季節の変わり目は気温の変化も激しくて、昨日暖かければ今日も暖かいというわけにもいかない。突然前触れもなく寒くなって、でも次の日はまた暑くなってそんな日々が繰り返されると流石に、体力が少しでも弱っている人は簡単に倒れる。
御多分に漏れず、deuilのリーダーことユーリも。
風邪を引いて現在、自宅療養中。
病弱ってわけじゃないけれど、ユーリはもともと食が細いから少しでも弱ってくると簡単に病原体に潜り込まれてしまうらしい。吸血鬼なのに風邪? と最初の頃は首を傾げる事が多かったけど、血を吸わない事で免疫力とかなんとか、本来身体が持っているはずの力を充分に発揮できないのだと前に聞いた。
誰に聞いたんでしたっけ……。
そんな事を考えながらアッシュは鍋の中身が焦げないように、グルグルとおたまを使って丁寧に掻き混ぜていく。コトコトとじっくり煮込んだお粥はミルク色をしている、ミルク粥なんだから当然と言えば当然なんだけれど。
おたまを持ち上げて少し掬い上げてみると、丁度良い具合にとろっとしていて、アッシュはうん、と大きく頷いてコンロの後ろ、調理台に用意して置いた粉チーズをパラッと鍋に降りかけた。それから火を止めて、ひとり用の土鍋に移しかえる。
病人はベッドでオヤスミ中なので、下にまで食べに来させるわけにもいかない。だからレンゲと、蓋をした土鍋、それからコップに注いだ冷たい水を載せたお盆を持ってアッシュはキッチンから出た。
ホールに飾られている大時計は昼時を指し示していて、そういえばさっき大きく低い音で不気味に鐘が鳴り響いていた事を思い出した。唐突に鳴り出すから不意を突かれると本気で驚かされる時計に苦笑いしてその前を通り過ぎ、彼は出来たての粥が冷めないうちにと足早に階段を駆け上った。
重厚な造りの扉を遠慮がちにノック、そしてノブを回して室内に一歩足を踏み入れた。
身体の半分を室内に滑り込ませて中を覗き見る。薄暗い内部のほぼ中央に近い位置に、天蓋付きというご大層な巨大ベッドはあった。更にそのサイドに椅子が置かれていて、その上に人が腰掛けている。
「寝てる……っスか?」
「ん? あぁ、うん」
声のトーンを落としたアッシュがゆっくりと盆を落とさないように注意しつつ、彼の傍へと進む。
振り返って相槌を返した彼が、少し困ったように左手を振った。右手は何故か動かない、上半身を捻っているというのに彼の右手は椅子に座っている彼の身体に隠されたままだ。
「でも、多分」
ベッドサイドを通り抜けて、壁際のテーブルに盆を置いたアッシュが身体ごと彼に向き直った。それでもまだ、右手の先は見当たらない。
怪訝な顔をしているアッシュを無視して、彼はベッドに横になって眠っている存在に目を移した。その瞳の色が穏やかなのは、気のせいではないだろう、多分。
「もうじき起きると思うよ」
「どうして分かるんスか?」
今度こそ怪訝さを顔に出してアッシュが首を捻って問うた。彼は更に困った顔をして左手の指を立て、半分ほど包帯に隠れた頬を引っ掻く。返ってきた言葉は「なんとなく」という曖昧なひとことだけで、聞いた方は益々首を傾げるばかり。
けれど、
「……んぅ……?」
男ふたりの会話が騒がしかったのか、それとも増えた気配に敏感に反応したのか、ずっと眠っていた存在が薄く唇を開き、小さく呻いた。
「……あ」
組んでいた腕を解いてアッシュが少し前に身を乗り出す。
「ね?」
ベッドサイドの彼が近付いてくるアッシュを見上げて笑う。片方しか露出していない目が細められると、本当に彼の眼は見えているのかと疑いたくなる時が偶にあった。
そして近付いて漸く、彼の右手が見えなかった理由が分かった。
眠っていた人の手を握っていたのだ、しかも掛け蒲団の下に潜り込まされていた為に見えなかったのだ。
「ユーリ、起きた?」
「ん~…………」
椅子から立ち上がってベッドの上に身を乗り出し、彼はまだ眠そうにしているユーリに問いかける。返答はなくて、かわりに呻き声のようなぐずるような声が返される。けれど数分もしないうちに覚醒は来て、数回の瞬きののちユーリはしっかりとアッシュと、それから自分を覗き込んでいる存在を認識した。
「……あぁ、スマイル……」
「気分どう?」
前髪を払っている存在の名前を呼ぶ声はまだ風邪の影響か掠れている。頬も赤く熱そうだし、瞳もトロンとしていて焦点がイマイチ定まっていない。
「アッシュがお粥作ってくれたんだけど」
食べられそう?
額に手を置いて軽く熱を計った後、スマイルは身体を退いて後ろに立っているアッシュをユーリに見えやすい位置に移動する。気怠そうなユーリの目がアッシュへと移り、彼も心配そうにユーリを覗き込んだ。
「粥……」
「ミルク粥っス」
熱っぽい声で鸚鵡返しに呟いたユーリに答え、アッシュはテーブルに置いた盆を取った。それをユーリの前に差し出す。
「なにかお腹に入れて置いた方が良いと思うよ~」
食欲は無いだろうけれど、何も食べないよりは食べる方が栄養が身体に行き渡る分、回復が早くなる。粥は消化が良い分、胃の負担も少ない。
「……いらない……」
「でも、ユーリ」
今のスマイルの台詞を聞いていなかったのか、ユーリは湯気を立てている土鍋から視線を外し、頭まで毛布を被って横を向いてしまった。なんとかアッシュが食べる気を起こすような事を言おうと言葉を探すけれど、上手くいかない。
「ユーリ、我が侭はダメだよ?」
その横をすり抜け、スマイルが戻ってくる。彼は椅子には座らずに、直接ユーリが寝ているベッドの端に腰を落とした。ぎしっ、とスプリングが軋み沈む。
「スマイル……」
「良いから。あのさ、ユーリ。君、自分が病気してるって自覚してる?」
そんなことをして良いのか、と目線で尋ねるアッシュににこりと微笑んでから、スマイルは手を伸ばしユーリの頭を蒲団の上から撫でた。その仕草は、単刀直入な言葉とは裏腹に優しい。
「ユーリ、ね、ユーリはぼくたちのリーダーだよね? そのリーダーが倒れちゃってたらさ、ぼくたち、動こうにも動けないんだよ。その辺ちゃんと分かってくれてる?」
号令を下すのも、命令を出すのもユーリだ。そのユーリが現在はベッドの虫になってしまっている以上、メンバーはその虫が冬眠を終えてくれるまで待つしかない。正直言えば退屈なのだ。
そして退屈なのは、スマイルの性に合わない。
スマイルは変わらないペースでユーリの頭を撫でている。不貞寝を決め込んでいるユーリは、黙ったままスマイルの言葉を聞いている。見ているアッシュとしては、むしろスマイルの言葉はユーリの逆鱗に触れやしないかと冷や冷やだ。
「ま、ぼくとしては無理に食べなくても良いんだけど。食べたくないものを食べても、全然楽しくないでショ?」
だからぼくが代わりに食べてあげるよ、と挙げ句の果てに彼はそんなことまで言いだした。そして盆を持ったまま立ちつくしているアッシュに、自分に渡すように両手を差し出す。
困ったのはアッシュだ。この場合、どうするのが一番良いのだろう。
困惑したまましばらくスマイルの顔を見つめる。まだ何か企んでいる様子の笑顔に、蒲団から頭の先しかはみ出ていないユーリと見比べて結局彼は、スマイルに任せてみることにした。
食べたくない、と言っている人と食べる、と言っている人と。料理人が皿を差し出すとしたらどちらに対してか、答えは決まっている。
「熱いっスよ」
「うん」
見れば分かるよ、とまだ白い湯気を立てている土鍋を盆ごと受け取ったスマイルはその片隅に載っていたグラスだけ、テーブルに戻した。
コトン、という音が微かに響く。
「さ。自分勝手な誰かさんは放っておいてお昼ご飯にしようかな?」
一際楽しげに笑って、彼は両手を合わせた。いただきます、のポーズである。アッシュは、彼が何を考えているのか理解できぬまま光景を見守っていた。
と、それまでまったく反応しなかったユーリが動いた。
非常にゆっくりとだが、被っていた蒲団を下ろして顔を出す。鼻の頭が覗く程度まで引き下ろした蒲団の下で視線を泳がせ、
「あ、…………」
「食べる気になった?」
にっこり、と。
未使用のレンゲを片手に微笑むスマイルにばっちり見付かって視線が合って、ユーリは蒲団に顔を半分隠したままこくり、と頷いた。
「お腹空いてるんでしょ? ホントは」
「う……」
「食べたいんでしょ?」
「うぅ……」
「あっち向いてるから、食べなよ。ね?」
笑顔のまま言ってスマイルはユーリが身体を起こすのを手伝う。その間、粥の載った盆はアッシュの手の中。そしてユーリが枕を背中に当てて上半身を起こしたあとは、盆の位置は彼の膝の上へ移動。一緒にスマイルも、ベッドの上から椅子の上に戻った。
「えと……」
状況把握が上手く出来ないアッシュは彼の背中を押し、ユーリに背を向けるようにし向けたスマイルからそっと彼に耳打ちして教えてもらって、ようやく合点がいった。
つまりは、人前で見られながら食べるのが嫌だっただけ。
その証拠にスマイルもアッシュもユーリから視線を外すと、彼は食事を始めたようだった。食器が鳴る音が聞こえてくる。
「ちょっと意地悪じゃないっスか?」
「だって、こんな事弱ってる時にしか言えないでショ?」
「楽しそうっスね……」
ユーリが食べ終えるまでの間、ひそひそ話。肩を揺らして笑い声を噛み殺してそれでも笑っているスマイルに、アッシュは盛大な溜息をつく。
「あつっ」
その瞬間を見計らったかのような、ユーリの短い悲鳴。
え、と振り返ろうとしたアッシュの目の前を、雫を垂らしたグラスが通り過ぎていった。それは言葉無く、スマイルの手からユーリへと手渡される。
ごくごく、と一気に半分ほど飲み干してほうっ、とひとつ息を吐くユーリ。そして彼はやはり無言のままグラスをスマイルへと押し返した。スマイルも、文句ひとつ呟くことなく当たり前のように受け取って、テーブルへとそれを戻した。
粥は半分以上なくなっていて、本当に彼は空腹だったのだなと改めてアッシュは実感。
ユーリは火傷した舌がひりひりするのか、レンゲを動かす手を止めて盛んに息を吸っては吐いている。
「誰も盗らないよ?」
「当たり前だ……」
食いかけを盗られて溜まるか、と軽口を言って笑っているスマイルをひと睨みしてユーリはレンゲを口に運んだ。もう周囲の視線を気にした様子はない。それどころか、随分と元気になっている気がする。
「その調子なら、もうじき完治出来そうだねぇ」
膝の上に肘をついて頬杖を作ったスマイルが、数回の咀嚼ののち粥を嚥下するユーリに向かって独り言のように呟く。
「あとは、熱がもうちょっと下がってくれないとね……」
「もう下がっているだろう」
「まだ平熱より一度六分くらい高いよ」
「いつ計った……」
「さっき」
その、彼が言うさっき、とはもしやユーリがまだ横になっているときに額に手を載せたあの時であろうか。
「…………」
ユーリは疑いの目でスマイルを見る。スマイルはにこにことしながらユーリを見返している。アッシュは、と言えば……ひとりだけ疎外感を感じていた。
もの凄く言葉を挟みにくい雰囲気が伝わってくる。しかも向こうにはその自覚が無さそうである。いや、それ以上にここにアッシュが居ること自体、忘れ去られていそうな感じだ。
「ま、それだけ食欲があれば直ぐに熱も下がるよ」
多分だけどね、と付け足してスマイルはユーリの額にもう一度手を置いた。それを上目遣いに見ながらユーリはまたレンゲを口に運ぶ。
払われて耳に引っかけられた自分の前髪へ視線を流し、その先にあるスマイルの指を追いかけていく。土鍋から粥をひとくち分掬い上げて、今度は自分の口元へではなく。
ぱくり、と。
レンゲに食らいついたのはスマイル。しかも彼らの間にはまたしても、一言の会話も存在していなかった。
「俺、お邪魔っスか~……?」
トホホな気分で呟くと、まだレンゲをくわえたままもぐもぐやっているスマイルが不思議そうに彼を見上げた。
「ふぁんじぇ(なんで)?」
きちんと発音できていない質問にまた盛大な溜息を吐くアッシュ。
ユーリがスマイルからレンゲを奪い返して残りの粥を食べ終えた。グラスを要求されたスマイルが応じ、一息で飲み干した彼は、今度はそれを自分で盆の上に置いた。
「馳走だった」
「美味しかったよ」
ふたり同時にそう言って、ユーリは口元を拭いスマイルは見事に空になった土鍋が載った盆をアッシュに手渡す。
「ユーリはもう一眠りね?」
「寝飽きた……」
「ダメ」
不機嫌そうに反論するユーリを押しのけて、スマイルは彼をまたベッドに押し込んだ。そう言えば朝食のあともこんな感じだったような気がする。押し問答が繰り返されるものの最終的には、病気で弱っている為かユーリが折れて素直に従うのだ。
今回も最後にはユーリは蒲団を肩までしっかり被せられ、寝かしつけられてしまう。ぽんぽん、と子供にするように胸の上辺りを数回軽く叩く動作をしたスマイルは、相変わらず無邪気に微笑んだままだ。
一見すると微笑ましい光景なのだろうが、どうも違うように思える。
兎も角、ユーリの食事が終わった以上アッシュが此処に居続ける理由もなくなった。盆を片手に、最後の質問を口に出してみた。
「今日の夕飯はなににするっスか?」
「カレー」
「却下」
質問に間髪入れずにスマイルが答え、更にそこに間髪入れずにユーリが言葉を割り込ませる。
普段の調子に戻りつつあるユーリに安心して、アッシュは部屋を出た。それから、階段を下り掛けたところで振り返る。
これからもう一度眠ると言っていたユーリの部屋から、スマイルは結局夕食時まで出てこなかった。