直したときに変な力を入れてしまって、スマイルの指に突き刺さったままだった針先が不必要な個所を抉る。
「ったぁああ~~~~!!!!」
 甲高い悲鳴がキッチンに響き渡った。驚いたアッシュがまたスマイルの指をまち針で抉ってしまい、悲鳴が二段階に重なって反響を繰り返す。
 大急ぎでアッシュは針を抜いた。丁度二度目に抉った場所が本来の目的であった刺の先に触れていたようで、若干赤い液体にまみれてはいたものの、とげ抜きはかろうじて達成されていた。
 その代わり、完全に涙を目に浮かべたスマイルが迫力に欠ける顔で、アッシュのことを睨み付ける事になったけれど。
「……アッシュ君」
「はい」
「……ものすごぉく、痛いんですけど」
「はい」
「なんかさっきまでよりもずっとずーっと、十倍くらい痛いんですけど」
「……スイマセン」
 しょんぼり。まさにその表現がぴったりと当てはまる姿でアッシュは長い耳をぺたん、と伏せた。それがあんまりにも可哀想な感じがするものだったから、反対におかしく思えてスマイルはつい、ぷっと吹きだした。
 そこまで申し訳なさそうな顔をされてしまうと、もうこれ以上責められなくなってしまうではないか。
 確かにかなり痛かったけれど、それも時間を置けば薄れていく。あのまま刺を身体の中に残しておくよりかは、いくらかマシであることは確かだろう。
「けど、血……」
「こんなの、舐めとけば治るって」
 昔からよく言われている事を笑いながら口にする。そしてスマイルはアッシュの前で、ようやく出血が止まったらしい指先を振って見せた。
 だからまさか、本当に。
「じゃあそうするっス」
 そう言いながらアッシュが舌を伸ばして傷口の赤を舐めるとは、予想だにしていなかった事であって。
 唐突すぎることに呆気に取られてしまい、反応が遅れた。
「なっ……」
 茫然と、スマイルはアッシュの舌が自分の中指を絡め取って爪の付近にまでこびり付いていた血液をすべて舐め取り、呑み込むそのスローモーションのような光景を見送ってしまった。
「なにをするかこの犬っコロ~~~~!!!」
 べっちーーーーーん!!!
「キャインっ!!」
 絶叫と、アッシュを叩き倒すスマイルの平手打ちの音と、叩かれたアッシュが瞬間的に犬化して床に倒れ込む悲鳴とが被さりあう。
 きゅ~んきゅ~ん、とアッシュ犬が尻尾を巻いてテーブル下に逃げ込んだのを見下ろし、スマイルはゼーゼーと一気に荒くなってしまった息を整える。何故か浮いていた顎の近辺の汗を拭い、ふぅ、と息を吐く。
 それから、アッシュが手放した所為で床に落ちた自分の血がこびり付いているまち針を拾い上げた。
「アッシュ君、これ戻して置くから」
 反撃を懼れてテーブル下から出る事が出来ないでいるアッシュに向け、顔を見せずに彼は言う。黒く変色したまま戻らない金属部分を爪の先で弾き、随分痛みも遠くなった右手中指を見つめた。
「夕ご飯、カレーで宜しく。それで許したげる」
 ひらひらとまち針を持った手を振ってスマイルはにっ、と笑った。恐る恐る顔を覗かせたアッシュはそんな彼と目が合ってしまって、ぱっとまたテーブル下に潜り込む。
「クゥ~~ン……」
 情けないひと鳴きが合意の合図であり、しっかりと聞き届けたスマイルはにんまりと満足そうに微笑んだ。