Blowing

 両手を伸ばせば届くかも知れない、けれど指先を掠めもせずにどう頑張っても届かない――永遠に手に入らない距離が、確かに存在している。
 きっとその背中に綺麗な真っ白い翼があったなら、届く事が叶うかも知れないけれどそんな高望みをしたところで、大地に貼り付くことでしか生きていけないあの子の手は永遠に宙をさまよい続けるのだろうか。
 いや、違う。
 あの子の背中にありもしない翼を求めているのは、他でもないこの自分自身。
 あの子の願いを叶えてやりたいと思いながらも、その手助けを出来なくて遠くから眺めている事しかできない、自分自身だ。
 そして己もまた、彼女と同様にこの大地に這い蹲って生きている。
 やがて腕を伸ばし続ける事に疲れたのか、少女は小さく首を振って頭上に伸ばしていた手を引き戻した。
 胸の前で両手を握りしめ、冷えてしまった指先を互いに擦り合わせて温める。吹きかける息は白く、僅かに濁っていた。
 擦り合わされる時に肌がぶつかるのだろう、黒一点の飾り気もなにもない少女の服に唯一許された真っ白い花がカサカサと乾いた音を零す。ひとしきり指の強張りが抜けたことを確かめてから少女はそっと、詫びるように花の表面を撫でた。
 ごめんなさい、と呟く声が聞こえた気がして彼は何度か瞬きを繰り返す。
 少女は本当に何かを呟いたようだったが、彼の位置からはその唇が刻んだ音は見えなかったし聞こえもしなかった。だからそれは彼の錯覚であり、幻であったに違いない。
 けれど本当にそう思えてしまったのは、自分が彼女に対して抱いていた幻想に対して詫びの思いを今まさに、胸の中に浮かべていたからかもしれなかった。
 自意識過剰すぎるよ、と自分の額を抑え込んで彼は吐息を吐く。
 少女は再び覚えた寒気に、黒の服から覗く真っ白な肌を震わせて身を小さくさせた。
 彷徨うように宙を泳いだ少女の黒曜色の双眸が細められ、視界の片隅に佇んでいる彼の存在を認めると少しだけ、緩んだようだった。
 鳥を捜す、女の子。
 いつも空ばかり見上げているから、時々歩きながら足許不注意で転んでいるところも目撃したことがある。てんで見当違いの、鳥など居そうにない場所にまで足を運んでいる時があって、しかもキョロキョロと落ち着きなく周りを見回しながら歩いて居るものだから、見ている方が心臓に悪い時もある。
 真っ黒い髪の毛に、真っ黒い服。夜の闇よりも深そうな漆黒の瞳をキラキラさせて、鍵のない白い鳥籠をいつも持ち歩いている、女の子。
 だから、いやでも目立つし、目に入る。
 自分に気が付いた少女が手を振るのを見て、彼も同じように左手を持ち上げて手を振り返した。
 けれど途中で彼女の頭上に黒い影が走り、それが空を駆る鳥であると理解した時にはもう彼女の注意はそちらに奪われてしまっていて、さっきと同じように彼女は両手を空へとつきだした。
 彼女が届く距離の向こう側を、薄茶色の羽に風を受けて鳥が飛び去っていく。少女に気づくこともなく、一目散に逃げるように――無論、その鳥はそんなつもりなどさらさら無かったのだろうが――鳥は東の空へと消えていった。
 彼はゆっくりと少女に歩み寄りながら、やはり今去っていった鳥の軌跡を追って東を見つめる。
 なだらかな丘陵が途切れ、背の低い人工物が無機質に並んでいる空間に紛れてしまった、茶色の鳥。少女はまだ寂しげに、鳥の消えた方角を見つめていた。
「あの鳥は、違うと思うよ」
 だから声をかけるとき、最初に口に出たのはそんな慰めに似たことばだった。
 茶色と、黒のまだらの羽をした鳥だった。遠かったのでしっかりと確認できたわけではないけれど、あれは郊外であれば簡単に見つけることの出来るありきたりな鳥のはずだ。
「ちがうの?」
 振り返った少女が、彼のことばに呼応して呟く。見上げてくる黒曜石は綺麗に輝いたままで、それが彼は少しだけ嬉しかった。
 小さく頷いて、彼は東の空を見上げた。
 青空を途切れさせる大きな雲が、丘陵の先、人工物の波、更にその向こう側に広がるなだらかな山並みの向こうまで続いている。
 しっかりとした厚みを持つ雲は、けれど雨雲とは違い綺麗に澄んだ色をしている。強すぎる碧を中和するように、柔らかな微笑みをたたえながらバランスを保って自然界のキャンパスを美しく飾っていた。
 雲間から時折覗く太陽は眩しく、隙間からこぼれ落ちる光の筋は幾重にも重なって昼間のオーロラのようだった。
「ちがうの?」
 少女が同じことばを繰り返し、左側に小首を傾げてみせた。純粋に疑問に思っている目を向けられ、彼はどう返答をすればよいのかに困り、逡巡する。
 まさか、君に一番似合う鳥は真っ白い羽を持っている鳥だから、と言うわけにもいくまい。それで納得してくれるような子ではなかろう。
 だけれど、彼が考えている短い間に少女の注意はまた別のものに向けられたようで、外された視線が虚空中を彷徨っていた。
 次の瞬間、彼らの佇む地に訪れたのは、一陣の突風。
 吹き付ける風に煽られた地表の塵ほどの大きさしかない小石が巻き上げられ、緑の草のカーペットが折り畳まれながら波立つ。丘陵の頂を飾っている幹は太いが背の低い、丸みを帯びた樹が両腕いっぱいに彼女の子供を抱きしめた。濃い緑が漣だって風を呑み込むほどの轟音を大地に叩きつけ、耳の奧に自然界の和音を響かせる。
 少女は無意識なのだろう、両手で身体を庇うように包み込んだ。足下に置かれている鳥籠の扉がカタカタと風に煽られ、かごとぶつかり合う音をがなりたてていた。
 壮大な自然に対しての畏怖か、あるいはどこまでも広大無辺な自然への憧れに似た想いか。
 過ぎ去っていく風を追いかけて空を仰いだ少女の瞳はどちらともつかずに、見開かれている。
 光も闇さえも関係なくあらゆるものの本質を見抜くことが出来そうな、深淵よりも深い黒が煌めく。
 乱れてしまった髪を片手で押さえ、露出している右目に飛び込んできた塵を繰り返す瞬きで追い出し、彼は長い息を吐き出した。突風は一瞬だったはずなのに、その中に立つ少女の姿を随分と長い間見ていたような錯覚さえ覚えて、瞼の上を軽く擦る。
 あの風の中に何を見たのか、少女はやはり瞬きを繰り返しながらも遠くの空を見据えていた。抱きしめていた自分を解放し、穏やかな普段の様相に戻った風に髪を揺らしながら、どこまでも遠くを。
 あるいは、目に見えるもの以外のなにかを見つめていたのかも知れない。そうであっても不思議でない横顔をひとしきり眺め、彼はまた吐息をついた。
 自分と彼女では、見つめる先にあるものが違うのだろう。彼の右目に映し出されるのものは、青い空と白い雲と、その下に広がる灰色ばかりの世界だ。
 いったい彼女の瞳にこの世界はどんな風に映っているのだろう。
「すごかったね」
 ぼんやりしていると、不意に声をかけられた。
「え?」
 油断しきっていたため巧く聞き取れず、彼は変な顔をしてしまって彼女を振り返った。
 自分を見上げる漆黒の双眸が意外そうに見開かれ、直後笑われた。声までは立てられなかったが、余程奇怪な顔をしてしまっていたのだろう、少女は透明な声を零しながら両手で己の口元を覆い隠し笑みさえも見えないように隠してしまう。
 それが少女の、彼が気を悪くしてしまわないように、という小さな心配りであることが分かるからこそ、複雑な表情を浮かべなおして彼は頭を掻いた。
 だけれど、誰かが怒ったり哀しんだり、寂しかったり嫌な気分で居るよりはずっと、こうやって笑ってくれている方が嬉しくて、好きだ。それが例えこんな、自分の恥をさらすような事であっても、自分の事で誰かが笑っていてくれるんであれば喜んで、自分はピエロになろう。
 哀しい顔を隠したピエロになろう。
「えっと……なに?」
「すごかったね、さっきの風」
 少女がひとしきり笑い終えるのを待ち、彼は頬を爪の先で引っ掻きながら尋ねた。
 返事は即座に戻ってきて、ようやく話が繋がって彼は得心がいき頷いた。
「うん、凄かった」
「包帯、ずれてるよ」
「え、嘘!」
「うそ、だよ」
 クスクスと、少女が心底楽しそうに笑って言った。
 一方言われた方は、今自分がからかわれたのだと理解するのに三十秒ほどの時間が必要で、その間もずっとぽかんとした、間の抜けた顔をしてしまっていて、それが余計に少女の笑いを呼び起こしたようだ。コロコロと小さなピンク色の唇から転がり落ちていく笑い声に、次第に自分でも表情が崩れだして彼はしてやられた、という想いを抱えながらも自分でも笑い出した。
 しかし念のために自分の目では見ることの出来ない箇所に巻き付けられている包帯に触れ、本当にずれてしまっていないかを確かめる事は忘れない。
 信じていないわけではないが、不安になってしまったから。
「その包帯」
 両手を使って頭や、顔に巻いている包帯を確認していると少女が歩み寄ってきて、じっと見上げてきた。
「どうして、巻いてるの?」
 鳥籠を両手で持って、じっと見つめている。
 彼は口元に薄い苦笑を浮かべ、少女を見返した。隻眼で細めて表面だけの微笑みを形作り、けれど誤魔化すように手は少女から逃げて、後ろで組まれた。
 結び合わせた先の指が、空回りを繰り返す。
「これはねぇ……みんなにぼくが見えるように」
「見えるよ」
 彼に最後まで言わせず、彼の声を遮る格好で言った少女の声はいつもより若干、トーンが高く大きかった。
 隻眼を見開き、またもとのサイズに戻した彼が複雑な表情を浮かべて少女を見る。
 彼女は必死に、なにかを言おうと言葉を探しているようだった。けれど見付からないのか、次第に表情を翳らせて俯き始め、弱々しく首を振る。
 完全に下を向いてしまう前にぽつりと、「見えるよ」ともう一度、呟いて。
 困ってしまって、彼は自分もなにを言えば良いのか解らなくなる。引っ掻いた頬が痛くて、緩く首を振り真っ青な空を見上げた。
 雲間から覗く太陽が、眩しい。
 あぁ、違うのかも知れないな。ふと、そう思った。
 だから姿勢を戻し、未だ俯いてしまっている少女を改めて見つめて彼は微笑んだ。ちゃんとした、笑顔を向けた。
「ぼくが、みんなに見えていると思えるように……かな」
 自信がなかったのかもしれない、本当に自分の姿が回りの人たちにちゃんと見えているのかどうか。ここに居るよ、と自分を主張できるように……みんなに見えていると、不安を隠せない自分の心を隠すために。
 少女は顔を上げ、再度首を振った。
「見えるよ……」
「うん、ありがとう」
「ちゃんと……見えてるから」
 ぎゅっ、と彼女は鳥籠を強く握りしめた。白い肌が、力を込めすぎた所為で余計に白さを増すのが痛々しい。
「だから、見えているから……貴方を、信じてあげて?」
 手をどんなに伸ばしても手に入らない、ものがある。
 けれどそれはひょっとしたら、届かないと思いこんでいるだけで途中で諦めてしまっているだけだとしたら?
 この手は、なにを掴めるのだろう。
「信じる……?」
「そう。貴方が、一番に、信じて?」
 にっこりと彼女は笑った。優しい、優しすぎる笑顔が眩しかった。
「信じる、かぁ」
 間延びした声は風に流され、灰色の街の光景に溶けて行く。それは盲点だったような気がする、そもそも自分が包帯を全身に巻き付けている理由自体、ずっと昔に考えたきりで忘れてしまっていたから。
 ずっとこうしていたから、こうすることが当たり前になっていた。こうある姿が、自分の姿だと思っていた。
 違うのだろうか……?
 考え込んでいると、真下から白い手が伸びてきて彼の頬を挟んだ。目線だけを下向けると、背伸びをして少女が立っていた。
「触れるよ? ちゃんと貴方はここにいるから」
 無理をしているのが分かる少女のために、膝を軽く曲げて体勢を低くする。視線を並ばせると、ホッとしたような顔で彼女は改めて居住まいを正し彼に触れた。
 撫でられる、くすぐったい。
「うん、そうだね。分かるよ」
 君が触れてくれているから、ぼくがここにいると、ちゃんと自信を持って言えるよ。
 触れられる掌を包み込むようにして手を重ね、その柔らかさに驚きながらも告げる。彼女は照れたような顔をして、はにかんだ。
 つられて微笑みを柔らかくし、彼は完全に膝を折り曲げて彼女よりも視線を低くし、膝の上に手を置いた。不思議そうにする彼女の前で丹朱の瞳を細める。
「だから、さ」
 お願いがあるんだ、聞いてくれるかな?
 突然方向が変わった話に少女は瞬きを二度繰り返してから、右側に小首を傾げた。暫く考える素振りを見せ、それから縦に深く頷いてくれた。
 ありがとう、と彼は先に告げる。
 そして膝の上で立てた肘を置き、頬杖を付いて悪戯っぽく笑う。
「たまに、ぼくに触れて確かめてくれないかな」
 風が吹いた。先程の風ほどではないにしても、それなりの強風で彼の声は簡単に攫われて奪われてしまった。
 返事はすぐになく、聞こえなかったのだろうかと彼は自分で勝手に納得させた。聞こえなかったのなら、それで構わなかった。
 もう一度言い直すのも、気恥ずかしいし自分でどうしてあんな事を言ってしまったのかと疑いたくなるくらいに、自分らしくない台詞であるような気がした。
 きっと、絶対、二度と言えない気がする。
 立ち上がる。吹く風に流されて空の雲は白さを増し面積を広げている。一度大きくのびをして草間の埋もれた足で大地を改めて踏みしめて、彼はくしゃくしゃのままの自分の髪を掻き回した。
 癖毛が跳ねあがり、何本か抜けて指に絡みついた。払うと、簡単に落ちて埋もれて見えなくなる。
「ん~~、さ、どうするかな」
 天気もいいし、このまま昼寝でも構わないかも。それとも街に繰り出して、買い物でもしてみようか。ボーっとするのも悪くないだろう。
 彼女に質問の声を上げさせないで、早口にこれからの自分の予定を声を上げながら組み立てていく彼に、少女は彼が照れているのだと理解して口元を手で隠し、その下で笑ったようだった。
「いいよ」
 鳥籠がカシャン、と音を立てる。
 扉は、開かれていた。
 一瞬の間があって、彼は少女を見た。彼を見つめる少女の双眸は、漆黒の中に太陽があった。
「どこ、行くの? おかいもの?」
 興味津々に尋ねてくることばに、さっき彼女が告げた了承のことばは一緒に行く、という意味だったのだろうか。聞きそびれてしまって彼は問おうかと思ったが、このままお互いの秘密にしておく方がいいような気がして、黙っていることに決める。
 なだらかな丘陵には常に、優しい風が吹いている。穏やかな陽射しに包まれ、しばらくふたりで何処へ行こうか、何をしようか、相談する。
 だけど結局決まらなくて、そのままふたり、日溜まりの下でお昼寝を決行。まだ少し肌寒かったけれど、ふたりで居れば暖かいから。
 風が吹く。
 空は、どこまでも澄んでいた。