Vial

 少しばかりの沈黙の後、彼は戸棚から掌にかろうじて収まるサイズの小箱を取りだしてきた。
 今まで散々口げんかをしていた中での、ある種突飛に感じさせてくれる彼の行動に眉目が歪む。そんな彼の表情を眺め見て、彼は小さく苦笑した。
「プレゼント」
 そう言って、取りだしてきたばかりの小箱を差し出す彼に、怪訝な表情はそのままに、箱と、それを差し出している存在とを交互に見つめて首を捻った。そもそも、自分たちは今の今まで喧嘩をしていたのではなかったか。
 彼の部屋で、特別な用事はなかったけれど。
 偶々前を通りがかったその扉が中途半端に開いたままだったから、扉を開けて覗き込んでみたら部屋の主は床の上で、真新しいオーディオ機材を既にある機材に組み込んでいる真っ最中だった。そのくせ、侵入者を振り返って誰だかを認めた瞬間、開口一番。
 埃が上がるから、出てって。
 だったものだから、つい頭の中でぷちん、と何かが切れてしまって。
 埃を嫌う機材を前にして、思いっきりその場で地団駄を踏んでみた。床を思い切り蹴りつけて、目に見えない埃を巻き上げてやる。案の定向こうは怒りだして機材を丁重に床に下ろすと、立ち上がってヤメナサイ、と固い調子で告げてきた。
 喧嘩の発端はそこにあり。
 やがて新しい機能が附属した機材が発売されると、それとほぼ同時に買いに走る彼の悪癖を罵るものへと取って代わり。
 どうせ使いこなせてもいないくせに、と言うに至って。
 唐突に、彼は立ち上がった。
 やるか、と身構えた彼を静かな瞳で見つめ返し、沈黙すること約三十秒。いや、本当はもっと短い時間であったのかも知れないが、ともかくそれ以上は時間があったような錯覚を覚えてしまいそうなくらいに、気まずくて重い空気がその中にあった。
 彼が背を向けて壁の方へ向かっていくのを見たとき、ホッとしてしまったのは確かに事実。口では勝てても実力行使に出られた場合、自分に勝ち目が薄いことを彼は熟知している。体格的にも劣るし、それになにより自分は、心の底から本気で彼に反抗できるとは思っていない。
 もっともそれは、相手側にとっても似たようなものだろう。
 結局お互いに同じ弱みを持っているわけであり、だから喧嘩をしてもいつの間にか前と同じ状態に戻っている事が多かった。一緒にいられない時のことを考えたことなど、実を言えば無かったりする。
 それ以上に、彼と一緒でなかった自分の事が思い出せない時が圧倒的に多くなってきていた。口に出して伝えれば、間違いなく向こうは調子に乗って来るだろうから教えた事はないけれど、多分言わなくても伝わってしまっているだろう。
 それくらいに、自分たちの存在はいつの間にか近くになっていたから。
 滑りの良い棚から取り出された小箱は、随分と厳重に閉じられていた。プレゼント、と言われてしまい、受け取らざるを得ずに左手を差し出してやるとその上に載せられる。中に何が入っているのかは分からないが、見た目以上にずっしりとしていて軽く見ていた左腕が幾らか下方に沈んだ。
 だけれど、恐らくその重みの殆どは箱と、箱の中身ではないのだろう。正方形をした小箱を何重にも包み込み、絡んでいる鈍色の鎖の所為だ。
 天井から降り落とされる照明の明かりを反射して、それは恐らく陽の明かりの下よりもキラキラと、そして重苦しい感じで輝いていた。
 一重どころの騒ぎではなく、それこそ下にある箱の外装が見えなくなるまで巻き付けられている鎖の始めと終わりはしっかりと重ね合わされ、小さな南京錠で固定されていた。試しに指で触れて弾いてみたが、鎖はビクともせず南京錠も微かに揺れ、下の鎖に擦れ合っただけだった。
 いったいこれはなんなのか。疑問を顔に出して、少しだけ自分よりも上にある隻眼に問いかけてみる。すると彼は益々苦笑して、小さく首を振った。
 むぅ、と彼は唸った。では仕方がないと、箱を持った左手はそのままに右手を彼に差し出してみる。開いた掌を上にして、親指以外の四本指を揃えると軽く上に向けて曲げ、そして伸ばす仕草を繰り返した。
 ポーズとしては、“よこせ”というもの。けれども彼が何を求めているのかを理解できているはずなのに、目の前の存在は緩く首を振るだけでそれ以上を彼に与えようとはしなかった。
「鍵」
 剣呑に彼は呟いた、目の前に壁のようにしてそびえ立っている男に向かって。
 けれどまだ首を振られるばかりで、いい加減苛々してくる。先程までの喧嘩の名残があるためか、簡単に胸の中に沸き上がる怒りに火が入った。
「スマイル、鍵は」
 贈り物をしておきながら、それを開けるために必要な肝心のものを渡さないとは何事であろうか。誰にだって分かる理屈をわざわざ口に出して説明してやっていると言うのに、それでもスマイルは静かに首を振り続けていた。
 終いには、ユーリの方が疲れてくる。もうこんな男なんて知るものか、とさえ思ってしまう。
 その頃になってようやく、スマイルがずっと閉じたままだった唇を薄く開いた。
「鍵、ないから」
 それは必要のないものなんだよ、と聞いただけでは理解に苦しむことばを告げ、彼はユーリの手の中に眠っている箱を指さす。つられるままにユーリも、手元の箱を凝視した。そして右手で試しに、南京錠の接続部分を弄ってみたり鎖を軽くだけれども引っ張ってみたりした。
 だが、当然ながら鎖は無反応で、南京錠も施錠を解く気配が微塵にも感じられない。
 ユーリは綺麗な顔を思い切り歪めた。
「開かないぞ」
「うん、だろうね」
 理解に苦しむユーリを前にして、スマイルひとりが納得顔で頷いている。その意味深で意味不明な笑顔はなんだ、とまたしても彼をねめつけてユーリは手の上で、鎖にがんじがらめにされている小箱を転がした。
 音はしない。むしろ中のものが転がっていたとしても、それは頑丈な鎖の所為で外に音が漏れ出て来てはくれないような気がした。
「それはね、鍵が必要ないんだ」
「開かないぞ」
「うん、だから」
 ユーリにあげる、と呟く。脈絡の感じられない彼の言い分に、ユーリはいよいよ本格的に機嫌を損ね始めた。いっそこの箱を床に叩きつけてやろうか、否あの新品の、スマイルに目下一番構われている機材を壊す目的で投げつけてやろうか、と物騒な事まで考え始める。
 そんな彼の思考を先読みしたわけでは無かろうが、スマイルの身体がすっと動いて床に山積みになっている機材とユーリとの間に割って入った。そして無音のまま、ユーリの手に握られたままでいる小箱を彼の手ごと包み込む。
 まるで祈っているようだと、眼前に佇む男の顔を見上げながらユーリは思った。それくらいに真摯なまでに、スマイルは片方しか現れていない瞳を閉じていたから、何も言い返すことも出来ずにただ茫然としたまま、彼は立ちつくす。
 静かに、スマイルの唇が音を刻む。
「鍵は、ぼく自身」
 そして、と彼は一度そこでことばを途切れさせて深く長く息を吸った。
 吐き出す、その時間はほんの瞬きの間だったはずなのに酷く長く、冷酷な時間にように思えてならなかった。
 聞いてはならない気がした。本能がそう告げる、けれど握られたままの手をユーリはどうあっても、振りほどくことが出来なかった。
 掴まれている場所が恐ろしいほどに熱い。全身が炎に包まれているかの如くであり、また絶対零度の境地に晒されている錯覚がすべてを支配する。
 言わせてはならないと、心の中で何かが激しく警鐘を鳴らしていた。だのにユーリは一歩たりとも動けず、手を振りほどくことも出来ず、制止の声を上げることさえ出来なかった。
 ただ目の前に立つ男の微笑みが、寂しげに広げられるのを凝視する以外に道はなく。
「ぁ……」
 ことばなど、形にならなかった。
「ぼくが、もし居なくなったら」
 言わせてはならない、きっとことばとして明確な形を誘ってしまったらそれは本当になる。嘘を本当にしてしまうだけの力が、ことばには溢れているのだから。
 彼にそのことばを言わせては、駄目。
 だのに動けない。唇は震えているのに、喉は詰まって声が湧き起こってくれない。言いたい事は沢山あるはずなのに、身体中が麻痺してしまったかのようにすべての感覚が、遠い。
「ユーリが一番欲しいと思うものが、この中に入ってるから」
 にっこりと。
 優しく微笑んで。
 ああ、なんと愚かな男だろう、こいつは。
 どこまでも愚かで、鈍くて、それでいて鋭くて、狡い。卑怯で、あざとく、ずる賢くて、とてつもなく優しい。
「その時まで、だから」
 この鎖は解けることが無く、鍵の錠は外れる事もない。その必要がないから、箱は開かれる事を拒んで永遠に近い時を眠り続けるだろう。けれど一度封印が外され、必要とされる時が訪れたときは。 
 遠慮も危惧もなにもなく、箱はひとりでに開かれてそこに収められているものを所有者に示すだろう。
 所有者が、最も必要だとして心の奥底から欲しているだろうものを、与えるだろう。
 箱を包み込んでいる鈍色の鎖を縛っている南京錠の鍵は、彼自身の命。 
 だから彼の命が潰えたとき、自然と箱は封印を解かれて開かれる。
「君が、持っていて」
 本当は誰にも渡すつもりはなかったんだけれど、と小さく付け足してスマイルは笑った。底の見えない、甚深な微笑みだった。
 要らない、とは言えなかった。握りしめてしまった箱をユーリはどうしても、手放すことが出来なかった。投げ捨てる事も最初考えていたはずなのに、いつの間にかそれはユーリの手に貼り付いてしまって取れず、そのまま彼の胸元に沈んで消えていった。
 一緒にユーリの顔も暗く沈み、視線は足許へ落ちていく。けれどスマイルはそれ以上のことばを告げず、膝を折って座り直すと中断していた作業に戻ってしまった。
 物言わぬ背中をぼんやりと眺めてから、ユーリは抱きしめている鎖にがんじがらめにされている箱を両手に持ち直した。出来得るのならば、今すぐこの箱ごと中身を握りつぶしてしまいたかったから。
 けれど、出来ない。
 もし予想が違わなければ、この箱の中に籠められているものは……。

 そして。
 気の遠くなるような時間が流れ過ぎて。
 彼の周囲に誰ひとりとして居なくなったときに。
 透明な風が一陣、彼を取り囲むようにして通り過ぎていった。
 それは遠く高く、眩しいばかりの空へと吸い込まれて消えていく。まるで早く来い、と誘っているかのような風に目を細め、彼は掌の上で小さな箱を転がした。
 黒く塗られた箱の外観は、初めて目にした時には気付かなかったくらいに細かい飾り模様で彩られていた。それだけでも充分な芸術品であろう小箱に巻き付けられていた鎖は、もうどこにもない。
 気が付いたとき、棚の引き出し奥深くに仕舞っておいたものを引っ張り出した時にはもう、周辺にさえ鎖の残骸は見つけられなかった。
 あれほどに強固で、どれだけ破壊しようと力を尽くした南京錠も、綺麗さっぱりと消え失せていて彼を拍子抜けさせた。
 残されていたのは、綺麗な綺麗な小箱ただひとつ。
 掌に載せると、まるでその時を待っていたかのように小箱はひとりでに、蓋を広げた。
 現れたのは、水晶のように澄み渡った虹色のガラス瓶。ガラスではないのかもしれないけれど、材質はこの際どうだって良かった。
 箱から取りだした小瓶を光に透かして、中身を確かめる。
 厳重に幾重にも巻き付けられた鎖と、それを縛る南京錠に守られた小箱に包まれていたクリスタルの小瓶。細長く、一見すると香水の瓶かと思わせる外見。揺らしてみると小瓶の半分ほどに満たされた液体が揺れた。
 半透明、けれどそれは小瓶のクリスタルに遮られてそう見えるだけで、本当は無色なのかもしれなかった。兎も角、栓をしている矢張り細長い蓋を抜き取ってみないことには、中身が何であるか明確な判断は難しい。
 けれどユーリには、それが何であるか分かっていた。箱を開く前から、箱を受け取った時から既に、分かり切っていた。
『ぼくが居なくなったら、ユーリが一番欲しいと思うものが、この中に入っているから』
 その台詞に偽りはないだろう。
 無限に近い時の中を独りきりで生き続けるのは、苦痛以外のなにものでもないから。その時の呪縛を享受している彼が持っていた、残される側の存在の為に与えられるべきものだったから。
 ユーリは、静かに空を見上げて小瓶から蓋を捻って外した。ちゃぽん、と瓶の中に詰められた劣化さえも消去された液体が揺らめき音を立てた。
「本当に……使う日が来るとはな」
 きっとお前も思っていなかっただろう? 
 そう空を過ぎる風に向かって問いかけてみる。
 ユーリは、笑った。心の底から、寂しげでそれでいて、満たされたような充足感を溢れさせる笑顔で。
 小瓶を、傾ける。
 喉の上下が、一度だけ。
 それで終わり、だった。
 それが、始まりだった。
 ゆっくりと彼の身体が後方へ傾いでいく。その途中で、透明な腕が彼へと差し出されてその倒れそうになる背中を支えた。
『本当に使うとは、思ってなかったよ』
 軽口を告げて、後ろから抱きしめる腕が。
『だとしたら、お前が私のことを甘く見ていた、と言うことだな』
 泣きそうになるほどに愛しくて、切なくて。
 風が吹く。
 どこまでも空は高く、青く澄み渡りそして、永遠に静かだった。