Shell

 唐突、に。
「海に行きたい」
 なんて君が言うから。
「は?」
 聞き間違いかと思って間抜けな顔をして振り返ってしまった。
 けれど意外に近くにあった君の顔は至極真剣で、からかうような彩は紅玉の瞳にまったくなかった。
 だからこそ、戸惑いは大きくなってしまったのだけれど。
「何処に、行きたいって?」
「海」
 完結に、単語ひとことだけを口に告げて。
 それきり黙ってしまった君が真正面からぼくを見つめている。偽りを見抜き、相手の心を束縛する魔力を持った瞳の前ではあらゆる生者がひれ伏すことだろう。ぼく自身も、そのうちのひとりだ。
 自覚症状がある方が厄介だなんて、自覚する前は思わなかったな。
「うみ?」
 鸚鵡返しに反芻すると、彼はこっくりと頷く。
 どうやらぼくの聞き違いなどではないらしい、ましてや彼の言い間違いなどでもなく。
「もう泳ぐには遅いと思うけど」
 海=海水浴。
 そんな方程式が頭の中に成立したぼくの疑問を、彼は少しだけ不機嫌になった顔で首を振る事で否定した。
「何故私が泳がねばならない」
 だって、海と言えばまず海水浴が頭に浮かぶでしょ。喉元まで押し上がってきていた言葉を無理矢理に呑み込んで、ぼくは曖昧に頷いた。確かに、君が水着で泳いでいる姿は想像しがたい。と言うか、出来ない。
 似合わないから、君がそんな風にしている姿は。
「海に行きたい」
 もう一度、最初の言葉をそのまま繰り返す。今度はぼくが黙って聞いている。
 ちらり、と壁時計を見た。昼食を終えてからまだ時計の針は一周し終えていない。今からでかければ、一番近い海岸まで行って帰ってこられるだろうか。
 素早く頭の中だけで地理と交通状況を計算して、二つ返事で君へ頷き返す。
「海、だね」
「そうだ」
 確認のために最後に問いかけると、間髪入れずに君は返事をくれた。相変わらず、双子の紅玉はまっすぐにぼくを見据えている。
 鏡のように、君の瞳の中にぼくが居る。
「なんだ?」
 じっと瞳を見返していると、君の方が少し困ったような顔をしてぼくに尋ね掛けてきた。
 理由なんかなかったので、返答に窮してぼくは苦笑い。
「でもどうして、海?」
 季節外れになってしまった、人の居ない場所へ行きたがるなんて。
 彼の問いかけには答えず、逆に問いかけを返したぼくに君は曖昧に表情を変える。困った顔は相変わらずだけれど、ぼくが浮かべた苦笑いに似たものを含んでいる気がした。
「なんとなく、だ」
 やっぱり。
 理由なんて無い、ただの思いつき。
 少し気まずそうに「駄目か?」と目で尋ねられたけれど、ぼくは首を振って小さく笑った。
 全然問題ない。この季節海岸線通りの交通量はそう多くないし、さっき計算したとおり今から間を置かずに出発すれば夜には城に帰り着けるだろうから。
 そう言葉少なに説明すると、君は嬉しそうに笑った。
 その眩しすぎる笑顔を見ていると、ぼくは幸せになれるのだ。だから、ぼくが君の申し出を断れるはずが、ないんだ。
 知ってる、だろ?
 だからぼくに、頼んだんだろう?

 初秋の空気は、暖かいけれど風を切る中に身を置くと流石に少し冷える。
 交通渋滞に巻き込まれるのだけは遠慮願う、という事で。海岸までの交通手段はタクシーや自家用車ではなくバイクになった。
 色違いのヘルメットを被って、いざ出陣。出かける前に地図の確認だけは怠らず、ろくな準備も出来なかったけれど路線マップだけは忘れずに鞄の中へ。その鞄は今、後部座席で必死にぼくにしがみついている彼の背中に背負われている。
 交通ルールは守ろう、とは裏腹のルール違反ギリギリな速度で滑走するバイクは、カーブにさしかかる度に膝がアスファルトに擦れるのでは無いかという角度まで落ちる。海へ続く道はどうしてもカーブが多くなるから、必然的に危険な路線取りが多くなる。
 後ろの君は、カーブが視界に入るごとにぼくの腰に回した腕にぎゅっと力を込めて、振り落とされないように必死にしがみつく。時々、ぼくの方が苦しいくらいに。
 安全運転、したいんだけど。
 少し急がないと、間に合わないんだよね。日暮れに。
 そうこうしているうちに、唐突にサッと目の前の景色が広がって。
 ぽっかりと空いた空。右手には相変わらず山肌がうざったいくらいに続いているけれど、反対側は。
 蒼と碧のコントラストが眩しい、空と海が混ざり合った世界が広がっていた。
「うわっ」
 景色に魅入っていたらハンドルを取り損ね、危うく反対車線にバイクの車体を向けてしまうところだったのを、寸前で止める。
 よろけた車体を立て直し、冷や汗を風に飛ばしてぼくはこっそりと苦笑い。必死になって抱きついている君は、今の危ないシーンも目を閉じていた所為だろうか、全く何の反応も示してこなかった。
 ちょっとだけ、強く抱きつかれたくらいで。
 ぼくは、しばらく直線道路が続く事を確認して左の肘で腰に回されている君の手を小突く。そして首の動きだけで左側を見るように教えてあげた。
 ブレーキを握り、速度を落とす。丁度目の前に緊急時用の駐車スペースがあるのを見つけたので、そこに寄せてバイクを停めた。
 多少型は古めだけれど、燃費は良い中型バイクを降りる。ヘルメットを被ったままガードレール越しに眼下に広がる海を見下ろすと、横で君は暑かったのかヘルメットを脱いで首を振った。
 風にはためき、君の銀糸が揺れる。透き通る白さを持った髪が光を反射して輝くのをしばらく眺めていたけれど、時間を思い出しぼくはまた、バイクに戻った。
「海、まだ着いてないよ」
 目指している海岸へは、まだもう少しかかる。見下ろす光景もまた良いものだけれど、君に見せたいと思った海は此処じゃない。促すと、君は渋々と言った感じで後部シートへと戻った。
 そしてバイクはまた走り出す。今度はほんの少し、速度を緩めて景色を楽しめるように気を配りながら。
 追い越していく車を見送りつつ、何度か坂を曲がりくねって小さな町へたどり着く。そこから細い道をゆっくりと進んで、時々地図を確認しながらそのうちバイクを降りて押しながら、進んで。
 ふっと、途切れた町並み。
 潮の匂いが一気に押し寄せてきて、細波立つ音が耳に重く響き渡る。
 真っ白い砂浜と、それに融ける水の輝き。岩に打ち寄せて砕かれる波と、砕かれて千々になった海水が太陽光を反射させて見える虹のような光。
 世界が、不意に遠くそして近くなった気がして、ぼくたちはバイクを挟んでしばらく呆然と、その場に立ちつくしていた。
 その沈黙を破ったのは、君。
 まだ動けないで居るぼくを置いて、ひとりさっさと駆け出して行ってしまった。
 バイクのハンドルを掴んだままだったぼくは、君の背中が遠くなるのに慌ててスタンドを立てて道端の邪魔にならない場所に停めた。ふたり分のヘルメットを鍵で固定して、追いかける。
 砂浜の途中で、雑に脱ぎ捨てられた君の靴を拾い上げて、ぼくは途方に暮れた。
 波打ち際で、スラックスの裾を持ち上げて君がぼくを見ている。ぼくは、君に呼ばれた気がして君の靴を片手に一足ずつ持って近くまで行く。
 けれど、水に触れるような位置までは行けない。
「冷たくない?」
「気持ちが良いぞ」
 お前も来い、と言われている気がしたけれど、ぼくは首を振って丁寧にその申し出は辞退させて貰った。
「スマイル?」
 いつもと雰囲気が違うことを察したらしい君が、怪訝な顔でぼくの名前を呼ぶ。
 ああ、君に名前を呼ばれると逆らえないんだよね……ぼくは。
「だって、さ」
 なんだか海って、恐くない?
 言うと、君は呆れたような顔をしてぼくを見る。そして何を思ったのか、腰を屈めて両手で海水を掬い上げるとそれをぼく目掛けて、放り投げた。
 ぱしゃん、と水が跳ねる。ぼくの髪を、ほんの少しだけ濡らす。
「海が恐い?」
「溶けるよ」
「ナメクジじゃあるまいし」
「そう、なんだけどねぇ……」
 塩辛い水。塩をかけて溶けるのはナメクジ。間違っても、透明人間や吸血鬼は、溶けたりしない。
 ただ。
 生き物は、海から生まれた。だから、命が還る場所があるのだとしたら、それは海なのかもしれない。
 母なる海、と言われる所以はそこにあるのだから。
 君は笑って、そう言う。掬い上げた水を、今度は自分の頭上へと放り投げて。
 夕暮れに近い空の光を受けて、千切れた水がキラキラ光って君の上に降り注がれる。
 綺麗だと、思う。言わないけれど。
「魂が還る……」
「ああ」
「ぼくは、でもやっぱり海は嫌かなぁ」
「何故」
 理由……問われて、しばし考える。漂わせた視線は空を薙ぎ、水平線と注がれた。
「ぼく、は……還るとしたら、空が良い」
 太陽が沈もうとしている空を見上げたまま、ぼくは呟く。徐々に薄暗くなっていく東の空と、太陽の光を受けて朱色に広がりだした西の空。そして最後に、ルビー色の君の瞳を見て。
 笑った。
 ぼくは、知っている。自分が死ぬときどんな風に死ぬのかという事を。
 ぼくは海に還れない。ぼくは空気に溶けるように消えていくのだ、この身体ごと、記憶ごと全部。透け通る大気に混じって完全に見えなくなったら、ぼくは本当に消えてしまう。
 ぼくの死とは、そういうこと。
 君には理解できないこと、だろうけれど。
 そう告げると、君は予想通りに不本意な顔をしてぼくを見上げる。ぱしゃり、と水が跳ねた。
 君がぼくの傍へ戻ってくる。君の足を濡らす波が、押しては寄せ、寄せては戻る。空気に冷やされた君は、少し寒いのか顔色が良くない。
「海と、空では」
 還る場所が違っては。
 永遠に、届かない。
「逢えるよ」
 俯いた君の髪を梳いて、ぼくは囁く。
「だって、ほら。海と空は」
 見て、と日が沈み赤く染まる夕暮れの海上を指さしてぼくは微かな微笑みを君に向けた。
「水平線で、交わるから」
 そこに境界線はなく、そこに互いを拒絶する理由は無い。何もかもがひとつで、何もかもが混じり合う。混沌とした世界のなかで、海と空は永遠の逢瀬を迎える事が出来るのだから。
 ひとりきりじゃ、ない。
 逢える、よ。
「今日はまた、一段と」
 海の香りに当てられたか? と君が笑い飛ばして今度はぼくが拗ねる番だった。結構、真面目に真剣に答えたつもりだったんだけど……?
「分かっている」
 君は後ろ手に手を結んで、波打ち際をぼくの居るとは反対方向へと歩き出した。相変わらず裸足のまま、水を含んで重くなった砂の上に浅い足跡を残していく。その足跡も、波に攫われて呆気なく消えていく。
 君の、ように。
「消えたりはしない、貴様じゃあるまいし」
 私にそんな奇特な特技はない、と君が笑う。もっともすぎる返事に、ぼくは曖昧に笑ってすべてを誤魔化した。
 何かを見つけたのか、また君は膝を折って砂浜に手をついた。後ろをゆっくりと、波に濡れないように歩いていたぼくは彼の白い指に挟まれた同じように白い、渦巻き状の小さな貝殻を見た。
「それ……」
「珍しいな」
 こんなにも大きな貝殻を拾うなんて。手の平に収まる大きさの貝殻を手の上で転がして、ユーリはカラカラと笑いながら言う。そして右手に持ち替えて、右の耳にそれを押し当てた。
 貝殻は、海の音を伝えてくれるから。
「聞こえる?」
「ここじゃ、波の音が大きすぎる」
「そりゃ、海だもん」
 君から視線を広大無辺の海へと流して。その大きさに気圧されて、またぼくは君だけを見つめる。
「帰る?」
「海へか?」
「だから、ぼくは空に還るんだってば……」
「なら、私は虹にでもなるか」
「どうやって」
「さあ、な……」
 意地悪く見上げてきた君は、貝殻を大事そうに鞄へしまった。そしてぼくの手から靴を取り戻し、濡れた足を拭いもせずに革靴へと足を突っ込んだ。
 城に帰ったら、アッシュに言ってちゃんとクリームを塗って手入れをしてもらわないと二度と履けなくなりそう……そんな事を考えていたら頭を鞄で殴られた。
「いたっ!」
「なにをしている、帰るぞ」
 さっきは自分から話をはぐらかしたくせに、現金な君は大声で叫ぶと鞄を抱きかかえて一足先にバイクを停めてある歩道へ走っていった。
 またぼくは、置いてけぼりにされる。
 でも、君はバイクを運転できないから結局はぼくが、君を連れて帰ってあげなくちゃいけなくて。君は、ぼくがいないと帰れないから。
 だから、少しだけぼくは優越感に浸ってしまいそうになる。

 この日拾った貝殻は、今も君のベッドの枕許で波の音を響かせている。