瞼を閉ざす前に見た光景は、澄み渡る、それこそ嫌気がさしそうなくらいに眩しい青空と、それを遮る優しい木立の陰。
再び瞼を開いた時に目の前にあったのは、陽射しを遮る木立の陰に同化したように、けれど異質さを兼ね備えている黒髪の、小さな、女の子。
黒い髪の毛、黒い服。あとは……そう。はだし。
陽射しはまだ暖かい、太陽は位置を確認すると夕暮れにあと約二時間、という場所で輝いていた。
相変わらず、嫌になりそうなくらいに空は白く眩しい。
青空だけれど、白い空。
「――――――」
つと、彼女はなにかを呟いた。微かに開かれた薄い唇が乾いた音をひとこと、ふたこと零して塞がれる。
「……ぅん」
なにを、しているの?
彼女はそう告げたらしい。
風がそよぐ、木立を揺らす。木漏れ日が一緒になってリズムを刻んでスイングを繰り返し、微妙なグラデーションが彼女の真っ黒なワンピースに踊る。
見つめてくる瞳も、黒。
あぁ、どこまでも黒づくしの子だな、と。
最初の感想はそれ。問われた内容や、何故此処にいるのか、という疑問は浮かんでこなかった。
そういうことは、多分どうでも良いことだろうから。
寒くない?
試しに尋ねてみる。憂鬱そうな指先が、青草の大地を踏みしめている一際目立つ白い彼女の足を指さす。
彼女は、その問いかけの意味を計りかねたのか、小首を傾げた。
ワンピースの胸元に飾られた、大きな白い花が一緒になって首を傾げている。
なんでもないよ、とだけ答えておくことにした。多分、これも意味のないことなのだろう。
どうでもいい、きっと。
「昼寝」
短く、ただそれだけを改めて言い直した。
彼女は少しだけ納得がいったように、けれどまだどこか不思議そうな顔をして瞳を向けた。
漆黒の瞳が鏡になって、彼を映し出している。黒いけれどどこまでも澄んで、真っ白な、双眸が覗き込んでくる。
「おひるね?」
ガラスのような声が響く。それは風の囁き声のようで、透明なクリスタルの風鈴を鳴らしたときのような、そんな音が小さく遠く、響いていく。
そう、と頷いてまた目を閉じる。
そうすれば視覚は闇に閉ざされるけれど、その代わりに他の感覚が解き放たれて広がっていく。
風、草、大地の香り。遠くの教会が祈りの時間を告げる鐘の音を響かせている、遙か上空では雲を押し流す風が強く東に向かって吹いている。彼を包み込む世界はどこまでも優しく、暖かく、柔らかい。
「おひるね……」
透明な声が聞こえて、もう一度目を開く。
少女はまだ其処に居た。
「きみ、は」
なにをしているの?
それは最初に問うべき言葉だったのかもしれない。けれど今になるまでまったく思いつきもしなかった質問を、ようやく口に出して尋ねれば、少女は少し困ったような顔をした。
空を、見上げる。
雪のように白い肌が、空の白に混ざって溶けて行ってしまいそうな気がした。
そんなはずがない、ただの人が、そんな器用なことを出来るはずがないのに。
彼女は何故か、それが出来てしまいそうな気がした。
「――――――」
とり、と。
それだけを彼女は呟いた。
呟きは風に溶けて流れていく。凪ぐことを知らない悪戯好きの風達がざわめかせた木立が揺らめく、地上に落ちる白い点となった光の粒が彼女を照らす。
白、緑、青、黒。
色が、ざわめく。
「とり」
もう一度、自分に言い聞かせているかのように彼女は繰り返し呟く。視線はいつしか下を向き、何も履いていない己の素足を凝視していた。だがやがてそれも、閉ざされる。
……捜しているの……
……なくしたの?……
……うぅん……
……欲しいの?……
……うぅん……
……じゃあ、どうして……
……いない、から……
そこでようやく、彼は彼女の後ろに隠れるように、彼女が後ろ手に持っている大きな鳥籠に気づく。
本当に、何故今まで気づかなかったのかと自分自身を疑いたくなるほどに、鳥籠は大きかった。
そして、白い鳥籠の中に、本来そこに居るべきものが存在していない事にも。
今になって気づく。
「逃げたの?」
凭れ掛かった木の幹から少しだけ身体をずらし、鳥籠を伺いながら問いかける。けれど彼女は、ちがう、と首を横に振った。
捜している、鳥。
欲しくはない、けれど居ないから捜している。
その鳥は、最初から鳥籠には居なかった。
絡み合わない言葉、つながらない意味。
ではいったい何故、彼女は欲しくもない鳥を捜しているのか。
捕らえて鳥籠におさめておくための鳥が先? それとも、鳥をおさめておくための鳥籠が、先?
とり、と。
彼女はもう一度呟く。
風が吹いた、鳥の声は今も聞こえない。
「鳥、ねぇ……」
些か困ったと、彼は頬を掻いた。
もとより、鳥は苦手だった。鳥の中でも特に、公園や神社の境内に屯している鳥が苦手だった。近付いてろくな事になった覚えがない。だから自分からは絶対に近付かないようにしている。
背中を預けているこの樹だって、枝に鳥の巣が無いから選んだだけだ。
だと、いうのに。
巣の架からない樹へ、鳥を探しに来た少女。
いるはずのないものを捜している、少女。
真っ黒で包み込まれているくせに、どこまでも白くて透明な、少女。
とり、知らない?
問われても首を振ることくらいしかしてやれないし、出来なかった。
本当に、鳥など知らない。見ていない、声は聞いたかも知れないがそれだって夢うつつの時の事で、幻だったのかもしれない。それに、例えそれが本物の鳥だったとしても、彼女が捜している鳥とは違うかもしれないのだから。
安易な肯定は傷を産むだけ。
否定されたことに驚きも落胆もせず、彼女は変わらない表情のまま、そう、とだけ返した。
そしてまた、空を見上げる。
澄み渡る、青。その中を泳ぐ雲は白。流れて行く風は透き通り、ざわめく木々と地面を覆い尽くすのは青と緑のコントラスト。地平線はなだらかで、広い。
この中をどうやって、彼女は知りもしない鳥を捜そうというのだろう。
「とり、ねぇ……」
ぽつりと呟く。移ったのか、言葉使いは稚拙で舌っ足らずになっていた。
片膝を寄せ、その上に肘をつく。顎を置いたてのひらは草の匂いがした。もう片手を目線の高さに持ち上げて、手首の内側にあった包帯の切れ目に指を沿わせた。
軽く、弾き飛ばす。
それだけで支えを失った包帯が撓み、吹き続ける風に靡いて宙を流れた。
目を細め、風に踊らされている包帯を見つめる。
とり。
呟く。瞼の裏に残る、曖昧な形に白い色を乗せて、笑う。
包帯が踊った、空を風に逆らって遊ぶ。
視線を落とした少女が驚いたのか、初めて表情を変えた。
黒い瞳の中に輝く、真珠が微笑む。
ことり。
囁いた言葉を合図に、管を巻く包帯の鳥は崩れ落ちてまた風に遊ばれる。形の残らない、一瞬だけの悪戯なとり。
もう、どこにもいない。
けれど、確かにここにいた。
とり、が。
「おひるね」
つと、彼女が告げる。
真っ黒な瞳が見つめている。
デジャ・ヴのような感覚が湧き起こる。
「もういいの?」
あぁ、うん。
そういえば昼寝の最中だったんだっけ、と。言われて思い出した自分の先程までの行動に、顔が笑った。
片方だけしか露出していない瞳が、細くなる。
日の光の下でも赤い、どこまでも赤い血の色が笑う。
おひるね、だよ。
瞼を下ろした。視界が閉ざされる、光を残した闇が広がる。
眩しい、眩しい、暗い。
風が吹く、吹き抜ける。
暖かな陽射し、心地よい柔らかさの大地、眠気を誘う草の香り。
すべてに、満たされて。
落ちていく。
おひるね。
ガラス玉が、転がっていく。
おやすみ、とだけ。
最後に呟いた。
おやすみなさい、と。
言葉は、間近でカラン、カラリ、と響いて。
穏やかに、風が凪ぐ。
鳥の声が遠く、聞こえた気がした。