SWEET

 昼時には遅く、夕時にはまだ早い時間帯――それは俗に言う、おやつの時間というタイミングだったろう。
 カチャリ、と閉じられていた鍵のない扉のノブを回して押した瞬間、鼻先を掠めて通り抜けていった甘ったるい香りに嫌な予感を覚えた。
 こういうときの嫌な予感というものは大抵当たるもので、今回も御多分に漏れず不吉な予感は的中してしまいそうな雰囲気だった。しかし、扉を潜って半分向こうの部屋にはみ出てしまっているこの片足を引っ込め、何事もなかったかのようにノブを引いて立ち去る事は、もうすでに許されなくなってしまっていた。
 扉の向こう側で音に反応した人物が、しっかりとその紅玉の双眸で扉の端からはみ出ている自分の姿を確認している事など、例えその表情を見ずとも分かってしまう自分が少し哀しい。
「なんだ」
 立ち去ってしまいたいのにそれも出来ず、かといってそのまま進む事もままならぬ精神状態でいる自分を見透かしたわけではないだろうが、まるで逃げ場を封じ込めるかのように扉の向こうにいる人物は静かに、声をかけてきた。
「貴様が、台所に何の用だ」
 それはこっちの台詞です、とは流石に口が裂けても言えなかった。
「あぁ……ぅん」
 曖昧な相槌を打って仕方なく、彼はドアを引くために若干力を込めて握っていたノブを押した。それはすんなりと開き、彼を壁一枚しか隔たれていない台所へと導く。
 開けた視界に見えるのは、シンクを中心として壁際にL字型に配置されているキッチンと、部屋の中心にどん、と置かれている少し大きめのテーブル。そして、台所の中央に鎮座坐しているテーブルに向き合う格好でハイチェアに腰掛けている、紅い瞳の背に双翼を持つ、銀糸の髪の青年。
「なに、してるのさ」
 珍しいね、と言葉をかろうじて返したものの、その質問が愚問であることを彼は自分でも良く理解していた。
 なぜなら、ユーリの目の前には幅の広い大皿がどてん、と置かれておりその皿の上にはこれまた、どどん、という効果音が似合いそうなケーキが載っていたからだ。更に付け加えておくと、ユーリの右手には生クリームが付着した三つ又のフォークが握られている。
 一目瞭然、とはまさにこの事だろう。
「見て分からんか」
「いえ、分かります」
 さらりと流され、あぁやっぱり、と彼はその場で頭を垂れた。苦笑しようにも、どうにも頬が引きつっていて上手くいかない。
「食べるか」
「…………遠慮しとく」
 ぷすっ、とユーリは言いながら手にしているフォークをケーキに突き刺した。
 ホールのままの、恐らくそれはアッシュに手作りなのだろうか、生クリームたっぷりのケーキを切り分けもせずに彼はスポンジを抉り、口へと運ぶ。
 甘ったるい香りが一瞬、台所を占領した。
「…………」
 うぅ、と彼は声に出さずに呻く。こめかみに置いた指先が、頭蓋の下の鈍痛を主張しているがどうにもこうにも、逃げ出せそうにない。
 さらにふたくち目をユーリはフォークに掬い上げる。三段組になっているスポンジは、階層ごとに真っ赤な苺を挟み込んでいるらしく、一緒のベリー系のソースも詰め込まれているようだった。白のクリームが所々で甘そうな色に染まっていた。
 ユーリはそれを、あまり美味しいと感じているようには見えない仏頂面で口に運び、数回咀嚼して呑み込んでいる。
「……美味しい?」
 だから思わずそう聞いてしまって、扉口に立ったまま動こうとしない彼をユーリが怪訝な表情で見返した。
「飽きる」
 ただひとこと、それだけを告げて彼はまた、事務的な動きでフォークをケーキに突き刺した。だが、今までと違って掬い上げる事はせず、生クリームを抉るようにぐりぐりとその場で回し始めた。
 当然、クリームは削がれてフォークの位置を中心としたサークルがケーキの上に描かれる。折角綺麗にデコレーションされていた生クリームの角が崩れ、その上に載っていた苺も倒れてしまった。
 もっとも、ホールのケーキをひとりで食べきるのは余程好きでない限り、苦痛だろう。
「食べるか?」
 まるで火山口のようになってしまったケーキの表面から、生クリームの壁を突き崩してそれだけを掬ったフォークを、ユーリは彼に向けて突き出す。ハイチェアから立ち上がることはないので、テーブル上からそれがはみ出て彼に迫る事は無かったが、その瞬間からすでに、彼はフルフルと必死の形相で首を横に何度も振っていた。
「遠慮します」
「するな」
「いえ、させていただきますってばぁ!」
 半ば泣きそうになりつつ、彼は壁にべったりと貼り付いた。そのまま真後ろにある扉を開けて出ていけば済むことであろうに、そんなことをしたら後がもっと恐ろしいからと、最初から選択肢には入れられていなかった。だから、少しでもユーリから遠ざかろうとして壁に貼り付くしかなかったのだ。
 だがユーリにはそんなこと関係ない。
「食え、貴様も」
「アッシュはどうしたのさぁ!」
「……配りに行った」
 曰く。
 クリスマスケーキの試作品を作っていたら止まらなくなり、自分たちだけでは到底処理しきれない数になってしまったため、ご近所さんもとい、知り合い各位へお裾分け、という名を借りた押しつけに出かけてしまったらしい。しかも車で。
「一体どれだけ作ったのさ……」
「片手では足りぬ」
 凝るのは構わないが、回りに迷惑をかけるのは少々難ありである。
 ぱくり、とスマイルに拒否されてしまった生クリームを口に入れてユーリは眉間に皺を寄せたまま呟いた。
 成る程、それで食べたくもないケーキを食べさせられて彼は不機嫌なのか。
 ユーリはある程度甘いものも平気だが、ホールでケーキを進んで食べたがるほどの甘党でもない。箸(実際はフォークだが)も進んでいないようで、ケーキはまだ三分の二近く残ってしまっている。
「辛い?」
「貴様も食え」
 同情してしまって尋ねたら、即答でフォークを突きつけられてまた慌てて首を振る羽目に。
「ぼくが甘いのダメだって知ってるでショ?」
 苦笑いが引きつっている。本当は、この甘い甘いケーキの匂いが充満している台所から、一秒でも早く立ち去りたい気分なのに。
「食え」
「……吐くよ?」
「それでも食え」
 無茶を言う。
 視線を外して遠い目をしてしまった彼に、苛立った様子でユーリはフォークにこびり付いていたクリームを舌先で舐め取った。その甘さに、眉間の皺が深くなる。
「吐いても良いから、食え。でないと」
「でないと?」
 アッシュはまだ帰らない。どこまで回っているのか想像もつかないが、五つ以上ケーキがあるのだとしたら少なくとも五軒は確実にご訪問、だろう。
 壁際の時計を見上げると、おやつの時間と言われている時を半刻ほど回ろうとしている時間だった。
 ぱくり、と抉っておいたスポンジを口にして、不機嫌な顔と声のままユーリは言い放った。聞いた瞬間、聞かなければ良かったと思うような事を。
「今夜の夕食が、これになるそうだ」
 つんつん、とフォークの先でケーキを突っつきユーリは壁際の彼を見上げて言う。瞳が真剣なので、恐らく嘘ではないはずだ。
 だが。
「……嘘ぉ……」
「貴様に嘘を言ったところで、ケーキは減らん」
 愕然とする彼を放っておいて、ユーリはまたひとくち、ケーキを口へと。だが味覚もそろそろ鈍ってきて、これが美味いのか甘いのかさえ判別が難しくなろうとしていた。口腔を舌先で舐めると、甘さだけしか伝わってこない。
「美味しい?」
 この期に及んでユーリの神経を逆撫でしそうな事を問いかける自分の気が知れなかったが、つい口に出してしまった問いかけは慌てて唇を噛んで手で覆ったところで、取り戻せるはずもなく。
「なら、」
と、ユーリはこめかみをやや痙攣させて形の良い眉を片方、ぴくつかせて。
 フォークいっぱいに、シロップがたっぷり染みこんだスポンジに絡みつく砂糖たっぷりの生クリームと、苺、をかき集めたものを。
 にこりと、満面の笑み(もちろん作り笑顔なので、何処かしら強張っているけれど)を浮かべたユーリがそのフォークを彼に向かって突きつけた。
「食え」
 美味いと思うのであれば、食え。
 鬼気迫る表情のユーリに、嫌々と首を振って彼は逃げ場を捜す。だが逃げようにも、隣の部屋と繋がっているのは彼が背中に背負っている扉だけで、あとは巨大冷蔵庫が占拠している一角に勝手口ならぬ裏口があるだけだ。そしてそれは、遠い。
 すでに背中の扉のことはすっかり頭から抜け落ちてしまっている彼は、どうにかしようと頭の回転を速めてひたすら、この状況を打破する言い訳を考えていた。
 そして。不意に思いついた言葉が推敲を重ねられることなく、口から吐いて出てしまう。
「あっ、じゃあちょっとだけ味見して甘くなかったら」
 食べるよ、と。
 舌先を滑り落ちていった言葉に、いぶかしむ表情でユーリは持っているフォークを突きつける。たっぷりのクリーム甘い香りとと苺の僅かな酸味を抱く香りが混じり合い、恐らく甘い物好きには堪らない香りなのだろう。だが彼にとっては、別の意味で堪らない香りとなっていた。
「いや、それはちょっと……」
 さすがにそのフォークの上に載っている分だけでも食べるのは辛いかな、と胸の前で両手を振って降参のポーズ。
「むぅ……」
 ユーリも彼が甘いものを不得手としていることを知っているので、あまり強くは押しつけてこず結局それも、彼の口の中へと吸い込まれていった。唇の端についた白いクリームを紅い舌先が舐め取る。ちろり、と一瞬だけ覗いたそれは蛇のような素早さであっという間に口の中へと消え、交替で鈍い銀色のフォークが抜き取られた。
「甘そうだねぇ」
「甘くないはずがなかろう」
 しかも味が単調でつまらないから、半分も食べきらないうちに飽きてきてしまった。そう言ってユーリはフォークを皿に置いて片肘をついた。 
 皿に残っているケーキは、あと五分の三ほど。それだけでもよく食べたものである、感心しそうになったがまた墓穴を掘ることになりそうなので彼は黙って置いた。そしてユーリも、肘をついてその上に顎を置いた状態のまま、黙ってケーキを眺めている。
「…………」
「……………………」
「…………………………………………」
「……………………………………………………………………………………」
「……何をしている」
 長い永いお互いの沈黙の末、我慢が出来なくなったのはユーリの方だった。
「なに、って」
「さっさと食え」
 カツン、と彼の指先が皿の上に逆さまにして置かれたフォークを弾いた。銀色が跳ね上がり、すぐに落ちてまた元通りの場所に収まった。そしてまた動かなくなる。
「いや、あの……」
 咄嗟に口から出た言葉なので、ユーリが真に受けているとはあまり考えていなかったらしい。彼は口淀み、視線を当てもなく漂わせた。
「スマイル」
 名前を呼ばれて視線を戻す。ユーリは変わらず、苛々した様子で彼を見上げている、ハイチェアの脚を爪先で何度も蹴りつけていた。
 壊れなきゃいいけど、と心の中で呟いて嘆息し、スマイルはふぅ、と瞳を伏せた。
「甘いんでショ?」
「何度も言わせるな」
 すでに何度目かも分からない同じ質疑応答に、膝の上に置いていた方の手で膝を叩いたユーリが睨む。
「残りのソレ、全部ぼくに食べさせる気じゃないよね?」
「食え」
 命令口調、しかも即答で断言された。その台詞さえ何度聞いたかもう数え切れない。
「……無理デス」
「良いから食え」
 さめざめと泣きたくなった。しかしここで拒否し続けたらそのうち雷が落ちる。アッシュが帰って来てくれることを本気で神に祈りたくなったが、こういうときに限って神様は笑顔で手を振ってくれる。
「味見をしたら食べる、と言ったのは貴様だろう」
 先程の口が滑った台詞を引き合いに出してきて、ユーリはスマイルから逃げ場をどんどん奪っていく。前言撤回はさせてくれそうになく、半分泣きそうになりつつスマイルは片手で顔を覆った。
「味見だけだってば……」
 ぼそぼそと反論を試みるが、効果無し。諦めるしかないのだろうか、と思わず天井を仰ぎ見てしまう。
 口から出てくるのは溜息ばかりで、聞かされているユーリの方までつられて億劫になってしまう。それもこれも、作りすぎるあのバカ犬が悪いのだ。
「それが夕ご飯、ってのだけは勘弁して欲しいんだけど」
「私に言うな」
 スマイルが甘いものを極端に苦手にしていることを知っているから、アッシュも出て行くときに彼に声をかけなかったのだろう。だがその事を今は恨みたくなる。知っていたなら、彼は絶対に台所に喉を潤しになど来なかっただろうから。
「いい加減腹をくくったらどうだ」
 男らしくないぞ、と険のある表情でユーリが言い、はふぅ、とスマイルはまた溜息。諦めが肝心とも言う、しかし苦手なものは苦手のまま、そっとして置いて欲しい気もする。
「吐くよ……?」
「飲み込め」
「無理ばっかり言うし」
 くすっ、と微かに笑みがこぼれてスマイルは片手を外した。しかし、いかにも「甘いです!」と主張しているかなりクリームの飾りも崩れてしまっているケーキを直視するとうっ、と口元を押さえたくなってしまう。
「……本当にダメなんだな」
「と言うよりも、……むしろ匂いが」
 甘いものも、控えめなものは食べられるのだ。だが見た目以上に臭覚を刺激して甘さを主張する類は、顔を近づけるのさえ苦痛だった。
 そして、人が嫌がっている事をやらせるのはかなり楽しい(?)もの。
 その時ユーリの頭の中に、小さな嫌がらせが浮かび上がった。
 置いておいたフォークをまた持ち上げ、先端をスポンジではなく生クリームが山を為している箇所に差し込んだ。そのまま上へ流すと、固めにホイップされたクリームの表面に三本の筋が出来上がる。
「……?」
 スマイルが怪訝な顔をしている前で、ユーリはフォークを自分の口に押し込んだ。甘い香りと味が彼の舌先に充満する。
 ちょいちょい、とフォークをくわえたままという行儀の悪い格好で彼はスマイルを手招きする。未だ怪訝な表情を崩さないものの、呼ばれたからには行かないわけにもいかずスマイルはゆっくり、ユーリの座るハイチェアの目の前に進んだ。見下ろすと、丁度彼がフォークを口から抜き取ったところだった。
 鈍色の銀が皿へ戻される。カチャリ、と硬質な音を立ててそれを手放したユーリの右手が、弧を描いてスマイルの襟元を掴んだ。
 そのまま、斜め下へ向けて引っ張る。
 鼻先を掠める吐息が甘い。そう思った時にはもう、違いに瞼を閉じることなく見つめ合ったまま、口付けが交わされていた。
「んぅ……」
 ちろり、と伸びた舌先が閉じられているスマイルの唇の隙間を求める。応じてやれば、必然的に重なりは深くなり同時に甘い味が舌先を伝って喉元へ流れ込んできた。
「ふっ……ん、っ……」
 絡み合う視線と、甘いクリームを流し込んでくるユーリの舌先に眩暈がした。襟を引っ張られているために呼吸が苦しい、前屈みの姿勢なので腰も少々、辛い。体制を維持しようと左手を伸ばしテーブルの縁に沿えると、若干体位がずれてお互いの前歯がぶつかり合い、変な音がした。
「……っ」
 歯列に伝わる鈍い痛みに目元が笑む。
「甘い」
 唇の表面にべたつくクリームを指で取り除き、スマイルは大きく息を吐きながら言った。一方のユーリもまた、ぬるつく口元を手の甲で拭い息を吐く。その息も、お互い甘い。
「甘過ぎ」
 もうひとこと、笑いながら呟いて。
 スマイルは、普段から青い顔を青白くさせた。右手で口を押さえ、前屈みになる。
「甘すぎて…………気持ち悪ぅ…………」
 うぇっぷ、と。
 今にも吐き出しそうな感じで青ざめているスマイルに、一瞬呆気に取られてしまったユーリもはっと我に返って椅子を引いた。
 だが、なんだかとても気分が悪いのは何故だろう。
「……気持ち悪い、か」
 そうかそうか、成る程そういう事を言うわけか貴様は。
 ぴくぴくとユーリのこめかみが引きつっていく。腕を置いた先のテーブルには、ちょうど良い感じで生クリームたっぷりの食べ差しのケーキが。
 にこり、と。
 引きつった笑顔でユーリはその大皿を両手に抱え上げた。
 スマイルの頭上に蔭が落ち、嫌な予感パート2を覚えた彼が顔を上げたときには、もう。
 目の前に真っ白い物体が迫っていた。

 アッシュがようやくケーキの配達を終えて城に帰り着いたのは、もうそろそろ夕食の支度を始めないと間に合わないかもしれない、という時間帯だった。
 なかなか楽しかったケーキ作りの余韻も冷めやらぬ中、鼻歌などを口ずさみながら彼のテリトリーである台所の扉を開けた瞬間。
「なんなんスかこれはー!!?」
 床の上に、頭からケーキを被ったスマイルが、あまりの甘さに堪えかねて気を失ってひっくり返っているのを発見したとき、アッシュは城中に響き渡るような叫び声を上げてしまった。
 そしてユーリは。
 アッシュの雄叫びが聞こえた瞬間、リビングで広げていた新聞で自分の顔を隠したそうな。

 
 甘いケーキ、甘いキス。

 でも今回は少し、甘すぎた?