Calling/3

 ピアノの音色が響いていた。
 それは本当に微かで、ホールから音の発生源を探ろうとしたユーリは高い天井のシャンデリアを中心に視界をぐるりと一回転させた。けれど分からず、首を捻ってしまう。
 城の中にある一室に控えているグランドピアノが奏でている音とは、少々趣が異なっている。それにあの部屋は防音設備を整えてあるから、扉を全開にでもしておかない限り、外へ音が漏れ出てしまうことはないはずだ。
 だからこれは、誰かがどこかでCDを聴いている音だろうと、ユーリは判断する。そして上を見上げすぎて疲れてしまった後ろ首を、指で軽く揉んで解してやりながら姿勢を正した。
 一番音響設備が無駄に整っているのは、リビングである。しかし現在その場所には誰も居ないことを、今さっきまでそこで時間を潰していたユーリは了承済み。それに音は上からこぼれ落ちてきている。だから上の階に暮らしている誰かが、クラシックを特大ボリュームで鳴り響かせているのだ。
 思い当たる存在は、ひとりきり。そもそも、アッシュは夕食の準備で買い出しに出かけており、城内に残っているのはユーリを除外するとひとりしかいないわけだから、消去法からいっても結論は変わらなかっただろう。
 赤絨毯を踏みしめ、ユーリは階段を登り始めた。一段進むごとに、気のせいかもしれないが音が大きくなっているような気がした。実際それは錯覚などではないのだが、徐々に巨大になっていくピアノソナタ曲のタイトルを思うとこの音量で聞くのは如何なものか、と眉間に皺が寄っていく。
 とは言え、この曲を聴いているだろう存在はこの音量を調節出来ないのだから、仕方がないと言えばその通りだったりするから始末が悪い。
 何故に聞こえもしない音楽を、周囲の迷惑を顧みず響かせるのか。次第に減っていく頭上の階段を睨み付けながら、やや大股で床板を踏みならすように(実際には、音はすべて起毛の絨毯に吸収されてしまっているのだけれど)してユーリはスマイルの部屋となっている一室に続く廊下へと降り立った。
 遠目に眺めれば、扉はきっちりと閉じられている。けれど音は、ホールで聴いたときよりも遙かに尊大にふんぞり返っていた。
 無意識にむっとなる。その行動理念が理解できず、彼は早足に廊下の、けれど階段とは違って絨毯が途切れてしまった床板をずんずんと進み出した。古めかしい城は所々建て付けが悪くなっており、下手なことをすれば床が抜けるという事態も発生しかねないというのに、その事すら忘れて。
 ユーリはスマイルの部屋の扉を開けようと、鈍い金色をしたドアノブを握ろうとした。
 けれども。
 その手は目的のものへと到達せず、掴むために伸ばした指は虚しく空を切ってしまった。触れるか触れないかの距離まで近付いていたはずの物体が、するりと彼の目の前で彼から逃げて行ってしまったからだ。
 反射的に息を呑み、背を強張らせてユーリは後ろに上半身を退かせる。
 キィ、と恐らく彼にしか聞こえていないだろ扉を開く音が低く、ピアノの音色に掻き消されながらもかろうじて周囲に響き渡った。
 丁度音源が奏でている譜面は第三楽章へと移行し、鍵盤使いが激しさを増している時。よくぞこの微かな音が聞こえたものだと自分の耳の良さにある意味感心してしまいながら、ユーリは予告もなく内側から開かれた扉の先にあるものを睨み付けた。
 どうして分かったのか、そこにはスマイルが立っていたから。
「ぅ……」
 自分が開けようとしていた扉を先に開けられるのは、どうも気まずい。それにどうして自分の接近を察知できたのか、もしかしたらたまたま偶然だったのかもしれないけれど、ユーリはどうもそうは思えず、つい後方へまた下がってから上目遣いに中途半端に開いていた扉を今度こそ全開にさせたスマイルを睨む。
 扉が完全に開かれた所為もあって、大音響はユーリの頭に直接響いてきて身体全体が痛い。
 しまいには段々と苛立ってきて、ユーリは部屋の奥を指さすと思い切り、音が大きいんだ! と聞こえていないはずの相手に向かって怒鳴ってしまっていた。
 無論、聴覚を完全に喪失してしまっている現在のスマイルに怒鳴り声が届くはずがない。しかしユーリの剣幕(顔の表情だけ)と、彼が指さす方向とを総合的に見て答えが見付かったのだろう。やや間があってから、彼はぽん、と暢気に自分の手を叩いた。
 そのまま返事をせず、くるりと踵を返して室内に戻っていく。三秒後、ようやくあれ程城中にがなり立てられていたピアノの轟音は消滅した。
 音が消え失せると、途端に周囲が静かになりすぎて逆に気味が悪かったがまたあのボリュームで再生されてしまっては耐えられないので、ユーリは黙ったままひとつ頷く。それからやっと、スマイルの部屋に足を踏み入れた。
 相変わらず飾り気の少ない、モノトーンで統一された部屋だ。その中で一際異彩を放つギャンブラー関係のものは、部屋の一角に並べられた棚の中に丁寧に陳列さられており、どうもユーリはそこに近寄り難いものを感じてしまう。どうせ触ろうとしたら怒られるのだからと、そちらを避けるようにして歩きながら、彼は音の発生源を探ろうと視線を巡らせた。
 現在スマイルは自分の机の前に据えられている椅子に腰を下ろし、どことなく居場所を定め切れていないユーリを見上げている。
「なに……」
 したいの? そうスマイルが続けようかと小さな声を紡ぎかけたとき、ユーリの視点が一箇所で固定された。するりと伸びた白い指が、数多く並ぶオーディオ機材の間に埋もれかかっている、けれども存在はやたらと主張しているレコードプレイヤーに伸ばされる。
 黒の円盤、その中央に貼られた曲名を言葉にせず、ユーリは読み上げた。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2
別名、『月光』
 

 ユーリがその曲を知らないわけがない。だが改めてレコード盤を見て曲名を確認し、余計に怪訝な想いが湧き起こってきてしまう。
 円盤に刻み込まれた細かい溝に指の腹で触れながら、ユーリは椅子に深く腰を落として気楽そうに座っているスマイルを上半身だけで振り返り見た。すると彼もまた、ユーリの問わんとしている内容を理解するのに数秒ほど時間を費やし、改めてユーリの指が触れているものを想起させてまたしても、無駄な行為としか思えない手を打つ動作をしてみせた。
「ベートーベン」
 スマイルが単語だけ、口ずさむ。
 それは分かっている、と聞いていたユーリは顔を顰めて不機嫌そうにスマイルを睨んだ。けれど相手は平然としたまま、自分の右耳をしきりに指さしている。
 ベートーベンと、耳。そして『月光』。このみっつが何を意味しているのかを思い出すのに、ユーリは一分少々の時間が必要だった。
 かの大作曲家が『月光』を発表したのは、彼が31歳の頃。
 そしてベートーベンが自身の難聴を訴え始めたのもちょうど、その時期だった。
 気が付いたとき、今度はユーリの方が手を打ちそうになって慌てて自制する。叩きかけた手はさっと背中へ回って誤魔化され、どことなく赤くなった顔を隠しながらユーリはまた、今は物言わぬ黒の円盤へ紅玉の双眸を向けた。
「うるさかった?」
 スマイルが尋ねる。弾かれたように身体ごと彼に向き直って、ユーリは反射的に首を横に振りそうになった。けれどもどうせ向こうも分かっているだろう事なので、中途半端に横向きになった首を今度は縦に落とす。
 椅子の背もたれを軋ませながら、スマイルは苦笑した。そして御免、と呟く。
 もしかしたら聞こえないだろうかと、そう思ってね。
 ふっと視線をユーリから逸らし、遠くへ――それもこの部屋の中ではないどこか別の場所――やって、彼は続けた。聞き取りづらいだけの、その独白に。
 ユーリの胸がキリリと痛んだ。
「アッシュは?」
 痛む場所を服の上から抑え込み、俯いていたユーリは不意にかけられた声に驚き、咄嗟に反応が出来ずどもってしまう。焦っている事が丸分かりの態度に、スマイルは右目を細めて首を傾げた。
 大丈夫、だから。ユーリは自分にそう告げてからなんでもない、と首を振りそして今問われた事に応えようと唇を開いた。
 だが第一声を放とうとしてから、それが相手に届かないことを思い出す。しかも今彼の手元には、伝えたいことを相手に知らせる術としての筆談用の手帳さえ無かった。大急ぎで回りを見渡して、何か代用できるものが無いかと他人の部屋であるに関わらず探し回るユーリに、スマイルはしばし沈黙してから机の上に置いてあったメモ帳をペンと一緒に差し出してやった。
 素直にそれを受け取り、受け取ってからそれを渡したのがスマイルである事に気付いて、ユーリはややむくれたような顔をする。それがおかしくてつい笑ってしまった彼を更に強く睨み付け、ユーリはメモ帳の開かれているページに文字を書こうと下を向いた。
 本当にスマイルは使いかけのページをそのままにして差し出してくれたようで、半分ほど紙面は文字で埋め尽くされていた。うち、右端の方に小さく走り書きされた日付に目が行って、彼はついその周辺に書き込まれている文字を読んでしまった。
 日付はちょうど来月の今頃。取り囲むように記されているのは、予定されている自分たちのライブ開催地、時間、チケットが既にソールドアウトしてしまっている事等々。
「あ」
 リーダーでありながらすっかりその事を忘れてしまっていたユーリは、つい声を出してしまって開いた口を慌てて手で隠した。スマイルの方も、開いていたページに何を書き込んでいたのか思い出したらしく、困ったような表情を浮かべてユーリを見返していた。
 言葉が続かなくて、先に問われていた内容にも答えられなくて彼は己の足許ばかりを見つめてしまう。握りしめた手帳の端が曲がってしまうことにも構わず、指先に力を込めていた。
「ユーリ」
 呼ばれてもすぐに顔を上げる事が出来なかった。
 忘れていた、確かに否定出来ない。だけれどひょっとしたら、意図的に考えないように頭の中からこれからのスケジュールを追い出していたのかもしれないと、ユーリは気付いた。
 だってこのままじゃ、スマイルはステージに立てなくて。
 けれどそれじゃあライブは中止にするしかない。だけれど、楽しみにしてくれているファンの事を思うと早まる事も出来ずに。
 スマイルが舞台上で演奏しないなんて事は許されず、彼だけを不在にしてライブを決行してもそれはもう、deuilのライブではない。
 彼の居ないステージなど考えられず、けれど彼を立たせる事は出来ない。だって周囲にはスマイルの不調を知らせていない、余程つき合いが深く、また仕事上の関係がある相手以外――特にマスコミ関係には一切情報を漏らしていなかった。
 耳の聞こえなくなったベートーベン、彼は聴力を失ってもオーケストラのタクトを揮ったという。そのステージ上には彼以外にもうひとり別の指揮者が立ち、実際の指揮はその人物が執っていた、とも。
 音を拾わない耳を持ったベートーベン、彼の指揮は滅茶苦茶だったと。けれども彼は最後まで、そんなになってまで舞台に拘った。
 彼はどんなになっても、そこが自分の居場所だと譲らなかったのか。
「ユーリ」
 はっとなって、彼は顔を上げる。握りしめて危うく潰しかけていたメモ帳を思い出して慌てて力を解き、何も書かずにスマイルに突き返してしまった。
 胸の前で受け取った彼は、ユーリがなにを見ていたのかを改めて確認し、開いていたページを閉じた。ペンと並べて机に戻し、上向けていた真新しい譜面も裏返しにしてしまう。
 そして緩慢な動作で椅子から立ち上がった。
「スマイル?」
 急に縮まったお互いの距離に驚いて及び腰になっているユーリに苦笑を浮かべて、彼は椅子を机の下に押し込んだ。返答はせず、立ちすくんでいるユーリをその場に置いて机とは反対側の壁、クローゼットへと向かって歩いていく。
 壁と同化している戸を引いて広げ、さほど深くない奥行きをしている中へ片足を突っ込んだ。
「?」
 なにをしているのだろう、とユーリが見守る中彼は一着の上着を引っ張り出してきた。膝下丈で薄手の、黒に近い焦げ茶色をしたコートだ。
「散歩」
 時計が指し示す時間は、夕食までまだ間がある。太陽は傾いているけれども地平線に潜ってしまうのは早く、棚引く雲が朱色に染まるのにも幾ばくか猶予が残されている。
 取りだしたコートに片腕を通し、彼は短く告げてユーリに視線を向けた。反射的に逸らしてしまった彼に小さく微笑み、首を振るともう片腕も袖に通す。
 久方ぶりに着るものだから、少々押入臭いのはご愛敬か。匂いを確かめたかったらしい、スマイルは襟元を掴んで鼻先に近づけそして思い切り嫌そうな顔をした。どうやら本当にかび臭かったらしく、そんなになるまで彼は外に出ていなかったのだな、と改めて思い知らされた。
 世界は音に溢れかえっている、或いは音があることを前提として建築されている。だが今のスマイルは、そうやって出来上がっている世界の半分も知ることが出来ないのだ。
「散歩、って……」
 ひとりで行くつもりなのか? とユーリは続けようとした。だけれど途中でスマイルが首を振るのを見、どうしようかと逡巡する。手元に筆談の道具が無い事がこんなにも不便だとは思わず、スマイルの机に戻ろうかとした矢先、そのスマイルがユーリの手を掴んで引き留めた。
「スマイル?」
 顔を向けると、その眼前にぬっと彼の広げられた左手が突き出された。何事、と理解不能に陥っているユーリを置いて、スマイルは広げた手を床と水平にして改めて彼へと差し出す。反対の手の人差し指で、手の平にものを書く動作をする。
 ここに書けと、そう言いたいのだろう。声で伝えられないもどかしさを胸の中に感じつつ、ユーリは彼の包帯にくるまれた手の平に指で文字を書き始めた。
 けれども二文字目にも行かないところで、スマイルが難しい顔を作った。頭の中で物事を考えまとめているのだろうけれども、見ている方には百面相をしているみたいでどこかおかしい。彼は真剣なんだから、と笑ってしまいそうになるのを懸命に堪え、ユーリは辛抱強くスマイルの次を待った。
 そして唐突に、スマイルは差し出していた手を引っ込めてユーリの背後に回った。
「スマっ……」 
 それこそ何事か、と問おうと振り返ったユーリを遮るように彼の脇からスマイルの左手が伸びた。
「……あ」
 ポーズとしては、五指を伸ばして手の平を上向けに。つまりさっきまでと同じ、ただ違うのはスマイルがユーリと同じ方向を向いて立っている、と言うことくらいで。
 要するに、逆位置から書かれると読みづらかった、ただそれだけの事。
 それだけの事なのに、こうも拍子抜けさせられたり緊張させられたりしていては身が保たない。ユーリは深々と息を吐き出して肩から力を抜き、スマイルの左手を自分の左手で掴んで右手の人差し指をペン代わりに文字を書き始めた。
『ひ と り』
 書き難さと、相手の手から伝わってくる体温や背中越しに感じる拍動にいちいち気が行ってしまう事で、やり辛さは普段の倍以上。どう急いでも相手にちゃんと伝わるように、と書くのもゆっくりになってしまう。
『 で ? 』
「うぅん」
 書く方は時間がかかっても、返事をする方は一瞬だ。苦労して尋ねたユーリに彼はあっさりと否定の言葉を後ろから差し向けてくる。
 ふぅん、そう、行ってらっしゃい。そう口から言葉が出そうになって、けれど直前になってユーリはそれを呑み込んだ。
「誰と!」
 アッシュは現在お買い物で留守。そうなると、スマイルと一緒に出かける事の出来る存在は消去法でもひとりきり。他の方法で考えたとしても、物理的に可能なのはユーリだけ。
 そして案の定、ユーリが叫んだ事だけは感じ取れたスマイルがにっこり微笑みながら彼を指さす。
 ユーリから一気に力が抜けていった。スマイルを掴んでいた手を放し、それで頭を抱え込んで彼は深々と、非情に長い息を足許に向けて吐き出す。それはどんよりと曇り、彼の爪先を濡らす雨を降らす雲になるのではとさえ危惧させてくれた。
 一方のスマイルは、ちっとも気にした様子のないままに微笑んで、たそがれているユーリを見つめている。
 まず間違いなく、確信犯。
 こいつ、耳が聞こえなくなってからなんだか性格曲がったんじゃないのか? そう思えてならず、片頬を押さえてユーリは上目遣いにスマイルを睨んだ。
 けれども、差し出された左手を振り払うことなど出来るはずがなく、肩を落としたままユーリは首を振って前髪を梳き上げた。伸ばされたままでいるスマイルの手をぱしん、と叩き落として服を着る動作をしてみせる。
 スマイルだけコートを着ているのに、自分がこのまま外に出るなどそんな寒い事、出来るものか。
 不機嫌なままのユーリを見下ろして彼はまた微笑み、ひとつ頷く。
「玄関で待ってる」
「勝手にしていろ」
 車のクラクションさえ聞こえない奴をひとりで行かせるわけにもいかない。結局突き放せないユーリの優しさに甘えたスマイルが本当は珍しくて、少しだけ嬉しくて。
 どうせスマイルは聞こえないのだから言うだけ無駄なのに、いつも通りの受け答えをしてユーリは部屋を早足に出ていった。自室へ上着を取りに行ったのだろう、その背中を見送ってからスマイルもまた部屋を出る。
 扉を閉じる寸前に一度だけ室内を振り返って。
「    、   」
 唇だけを開閉させて、音にならないことばを呟き。
 もう、振り返らなかった。

 ふたり、並んで歩く。
 ただそれだけの事なのに妙に緊張している自分が居て、ユーリはどうも落ち着かなかった。それもきっと、いつもだったら絶対にしない事をしているからに他ならない。
 手なんて繋いで歩いたこと、今まで無かった。
 だのに今は、しっかりと結ばれている。彼の左手と、自分の右手と。お互いの利き手を預けあって、なにをやっているのか。
 会話はない、ただ黙々と歩いている。行きたい場所でもあるのか、先を歩くのはスマイルだ。並んでいるとは言え、彼の方がコンマ数秒ほど早く足が前に出ている。だからユーリは引っ張られるように、彼の左手に導かれながら道を進んでいくだけ。
 周囲を取り囲む音が聞こえない事もまるで気にしていないようで、スマイルは涼しい顔をしたまま遠くを見つめていた。
 その横顔を見上げてから、ユーリは前方から吹き付けてくる風に煽られる自分の前髪に視線を移した。銀色の細い髪が、沈んで行こうとしている日の光を受けて本来の色とは若干異なった趣に輝いている。
 夕暮れはこんな空をしていたんだな、とこの時間帯に出かける事など滅多になかったユーリはぼんやりと、前髪の隙間から覗く空色と朱色とが混じり合った空間を眺める。薄く広がる雲は緩やかな輪郭を描いており、その白さが一際眩しくて目を細めてしまう。
 不意にくっ、と結ばれている手の熱が強くなった。
 握る力が強くなったのか、と理解すると同時にユーリはスマイルの方へと身体が傾く。これは引っ張られたんだ、と頭の思考回路が繋がった時にはもう、彼はスマイルに右肩を預ける格好で凭れ掛かってしまっていた。
 そのまま、開いている右手も使われて胸の中に封じ込められる。
「スマイル!」
 久しぶりに声を出した、けれどそれがこんな非難めいた怒鳴り声になるとは思って居なかった。
 どこか裏切られたような錯覚に陥り、どうにか無言でいる彼から抜け出そうとユーリが藻掻く。けれど解放してもらえず、握った左手で彼の胸元を思い切り叩こうとした、その時。
 彼の背後を一台の乗用車が走り抜けていった。
 ユーリの腕が中途半端に持ち上げられた状態で止まる。いわゆる凍り付いた、という表現の相当するだろう。筋肉を弛緩させて腕を下ろすと、もう接近する危険物は無いことを確かめたのか、スマイルもユーリを解放した。
 視覚も聴力も持ち合わせているユーリが気付かず、聴覚を失っているスマイルが先に迫ってきていた乗用車に気付いた。今進んでいる道には歩道が無く、車道と一緒にされてしまっているので車が接近すると、路肩に寄らなければ危ないのだ。
 本来ならユーリが気付き、スマイルに警告を与えなければならなかったのに逆になってしまった。ひとりででも大丈夫だったんじゃないだろうか、と一瞬考えてしまってから、ユーリは疑問を抱いてスマイルの左手を放し手首を取った。
 胸の位置まで自分の力で持ち上げ、人差し指で広げさせた彼の手の平に文字を書く。
 スマイルが、見えやすい位置にと首を伸ばしてきた。
『ど う し て』
 ユーリが彼の部屋を訪れたとき、ノックもなにもなかったのに先に扉を開ける事が出来たのか。
 クラクションも鳴らす前の車の接近を察知し、ユーリよりも早く行動に移ることが出来たのか。
 その疑問が重なり合って、ユーリの目が問いかける。
 ルビー色をした瞳に真摯に見つめられ、スマイルは返答に窮したらしく、困ったように頭を掻いた。どう答えたら伝わってくれるのだろう、とそんなに難しいことなのかとユーリが怪訝に思うくらいに迷ってから、トントン、と二度ばかり足許を覆い隠しているアスファルトの大地を爪先で叩いた。
「?」
 ユーリが首を傾げる。伝わらなかったらしい。
 スマイルは肩を竦めた。もう一度足許を叩いてからそこを指さし、
「振動」
 それだけを告げる。
 足の裏を伝わって、遠くからでも接近するものの振動を感じ取ることが出来れば先回りする事は可能だと、言外に彼は言っているらしい。ようやく合点がいってユーリはふぅん、と小さく頷いた。
 言われてみれば確かに、あの時自分は随分と床を踏みならしながら廊下を歩いていた気がする。車だって、その重量を考えれば大地を震わせるものに他ならないだろう。但し、ユーリはまったく気づけなかったが。
 やっぱり自分は必要なかったのではないのか。心底そう思えてきて、ユーリはスマイルの手を振りほどくと乱暴に放り投げ、ひとりずんずんと歩き始めた。
 けれど後方を歩くことになったスマイルは歩調を速めようとはしなかった。ユーリの進んでいる方角が彼の目指していたものへ続いているのだろうか、ともかくユーリはしばらくの間そうやって孤独に、前ばかりを睨み付けながら進まざるを得なくなってしまう。
 釈然としない。
 最初は大股に、いらつきを全身で現す歩き方だったのも、そのうちにペースは落ちて普段と変わらない調子に戻っていった。そうすればスマイルは自然とユーリに追いつき、再び、手を結びあっていない事以外が出かけた直後と同じになっていた。
 幾つかの角を曲がり、通りを抜け、そして。
 唐突に目の前が開けた。
「……ここは……」
 そこは、言ってしまえば何の変哲もないただの広場。
 けれど違うのは、誰か人の手が入っているのか分からないけれど、青緑の草が一面を覆い尽くしている事。更にそこかしこにコントラストを描き出す、白や黄色、薄いピンク等々の色とりどりの花々が咲き誇っている事、だろう。
 花はいずれも小さく、下手をすれば地表を覆い隠す草に埋もれてしまいそう。懸命に茎を伸ばして葉を広げ、太陽の光を一心に集めて誇らしげに咲いている、花たち。
 夕焼けは色濃さを増し、平面さを失った草花に囲まれた地面に落ちる影はいつの間にか、自分たちの倍以上の長さになっていた。
 あと半刻もすれば陽は地平線へと沈んでしまうだろう。その先に訪れるのは、一面の闇だ。それまでの僅かな時間も、必死に太陽光を求めているのだろう草花が風に煽られて大きく波立った。
 斜めに傾いだ草の表面を撫でる風の音が周囲一帯を支配する。耳に入ってくるのはその音ばかり、ユーリはしばらくの間その中に佇むスマイルの姿を茫然とした思いの中で見つめていた。
 濃い色のコートも、夕日を受けて少しだけ明るさを増した色合いに変化している。黒がより強まり、けれども明るく。裾が風を受けてなびいている、前身頃も後方へと流されて何もないときはコートに隠されてしまう彼の膝から下が見えた。履いているズボンの裾と靴は脛の辺りまで伸びている草に埋もれているが、その姿はどことなく印象派の絵画を思わせた。
 夕暮れの色を背負って、彼がそこに立っている。
 両手はコートのポケットに両方突っ込まれ、そこから上が風に流されぬように抑え込んでいるようだった。前髪がしきりに風に揺らされ、露出する右の瞳を時々隠してしまう。
 風の音がうるさいくらいだ、ユーリは自分の銀糸を抑え込みながら思った。
 でもスマイルにはこの自然の音でさえ届かない、そう思うと胸が痛み出す。
 原因が分からない。治療も対処の方法も分からない。回復する見込みがあるのかどうかさえ、分からない。
 残された時間は、あと大きくて一ヶ月。それを過ぎてしまえば、もう世間に隠しておくことは出来ない。
 この先がどうなるかなんて、未来の事などなにひとつ展望があるわけでもなく。
 ただ確実に言えることが、ひとつ。
 今までのままでは、いられない――それだけは、はっきりと分かるから。
「ユーリ」
 スマイルは沈んでいこうとする太陽を見上げながら、彼を呼んだ。
 ユーリが顔を上げて彼を見る。けれどその丹朱色をした隻眼はユーリを見つめることなく、変わらずに眩しいばかりの太陽を見つめていた。
 青白さが特徴である彼の顔も、こうしていると普通に赤く染まって見えるから不思議だと、ユーリはどこかぼんやりとしてはっきりまとまらない頭の中で感じた。
「なんだ?」
 聞こえていない相手に言葉を返す。あまりにもスマイルの態度が普通すぎたので、ユーリは一瞬、彼の耳の事を忘れてしまった。
 スマイルが草花の間を縫うように足を進め、ユーリから遠ざかっていく。自分から呼びかけたくせに置いていくのか、と彼は慌てて同じように歩を進めた。なるべくつぼみを付けている花は踏まないように注意を払いながら、ゆっくりとスマイルへと近付いた。
 また風が吹く。今度はさっきよりも穏やかだったものの浮き上がった前髪が跳ね返ってユーリの目に直撃し、彼は急いで瞼を閉じて右手の指先に銀色を輝かせている髪を絡め取った。生理現象で浮かんだ涙に僅かに霞んでしまった視界にスマイルをおさめ、けれど少し今までとどこかが違っているように感じ取られて、ユーリは首を捻った。
 スマイルを凝視する。
 その姿が、透けて見えた。
「ス……っ」
「ユーリ」
 息を吸い、それと同時に叫ぼうとしていたらしい。咽せた。
 静かなスマイルの声が夕暮れが終わり闇に変わろうとする時間に響き渡る。
 ただひとつ言えること、今までと同じじゃいられない。
 ただひとつ分かること、このままじゃダメになるだけ。
 ただひとつ、願うこと。
 君の声が、聴きたい。
「ユーリ」
 ゆっくりと彼は振り返る。ユーリへと、向き直る。
 その表情は現すなら笑顔、そして哀しさ、寂しさ、悔しさ、それから。
 それから……
 日が沈む。夜が来る。太陽を背にした彼が翳る、表情が隠される、今どんな顔をしてユーリを見ているのかが、分からなくなる。
 黒のシルエットが赤い空に浮き上がってユーリの目に映った。唯一はっきりと見えていた隻眼が閉ざされ、彼から完全に表情が失せたとき。
 冷たい風が、ふたりを包み込んだ。
「ぼくはね、ユーリ。今、一番、君の声が聴きたい」
 空洞となった耳を指さし、彼は言った。持ち上げた腕を下ろさず、広げた手の平で眼帯に覆われた左目に触れる。強く抑え込んで、皮肉そうに笑う口元が印象的だった。
 ユーリは何も言わず、聞いていた。魔法でも使われたかと感じるほどに、彼の足は鈍く重く、その場に貼り付けられて少しも浮き上がってくれない。冷たすぎる風に身を震わせる事も出来ず、ただそこに立ちつくしてスマイルの声を聞く事だけしか。
「それから、ライブも中止や失敗にしたくない。ぼくは、あそこに立ちたい」
 熱気と歓声に包まれたあの空間に立ち続けることが、数少ない自身の“生”を感じ取ることの出来る場所。そこを失ったとき、自分が生き続けていける保証がどこにも無いことを、スマイルは気づいている。あの場所は手放せない、誰にも譲れないしdeuilというバンドの中に在る自分を失うのは絶対に、嫌、だから。
 君の声が聞きたいんだ、ユーリ。
 君と一緒にあのステージに立っていたいんだ、これからもずっと。
 ずっと、ユーリが許してくれる限り。
 永遠に。
 彼は瞳を伏せた。ユーリが唾を飲み喉を上下させる。
 太陽が沈む。
「ぼくを呼んで、ユーリ。ぼくはきっと、応えるから」
 闇が来る、光が消える。影が去り、彼の顔が見える。
 微笑んでいた、どこまでも優しくて哀しくて切なくて、愛しくて。寂しくて、暖かくて、柔らかくて、泣きそうな――そんな笑顔で。
 彼は、言った。
 声は風に解け、闇に染まる空へと消えていった。

「明日、出ていくよ」

「だからさようなら、ユーリ」