Blue

 気分転換にギターを片手に、もう片手にギャンブラーZのフィギュアを持って公園に出かける。
 公園と言っても、そこは何もない一面の平原。ぽつりぽつりと聳えるのは背が低い割に枝は広い、名前も覚えていない樹木ばかり。その隙間を埋めるように、緑濃い背の低い芝が一面を覆い尽くしている。
 地面の茶色は、あまり見えない。けれど草の間に指を差し込んで左右に揺すれば、確かにその下には暖かな大地が横たわっている。
 そのうちの、特別枝振りが立派だとか背が高いだとか、そういう事はなにひとつ特徴として持っていないけれど、なんだかそれが逆に親近感を抱かせる木にいつもように背を預けて、座り込む。
 太陽の陽射しは燦々と、暖かい。流れる雲は真っ白で、何処までも澄んだ青空が地平線の向こうまでなだらかに伸びている。
 お気に入りのフィギュアを横に置いて、ギターケースを開ける。年代物のかなり古めかしいギターは、ユーリたちと出会うよりもずっと以前から愛用しているものだ。
 軽く弦を指先で弾く。ピックは使わない、その必要がないからだ。
 少し音が可笑しくなっているらしく、弦を一本ずつ弾いて調整していく。そうしている間も、風は流れ空は一刻一秒ずつ表情を変えて彼を見下ろしている。
 太陽の光は眩しいが、頭上の木立が光を緩和してくれているのでそれほど苦にもならない。
 一応の調整が終わり、彼は満足そうに微笑んだ。
 けれどそこで手が止まる。やや高くした膝にギターを立てかけ、頬杖を付いて空を眺める。
 あぁ、新しい五線譜とペンも持ってくるべきだったかな。そんな事を考えながら、風に押し流されてゆっくりと東に流れていく雲を見送る。
 あの形、少しだけ何かに似ている。
 なんだろう……。

 とり。

 あ、そっか。
 ぽん、と手を打ち彼は右側を見た。
 そして柔らかな笑顔を浮かべる。
「やあ」
 にこやかに、彼の右側に立っている少女に微笑みかけて、微かに左向きに首を傾げて見せた。
 同じように少女は右側に首を傾げてみせ、一緒になってふたりで微笑み合う。
 決して声は立てず、ただ少しだけ口元と目元を綻ばせるだけの、笑顔で。
 彼は手を振った。促されるままに少女は彼のとなり、ひとりぶんのスペースを空けて腰を下ろす。
「…………」
 唄?
 問いかけるような視線に気づき、彼ははにかんだ。ギターを見ているのだろう、自分を素通りしている彼女の気持ちに苦笑して、彼は古めかしいクラシックギターを手に取った。
 曲げていた膝を伸ばし、背中を木の幹に預ける。
 そのまま真正面を向いていれば、ただ緑と青だけが目に映る。
 リクエスト、ある?
 尋ねると、少女は黙ったまま首を振った。
 けれど最後にひとこと、ききたい、とだけ。
 風に攫われて消えて行ってしまいそうな声で少女は呟いた。
 彼は頷いた。そして視線を彼女の黒髪から真っ青な空へ流す。
 なにか、唄おうか。
 なにを、唄おうか。
 なにか、出来そうかもしれない。
 今日みたいな空がどこまでも青くて綺麗な日は、特に。
 弦を爪弾く。気紛れに、音を奏でてみる。
 それは間もなくひとつの音楽となり、左手の中指がアルペジオを唄い出した。薬指が主旋律を奏でる、ベースラインはしっかりと踏み下ろされた足のようにそれらを後押しし、なにもない空間に微かな音色だけが響き渡った。
 どこかで聞いたことのあるような。
 どこでも聞いたことがないような。
 懐かしい。
 けれど、新しくて。
 楽しくて、少し切なくなる、音が。
 風に乗ってどこまで流れて消えていく。
 零した吐息は、ブルーに染まる。
 一定しないリズム、アンバランスな調子。けれど、それだからこそ純粋に流れる心のメロディーが聞き取れる。
 少女は目を閉じて、それを黙って聴いていた。
 やがてギターの音色は途絶え、風の吹き付ける耳に痛い音だけが残った。
 少女はゆっくりと瞼を開き、その黒曜の瞳で彼を見上げた。
 彼もまた、どこか困ったような顔をして少女を見下ろしていた。
「おわり」
 ポロン、と最後にもう一度だけ戯けたように弦を掻き鳴らし、それで本当に終わり、と彼は笑った。
 少女は無感動のようで、それでいて言葉を探しているように視線を巡らせた。
 空が見える。
 どこまでも青い空が広がっている。
「音が、ね……?」
 ぽつりぽつり、と少女は告げる。
 ことばは音色となって大地に吸い込まれる。
「風に、なっていったんだよ」
 その白く細い両手を広げ、まっすぐに目の前に伸ばす。まるで、届かない空の雲を掴もうとしているかの如くに。
 彼は黙って、それを見守っていた。
 少女が言う。唄うように。
 あぁ、この声こそがまさしく唄ではないのか。
 静かに吐き出した息は、ブルーに染まる。この青い空に解けていく。
 目を閉じてもあの青は消えない。少女の声は、どこまでも澄んでいる。入り込んでくる。
「風になって、流れて、解けていったの」
 きゅっ、と握られた小さな掌。それをゆっくりと自分の胸元に引き寄せて、そして抱きしめる。
 愛おしそうに、目を閉じて。
 抱きしめている。
 空を
 風を
 雲を
 音を―――――
「そうして――――」
 静かに、ことばは続く。
 彼は瞼を開き少女を見た。少女の漆黒の瞳は彼を見つめていなかったが、それ以上のなにかを見つめているのだろうと察することは出来た。
 彼女は目の前にない、とても遠い場所にあるものを見つめる事が出来るのだと。
 見えないものを視る事の出来る人なのだと、そう思えた。
「今、ここで」
 少女は瞳を閉じて、また開いた。胸の前で結んでいた手を解き、広げる。
 そのてのひらの中には、なにもない。だけれど、確かにそこには、“なにか”があった。
 例えば空、例えば風、例えば雲、例えば――――唄、が。
 少女のてのひらの中には、それだけのものが詰め込まれていた。
「わたしは」
 緩やかに、ことばは少女の唇から零れ落ちていく。
 それらは大地に転がり、彼の膝の前でカラリと音を立てながら跳ね上がっていった。
「いま、」
 風が吹く、木立が揺れる。
 彼らを照らす太陽は眩しい。緑の草に散る木漏れ日の光はまだらを描きながら、けれど優しくふたりに降り注ぐ。
 少女は重ねた手の平を彼の前に差し出した。
 なにもない、空間。
 けれど彼はそこを見下ろし、穏やかに微笑む。
「あなたの音を、抱きしめているよ」
 そっと、少女は再びてのひらを胸に納めた。
 澄み渡る青が輝きを放つ。
 そう、と、だけ先に呟いて。
 彼は吐息を零した。
 整理を付けるように、視線を足許で一巡させ、緑の草の先端を指先で擽り、ギターを下ろす。動きのどこかでなにかにぶつかったのか、立てていたフィギュアが転んだ。
 苦笑して、抱き上げる。角の部分を弄りながら、不思議そうにしている少女を見返し。
 丹朱の隻眼を細めて。

 ありがとう

 と。
 それだけを告げて。
 彼は照れくさそうに、視線を逸らした。