薄い雲が空を流れていく。
僅かに肌に感じる風は西から東へと吹きつけ、一本の古木に背を預けている彼らに短い挨拶を送るとそのまま、あっさり過ぎるくらいに立ち去っていく。
風を縛り付けるものはなにもないから、それも無理無いことだろうけれども少々味気ない思いがして、彼は静かに息を吐き出した。
気配が変わったことを察したのか、聡い少女が小首を傾げるようにして斜め横に座っている彼の表情を窺い見た。
彼も、そんな少女の仕草に気づいたようで、「なんでもないよ」と小さく笑って首を振った。そのまま、両脇に放り出していた己の手を引き寄せて胸の上で絡み合わせる。
それは祈る時の仕草に似ていた。
ただね、と彼は一度は途切れさせようとした言葉を続けた。
姿勢を戻し、体重を預けている古木の感触を背中で楽しんでいた少女が数回瞬きを繰り返してから、彼を見る。
漆黒の髪が風に流されてサラサラと揺れた。
なんとなく、と、彼は少女を見ることのない視線を空へと向けながら呟く。
あるいはそれは、独白であったのかも知れない。けれどこの場所に、彼以外の存在――黒髪の少女が居たのであるから、もしかしたら彼は問いかけていたのかも知れない。
少女は髪と同じ色をした瞳を細めた。
「時間は、どこまでも」
「――とうめい、だね」
透明。
言いかけていた言葉を先を越されて呟かれ、彼は意外そうな表情を浮かべて彼女を振り返った。
ようやく重なり合った視線に、少女は柔らかな笑みを浮かべる。
「ちがう?」
微笑んだまま、少女は更にことばを重ねた。
彼は一瞬だけ呆気に取られたあと、長い時間を掛けてゆっくりと頷いた。
否定できない。確かに少女が口にしたことばは、彼が今まさに紡ごうとしていたことばに他ならないから。
先読みか、あるいは読心の術でも持っているのかと疑いたくなってしまったが、彼女が紛れもないただの“人間”であることは、彼だけでなく少女自身も重々承知している事だ。
だたし若干、大多数の“人間”よりは勘が鋭く、また先鋭的である事は認めざるを得ないことだろうが。
違わないよ、という思いを込めて彼は首を横に振り、絡み合わせていた自身の手を解いた。力を失った両手は、流されるままに胸の上を滑り脇へと落ちた。
指先がカサカサと、表面の乾いている草に触れる。
あぁもう結構長い間、雨も降っていないなと空を仰ぎ見ると、それはどこまでも澄み渡った、蒼。
雨は嫌いだから晴れている、今日のような穏やかな天候は嬉しくて楽しいのだけれど、地上に暮らすあらゆる生き物は空から降り注ぐ雨によって潤わされているから、雨が降らないと困るのも地上に生き物だ。乾いた大地は、人の心さえも渇いたものにしてしまうから。
それは困るし、哀しい。
「おそら」
少女が紡いだことばに、彼は自分の膝の上辺りを彷徨わせていた視線を持ち上げた。
僅かに首に角度を持たせ、少女の横顔を見つめる。
彼女もまた、空を見ていた。
「喉、乾いてるのかな」
なにもないはずの虚空に手を伸ばし、なにもない場所をつかみ取ろうと彼女は指先を曲げた。けれどやはり、なにもない場所からなにかを掴むことは出来ず、少女の指は宙を横切った。
握りしめられた拳は、儚い。
「のど、かわいてるのかな……」
同じことばを、少女は重ねて呟きそして、空中で握りしめた手の平を胸に引き寄せて愛おしむように抱きしめた。
彼は暫く、無言のまま光景を眺め、そして乾いている空中を見上げた。
青い空はどこまでも澄み渡っているけれど、この天候がいつまでも望まれるものではないことはきっと、誰もが無意識のうちに理解している事のはずだ。
地中深くにまで根を張り、奥底に溜まる水分を吸収することの出来る木々とは違って、地上の表面を舐めるように根を張って生きている草花は死活問題である。
どんな時でも、場合でも、最初に犠牲になるのは小さく弱い存在ばかり。
彼は脇に落とした左手の先でそっと、風に煽られる草の表面を撫でた。
乾ききっているそれは、まだ枯れてもいないのに少しでも力を込めようものなら、呆気なく砕けてしまいそうな感触を彼の指先に伝える。フリーズドライの食物を連想させかねない感触に、彼は整っている眉目を顰めた。
少女が哀しげに、瞳を伏せる。
「かわいそう……」
カラカラに乾いた空気は、地上に這い蹲りながらそれでも生きようと懸命に喘ぐ彼らに恵みを与えない。
座り直して居住まいを正した少女が、手の平で足許の草を揺らしながら呟く。宛てもなく彷徨う彼女の白い手の平を少しの間眺めた後、彼は改めて古木の幹に背を預けて長い息を吐き出した。
乾く空、乾く大地、乾く心。
必死になって生きているのに、それなのに彼らを生かそうという天からの啓示は与えられぬまま、すべては枯れ果てて朽ちていくのだとしたら。
ではいったい、彼らは何のためにこの世に生まれてきたと言うのだろう?
なんのために?
なにを為すために?
その存在意義とは如何なるものか。
彼は長い吐息の末、隻眼の瞳を閉ざした。
空間は闇に包まれ、なにも見出せない暗い世界が彼の前に広がる。もし、この世界で一点だけでもいい、光が見出せるのであれば。
それは、なに?
二度の深呼吸のあと、彼は目を開けた。
視線の端に、オレンジ色をした小さな花が見えた。
意識せぬままに手を伸ばし、彼はその花の茎を挟み持つ。そのまま力を込めて茎を手折ろうとしたところで、横から差し伸べられた白い手に遮られた。
「だめ、だよ」
僅かに身体を伸ばすだけでお互いに届く距離に咲いていた、一輪の花。ゆらゆらと己の運命など何処吹く風とばかりに風に煽られている花から、自分を制止した少女へと視線を流し、彼は肩の力を抜く。
少女も同時に、緊張していたらしい表情を緩めた。
「だめ……」
それでも忠告のことばは重ねられて、彼は苦笑する。
「でも」
少女が離れていく。それを眺めながら、彼は改めてオレンジ色の花を見下ろした。触れた指先から伝わってくるのは、間もなく種を育てることもなく枯れてしまうだろう、乾いた花の命ばかりだ。
種を残せない草花に、いったいどんな価値が残されているというのだろう。
だから、と彼は途切れさせたことばを並べた。
「もし、意味があるのだとしたら」
この花が生まれて、生きた意味が在るのだとするなら。一瞬でしかなくても、花が存在した事を認めて、なおかつ喜びに変える事が出来るのだとしたら。
それはそれで、この場でこの時で、この花が生まれた存在理由になりはしないだろうか?
呟く彼の指の間で、小さな花は呆気なく手折られた。
一瞬、哀しげに少女が表情を歪める。
しかし、そんな彼女の黒い髪にそっと、彼は指を差し入れて。
今手折られたばかりの花が、漆黒の色の中で唯一輝く太陽の色になった瞬間、彼女は驚いたような困惑したような表情を浮かべて彼を見返した。
「たとえば、さ」
この花が、例えば、君のこの黒髪を飾るために生まれてきたのだとしたらこのまま朽ち果てていくよりもずっと、ずっと、意味のある事なのではないだろうか。
彼は静かに手を放し、細めた丹朱の隻眼で少女を見つめて問いかけた。
「そう、かな……?」
「どうかな」
あくまでもこれはぼく自身が思うことであって、君の考え方とは大きくかけ離れてしまっているかもしれないね、と彼は自嘲気味に笑った。
つられたように、少女の表情が軽くなる。
「そう、なのかな?」
自分では見えない花を、手を伸ばして指先で確かめて少女ははにかんだ。それからちょこん、と小首を傾げて彼を見る。
折り畳まれた膝が隠れている黒のワンピース、ゆったりとした布地を弄りながら少女は微笑む。
「おはな……」
胸元を飾っている、味気ないワンピースに唯一添えられた少女の清楚さを現すような白い花に瞳をやって、彼女は黒真珠の瞳を細めた。
「ありがとう」
柔らかな微笑みは、風に溶けていく。
まさかこんな事で礼を言われると思っていなかった彼は呆気に取られたのち、直ぐに我を取り戻して取り繕うように頷いた。
どういたしまして、と返す声がどこかおかしい。
少女はくすっ、と口元に手をやって笑った。照れくさそうに、彼もまた手を後頭部にやって、くせに強い髪を掻き乱しながら笑った。
静かな午後の草原に、笑い声が流れていく。乾いた風がそれらを遠くまで運び、潤いを失いかけていた大地に一刻の安らぎをもたらす。
あ、と少女が短い声を上げたのはまさにそのタイミングであり。
彼は笑い止み、ぱんっ、と乾いた拍子を打った少女を訝しげに見返した。
そんな彼の怪訝な顔を気にすることもなく、少女はあくまでもどこまでも自分のペースで打ちつけた自分の手を広げて、忙しなく右の肘を引っ込めるとワンピースの両脇に設えられているのであろうポケットを探り始めた。
最初は右から、それで見付からなくて次に左のポケットを探る。
いったいなにが始まるのだろう、と怪訝な表情を崩せぬままでいる彼の見守る中で、少女はようやく目的のものを見つけだしたらしい、軽く握りしめた左手をポケットから引き出した。
恐らく和紙であろう、薄い白の紙に包まれたものが開かれた少女の手の平にちょこん、と転がっていた。
左手の上にそれを置き、少女は右手で結び目にしてある口を解いていく。口、と言っても和紙の四つ隅を折り曲げて重ね、捻っただけである。簡単に解けたそれの中に包まれていたものは、色とりどり鮮やかな、星の形をした砂糖菓子。
「金平糖?」
包み紙――懐紙の上に散っている星がなんであるかを確かめ、彼は呟いた。少女が、嬉しそうに頷く。
どうしたの、と持ち上げた視線で問いかけると、彼女はもらったの、とでも言おうとしているかのようにまた微笑む。そして懐紙の載った左手に右手を添え、彼に向かって少しだけ伸ばした。
え、と彼は目を見張る。
その途端、笑顔に満ちあふれていた少女の顔が翳った。
「きらい……?」
「あぁ、まぁ……うん」
弱々しく応え、彼は困った顔をしてまた自分の髪を掻きむしる。少女も伸ばしかけていた両手を引っ込め、自分の胸元に金平糖の載った懐紙を抱いた。俯いている瞳は、哀しげに揺れている。
心を抉られた気がして、彼は頭を掻いていた腕を下ろした。
甘いものは苦手、それは本当。生クリームなんて最悪で、あの甘ったるい匂いを嗅ぐだけでも逃げ出したくなる。チョコレートも駄目で、おやつで平気なのはせいぜい、甘さを極力絞ったなにも載せていないクラッカーや、クッキーといった簡素なものばかり。食べられなくても特別困ることがなかったから、この体質を改善しようとも思わなかったのだけれど。
今はその事を心の底から呪いたくなった。
「そうなんだ……」
少女は白い懐紙に散らばる金平糖を見下ろしつつ、呟く。その声が尚更彼を切なくさせて、重い息を吐き出させた。
深呼吸を三度。固く瞳を閉じて「大丈夫大丈夫」と頭の中で同じ単語を反芻させ、自己暗示をかけてから、彼は利き腕を伸ばした。
自分へ向かって伸びてきた手に驚き、目をしばたかせる少女の手元にするりと割り込んだ彼の手は、懐紙に載る幾つかの金平糖を握りしめて去っていった。
金平糖を掴んだ手は、彼の胸元にではなく口元へと向かう。意を決したように開かれた唇の隙間に小さな砂糖で出来た地上の星は、間もなくがりがりという乱暴に噛み砕く音に呆気なく粉砕されて、呑み込まれていった。
ごくん、と彼の喉が一度だけ大きく上下する。
心なしか青白さを増した顔に、少女は口元を手で覆って唖然としつつ彼を呆れた様子で見送った。
「だいじょうぶ……?」
つい聞いてしまった言葉に、彼はフラフラしている右手を持ち上げてぐっ、と親指を立ててみせた。が、どう見ても無事ではない様子に、少女は懐紙を折り畳んで彼に近寄った。
「きらいなら、いいのに」
「うん。でもさぁ」
歯の隙間に残ってしまった甘さに苦悶しながらも彼は、かろうじて作ることに成功した笑顔で少女を見返す。
右手を持ち直し、今度は間近の少女の髪をそっと撫でた。指先が、先程彼が手折りそして少女の黒髪に飾った太陽の色をした花に触れる。
伏せた瞳は辛そうだったが、表情は優しい。
「折角、だったし。ね?」
この場所で、この時で、彼女があの地上に散った砂糖の星を持っていた事もなにかの縁であったのだとしたら。
受け入れてみてもいいかな、と、少し思ってしまっただけだから。
「おいしかったよ」
「うそ、だよ」
呟きは即座に否定されて、彼は数回瞬きを繰り返し少女を見た。
一瞬だけ、彼女が泣きそうな顔をしているように見えて彼は焦った。けれど二度の瞬きのあとにはもう、少女ははにかんだ笑みを浮かべていてそれが錯覚だったのかどうなのか、彼は分からなくなってしまっていた。
「うそ……。あまいの、だめ、でしょう……?」
そっと伸ばされた彼女の白い手が、彼の額に触れた。僅かに汗が滲んでいたそこを隠しきれず、彼は苦笑を浮かべながら少女の手の平を上目遣いに見続けた。
優しく撫でられる。心が癒されるようだった。
「むりは、だめ、だよ?」
子供を叱りつける母親のような事を口にする少女だったけれど、口調はどこまでも底深く柔らかで、暖かい。透明な風に似た声に耳を傾けながら、いつの間にか彼は瞼を閉ざしていた。
出来るならこのまま、こうしていたいと思ってしまいそうだった。
「ごめん」
謝罪のことばは自分でも驚くくらいにすんなりと溢れ出て、彼は薄く目を開き自分から手を離していった少女をもう一度見返した。
優しく微笑まれる。
黒のワンピースを飾る胸元の白い花と、そして今は漆黒の鮮やかな髪を彩る日の光を具現化したような鮮やかなオレンジの花が眩しかった。
「でも、ね」
少女は桜色をした唇を動かして、言った。
まだ残されている懐紙の中の星を大事そうに抱きしめて、彼女は彼から目を逸らして俯いた。
淡い光が彼女の上に注がれる。
さながら何処かの教会に描かれている聖女のようであり、彼は見惚れたように少女の次の句を黙って待った。
どれくらいの時間が流れただろう。頭上を流れる風に乗り、羽ばたいた鳥の羽音が酷く間近に聞こえた頃、少女はゆっくりと顔を上げて彼に笑んだ。
眩しいくらいの、笑顔で告げる。
「うれしかった、よ」
にこりと、へつらいもなにもなく言ってのけた少女に彼の方が照れてしまって、真正面から見返すことが出来なくなって思わず脇に視線を流してしまい、鼻の頭を数回指先で引っ掻いた。
何分慣れていないこういう状況に困ってしまって、なんと返答して良いのか分からずに彼はあれこれ頭の中でぐちゃぐちゃになりそうな思考を納めつつ、必死に考えた。
その間、少女は自分で金平糖を摘み口に運んでいる。かりっ、という噛み砕かれる音に我を取り戻した彼は問いかけるような少女の瞳に竦み、即座に首を横に振ったものの。
数秒間だけ考え込んで、考え直して。
そろりと伸ばした指でひとつだけ、星の形をかたどった砂糖菓子を摘んだ。
「だいじょうぶ?」
「さぁ……ね」
駄目だったら勘弁してよね、と笑ってから彼は口の中に勢い良く金平糖を放り込んだ。
がりっ、と砂を噛むような音が響き、彼は甘いものを食べているのに苦い顔をして口を真横一文字に引き延ばした。
必死に堪えながら、なんとか喉の奥へと嚥下させるが、咳き込んでしまう。
「むり、だめ」
いつになく厳しい目つきで少女が言い、彼はゴメン、と平謝りで少女に頭を下げた。
下げられた彼の頭を見下ろして、少女はなにかを考え込むように手を休める。そして彼が顔を上げるタイミングを見計らって微笑みながら、言った。
「あしたは、あまくないのにするね?」
「そうしてくれると、ありがたいよ」
反射的に答えてから、彼は目を丸くして少女を見返した。けれど彼女はなにも疑問を感じる事なく金平糖を囓っている。
「どうしたの?」
視線に気づいて顔を上げる彼女は、果たして今さっき、自分で言った言葉の意味をちゃんと理解しているのだろうか。
聞きたかったけれども、野暮な気もして彼は結局、なんでもないよと首を振るに留めた。少女は暫く不思議そうにしていたが、じきに金平糖にまた手を伸ばし始めた。
「あした、ね……」
流れていく風に押されていく白い雲を見上げつつ、彼は古木に体重を預ける。
ま、いいか。
頭の後ろに両手を組んで、隻眼を閉じる。深く息を吸い込めば、緑と土の匂いが心地よかった。
そのまま微睡みに落ちていこうとする意識の片隅で、明日の午後の茶会を思い浮かべている自分に気づいて苦笑が漏れる。
じゃあ明日は、城においでよ、と目を閉じたまま語りかけると、少女は迷うことなく頷いた。
とても、嬉しそうに。
彼女は笑って、頷いた。
それだけで幸せな気持ちになれて、彼も、いつまでも笑っていた。