Folly

「あ」
 と、だけ。
 正面玄関の分厚い扉を開けようとしていたスマイルは、後ろから伸びてきて一緒になって扉を押す力を加えてきた存在に振り返り呟いた。
 重厚で重い扉を開けるにはちょっとしたコツがいる。そして何故か、理由は不明だがやたらと夜間は開けにくくなるのだ。
 この城に住み、または仮宿としている存在はいずれも本来夜間を活動時間としているものばかりなだけに、ひねくれた扉だと思う。そんなに閉じ込めておきたいのだろうか、自分たちを。
 だけれど、男ふたり分の力を受けてしまうと流石に年季が入っている扉も開かないわけには行かず、ギギギ、と重い軋みを上げながらそれは人ひとりが通れるだけの隙間を生み出した。
 先に、前に居たスマイルが外へ出る。
 追って、彼よりも若干背が高く体格も良いアッシュが続き彼が扉を閉めた。開いたときと同じように重たい音を立てて扉は閉まり、頼みもしていないのに勝手に鍵が掛かる。
 時々、この城がどんな構造になっているのか疑問に思う事があるが、深く考えてもどうせ分からないのだし、考えるだけ無駄だとアッシュは諦めていた。
 ユーリとスマイルなど、まるで気にしていない様子。これが生きてきた年数の差か。
「散歩?」
 夜闇にぽっかりと浮かぶ月を見上げていたスマイルが、そんなことを口に出して唐突に振り返った。てっきり先に何処かへ行ってしまうとばかり思っていたアッシュは、僅かに息を飲み動揺を隠す。
「あ、ああ……そうッス。天気が良いし」
 月が綺麗だから、少し外を出歩いてみるのも悪くない。最近忙しくて自由な時間も殆ど作れなかったから、多少の息抜きは必要だろう、と。
 雲も少なく、月は満月に近い。星は月の輝きに負けじと明滅を繰り返し、比較的澄んでいる空気は穏やかだ。寒くも、暑くもない。むしろ丁度良い涼しさ。
 スマイルが見上げていた夜空を仰ぎ見て、アッシュは頷く。ふーん、と相槌にもならない声が聞こえて、視線を戻し彼を見る。
「スマイルも、散歩ッスか?」
 けれどアッシュの記憶が正しければ、彼はあまり夜間外出しない。ユーリが外で迷子になっている時に呼び出しを受けて探しに行く程度だ、自分から好んで夜の闇に紛れていく事は少なかったはずだ。
 自分は透明人間であるから、闇に身が溶けて消え去ってしまいそうで恐いんだよ、と冗談交じりに言っていた彼の言葉は、あながち嘘ではないのだろうとアッシュは勝手に理解していたが。違うのだろうか。
「あ~、うん。別に?」
 ただ単に面倒臭いから、とあっけらかんとしてスマイルはアッシュの危惧を笑い飛ばす。
 にぎやかで騒がしく、楽しい場所が好きなスマイルはどちらかと言えば夜よりも昼の方が好きだ。夜の住人である自覚はあるけれど、夜になると多くの生き物は眠りについてしまって退屈、だから外へ出てもつまらないので出かけないだけ。
 他の誰かが同じ理屈を告げてもだからどうした、程度にしか思われない事だろうがスマイルが語ると、それもそうか、と納得してしまいそうになってアッシュは頭を振る。
 だったら、どうして今外へ出ようとしていたのだろう。
 問いかけようと、頭を振った所為でまた横にずれた視線をスマイルに戻す。だが、肝心の彼はもう其処には居なかった。
 古ぼけた石畳の道を抜け、鉄格子が不気味な門を潜り抜けた先にもう到達してしまっている。相変わらず、動きだけは異様に速い。
「あ、待つッス!」
 置いてけぼりを喰らった感じがして、アッシュは慌てて彼を追いかけて駆け出した。夜目の利く彼は、薄暗い場所でもさして苦にならず今度はゆっくりと歩いているスマイルに追いつく。
「何処行くの~?」
 けれど、下準備もなく走ったので情けなくも息が切れた。
 ぜいぜい言っているアッシュを横目に足を進めながら、スマイルはだらんと垂れたコートの袖を揺らした。さりげなく、袖に隠れた手で大事そうにギャンブラーZのフィギュアを抱えているあたりが彼らしい。
「何処って……」
 問われて、アッシュはようやく自分が何処に行くか決めていなかったことを思い出した。適当に、気が向いた方向を目指すつもりでいたので、目的地など特にない。
「スマイルは、何処に行くんスか?」
 だから逆に問い返すと、彼は少し言いにくそうに口澱んだ。
「えっと、ねぇ……」
 ユーリに言わない? アッシュだったら、別に良いか。怒らないで聞いてよね。
 そんな小声が聞こえてきてアッシュは首を傾げた。
「アレ」
 照明も殆ど灯っていない、細い月明かりばかりが頼りの夜道の中にぽつん、と。チカチカと明滅する蛍光灯が眩しい、けれど光量が足りず薄暗さはあまり変わらない自動販売機が建っていた。
 それもジュースではなく、煙草の。
 何故彼が言いにくそうにしていたのかを瞬時に理解し、アッシュは思わず納得してしまいそうになった。
 だが、二秒後気付く。確かスマイルはユーリに禁煙を命じられてはいなかったか。
「スマイル?」
「だから~、ユーリには内緒、ね?」
 自分の唇に人差し指を押しつけ、彼はばつが悪そうに笑った。片方しか露出していない彼の目が細められ、丹朱の瞳が見えない。
「そうは言われても……」
「大丈夫だよ、そんなに吸ってないから」
 今は、少し曲のこととかで頭がニコチンを求めているだけで、それが終わればまた禁煙に入るから。そう軽々しく笑って言ってのけたスマイルだったが、道理が可笑しいことくらいアッシュにだって分かる。
 ニコチンは中毒性が高いから、一度止めてもまた手を出せば前以上に抜けられなくなる。
 ポケットからむき出しのコインを数枚取り出し、スマイルは腰を屈めて自販機へ投入する。一斉に点滅したボタンの中で彼が選ぶのは、いつも同じ銘柄。
 真っ赤なボックスに、白地で銘柄が書き込まれているタイプだ。
 煙草を吸わないアッシュにしてみればどれも同じだと思うのだが、微妙に味にクセが出て違うらしい。何種類か吸っていくうちに自分の好みに辿り着いたのか、スマイルが吸うタイプは少し香りが柔らかく甘い感じがするものだった。
 味までもが甘いかどうかは、別として。
「アッシュは吸わないよねぇ」
 ガコン、と音を立てて自販機が煙草を吐き出す。取り出し口に右手を差し入れて落ちてきた箱を抜き取った彼が姿勢を直しつつ尋ねてきて、アッシュは反射的に頷いた。
「料理に匂いや味が移ると困るッス」
 あと、やはり唄を生業としているだけに喉の調子には気を配らねばならない。料理人という肩書きを持っている以上、アッシュはメンバーの中でも格別自分の体調に気を遣う。だから煙草などというものは彼からすれば、百害あって一利無し、と語るに足るものなのだ。
「ぼくは別に気にしないけど」
 右手に持った煙草のフィルムを左手で剥いでいく。右肘と胸の間で抱えていたフィギュアを支えた少しばかりバランスの悪い体勢のスマイルはそんなことを口にするが、彼が良くても他のメンバーは気にするのだ。特に、ユーリは過敏に反応する。
「ユーリに言うッスよ」
「しないよ」
 すっかり剥き終えたフィルムをくしゃっと丸め、スマイルはそれを自販機横に据え付けられていたゴミ箱に捨てる。ようやく顔を上げた彼の瞳は怪しい輝きを放ち、にっこりとアッシュへ微笑みかけている。
 なんともアンバランスな。
「アッシュは、そんなことしないでショ?」
 陰口を言えるタイプではない、間違っても人の悪口を公言するような性格をしていない。むしろ正反対に、誰かが誰かの悪口を言っている現場に遭遇したらやめろ、と声を大にして咎めに入るタイプだ。
 だからスマイルは、自信満々に断言してみせた。アッシュは、自分を裏切ってユーリに密告出来るような奴じゃない、と。
「時と場合によるッス」
 確かに自分は、そういう状況を見過ごすことの出来ない性格をしているとアッシュは素直に認めるが、けれどスマイルの体調を考えればやはり彼が唯一意見を受け容れるユーリの弁から、彼を叱ってもらうべきだと彼は思うのだ。
「でも」
 それでもなお、スマイルは笑みを絶やすことなくアッシュを見上げている。手に持ったままの煙草の蓋を、親指で押し開けて。
「ぼくは“しない”って信じてるから」
 そういう言い方は卑怯だと、咄嗟にアッシュは思った。
 これでは万が一、ユーリがスマイルの喫煙に言及した時真っ先に疑われるのはこの現場に居合わせたアッシュではないか。 
 お願い、という形を借りたさりげない脅しに彼は言葉に詰まり、それを尻目にスマイルはのんびりとした動きで箱から新品の煙草を一本抜き取った。
 にこりと微笑みかけてくるスマイルの瞳が、自分たちは一蓮托生なのだと告げている。
 ごそごそと動き止まないスマイルは、今度はライターを取りだしてカチカチと石をならす。数回試した後ようやく灯った炎で煙草に火を付けると深く吸い込んだ息を一気に吐き出した。
 紫煙が燻る。漂う煙は僅かに後方から前方へ流れていく空気に従って天上へと昇り消えていく。
 人よりも敏感な鼻先を掠める、煙草の煙とそれに混じる微かな甘い香り。けれど煙いことに変わりなく、スマイルはわざわざアッシュの居る方角とは反対に息を吐き出してくれたものの、しかしやはり、アッシュは眉目を顰めずにいられなかった。
「禁煙、撤回ッスか?」
「カンヅメ状態が終わるまでね~」
 ゆらゆらと揺らめき、やがては空に紛れて見えなくなる煙草のか細い煙。それを吐き出しているスマイル。
 存在が、だぶって見えた。
「駄目ッス、やっぱり。止めるッス」
 はっとなって、アッシュは腕を伸ばした。
「どうして?」
 右の手首を拘束され、力任せに握られたスマイルが露骨に嫌そうな顔をしてアッシュを見上げる。間近に見える茜色の瞳が、鈍色に輝いて見える。瞳孔は細く、獣の色だ。
 強引に煙草ごとスマイルの右手を彼から引き離したアッシュは、だが次の動作に移れずにそのままの姿勢で凍り付いてしまう。あまり深く考えずに行動するのは良くないことだと、親からもそしてユーリからも度々注意されていたというのに。
 今回もまた、同じ失敗を繰り返す。
 スマイルから煙草を奪い取って、それから。それから、どうする? どうしたい?
「あ……」
 骨に響くくらいに強く手首を握られているというのに、スマイルはまだ指先二本で挟み持った煙草を手放さない。尤もここでこれを落としてしまうと、道端に生える草に火が燃え移ってしまい火事になりかねないのだが。
「アッシュ?」
 いい加減離して欲しいのに、アッシュは固まったまま動かない。怪訝な顔をして彼を見上げるスマイルだがふと、なにか宜しくない雰囲気を感じて左手に持ち替えていたフィギュアを握りしめた。
 どうする、どうしたい。スマイルが煙草を吸う理由は何だったか、彼は別段ニコチン中毒ではない、ただ時折口寂しい時があるからそれを解消するのにちょうど良いだけだと。いつだったか、聞いた記憶を掘り起こす。
 ぎゅっ、と。
 奪われたままの右手首を更に強く握られ、スマイルは明らかに苦痛の表情を浮かべた。けれどアッシュは構うことなく、僅かに身を、前方へ傾がせる。
 スマイルの真っ白い包帯に、月明かりが落とす影が濃くなる。
 握りしめたものは、なに。
「…………」
 触れた、固い感触。その上冷たい。
「……ダーメ」
 にこりと無邪気に微笑むスマイルを上目遣いで睨み付け、アッシュはスマイルが咄嗟に顔の前に差し出していたギャンブラーZのフィギュアから離れた。
 角が当たった所為で少しひりひりする。スマイルの右手も一緒に解放した彼は、その左手で自分の唇を押さえた。
「先約済み。それに今、ぼく、たばこ臭いよ?」
 薄い煙を棚引かせている右手の煙草を示し、彼は喉を鳴らして笑う。少しも悪びれている様子はなく、むしろアッシュの反応を楽しんでいるかのようだった。
 再び銜え直した煙草を味わうと、彼はまたポケットへと手を突っ込み今度は薄い灰色の金属の筒を取りだした。蓋を捻り、外す。携帯用の灰皿らしく、彼はその中へ長く伸びた灰を落とし続けて煙草もその中へ放り込んだ。
 きゅっ、と蓋を閉めてはい、おしまい。
 再び彼の手元にはギャンブラーZだけが残され、他のものは総てコートのポケットに収められた。
「じゃー、ぼく、帰るから」
 その辺をちょっとぶらぶらして、煙草の匂いを消して。
「アッシュは?」
 どうする? と問いかけてくる瞳は相変わらず無邪気で。振り回されて挙げ句結果が総て空回り、というアッシュはどっと疲れが押し寄せてくる感じがして肩を落とした。
「散歩、だったんでショ?」
 小首を傾げて尋ねてくるスマイルにめっきり疲れ切った顔を向けると、彼はまた一段と楽しそうに目を細める。わざと分かっていてやっているのか天然なのか、区別がつかないからこそ厄介だとアッシュは思った。
「俺ももうちょっとぶらついてから帰るッス」
「そ。じゃ、また明日ね?」
 おやすみ、良い夢を。
 手を振ってスマイルはアッシュを見送る体勢に入る。同じ方向へ行く、という事を考えていないのだろうか。
 目に掛かる前髪を掻き上げ、苦笑を浮かべたアッシュはやれやれ、と小さく肩を竦め仕方がないので来た道の続きに当たる方向へ歩き出そうとした。
 けれど。
「ばいばい」
 笑っていたスマイルが抱きしめていたフィギュアの、先程アッシュが口をぶつけた箇所に頬を寄せて口付けるのを見てしまい、彼は前にも後ろにも動けなくなってしまう。
 またしてもその場に凍り付いたアッシュへ満面の笑みを向け、スマイルはさっさとひとり踵を返して歩き出す。振り返りもしない。
「朝までには帰って来てね~」
 朝ご飯、アッシュが居ないと誰も用意してくれないから。
 それだけを告げ、彼は夜闇に紛れて姿を消す。
 取り残されたアッシュは、困ったように頬を引っ掻き、伸びていた爪に皮膚を抉られて小さく悲鳴を上げたのだった。