Fellow

 夕暮れが終わると、闇は一気に押し寄せてくる。足許に長く伸びていた影も、やがて日が沈むと同時にゆっくりと薄くなり、やがては闇に同化して消えて行ってしまう。
 そして、世界は闇に包まれる。 
 けれど、闇は優しい。
 まだ少しだけ日の暖かさを残している大地を、そこに伸びる緑の草を踏みしめながら彼は先に立って歩いていく。
 やがて草地は途切れ、人の暮らす世界――緑の境界線が目の前に広がり始める。彼は足を止め、振り返った。
 ほの暗い世界の中で、黒を纏った少女が同じように足を止めた。そして彼を見上げ、不思議そうな目をしながら小首を傾げた。
 動きに相まって、彼女が持っている白い鳥籠が揺れて音を立てた。
「家は?」
 送っていくよ、と彼は言った。しかし少女はまだ首を傾げたまま、答えようともしないで彼を見上げ続ける。
 闇よりも深い漆黒が彼を見上げている。
「おうち……?」
 冷え冷えとし始めた空気に肩を震わせ、少女は呟いた。
 視線が彼から逸れ、揺らめく。何もない空間を彷徨い、足許に落ちたまま戻ってこない。
 空の鳥籠が揺れる。吹いた風が彼女の足許を覆う草を波立たせて去っていった。
 彼は眉根を寄せた。怪訝な面もちで少女を見下ろし、それからもう見えなくなってしまった太陽を追いかけるように西の空を仰ぐ。
 沈黙の空気は重く、湿っている。
「おうち……」
 まさか、解らないなどと言いやしないだろうか。
 少女の周囲に漂う雰囲気を探りながら、彼は戻した視線の先に居る彼女の黒髪を見つめる。艶のあるそれは綺麗で、よく手入れも行き届いている。パッと見、少女の身元を証明できそうなものはなにもなく、この様子では問い質しても答えを導き出すのは至難の技のように思えた。
 彼女はまだ、視線を虚空に漂わせていた。なにかを紡ごうとしている口元は、しかし音を発することなく閉じられる。
「……じゃぁ、さ」
 質問の内容を変えてみることにした。
「どこから、来たの?」
 膝を折り、少女の視線に重なるように姿勢を低くして問いかける。だが即答は、案の定無かった。
 けれども、返されなかった視線が戻ってきたので無駄ではなかっただろう。
 彼は辛抱強く少女の返答を待った。
 闇は濃さを増し、青紫から濃紺へと空は様相を変化させる。雲が多く星は疎らにしか見えない。だが雲間から覗く月は下弦、細い身なりを人々の目に晒している。
「おうち……」
 ぽそり、と少女は自分の手で覆い隠した口元から音色を零した。
「……?」
 彼は一度大きく瞬きをし、少女を凝視する。
 どこから来たのか=家。では、その家は?
「……わからない……」
 がくっ、と彼は聞いた途端膝の力が抜けてその場に倒れてしまいそうになった。少女がまたより一層不思議そうな顔をし、彼を見つめる。
 悪気があって言っているのではないから怒られないが、さすがに脱力してしまうのは仕方がなかろう。冗談を言っているともとても思えないし、少女がそこまでする性格をして居るとも思えない。
 本気で、迷子なのだろう。しかも無自覚に。
「解らない? どっちから来たか、とかだけでも」
 地面の上に座り直し、彼は三度目の問いかけをする。少女は今度は、即座に首を横に振った。
 お手上げかも知れない。
 こんな事だったら、日が暮れる前に彼女を帰すんだったと後悔してしまうが、一緒に昼寝をして気が付いたときにはもう夕方だったのだからその後悔は、はっきり言って無駄である。
 警察に連れて行くべきか。
 判断に悩み、彼は左手で髪を掻き乱しながら少女を見上げた。漆黒の双眸は、まったく疑問も疑いさえも抱かずに彼を見つめている。
 足許へ目を伏せ、それから彼は膝を打ち立ち上がった。唐突だったその動きに驚いたのか、少女は珍しく目を丸くして半歩後ろに下がった。片手にぶら下げていた鳥籠を引き寄せて、反射的に抱きしめる。
 恐がらせてしまったようで、彼は困ったようにまた髪を掻き回した。セットが崩れ、長めの前髪が落ちてきて唯一露わにされている右目を覆い隠そうとする。
 それを指先で弾き飛ばし、大丈夫だよ、と言わんばかりに笑顔を振りまく。少しエセ臭いと自分でも自覚できるほどの笑顔だったが、少女は強張っていた肩から力を抜くのが解って、自分まで安堵してしまう。
 振り回されているな、とガラではない今の自分がおかしかった。
「どうしたの……?」
 少女が近付いてきて、尋ねる。どうやら今の自嘲気味な笑みを察知されてしまったらしい。普段ならば誰にも悟られないはずなのに、この少女の勘の鋭さには舌を巻いた。
 なんでもないよ、と顔の前で手を一度横に振って、それからまた思案顔で空を仰ぎ見る。
 この時間帯で警察に連れて行っても、家族と連絡が取れて引き取りが来る頃には夜半に達している可能性がある。今の彼女の調子では、ちゃんと家族と連絡が取れるとも限らない。
 それになにより、警察はこの場所から、少し遠い。
 むしろ城の方が近いくらいだ。
「………………」
 長い永い沈黙の末、落ちた溜息は諦めに近かった。
 ぼさぼさになり掛かっている髪をまた掻き回し、隻眼を細めて彼は少女を改めて見直した。
「うち、来る?」
 正しくは、彼の家では決してないのだけれども。
 あの無駄に広い空間になら、突然の訪問客があっても余るくらいの普段使用されていない客間が大量にある。そのうちのひとつを、今夜だけ借用させて貰おう。
 少女は迷っているようだった。それも、迷っている種類が「この人についていって大丈夫だろうか」というものではなく、どちからと言えば「自分が行っても良いのだろうか」という類のものらしかった。何度も彼の目を見て、抱えている鳥籠へ視線を落とす。
 吹き付ける風はかなり冷たい。昼間の暖かさが嘘のようで、彼女が鳥籠を抱きしめているのは決して不安だからという理由だけではなさそうだ。
「おいで? 明日、明るくなってから送って行ってあげる」
 城に帰れば電話もあるし、そこから家族に連絡をすれば大丈夫だろう。
 なるべく少女を刺激しないように言い、彼はにっこりと微笑んだ。それを見て、ようやく少女も固かった表情を和らげる。
 微笑み返して、頷いた。
「おうち……あなたの」
「ぼくの家……城じゃないんだけどね」
 家主にはなんと言い訳しようか。きっと怒られるだろうな、とその顔を思い浮かべて彼は小さく肩を竦めた。
「……?」
 少女が疑問符を頭の上に浮かべ、真下からじっと彼を見上げる。瞳にはまだ、彼の申し出を本当に受けて良いのかどうか迷っている色が残っている。
 安心させたくて、彼は自分の中にあった不安を頭の中から追い出した。
 この子は、勘がいいから自分の心の中にある不安や、恐れを敏感に感じ取ってしまうのだ。そしてそれは少女の心にまで間接的な影響を与えてしまいかねない。
 鏡のようだと、思った。
 そう、澄んだ水のように黒い――鏡だ。
 彼は自分が着ている上着を脱いだ。襟の部分で持ち替え、少女の肩にひっかけてやる。彼女はまた不思議そうに彼と上着とを交互に見つめ、小さく首を振り鳥籠を下に置いてまでして、上着を外して返そうとする。
 だがそれこそ、彼に遠慮しなくて良いよと伸ばした手を上着ごと押し返されてしまい、引っ込めるしかなかった。
 素直に受け取り、自分から袖のないワンピースの上に着込む。
 やはり男性用の上着は大きすぎて、袖の先からは彼女の指先さえも現れてこなかった。
 苦笑して膝を折ってまたその場にしゃがみ込み、彼は今は少女が身に纏っている自分の濃紺色をした上着の袖を三重に折り曲げた。
 そうすれば、ようやく少女の小さな可愛らしい、白い手が現れて鳥籠を持つ事が出来るようになった。少女もホッとしたようで、足許に置いてあった空の鳥籠を右手に持ち直す。
 カラン、と鍵の掛かっていない扉が開いて閉じ、小さな音が転がり落ちた。
とり……
 少女がそんな鳥籠を見下ろして呟く。
 もう完全な夜、鳥たちも巣に戻って羽を休め眠りに就き始めているはずだ。
「明日、日が昇ってからね」
 少女の頭を優しく撫で、彼は言った。少女も理解したようで、黙ったままひとつ頷く。
 撫でてやった手を下ろし脇に流すと、横から伸びてきた体温が触れた。
 少し驚いて下を向くと、同じように不安顔で見上げてきた少女と目が合う。にこりと微笑み返してやれば、ぎゅっ、と握られた手が更に強く握られた。

「ただいまー」
「遅い!」
 かけ声と一緒に扉を押し開けると、待ちかまえていたらしい人物の声が飛び込んできてその場で彼は固まった。
 正面玄関前、広く天井も高いホールのど真ん中で仁王立ちしているその人の姿が嫌でも目に入り、思わず回れ右をしてしまいそうになったが自分の背後に居る存在を思い出して、首を振る。
「ゴメンナサイ」
 しゅん、と小さくなって頭を下げ、謝る。言い訳はとりあえず後、先に謝ってしまった方が向こうも出鼻を挫かれて強く出ることが出来なくなるのだから。
 それから頭を上げ、ホール内部に足を踏み入れる。けれど途中で立ち止まり、振り返って後ろへ手招き。
「?」
 ホールで待ちかまえている銀糸の人は、怪訝な顔をして首を傾げ、彼の向こうから歩いてくる人物に目を凝らした。
 小さな、綺麗な黒髪をした少女を視界におさめ、途端に表情が不審なものに変わる。
「そこまで地に堕ちたか、貴様」
「ちがーっう!」
 いったい何を誤解したのか、腕組みをしてさらりとそんなことを言った彼に思い切り否定の声を飛ばして。びくっと声の大きさに驚いた少女に、君に怒鳴ったんじゃないと囁いてから開けっぱなしの扉を閉めに行った。
 背中で押して閉め、苦笑う。
「迷子」
「……誘拐か」
「ユーリさん、ちゃんと人の話聞いてます?」
 むしろ聞こえていないフリをしているらしいユーリに肩を竦め、彼は不安げに彼と、ユーリと、あとはあまり明るい雰囲気とも言い難い城の内装とを見比べている少女に微笑みかけた。
「大丈夫。別に取って食べたりしないから」
「スマイル、帰ってきたんスか?」
 彼の声に、奧から顔を覗かせた青年の声が被る。だが、どうも妙な雰囲気を悟ったようで、奧へ続く扉から出てきた彼は、ホールで不機嫌を隠さずにいるユーリと、それから扉の前で止まったままでいるスマイルとを交互に見つめた。
 最後に、スマイルの前に居る少女にようやく気づく。
「あれ、かごめちゃん……だったっスか」
 どうして此処にいるのか、と疑問符を乗せた調子で言った彼に、ユーリは「知り合いか?」と目を向ける。
「知り合いっていうか、最近話題の子っス。前に一度仕事で一緒になったこともあるっス」
 ソロでの仕事で会ったからユーリが知らなくても無理はない、とあまり世情に詳しくないユーリが顔を顰めるのに苦笑して、彼は少女へ歩み寄った。
「俺のこと、覚えてるっスか?」
 鳥籠を抱きしめている少女の前で止まり、自分を指さしながら尋ねる。彼女は視線を泳がせてスマイルを見上げてから、もう一度アッシュを見た。しかし明確な返答は得られず、アッシュ自身も困ってしまって助けを求めるようにスマイルを見た。
「なんでぼくを見るのさ……」
 ふたりから同時に見つめられ、困惑を隠せぬままスマイルは溜息をついた。
「スマイルは、かごめちゃんとどういう知り合いっスか?」
「一緒に昼寝しただけ」
「……犯罪者め」
「なにもしてないってばー!」
 正直に本当のことを告げただけなのに、即座にユーリが小声で呟くものだから、またスマイルは大声で否定してぷんすか、と頭から湯気を出す。アッシュが空笑いを浮かべて大人げないやりとりをやっている大人ふたりを交互に見る。
「ええと……俺は、アッシュ。前に一緒に仕事したことあるっスけど、覚えてないっスか?」
 その場でしゃがみ込み、彼はもう一度少女に問いかけた。彼女は小首を傾げながら懸命に記憶の海を掘り返し、やがてなにか引っ掛かるものがあったのか、数回瞬きを繰り返した。
 短く、小さな声で呟く。
「おいぬさん……?」
「イヌー!?」
 傍で聞いていたスマイルが、途端に大笑いを始めた。そういう認識しかされていなかった事を知らされ、アッシュの方はショックで石になってしまっている。一方、少女は自分が言ったことがまずかったのかと、口元に手をやって心配そうにアッシュを見つめる。
 ユーリだけが、置き去りにされた格好でひとり不機嫌に佇むばかりだ。
「あ、でも。君、かごめちゃんって言うんだ」
 まだ落ち込んでいるアッシュをよそに、スマイルは振り返った少女を見下ろして今知ったばかりの彼女の名前を呼んだ。
 少女はコクン、と頷く。それから鳥籠を持たない方の手を伸ばし、スマイルの手を取る。
「……スマイル……?」
 そういえば、自分だって彼女に名乗っていなかったではないか。今彼女に呼ばれてから思い出した事実に、自分でも愕然としてしまってそれから可笑しくなってまた笑った。
「そう、スマイル。ぼくは、スマイル」
 よろしくね、と微笑みかける。そして傍でまだいじけている真っ最中のアッシュを指で指し示し、
「あれは、アッシュ。イヌだよ」
 本人にとっては否定して欲しかっただろう事をあっさりと肯定し、更にアッシュを崖から突き落としてスマイルは意地悪く笑った。それから、ホールの真ん中から動こうとしないユーリへ視線を持ち上げる。
 気づいたユーリは、組んでいた腕を解き遠くへと視線を逸らしてしまったけれど。
 そんなリーダーの態度に肩を竦めて、
「あっちに居るのが、この城の主人のユーリ。知ってる?」
 スマイルのことを知らなかったのだから、ユーリのこともひょっとしたら知らないかもしれない。直接面識があったはずのアッシュの事でさえ、まともに記憶していなかったのだから。
 彼の問いかけに、少女――かごめは案の定、頷いて肯定した。横目で事の成りを見ていたユーリが、不満げに舌打ちをしていたのをスマイルはちゃんと見ていた。
「そこ、拗ねない」
「五月蠅い!」
「でも、まぁこれで覚えて貰えただろうし。良いじゃない」
 カラカラと笑ってスマイルは手を振る。かごめも、よく解らないという顔をしていたがスマイルが笑っているので表情を和らげる。
「なにはともあれ、今後ともヨロシク」
 ね? と微笑んで相槌を求めると、彼女は同じように微笑んで大きく頷いた。