Calling2

 ベッドの上に、横になって天井をぼんやりと見上げる。
 不意に思いついて、右腕を持ち上げて手の平を広げてみた。真っ直ぐに伸ばして天井へと突きつけ、包帯に五指すべてがくるまれた自分自身の指をぼんやりと見つめる。
 近い場所にある指へと焦点を合わせれば、見上げていた天井がぼやけて映った。逆に天井へ焦点を合わせれば、指が歪んで見える。
 一分もしない間に、腕はパタン、と閉じられてベッドのスプリングに沈んでしまった。腕を持ち上げ続けることに疲れたこともあるが、同じくらいに、そんな事をしていても意味が無いことを思い出したからだった。
 気怠い。
 鈍痛は相変わらず目覚めている間、終わりがないくらいに頭の片隅に存在を誇示し続けている。吐き出す息は色も鈍く重いものばかりで、身体のどこかを動かすたびに関節が痛んで頭もズキズキと小さな痛みを響かせた。
 なにもやる気が起きない、とはこの事を言うのだろう。
 かろうじて眠りから目覚めた後、ベッドから起きあがり着替えだけは完了させたものの。
 それが完了したのち彼は再びベッドへと舞い戻り、踵を踏んで履いていた靴を放り出して素足のまま柔らかなスプリングと、その上に敷かれている蒲団の上に倒れ込んでいた。それから現在まで、時刻に換算すると約一時間と少し。
 彼はずっと、こうやってベッドの上で怠惰に寝転がったままだった。
 偶に寝返りを打ってうつ伏せから仰向けになったり、横向きになったり。目を閉じて、開いて、何もない空間を凝視してみたり目を細め、わざと焦点が合わないように視界をぼやけさせたりして、時間を潰していた。
 起きあがろうと、上半身を起こしたのはこの間で二度。けれど一分もしない間にまた後ろ向きにベッドへ倒れ込んで、ふかふかで居心地の良い蒲団にくるまっていた。
 なおかつ、その間彼はひとこともことばを発していなかった。
 どうせ、自分には聞こえない声だから、と。
 この数日で、幾つかのことが判明していた。
 まず、どうも耳が聞こえなくなった原因はこの頭痛にあるらしい、という事。
 痛みが酷いときは起きあがることも出来ず、全身が言うことを聞かない、という事。
 自分の発する声さえも、脳内で処理されている感覚としての機能で聞こえているだけであり、実際には彼の耳が一切の音も拾っていないこと。
 発音が若干、変になった事。
 彼の口数が、目に見えて減ったこと。同時に彼の顔から表情が消え始めている、という事と。
 食事の回数と量さえもめっきり減ってしまった事、等々。
「…………」
 吐息をつき、彼は下ろした腕を自分の頭上に翳した。力を抜き、目の前に落として包帯に隠れている瞳とそうでない瞳の両方を光の下から隠してしまった。
 身体は疲れ切っている、特別なにか運動をしたり働いたりもしていないのに。むしろその正反対で、彼はこの数日殆ど部屋の中に籠もりきり、なにかをしていた記憶も乏しい。
 だのに、節々は痛みやる気も起きない。ベッドから降りて立ち上がり、階下へ出向くことさえひどく億劫だった。こんな事をしていたところでなにかが変わるわけでも、改善されるわけでも無いことは彼だって分かっているのに、何をすればいいのかも分からないから、なにかをする気にもなれなかった。
 寝返りを打ち、手が届く位置にあった枕を引き寄せてそれを胸に抱く。顔をそこに埋めさせて、吐き出した息をその中へ流し込んだ。
 空気は冷えている、その上で重い。
 はみ出した視界の端で見えた窓の外は明るく、時刻が既に午後に達しているのだと彼は直感で察した。
 だけれど、それがどうした、という気持ちだけしか胸の中に沸いてこない。
 三度目の吐息を落として、枕を放り投げた。
 それは軽いクッションで床に落ち、重さに形を崩して床に沈み込んだ。反論を返そうともせず、自分が受けた無体な扱いに文句も言わず受け入れて、黙り込んでしまっている。
 それが彼には不満で、まるで自分もそうすべきだと言われているように勝手に感じ取って、勢い良く身体を沈み込ませていたベッドから上半身を起こした。
 埃が軽く舞い上がり、窓から薄いカーテン越しに入り込んでくる光を受けて筋が出来あがる。彼はその中を数歩で進み、フローリングの床に落ちた枕を拾い上げようとした。だけれど直前で考え直し、左足を持ち上げて後方に流した。
 思い切り、勢い任せに枕を蹴り上げる。
 音はしなかった。ただ爪先の甲に感じた柔らかさと重みが、無言の非難を彼にくれているようで嫌な気分しかしなかった。
 蹴られた枕は己の重みですぐにまた床に落ちた。彼の立っている場所から僅か、一メートルと離れていない距離へと。
 だけれどやはり、どう耳を澄ましたところで一切の音は彼に届くことがない。
 子供じみた八つ当たりを受けた枕は、沈黙したまま彼の次の行動を待っている。外は明るいかも知れないが、照明を灯していない室内はいくら自然光を取り入れているとはいえ、影も薄いほどに暗い。
 短く舌打ちする。腰を屈めて枕の端を掴み取ると、それを振り返りもせず彼はベッドへと放り投げた。
 三度目の衝撃を受けつつも、柔らかいそれは抵抗せずに彼の思うままに宙を舞った。着地点がスプリングの上と、そちらも柔らかかった事からそれは二度ほど小さく跳ねる。脱ぎ捨てられていた夜着かわりのシャツの合間に埋もれて、それはようやく、居心地悪そうにだけれども居場所を定めたようだった。
 部屋の中央に近い場所に佇み、彼は静かに息を吐き出して重い左腕の肘を曲げた。細く長い中指を伸ばし、顔の中心に位置する鼻筋を撫でて左に方向をずらす。
 カサカサと、布地同士が擦れ合う感触が指の腹に伝わってくる。
 下唇を、浅く噛んだ。
「――っ!」
 そして一気に、指先にひっかけた包帯を引き千切った。
 何本か、関係のない自分の髪も巻き添えになったらしい。頭皮にまで痛みが響いたがそれ以上に、顔半分を覆っていた包帯に切れ目が走り、あるいは強引に千切られてばらばらに床に落ちていった。余裕があったわけではない空間に指を差し込んで引っ張ったのだから、当然自分の肌にも傷は行く。
 巻き付けていた頭部全体が、痛いと言っても過言ではなかった。
 けれど彼は噛んでいた唇を更に強く、奧まで引き込んだ以外に表情の変化を作らなかった。瞳は曇り、鮮やかな色をしていたものも今は鈍色に沈んでいる。
 千々になり、中途半端に外れあるいは肌に張りついたまま残っていた包帯の影から見え隠れする金沙色までもが、暗い彩をしていた。
 包帯の覆いを失った左目の上に再び手を置き、目の外周を爪の先でなぞっていく。頭に響いている痛みは、その奧から発生しているようだと最近、彼は気付いた。
 この義眼の奧に、すべての根元があるのだとしたら。
 いっそ、引きちぎってしまおうか。
 どうせあったところで、この義眼がものを映し出す事はないのだ。その能力は失われた、ただ空白を埋めるためだけに今もこうして、身体の一部として埋め込んでいるだけであり理由など、特別あるわけではないのだ。
 最初からものを見るために、埋めたわけではない。
 けれど自分には、必要だった。
 閉じた瞼の上に握った拳を置いて、彼は奥歯が軋むくらいに強く歯を噛みしめる。肩に降り落ちた包帯の切れ端を払いもせず、青い肌と紺碧の髪、紺色のシャツの上に白を散らばらせる。
 もし、本当にこの義眼が今回の原因であった時。いや、まず間違いなくそうだと仮定できるけれど。
 この金沙を失って、果たして自分は今のままで居られるのだろうか。
 その自信が彼にはなかった。
 失って手に入れたもの。手に入れて、失ったもの。そのバランスが崩れる事が、なによりも恐怖。
 今のままではいられない、けれど過去に戻るために今を失う事も避けたい。けれどそれが叶う確率は半々かそれ以下だと簡単に、自分で予測がついた。
 右の瞳が、薄暗い室内の壁際に置かれている年代物のLPプレイヤーを映し出した。本来はリビングに置いてあるものだったが、個人的に鑑賞したい楽曲のLPをいくつか入手したのでそれ用に、と自分で持ち込んだ事を思い出す。
 その時は、よもやこんな未来が待っているとは考えもしなかったから。
 暢気に、プレイヤーに立てかける格好で並べられているジャケットに視線を移す。海外のアーティストがマイクと楽器を手にポーズを決めている、恐らくはライブのワンシーンを使ったものなのだろう。
 照明を浴び、汗を弾かせて唄っている彼らと自分たちの姿が重なった。
 だけれど今彼の脳裏に浮かんだ光景の中に、ベースを構えている自分の姿が見当たらなかった。
 当然だ、こんな状態で舞台に立てるはずがない。
 立てるはずなど、ないのだ。自分はその資格を失ったに等しい、耳の聞こえないアーティストが、どうやってリズムを取り周囲の音と合わせて演奏出来る?
 自分が掻き鳴らしている楽器の音の音程が狂っているか否かを、自分で確かめる術さえ持ち得ていないのに。
 失ってしまったのに。
 気が付けば彼は、買ったばかりのまだ封を開けても居なかったレコードを手に取っていた。
 ジャケットに見入る、非常に動きのある写真が使われているそれをぼんやりと眺めながら、心の底で湧き起こる感情をどうにか制御しようとして彼は目を閉じた。
 見るな、見ちゃいけない。
 望んではならない、求めてもならない。
 ようやく手に入れた場所を、自分から手放さなければならないのかもしれないと考えたとき、訪れるのは破壊の衝動。
 レコードを握りしめている両手に力を込めて下方に向ければ、それは軋んで撓み、そして中央で真っ二つになる。パッケージの上からでも分かる、指先から伝わってくる衝撃に彼は目を細め、そして哀しげに伏せた。
 ジャケットの表面に縦皺が刻まれる。それを指でなぞり、包装しているフィルムを剥がして中身を取りだしたがやはり、綺麗に中央で割れてしまっていた。自分でしでかしたくせに、哀しい気持ちになるのは筋違いだと分かっていながらも、押さえきれなかった感情に悔しさが隠せない。
 こんな事をしても意味はないだろうに。
 さっきの、枕を相手にした八つ当たりの続きをしでかしただけであり、それが尚更自分のゆとりの無さを照明しているようで腹が立った。
 どうすればいい、どうしたらいい。
 治るのか、治らないのか。ずっとこのままなのか、そうじゃないのか。それだけでも分かればまだ、救いはあるのかもしれないがそれを得る術を、彼は持たないから。
 医者に診せたところで、原因不明としか言ってくれないのであれば行く意味など無い。ただ虚しくなるだけだ。
 使い物にならなくなったレコードを、プレイヤーのケースの上に置く。半透明の蓋は上部が平らで、中身が薄く透けて見えた。かなり使い古されているが今でも充分に働いてくれるそれに彼は愛着を持っていたけれど、このままではプレイヤーも、埃を被って打ち捨てられてしまいかねない。
 今時レコードを聴く存在は、目下この城に在籍中の面々でも彼だけだったから。あとのメンバーは皆、CDやMD等の機材を使っている。
 古めかしい磁気テープも、もう使うことはなくなってしまった。
 要らないもの、使わないもの、使えないものから順番に捨てられて忘れられていく。いつか自分もそうなるのかと考えると、やるせない気持ちだけが胸を支配する。今でさえ充分、使い物にならない役立たずに成り果てている自分を、今後も仲間達が仲間として受け入れ続けてくれるかどうか、拒否されることが恐かった。
 もうどこにも行く場所がないのに。
 やっと見つけた、自分の居場所がなくなる。
 彼は乱暴に、握った拳を壁に叩きつけた。恐らく、音は凄かっただろう。壁から返された痛みも相当なもので、彼は奥歯を噛みしめてそれを堪えた。
 存外に間近にあった存在にも、気づけずに。
「    !」
 一瞬だけ生まれた空白が、彼の驚きと自己嫌悪を物語っているようだった。
 恐らく彼に触れて、それで自分の存在を物音を拾うことが出来ぬ彼に知らせようとしていたであろう腕が、中途半端に空中を泳ぎそして、引き戻されていく。その一部始終を視界におさめて、彼は気まずそうに己の髪を乱暴に掻き乱した。
「    」
 刻まれたことばが彼に届くことはないと知っているはずなのに、それでもなお、なにかを告げながら引き戻した腕を抱いて来訪者は彼を見上げる。自嘲気味な笑みを唇に浮かべている彼に何か言いたげな目を向けて、それからゆっくりと視線を逸らしていった。
 絡まない視線が、そのまますれ違うお互いの心情を現しているようで寂しい。
 彼は、目線を戻してなにかを、呟こうと最初の一音を発するために口を開いた。
 だけれど、ゼロコンマの秒間があって、結局彼の唇はなんの音も発さずに再び固く、貝のように閉じられてしまった。合わされた唇が赤黒く染まっているのは、ここ数日ずっと、彼が同じような仕草を繰り返すたびにきつく前歯でかみ締めてしまうためだ。
 相手の名前さえも呼ぼうとせず、彼は片方だけしか視界を確保できない瞳を床に落とす。
 目に入るのは、濃い茶色をしたフローリングの節目ばかり。
 現れた彼は、まだなにか言いたげだったが途中でことばを切り、視線を空中に彷徨わせてから今さっき、彼が自分で割ってしまったレコードに気付いたようだった。
 手を伸ばし、プレイヤーに添えられた真新しいのにもう使えないレコードを取って、胸の前に持っていき眺める。
 ユーリ、と彼は呟こうとして顔を上げた。しかし最後までことばは音となって大気を震わせる事がなかった。
 ん? という顔をしてレコードを手に、彼は目線だけを持ち上げて薄暗い中にその存在を確かめようとする。ジャケットの中央に走った一本線を指先で辿らせ、薄いビニルの向こう側で折れ曲がってしまった厚紙の感触を肌に覚え込ませながら。
「    」
 名前を呼ばれた気がした。視線が僅かな時間だけ重なり合ったけれども、すぐに彼の方が先に外してしまって、結局それ以上にことばも絡み合うことがない。暗い沈黙が続き、息苦しすぎて逃げ出してしまいたかった。
 いったいユーリは、何をするために部屋を訪れてきたのだろう。おそらくノックをしたはずの彼だが、そのノック音さえも聞き取ることの出来ない自分が返事を出来るはずもない。勝手に入ってしまった事を詫びただろうユーリの台詞さえ聞き取れず、その間も自分はレコードに向き合って胸の中にあるもやもやとした感情の捌け口を探していただけだ。
 スマイル、とまたユーリの唇がその名前を形作る。
 LPをもとの場所の戻したユーリは、些か控えめに笑みを作って後ろ手に手を結んでいた。その彼が顎で、扉口付近を指し示す。促された方角に目を向けると、きちんと閉められた扉の手前に二段式のワゴンが止められていた。
 天板の上にはまだ湯気を立てているスープを筆頭に、バゲットやサラダボール等々が並んでいた。しかもどう考えてもスマイルひとりが食するには、少々量が多い。
 首を捻る。
 誤魔化すように、ユーリが苦笑を浮かべて後ろ手に結んでいた手を解きスマイルの前で交差するように振った。それから自分の左手首に巻かれている左右非対称の腕時計を指さし、続いて天井に近い位置の壁にぶら下がっている古ぼけた時計を指し示す。
 現在時刻を確認しろと言いたいらしい、スマイルは促されるままに壁時計を見上げたが、暗がりの所為で分針の上を通過した秒針くらいしか見つけられなかった。時針が見えない。仕方なく彼は頭を振ってユーリの左手首を掴んだ。
 断りもなく触れられた事に一瞬だけ、彼は表情と身体を硬くする。けれど優しく触れた反対側のスマイルの手がユーリの、白い肌に巻かれた腕時計に触れた事で緊張は解かれた。
 半円と鈍角の三角形を組み合わせたようなフォルムをした、一見すると不思議な形をしている腕時計が刻んでいる現在時刻を見て、スマイルはユーリの顔を見返す。
 分かったか? と彼は入り口に置き去られているワゴンに目配せした。言葉無く、スマイルはひとつだけ頷く。
 そして直後、二度、首を横に振った。
「  ?」
 ユーリが目を見開いた、問いかける視線が真下からスマイルを覗き込む。けれどスマイルは黙ったまま首を振るばかりでユーリに応えようとしない。掴んでいた手も放し、首を振ったときに視界に入った己が脱ぎ捨てた靴を拾うために歩き出した。
 数歩と行かないうちに片方分の靴へ辿り着き、彼は腰を屈めてそれを取る。後方でまた、ユーリがなにか叫んだようだった。直後、背を向けていたユーリにシャツの後ろ襟首を掴まれる。
 そのまま、力任せに後ろへ退き倒された。
「――――っ!」
 咄嗟になにかを掴もうと伸ばした腕は、無情にも宙を泳いだだけで視界の中から消滅した。訪れた衝撃はまず臀部に、そして背中に来た。頭から落ちることだけはかろうじて忌避したらしい自分の反射神経に、なにより自分が一番驚き彼は目を見張り二段階でやって来た苦痛に苦悶の声を零す。
 呻き声を声と言って良いのかはさておき、スマイルが倒れる寸前で手を放しバックステップの要領で後ろに退いたユーリのある種満足した顔が、薄暗い天井が支配するスマイルの視界の中で浮き上がって映し出された。両手を腰に据え、角度六十で黒光りするローファーの爪先を広げて立つ彼を半ば茫然として見上げながら、スマイルは最後の砦として床に落としていなかった頭をも首の力を抜いて、こんっ、と平らなフローリングに預けた。
 打ちつけた場所の、特に肉が薄く骨が突起している脊髄部分が痛くてきっと、通常であってもまともに声は出せなかっただろう。今なら尚更、呻き声が微かに漏れ出る程度だ。 
骨を通した痛みはダイレクトに内臓に伝わって、涙が出てきそうなくらいに、本当は痛い。
 長い時間をかけてスマイルはゆっくりと、肺に溜まっていた息を吐き出した。ユーリはその間もじっと彼を見下ろしている。起きあがろうと両腕を床に這わせ、突っ張らせるスマイルの一挙一動を見逃すまいと凝視しているだけで、ならば手を差し出すことくらいしてくれても良いだろうに、という想いはスマイルの中で却下された。
 そもそも、自分を床に退き倒したのは彼である。その彼に手を貸して貰うのは釈然としない。それに一番気になっている、何故自分がこんな目に遭わされなければならないか、という理由もまだ不明のままだ。
 思いつきで、突発的に突拍子もないことをするのは彼もスマイルも大差ないけれど、実力行使的な暴力に似た力の行使に訴え出る事はどちらとしてでも希な事。抱きついたり、飛びかかったりするのはスマイルが多く、唐突にとんでもない事を言い出すのがユーリだから。
 力任せの暴挙にユーリが出なければならないようなことを、果たして自分はしただろうか?
 腕の力を最大限に利用して身を起こし、同時に膝を折り曲げて三角にして床に座り直したスマイルが首を振る。ぶつけた背中の出っ張りに指を辿らせたが、まだズキズキと残る痛みに気が引けて途中で止めた。再度吐き出された息は、随分と長い。
「       」
 ユーリがワゴンを引き、まだ座り込んでいるスマイルの傍へ持っていく。床板から微かに伝わる振動に顔を上げた彼は、しかしなおも首を振り、拒絶を示す。ユーリの表情が俄に険しくなって、ナイフの入っていない長いままのバゲットを掴んだ。
 バゲット、別名フランスパン。
 ぱこん、と軽い衝撃が側頭部に走って、スマイルは二秒後に自分がユーリにバゲットで殴られた事に気づいた。
 食べ物をなんだと思っているのか、不満顔でユーリをねめつけた彼だったが、刹那、苦情を述べようとした唇は開いたまま放置される事となる。
 正確には、開かれたまま塞がれたのだ。
 最初は驚愕に染まっていた彼の瞳が、徐々に緩んでいき静かに閉ざされる。
 触れあった熱が流れ込んできて、染み渡っていく。それだけで満たされた気分に陥るのは、今までの自分がどれだけ沈んでいたかを思い出したからだろう。床に添えたままだった左手を持ち上げて、同じように床に身を沈めているユーリの右手に重ねると、微かに彼は震えたようだった。
「……」
 呼吸するために時々離れていく唇を惜しげに追いかけ、舌を伸ばす。赤く染まっているユーリの柔らかな肉に舌を這わせて、浅く下唇に噛みついた。
 ユーリが笑う。お返しとばかりにスマイルにも噛みついて、その箇所を舐め取った。ずっと、スマイルが噛み続けていた為に出血の痕が見られる場所、へ。
 がちっ、と前歯がぶつかり合った最初のキスが静かに、離れた。床の上で重ね合わせていただけの掌は、いつの間にか下にあったユーリの掌が裏返されて指を絡め合わせ、結ばれていた。
 熱の籠もった息をひとつ吐き出し、幾分潤んだ紅玉の双眸でユーリはスマイルを見上げる。
 露わにされている金沙に、すぅっと目を細めた。
 左手を持ち上げて恐る恐る、そこに触れる。伸ばした人差し指の腹で左目の輪郭をなぞるその指を、視力を有している右側の目でどうにか眺めながらしばらくして、スマイルは両方とも目を閉じた。
 途端、ユーリの手が遠ざかっていく。
 間近で空気が震えた。
「    」
 目を開く。すぐそこにユーリの顔があった。
 開かれ、閉じられる唇から漏れ出ている息を被ってスマイルの前髪が本当にささやかに震えていた。
 ゆっくり、ゆっくりとユーリは言葉を紡いでいる。その意図するものがなんであるか、瞬時に察し取ることが出来なくてスマイルは横に、首を傾げてみせた。
 それでもなおしつこく、ユーリは口を開閉させる。けれどそのうち疲れてしまったのだろう、自分の顎ごと口元を手で抑え、考え込むように視線を落とした。
「?」
 疑問符を浮かべているスマイルの前で、しばしの沈黙。
 本格的に置き忘れられている食事の載ったワゴンを気紛れに、スマイルは見やった。まだ暖かみを残していたスープもいよいよ湯気を失い、折角アッシュが作ってくれたのであろう料理は恐らく食されることなく、残飯処理に回されてしまうのだろう。
 なにより、今のスマイルには食欲というものがない。
 食べること、という生きるための根元的な欲望が失われてしまっている。代わりに覚えるのは眠気ばかりで、それがなにに直結しているのかくらい、スマイル自身だって本当は分かっているのだ。ユーリがさっき、乱暴に自分を退き倒して怒りを露わにした事の理由だって、きっとそこに原因があるはずだ。
 明確に食事を拒絶した事。時間感覚が正しければスマイルは既に丸二日、水くらいしか口にしていない事になる。後日、三日と半日だったとユーリとアッシュが、揃ってスマイルの認識を訂正させなければならなかったが。
「              」
 ユーリが俯いたまま長いことばを吐き出す。まるで泣いているようで、切なくなったスマイルは背を伸ばし小さくなっているユーリの、薄暗い中でも銀に輝く髪にそっとくちづけを落とした。
 彼の手が控えめに持ち上げられ、スマイルの服の端を掴む。引っ張りはせず、ただ掴むだけのその行為に微かに微笑んでスマイルはそのまま、ユーリの額にもキスをした。目尻に、頬に、鼻の頭、それから、
「   」
 くちづける手前で、ユーリがなにか囁いた。
 彼の吐き出した息が唇に当たって跳ね返る。
「  」
 服の裾を掴んでいるユーリの手を、両手で解いて行く。再び重なり合った体温に、ことばなど必要などなく、五指を絡め合わせて。
 強く、握りしめる。
「   、   」
 顔を上げたユーリの、真っ直ぐな瞳がスマイルを映し出している。鏡のように澄んだ色をしているそれを真正面から見返して、彼は一瞬口を噤んだ。
 逡巡が彼の中を駆けめぐる。
「…………」
 本当は、恐ろしいのかも知れなかった。この口から紡がれる声が自分のものでなくなってしまうのが。それ以上に、ことばさえも失ってしまっているかもしれない、という事が。
 自身の吐き出す声が、本当に、相手に届いているのかを確かめる術を持たない事が。
 とてつもない恐怖となって彼を襲っている。
「   」
 ユーリが笑う、はにかんだような優しい笑顔で。
 なにかが崩れていくような気がした。懸命に自分を保つために築き上げていた、堅固のようで痛いくらいに脆い最後の砦が崩れていく。
 ユーリに、崩される。
「ユーリ……っ」
 胸の奥から迫り上がってくるものを抑え込みながら、スマイルは吸い込んだ息を格好悪いと自分でも笑うしかない声で吐き出した。
 ユーリが、笑う。
『やっと、呼んだな』
 彼の唇が、そう音を刻んだ。
 聞こえてはこなかった、けれど何故か分かった。
「ユーリ」
 もう一度、ちゃんと呼吸を整えてからスマイルは彼の名前を呼んだ。途端、彼の表情がすっと柔らかくなる。
「      」
『聞こえている』
 彼の唇がその音を刻んでいた。
 分かる、聞こえていなくてもスマイルには分かった。ユーリがなんと言っているのか、なにを言いたいのか。自分の声がちゃんと相手に届いていることも、伝わっている事も。
「ユーリ」
 何度も、何度もスマイルは彼を呼んだ。
 その度にユーリは頷いて、微笑み返して、彼の手を握りしめてくれた。
 強く、握り返す。
 再び触れたキスはいつになく甘くて、そしてしょっぱい味がした。