薄曇りの空からぽとりと、一滴の雫がこぼれ落ちたのは夕暮れ間近の午後。
ラジオが伝える天気予報は午後から50%の確率で雨、という予測を出していた。しかし実際には、正午過ぎでも雲間から僅かだったものの天頂の青い空が覗いていたこともあり、外出する人々も雨の可能性を忘れたまま玄関を出て行っていた事だろう。
今目の前にある天候を過信して、数時間後に劇的な変化を見せる空の気紛れさを呪うことになる事も決して希ではないはずなのに。余程痛い目を見ない限り、人は学ぼうとしないのか。
否、学んでいても“うっかり”は消えることがない。
色の薄かった灰色が濃くなり始め、やがて疎らに雨が空から舞い降りだした午後。最初に弱い雨足に気づいたのはアッシュだった。
「降り出したみたいっス」
外に干していた最後の洗濯物、真っ白なシーツを回収し終えてリビングに顔を出した彼がソファに腰掛け、ラジオを聴きながら雑誌を読んでいたユーリに言った。
ちょうどDJも降り出した雨に関しての事へ話題を伸ばしたこともあり、ユーリは雑誌の紙面から顔を上げてアッシュごと、その向こう側にある大きな窓ガラスを見た。
「こっちでもか?」
カーペットの上に洗濯物を広げ、雨の被害を最小限に押し留められているそれらを一枚ずつ確認して畳み始めたアッシュに、ユーリは居住まいを正して問いかける。少し草臥れ掛けていたTシャツの袖を折っていたアッシュが、問われるままに首を振り頷いた。
それからさっきまで自分が居た庭先に続く、大きな窓へ目線を流した。
その位置からでは見えにくかったが、確かに細い雨の線が窓ガラスの向こう側に何本も走っていた。よく目を凝らし確かめたユーリが、物憂げに息を吐く。
雨はあまり好きではない。なによりも雨音が五月蠅いし、雨が降ったあとの地面はぬかるんで歩きにくいことこの上ない。だから好きな散歩に行くのも憂鬱になってしまう。
アッシュは気にした様子もなく、洗濯物が雨に濡れてしまっていないことを確かめながら一枚一枚を丁寧に折り畳んでいく。アイロン掛けが必要なものとそうでないものを分別しながらの作業は、酷く所帯じみていた。
そんな仕事も文句ひとつ零さずに自分から取りかかる彼は、言ってしまえばこの城の家政婦代わりである。バンド活動にソロ活動、その上料理の研究に城の家事その他諸々。忙しさで休む間もないのではと、時折メンバーを危惧させる彼だったが、自分から進んでやりたがるものを無理に辞めさせるのもどうか、という意見もあり好きにさせるしかない。疲れたら自分で休暇を求めてくるだろうし、なによりメンバーの健康管理までやっている彼である、自分の健康管理も当然出来ているはずだ。
嬉々として洗濯物と向き合っている彼を眺め、ユーリは小さく肩を竦めた。
手伝ってやろうと言葉をかけたことはあるが、いずれも丁寧な言葉で却下されてきている。今回も断られるに決まっているので、彼は自分から何も言わない。
――どうせ、私は役立たずだ。
少々やさぐれた思いを胸の中で消化させ、ユーリは再び紙面に目を落とす。ラジオのDJは次の曲を紹介し、トークは中断されてしまっていた。雨の模様は伝えられたかもしれないが、ユーリは聞きそびれてしまった格好だった。
遠く雨音が響く中、ラジオからは20年ほど前のヒットソングが視聴者のリクエストに応じて流される。途中から別の音が混じり込んできて、なんだと思って振り返ったユーリは、それがアッシュに鼻歌だと気づいて苦笑った。
本人は気づいていないようだったが、今でも懐かしのソングとして話題になにかと上りやすい曲であったことと、メロディーが単調である事も手伝って現在でもよく知られている曲に、ついついリズムに乗ってしまっていたらしい。本当に気づいていないのか、ユーリの前だというのに身体でリズムまで刻んでいる。洗濯物を畳む手の動きも、どことなく唄に合わされているようだった。
自分たちも曲も、数十年後でも同じように知られて唄われていれば良いのだが、とガラにもなくしんみりとしてしまってユーリは姿勢を戻し、クリスタルテーブルの上に置かれたブルーの小型ラジオを見つめた。伸ばされた銀のアンテナが照明を浴びて鈍色に輝いている。
雨はまだ降り続けているようだった。室内と外気の気温差が現れ始めたのか、窓が薄くだけれど白く曇り始めていた。
「そういえば」
最後の洗濯物を膝の上に載せたアッシュが、曇りだした窓を見やって呟く。
それはきっと、何気ないひとことだったはずだ。
「スマイルは、傘持って行ったんスかね」
一時間も前には遡らない記憶を偶然にも引き出した彼の呟きに、ユーリは怪訝な顔を作ってまた振り返った。いい加減読まれなくなった雑誌が退屈そうに身体を揺らし、彼が目で追っていたページを隠してしまう。
「出かけたのか?」
それなりに分厚い雑誌を最初から読んでいたユーリは、午後の食事を終えてからずっとリビングでラジオを相手に過ごしていた。そこそこ音量も大きめにしていたラジオに消されて、城に住みついている誰かが出かける音にも気づけなかったらしい。
不本意そうに顔を顰めた彼に、今度はアッシュが苦笑する。
「気が付いてなかったんスか?」
ちゃんとリビングを覗いて、出かけてくる旨を伝えてからでていったと、アッシュは呆れと困惑を内包させた表情で言う。
「そうなのか?」
まったく気づいていなかったユーリが今度こそ目を丸くして問い返し、ラスト一枚を畳み終えたアッシュは大仰に肩を竦めた。山になった洗濯物を両手に抱えて立ち上がる。
「ユーリ、雑誌に熱中してたっスしね」
一度トリップしてしまうとなかなか他の音も耳に入らなくなってしまうユーリだから、ちょうどそのタイミングに被ってしまったのだろうと彼は笑いながら言った。言われてみれば思い当たる節はあって、ユーリは口元を押さえ眉間に皺を寄せつつも、頷かざるを得なかった。
「どこに行くと?」
「さぁ、そこまでは。けど、すぐに帰ってくるみたいな事は言っていたからそう遠くじゃないとは思うっス」
正確なことは言えないものの、出掛けのスマイルが残していった言葉を思い出して頭の中で反芻させながら、天井付近を見上げてアッシュは言葉を紡ぐ。再びユーリに目を戻したときには、その彼は在らぬ方向を見ていた。
その様子にさえ、アッシュは苦笑を禁じ得ない。
「多分、すぐに帰ってくるっスよ」
スマイルはよくフラッと突然、断り無く居なくなる。しかしその時は大抵、誰にも何も言わずに出ていくパターンだ。今回のように先に出かける旨を言い残してから出かけるときは、行き先と目的が明確でありなおかつ、用事も直ぐに片づくと踏んでいるパターンが多い。それはつき合いがそこそこ長くなり始めているアッシュもユーリも了解している彼の行動パターンで、その点で疑いを抱くことはまず必要ない。
今回も、スマイルは直ぐに帰ってくるだろう。
ただし、雨に足止めを喰らっていなければ、の話。
ユーリは窓を見た。白く濁り始めている窓の表面は庭先を曇らせている。ソファの上からでは最早見通すことも出来ず、彼は読みかけのページも見失って久しい雑誌を畳んでテーブルに置いた。
もう聴いてさえいないラジオのスイッチを切る。ぷつっ、と呆気なくそれはただの電気仕掛けの箱に戻った。
立ち上がって十数歩も必要ない窓までの距離を一気に詰め、彼は曇ってしまっているガラスの表面を手で擦ってみた。しかし水滴が表面に残り、曇りは晴れない。仕方なく彼は、身に纏っているシャツの袖を指先で引っ張って端で軽く、水分を吸い込ませるようにして拭ってみた。
洗濯物を両手に抱きしめたまま、アッシュがその背中を見守る。
曇りは完全には消えてくれず、まだ向こう側を隠している窓を睨みながらユーリは外の景色を確認した。雨は、降り続いている。それもかなり雨足は強そうだった。
通り雨だったとしても、止むまでは時間が掛かりそうな勢いである。
「どうっスか」
風もそこそこ出ているらしい。窓の反対側に叩きつけられる雨はガラスの表面を冷やし、暖かな室内気温と相まって窓の内側を曇らせる。
アッシュの問いかけにユーリは背を向けたまま小さく首を振った。
「スマイル、傘持っていってるんスかね……」
先程とほぼ同内容の事をまた呟き、アッシュはずり落ち掛けた洗濯物を抱えなおした。そして各人の部屋へ配達するため、リビングから出ていこうとする。
雨音はラジオを消した上、窓辺に寄ったことでユーリの耳にはっきりと聞こえてきた。窓ガラスに手を添えれば、冷たさと一緒に雨の勢いが指先から伝わってくる錯覚さえ覚えてしまう。
背後でパタン、とアッシュがドアを開けて閉める音が聞こえた。
反射的に、ユーリは小走りに駆けて閉まったばかりの扉を勢い良く開けた。階段を登り始めていたアッシュが、扉の開く音で足を止め階下を見下ろす。既に二階へ続く階段の半分より上まで達していた彼に、ユーリは首が痛くなる思いで上向きながら、扉から手を放し告げた。
「ちょっと、出てくる」
「雨っスよ」
「散歩だ!」
雨の日は余程の用事がない限り城に籠もりきるくらいに、雨という天候が嫌いなはずのユーリが今、土砂降りとまでは行かないけれどもそこそこ強い雨が降りしきる外に散歩、とは。
一瞬考えてしまったアッシュだったが、半秒後に得心がいってまたまた、ユーリに分からないくらいの苦笑を口元に浮かべた。
「多分、本屋っスよ」
出かける前に確か、今日の日付をカレンダーで確認していたから、とアッシュは問われても居ない事を口に出した。眼下で、ユーリが明らかに嫌そうな、不満げな顔をしたのがおかしい。
「私は、別に……」
「それか、煙草屋の猫と遊んでるかどっちかっスね」
「だから、私は別に」
「夕食までには帰ってきてくださいっス」
「それは分かっている」
なにか言いたげなのに結局口を噤んでしまって最後まで言えないユーリの為に、アッシュは矢継ぎ早に笑顔のままとりとめのない言葉を投げかけた。最終的にユーリはふてくされた顔で若干頬を膨らませ、唇も尖らせていたが。
くるり、と階上のアッシュに背を向けて玄関ホールの片隅に小さくある傘立てに手を突っ込むとき、小さく礼を述べるような声が聞こえた。
「ユーリ?」
「行ってくる!」
聞こえなかった、と身を乗り出し掛けたアッシュを振り返り、彼は少しだけ朱を走らせた顔で怒鳴った。
「行ってらっしゃい」
思わず破顔してしまいそうになったアッシュが、胸と片手だけで抱えている洗濯物を持ち替え、無理に空かせた手を軽く振った。
決まりが悪そうな顔でユーリはそんなアッシュをひと睨みし、踵を軸にして身体を反転させると乱暴に、傘立てから自分用の黒いこうもり傘を引っ張り出した。
傘立てには他にも数本、似たような色をした傘が突っ込まれており、ユーリの傘と一緒になって引っ張られたそれを彼は面倒そうに押しのける。けれど一瞬手が止まったのは、それらの中にスマイルが普段使用している傘が収まっているのを見つけたからだった。
ちっ、と短く舌打ちをしてユーリは玄関を押した。目の前に開けた薄暗い空に更にまた舌打ちを繰り返し、傘を広げた。
黒く光沢のある布地が骨組みに支えられ、ピン、と張る。雨の調子はさっきと同じくらいの勢いか、若干増したようである。四角くカットされた玄関先の石の列に、降りしきる雨が叩きつけられて小さく跳ね上がっていた。遠く空の彼方まで続いている雨雲は、上空に流れる風に押されて西から東へ、足早に流れて行っている。
少しだけ憂鬱な思いを抱えて、ユーリは傘を頭上に掲げた。玄関の扉は自動的に閉まり、ゆっくりと彼は正面門へと向かって歩き出す。
「行ってらっしゃいっス」
そんな彼の背中を階段の上で見送ってから、アッシュもまた、ようやく本来の目的を思い出し止まっていた足を動かし出した。
「今夜は、シチューにでもするっスかね」
そんな事を、呟きながら。
*
吹き付けてくる風に押し流されて、雨粒は傘の存在も無視してユーリに襲いかかってくる。両手で傘の柄をしっかりと握り、攫われてしまわぬように力を込めながら歩くのが精いっぱい。
やはり出かけるのではなかったと今更ながら後悔するが、引き返すのも癪に障る。挫けそうになる自身を叱咤激励し、彼は一歩一歩前へ進んでいく。
土の地面はそう多くなく、アスファルトの上に出来上がった水たまりを避ければそう濡れる事もない、はずだった。けれど風の所為で不要な雨粒を全身――主に下半身――に浴びせられ、まだ目的地まで三分の二近くも道のりが残っているに関わらず、帰りたくて仕方がなかった。
水分を吸収する能力を持ち合わせていないタールで固められた大地に降った雨水は、若干の傾斜が設けられている道路の両脇、用水路にかもしくは、マンホールの溝に呑み込まれて消えていく。アスファルトの大地にとって、空から降り注ぐ雨は決して、恵みの雨にはならないのだ。
どんよりとしていて、見上げれば気分まで薄暗くさせてくれそうな雨空を視界の端に入れ、ユーリは足許に転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。
水を跳ねながら空き缶が音を立て、数回空中に弧を描いたのちそれも雨水と同じように道端の溝に吸い込まれていった。
カランカラン、コロン、ぽしゃっ。
擬音で表現するとしたら、そんなところだろうか。
溜息を、もうひとつ。パシャンと足許の水たまりも蹴り飛ばし、重い水を含んだ大気に混ぜ込んでそれを飛び越える。右足のスラックスの裾が少しだけ、けれどシミを作るくらいに濡れた。
軽やかに着地し、ほんの僅かに上機嫌になったのか、ユーリは背の羽をぱさぱさと二回ほど羽ばたかせた。もっとも、動かすだけで空を飛ぶことはない。この雨模様の中、空を駆ったところで濡れ鼠になるのが関の山だ。
道端に伸びる樹木が雨を受け、緑濃い葉で雨を弾いている。その音色は唄を奏でているようであり、空からの見舞いものを喜んでいるかのようだった。足許に目をやれば、アスファルトが途切れた場所で健気に、懸命に背を伸ばし花を咲かせる小さな生き物たちがいる。
踏みつぶさぬように気を付けながら、それらを順に見送って彼は歩く。
天気がよい日は空ばかりを見上げているから、全然気づかなかったと彼は笑った。雨が降って薄暗い空を見ないようにしていたら、今まで知らなかった地面の事が初めて見えた気がした。
寒いことと、濡れることと、傘が邪魔な事を除けば雨の日の地上を行く散歩も、悪くない。
傘を打つ雨のリズムを聴きながら、ユーリはゆっくりと、けれどしっかりと地面を踏みしめて前へ進む。
次第に雨足は弱まり始めていた。上空を吹き荒れる強い風が雨雲を押し流し、この地区一帯か雨を追い出しに掛かったらしい。増えてくる水たまりに対して、それらを揺らす雨の滴は少しずつ減り始めていた。
角を曲がり、商店が並ぶ一角が近付いたところでユーリは背の羽を畳んで隠した。すれ違う人は居らず、気にする事もなかったかもしれないが習慣になっている行為に些か自嘲気味な表情を作って、彼は視線を巡らせた。
CDショップを店先から覗き込み、その隣の書店をガラス越しに眺める。けれど見当たらず、小さな溜息を零して彼はようやく緩みだした風の御陰で力を抜くことが出来た傘を持つ手で、くるくると傘を回転させた。縁に溜まっていた水が、遠心力で飛ばされていく。
散歩に出てきたんだろう、と自分に言い聞かせ捜してしまう自分を叱りつけ、彼は踵を返した。別に迎えに来たわけでも全然ないのだから、と心の中で誰にも問われていないに関わらず言い訳を繰り返し、さっきよりも早めの調子で足を前に運んでいく。
商店区を抜け、小さな公園を通りすぎ、その帰り道。
住宅区の、外れ。四つ角の一角、住宅に埋もれてしまいそうな小さな窓ひとつだけの商店、煙草屋の、前。
にゃぁ、と甘えた調子の猫の鳴き声に彼は自然と、速度を緩めた。
ぽとり、と軒先から大きな雨粒が滴り落ちていく。
さほど広くない、煙草屋の軒下に暖を取るように猫を抱きしめてしゃがみ込んでいる大きな影。
立ち止まったユーリに気づいて、顔を上げる。
少し驚いた表情を、やがて微笑みに変えて。
「雨なのに散歩?」
薄く歯を覗かせながら彼は言った。抱きしめている猫の喉を撫でてやり、すり寄ってくる猫に目を細める彼は避けきれなかった雨で濡れていたが、大して気にした様子もなく猫と遊んでいる。
思わずむっとした顔になったユーリに、彼は冗談だよ、と猫を両手でしっかりと抱きしめながら立ち上がった。彼の背後、煙草屋の窓の向こうに人影はなかった。恐らくこの雨で客が来ないと考えているのだろう、それともこの雨宿り中の男が知らせてくれると思っているのか。
「迎えに来てくれたんでショ?」
「違う、散歩の途中だ」
傘を回しながら、ユーリはつっけんどんに言い放った。
彼は笑う、楽しげに声を殺して。猫を撫でている手つきはどこまでも優しい。
ばつが悪そうにその光景を眺めているうちに、足許が明るくなった気がしてユーリは視線を上向けた。
傘の位置をずらし、空を仰ぐ。
「あぁ、止んだみたい」
一緒になって彼もまた空を仰ぎ見、呟く。雲間が裂け、そこから青空と太陽の光が溢れ出し始めていた。
傘の上に残っていた雨水が雫となって落ちる。ユーリは吐息と共に傘を下ろし、静かに畳んだ。けれど最後に数滴だけ水が跳ね飛んでしまった。
「う~ん……もうちょっと降ってくれてても良かったのに」
残念そうに彼が言うので、何故だ? という視線を向けると彼は抱いていた猫を地面に下ろしてやり手を振ってさよならを告げ、ユーリに向き直った。そして意地悪そうに微笑みながら、一本しかない傘を指さす。
「だって、さぁ」
相合い傘で帰れたじゃない?
照れもへつらいもなく、笑いながら言い切った彼に。
ユーリは一瞬理解できなくてぽかんとし、1.5秒後に理解して思わず持っていた傘を振り上げてしまった。
濡れている先端で殴りかかる。
すんでのところで躱した彼が、心臓の辺りを片手で押さえながらユーリに文句を投げつける。
「危ないじゃないか~~」
「うるさい!」
怒鳴り声に怒鳴り声で返し、ユーリはぶんぶんと傘を振り回す。けれど大振りのそれらは彼に掠めることさえなく、すべて軽々と避けられてしまう。
足許の水たまりをジャンプで飛び越え、着地した彼がケラケラと声を立てて笑った。僅かに広がった自分たちの距離を確かめてから、ふと、雨雲が消え去っていく空を見上げた。
「あ、ねぇ、ユーリ」
ほら、見てよ。そう告げながら彼は手招きをしたあとその人差し指を伸ばし、西の空を指さした。
「誤魔化そうとしたって……」
「違う違う。本当に、見てよ」
じりじりと距離を詰めるユーリに首と手を一緒に振り、彼は背筋をピンと伸ばして西を仰ぎ見上げた。訝みながらも、ユーリは逆手に持っていた傘を下ろし彼の見つめている方角へと視線を流した。
瞬間、目を見張り息を呑む。
「ね?」
言葉を失って佇んだユーリに笑いかけ、彼は隻眼の瞳を細めた。
「綺麗だねぇ……」
「あぁ、そうだな」
雨上がりの空に、見事な半円の虹の橋が架かっていたのだ。
七色とまでは行かなかったが、五色は目に見えて判別がつく鮮やかな虹をふたり並びながら、会話も交わすことなく眺める。
それは暫くすれば色も薄れ、空の青に溶けて消えて行ってしまったけれどそれでも、ユーリはそこから動こうとはしなかった。余程気に入ったのか、灰色が去り青と白に彩られた空間をじっと、見据える。
「ユーリ」
そんなユーリの横顔をじっと見つめ、彼は名前を呼んだ。
ゆっくりと首を回して彼の眼を見つめ返す存在に、柔らかく微笑みかける。
「雨の日の散歩も、偶には悪くないでしょう?」
日の光が射し込む地面からユーリ、そして真っ青な空を順に見上げていって、彼は言った。
「ああ」
ユーリは頷き、もう見えない虹を追いかけて紅玉の双眸を細め太陽を仰いだ。
「本当に、そうだな」
心の底からの思いを呟き、彼はもう一度深く頷いて目を閉じた。空に吸い込まれていった虹をいつでも思い出せるように、強く心に刻み込む、その為に。