ユーリが、失明した。
人通りの多い駅の階段で後ろから押されて、急いでいた所為もあったのだろうけれどバランスを崩してそのまま一番下の踊り場まで落下。大体十段ほどは落ちたのではないだろうかと、見ていた人が言っていた。
ぶつかった方は事態の大きさに気付いて逃げ出したけれど、その前にアッシュが追いかけて捕まえた。もっとも、わざと狙ってやったわけではないので警察に突き出したところで未必の故意という事でそいつが罪に問われることはないだろう。
ラッシュアワーの時間帯ではよくあることだと、駅員も言っていた。
ただ、落ちたのがユーリだったからちょっとした騒ぎになってしまって、病院に行くにも一悶着だった。
身体の傷はちょっとした打ち身と擦り傷だけで済んだ。
けれど、落ちたときに打った場所が悪かったのだろうか。ユーリの瞳からは光が失われていた。
医者は一時的な外的ショックに因るものだろうと言った。念のために数日入院して、脳波をチェックする等の精密検査をしてみて様子を見る。そう前置きした上で、医者は。
保護者など居ないユーリの、その保護者代わりとしてのスマイルとアッシュにこう言った。
いつ、もとのように見えるようになるかは全く予想が付かない、と。
網膜や角膜、視神経に傷が出来ているわけではないのは診断済みだ。だからこれは脳の方に問題がある。ただ脳というものは非常にデリケートな部分だから、簡単に弄る事なんて出来ない。
一時的なもの、と言ったが運が悪ければ一生眼は見えないままだろう、と真剣な面もちでカルテを片手に羽咋の医師は言い、聞かされる方のふたりも言葉無く聞いていた。
何が言えるのだろう、こんな酷いことを教えられて。
「……見えるようになる可能性は……」
「五分五分でしょうな」
カルテを捲る医師の手を見つめながら問いかけたスマイルは、普段の様子からは想像できないくらいに切羽詰まっていて聴いている方も息苦しさを覚えるほどだった。彼の後ろに立ち、滅多に訪れることのない病院の診断室という場所に落ち着かないものを覚えていたアッシュも、背中に冷たい汗が流れ落ちていくのを感じた。
「明日には治っているかもしれませんし、一ヶ月後か一年後かそれ以上か。もうしばらく様子を見て、こちらも何らかの対処法を検討します」
事務的な手つきで書類になにかを書き込んでいく医師。恐らくドイツ語なのだろう、崩された書体では何が記されたのかさっぱり想像できない。
「やっぱりあの男、もっと痛めつけておけば良かったッス」
事態の深刻さは時間が経つに連れて明らかになっていく。腹立たしげに言って足を床にたたきつけたアッシュの乱暴は言葉に、控えていた看護婦がびくっと震えた。
「止めよう、アッシュ。そんな事してもユーリは喜ばないよ」
最後まで階段から落ちたのは自分が足を滑らせたからだと言い張ったユーリ。スマイルが男の動きを見ていなければ、誰もがその言葉を信じていただろう。
誰も悪くない、自分がトロトロしていたのが悪いのだと痛みを堪えながら笑っていたユーリだったが、抱き起こしたスマイルの手を握るとずっと震えていた。アッシュが逃げた男を追いかけて捕まえて、人垣が出来る事を嫌って場所を駅長室に移した時にはもう、彼は気を失っていた。
『スマイル……か?』
大丈夫か、と声を上げて踊り場で横たわり自分で立ち上がることも出来なかったユーリが発した最初の言葉は問いかけだった。思い返せば、あの時から既に彼は見えていなかったのではないか。
守れなかった、という自責の念が襲ってきて苦しい。
話は終わったと、次の患者が待っているから早く出て行けと言わなくても雰囲気で伝えてくる医者の前を辞退して、彼らはユーリが入院している個室を訪れた。
扉を静かに開けると、反対側の壁に据え付けられた窓が開け放たれていて涼しい風が真っ白いカーテンを揺らしていた。
「ユーリ、身体……どう?」
数歩進んでから尋ねる。その声のする方を見たユーリの両目には、包帯が巻かれている。
あの綺麗な輝くばかりの瞳が見えない。
「遅かったんだな」
「うん、ちょっと」
お医者さんの話が難しくて、頭が悪い二匹だと理解するのに時間がかかったんだ。スマイルがそんな事を冗談めかして言うと、アッシュは不満そうにしたがユーリは小さく笑ってくれた。
「二日ほど入院して、身体のどこが悪いのか調べるって。この際だから、お疲れ気味のユーリにはゆっくり休養を取ってもらおうかなって思ってる」
眼のことは極力触れないように。ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろしてスマイルが告げると、アッシュは揺れるばかりのカーテンが気になるのか壁に固定しようと動く。
「駄目だ」
だがユーリはスマイルの提案を一蹴する。
「レコーディングが近いし、ライブの打ち合わせだって期限は決められている。新曲の音源だって」
「それはぼくたちでするから」
矢継ぎ早に仕事のことを口に出す彼を遮って、スマイルは少し哀しげな瞳を作る。
「そうッス、ユーリはこのところずっと働きづめだったッス。こんな事でもなければ、ゆっくり休む事もしないでしょう?」
アッシュもベッドの反対側からスマイルに賛同する言葉を口に出すが、それがユーリには神経に障ったらしい。不機嫌そうな顔をして、恐らくそこにいるのだろうという予測でアッシュの方を見る。
「私の眼が見えないのが、こんな事?」
苛立ちがありありと伝わる声に、アッシュは息を詰まらせて出しかけた声を呑み込んだ。自分の失言に気付いて口をパクパクさせている姿は、水槽で空気を求め喘いでいる近所のようだった。状況が状況なだけに、笑えなかったけれど。
「いえ、あの、そうじゃ無くって……」
おたおたしながら言い訳を考えるアッシュだが、案の定何も出てこない。手を上にしたり下にしたりと、大げさに慌てる様は見ていて滑稽なのだがユーリには見えない。
「ユーリ」
アッシュを苛めるのもその辺にして欲しい、とスマイルが間に入って彼の名前を呼んだ。声にだけ反応して、ユーリは振り返る。
包帯に隠されていても邪眼はきっちりと効力を発しているのだろうか、逃げられない状況に苦しいだけだったアッシュは自分からユーリの視線(実際彼は見えていないのだが)から解放されて、ホッと息を吐く。
もとから音楽という業界に生きていただけあって、ユーリは音には敏感に反応する。それが視力を失ったことで余計に強く出ているのだろう、見えている時と遜色ない反応でスマイルの座っている位置を把握してのけた彼に、しばらく何も言えないでいた。
「スマイル?」
呼んだくせに、何も言ってこないスマイルにユーリが怪訝な表情を浮かべる。はっと我に返ったスマイルは取り繕うように、見えない相手に向かって苦笑した。
「ユーリは、自分が落ちた階段が何処の階段だか覚えてるよね」
前振りもなく話題を変えてきた彼に、変な顔をしながらもユーリはひとつ頷く。
かなり大きな駅だ、朝の通勤通学の時間帯を外してもそれなりに人手はある。彼の転落事件を目撃した人間も多いはずだ。
「ユーリが病院に運ばれたって言うニュース、ちらほらだけど表に出始めてる。目撃者も沢山いたことだし、今更否定できないからその事に関しては認める発言をしておいた」
到着した先の病院に何人か、耳ざとく事件を聞きつけたゴシップ誌などの記者がいて病院側も迷惑していた。だから、信用の置ける三人とも良く知っている記者に電話をして情報を少しだけ流した。
ユーリが階段から落ちたこと、病院に搬送されたこと、今は大事を取って休んでいるけれど軽傷であること、そして入院先には一般の入院患者も大勢居るから取材は一切断ること。
スマイルの言葉をユーリは黙って聞いている。
「ぼくの言っている事の意味、分かるよね?」
敢えて軽傷であると事実を誤魔化し、一時的であるとはいえ失明した事を伏せた意味。
「騒がれたくないでしょう、ユーリ。ファンに心配させたくないでしょう?」
事実はいつか知れ渡るだろうが、時間は稼げる。その間に解決方法を捜せばいい、今事態を大事にして収集が付かないような事にしてしまうのは得策とは言えない。
眼の見えないままのユーリを外に出歩かせる事も出来ない、隠しておきたいことを外に漏らして仕舞いかねない外部との接触もなるべくさせたくない。
「私は城で、大人しくしていろと」
「酷いことを言っているのは分かっているけど、その通りだよユーリ」
遠回しに告げても、直接的に告げてもユーリを傷つけてしまうのは同じ。だったら回りくどい方法は取らずに置きたい。率直な言葉で飾りけなく言い切ったスマイルに、アッシュが「あっ」と声を出した。
だが言われた方のユーリは静かな顔のままで聞いている。
「私がそれで、納得すると?」
「状況が分からないわけじゃないでしょう」
包帯で隠された紅玉の瞳。たとえ見えていなくても見えているのではないかと錯覚させる迫力を秘めた彼に、物怖じする様子もなくスマイルは言葉を繋げた。自分では出来ない芸当だと、見ているだけのアッシュは完全に傍観者に回る事を決める。
「仕事に穴を開けろと言うのか」
「この場合、仕方がない」
「待ってくれているファンになんと説明する」
「言い訳はあとでなんとでも考える。今は、君がこれ以上悪くならない為の手段を講じる事を最優先にするべきだ」
見えないままでいて良いのかと、言葉の裏に隠された意味をスマイルの強い語気に感じて、ユーリは下唇を噛み言いたかった台詞を呑み込んだ。
「幸い、お医者の方も色々と治療法を考えてくれてる。視神経や眼球に傷があるわけじゃないから、落ちたときに頭を打ったことが理由なんだって。明日精密検査を受けてみて、それが終われば直ぐにお城に帰れるよ」
ベッドサイドの小さな棚に置かれていた、自分の鞄を手に取ってスマイルは立ち上がった。
「アッシュ、帰ろう」
「え、もうッスか?」
「分かった、アッシュはもうしばらくユーリの傍に居てあげて。ぼくは一度戻って、着替えとか持ってくるから」
洗面道具やタオル一切も、入院患者自身の持ち込みだ。今は借り物のパジャマを着ているユーリだが、やはり自分の持ち物の方が良いだろうし借りたままでは気持ちが悪い、譬え検査だけの入院だとしても。
「ひとりで大丈夫ッスか」
「もちろん」
何故今日に限って車で移動しなかったのだろう。複雑な気持ちは消えない、偶然の連なりで起きた事件だと分かっていても、その偶然のひとつひとつが故意に引き起こされた事のように思えてきて。
息苦しい。
「……………………」
スマイルが部屋を出ていくまで、ユーリはひとことも言葉を発しなかった。早く帰ってこいとも、二度と来るなとも、気を付けて、とも。
拒絶されただろうか、こんな風にしか言えないし動けない自分を。
扉を静かに閉めて、其処に背中を預けて天井を仰ぎ見る。染みひとつない真っ白い壁と天井と微かに匂う消毒薬臭さが、ここが現実世界とは少しだけ異質な空間であることを改めてスマイルに教えた。
行き交う入院患者は少ない、ユーリを大部屋に押し込むことは出来なかったので入院費の額面も気にせず個室を用意させた。そして個室に入院している患者の多くは、病状が重かったり人嫌いだったり、もしくはユーリのような理由だから見舞客も希なのだ。
ナースセンターの角を曲がると、エレベーターがある。下りのボタンを押してエレベーターが昇ってくるのを待つ間、その一角に飾られている絵画を見上げる。花瓶に生けられた黄色い大きな花を描いているそれを見て、戻ってくるときに一緒に花でも買ってこようかと一瞬考えた。
けれど、チン、と音をたてて到着を知らせ扉を開いたエレベーターに乗り込むときには、そんな考えもかき消えていた。
花など持っていったら、それこそ彼は自分を病人扱いしていると怒るだろう。
少しだけ混んでいたエレベーターの片隅に居場所を決めると、スマイルはこれからの事を考えて憂鬱になりそうな気持ちをうち消そうと眼を閉じた。
今は一秒でも早くユーリの瞳に光が戻ってくれる事を祈るしかなかった。
数日ぶりに戻ってきた城は、主の留守をしっかりと守って変わらない姿で其処に聳えていた。
だが見えない、ユーリには。
結局脳波にも異常は見られなくて、ユーリの失明の理由は明かされぬまま彼は退院した。病院前で捕まえたタクシーに乗り込むときも降りるときも、彼はずっとスマイルに手を引かれたまま。その居心地の悪さをそのまま顔に出しているユーリを横目にしながら、気付かないフリでスマイルは彼を促す。
「ほら」
アッシュは今、ユーリの代わりにツアーのスタッフとの打ち合わせに出ている。最初彼は渋ったのだが、退院手続きや次の診察予約の手続き等とどっちが良いかとスマイルに聞かれて泣く泣くそちらを選んだのだ。
どうやら彼は病院というものが嫌いになったらしい、スマイルだってあまり好んで足を運びたいとは思わない場所だったのに。
二日分の入院で使った身の回りのものを詰め込んだ鞄を置き、スマイルはゆっくりと扉を開ける。ギギギ、という聞き慣れていたはずのその音がやけに物々しく聞こえて、一瞬ユーリは自分が全く別の場所に連れて来られたのではないかと勘ぐってしまった。
だがタクシーの運転手にスマイルが告げた目的地は、間違いなくここだった。到着を知らせた運転手も、この住所を口にしていた。
身体が緊張で震えている。たかが、自分の家に帰ってきただけなのに。
あいかわらず世界は暗い、何も見えない。かろうじて明暗の差だけは分かるが、ものの輪郭を掴む事は出来なかった。
一時的な外的ショックによるもの、とそれだけしか説明しないあの医者を心底嫌いになった。医者であればちゃんと治療してみせろ、と叫びそうになったのを何度も堪えた。ベッドから降りて窓を開け閉めする、カーテンを引く、そのいつもであれば何でもない行動をひとつ起こすにも勇気が要る、時間もかかる。
そして、誰かの手がなければ歩くこともままならない。
こうしてスマイルの手を引かれていても、夜闇の中を彷徨っている感覚が抜けない。自分は迷っているのではないか、目的地とは違う場所に導かれたとしても気付くことが自分には出来ない。右手で繋がれているこの男を信じる以外に、道がない。
「階段、昇るから」
止まって、と合図をされて足が止まる。少し右足を前に出すと確かに階段があるらしく、段差に爪先が当たって跳ね返ってきた。
玄関から上の自室へ行く為の階段とは、それほど距離はないはずだった。てっきりもう、階段を上り下りしなくても辿り着くことが出来るリビングの方へ到着する手前だと思っていたユーリは、言われた事と自分の感覚が大きく狂ってしまっていることに気付いて愕然となった。
あれほど歩いたはずなのに、まだこれっぽっちも進んでいない。
左手を手すりに置き、右手はスマイルに預けたまま一歩ずつ階段を登る。歩幅を確かめるように、一段一段に右足を載せ左足を置き、次の段に足を掛けては同じ事の繰り返し。たかだか十数段しかない階段を登りきるのに一体どれだけ時間をかければ良かったのか。
懐かしさを覚えてしまいそうになる自室へ到着したときには、ユーリはくたくたに疲れていた。
住み慣れ、配置も完全に覚え混んでいると思っていたはずの城が、全く別のものにしか感じられない。スマイルは、入院中に家財道具を移動させたりした事はないと言っていた、その言葉に嘘はないだろう。
ユーリを柔らかいクッションの利いたベッドに座らせ、持っていた鞄を床に置くとスマイルは彼から手を離す。途端に、命綱を断ち切られた感じがしてユーリは心の中に何か冷たい風が流れていく錯覚を覚えた。
「飲み物でも用意してくる。紅茶でいい?」
アッシュが居ればもっと気の利いたものを用意できただろうが、彼はまだ帰ってくる気配がない。夕食までにまだ時間は残されているが、あまり遅いようではあり合わせで先に済ませてしまうしかないだろう。ユーリがやっと帰ってきたというのに、と窓を見やってスマイルが溜息をついた。
「…………」
ユーリは黙って聞きながら羽毛の掛け布団に片手を添えて撫でている。感触を確かめているのだろうが、どこか表情は朧だ。
返事を待っていても意味がないことを悟ったらしい、もう一度分からない程度に溜息をついてスマイルは部屋を出ていった。今のユーリが視力を失った分を補おうとして、身体が勝手に普段よりも聴力を発達させている事を彼は失念していた。
スマイルの溜息は彼に知られた。
「…………っ!」
かちゃりと閉じられた扉の向こうで気配が遠退いていくのを待ち、ユーリは拳を引き寄せた己の枕に叩きつけた。
軽い衝撃はクッションの弾性に吸収されて痛みは無い。それが尚更悔しくて何度も何度も枕に拳を叩きつける。そのうち何処かに穴が空いていたらしく、其処に爪が引っかかって布が一部裂けた。
綿がはみ出る、溢れ出す。浮き上がって散乱する、部屋中に。
けれど見えない、動いているものを感じ取れるのに見ることが出来ない。音もなく四方に散っていく真綿が何処へ落ちたのか、分からない。
「ここは、私の城だっ」
無性に泣きたくて、それを堪えるために大声を出して叫ぶ。
立ち上がる、床の上にひとり。バランスが悪い、数歩進むだけで倒れそうになった。伸ばした手は虚空を流れて右から倒れた。
「っ!」
床に打ちつけた箇所が鈍く痛みを訴えてくる。だが押し殺して再び立ち上がる、何か支えになるものを捜して右に伸ばした指の先に棚の縁があった。
もし此処に頭でもぶつけていたなら、そう考えてぞっとしたものが背中を通り過ぎていった。
目を閉じていても分かると信じていた自分の部屋の間取りでさえ、今は酷く朧気にしか思い出せない。この棚は確か扉のすぐ左にあったはずだ、いや間にサイドボードがあったかもしれない。ドアノブの高さはどれ程だった、其処を出てすぐのところに何があった、なにかがあったはずなのにそれが思い出せない。
「…………っ」
泣きたい。
泣けない。
負けたくない、こんなことで。
手探りで扉を探しだし、ノブを回す。予想以上に勢い良く開いた扉に腕を持って行かれ、取り残された身体が傾ぎまた転びそうになった。
心臓が跳ね上がる、そろそろと足を出して足裏の感触が変わってそこから先が廊下であることを確かめる。一歩の距離が僅か三十センチにもならなかった。
扉を閉める、そのアクションだけでも一分以上かかったような気がする。
スマイルは台所にいる、自分はひとりでも大丈夫だと言うためには其処まで辿り着けなければならない。
誰かに縋る事でしか生きられない、そんな自分は絶対に嫌だ。ひとり取り残されてぽつんと、空白の中に埋めるもののないまま自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなってしまうあの時間に戻るのは嫌だ。
「……はっ……」
息を吐き出す、手を伸ばし空中で探って手摺りを掴む。足を前に伸ばせば、まっすぐ平らな廊下が唐突に床を失っていた。階段だ。
「…………」
唾を飲み込むとごくりと音がする。
両手で手摺りをしっかりと握りしめて、身体を横向きにして左足を真横に伸ばす。ゆっくりと下ろしていくと、一段下がった場所に幅の狭い床があってそこに下ろす。次に股を閉じる感覚で右足を左足に添えるように下ろしていく。
階段をたった一段降りるだけなのに、一生分の勇気を費やしたような気がして汗が出た。疲れてしまって、その場に座り込みたくなる衝動に駆られる。だが思い直し、すぐに次の段へ降りる動作を再開させた。
手順は先程と同じ、一段一段降りていく。ただ昇るときとは違って、足下の不安定さと心許なさは格段に大きい。
見えることと見えないことの違い、病院にいる間はそれほど不自由に感じなかった。だから平気だと思って、過保護すぎるまでのスマイルやアッシュの行動が気に障った。
だが違ったのだ、あの時は周りに沢山の人が居て、困っていれば看護婦がそっと横から手を差し伸べてくれて居たし、出来る限り時間を作ってスマイルたちも傍にいてくれた。
奢っていたのだろうか、自分は。
今何段目まで来ただろう、残りは数段だけだと思っていた。
遠く、自分の呼吸の合間に別の音が混じって聞こえる。陶器がぶつかり合うような音、多分食器の。
スマイルが戻ってきたのだ、お茶の準備を終えて。
早く、早くこの階段を下りきってしまわなければ。早く、早く。彼が戻ってきてしまう前に。
焦りを覚えていた、出来るものと過信していた。残りは少ないと思いこんでいた。
「…………あっ」
階段にまで律儀に敷かれた絨毯をこれほど恨んだ日があっただろうか。少しだけ、本当にほんの少しだけ前に出しすぎた左足が絨毯の滑らかな毛に滑ったのだ。
一瞬、身体が下に沈む。踏み外した左足が重力に引かれて斜めに、まるで自分の身体から抜け落ちようとしているかのように階段下へ向かって落ちていく。
近く、いや、遠く?
なにかが砕け散る音が聞こえた。
スマイルの、声にならない悲鳴が耳の奥底まで響いて心が震えた。
衝撃は、来なかった。
暖かなものに身体が包まれていて、それはとても小刻みに震えていた。
自分は悲鳴をあげなかった、それは光を移さない瞳が状況を教えてくれなかった所為でしかなかった。
スマイルが震えている、この腕は彼のものだ。分かる、分かってしまう。
「……泣いているのか……?」
何故かそんな気がした、抱きしめられているだけだし、自分の目は彼の表情を映し出してくれないのに。泣き声や啜り泣く音も聞こえてこない、ただ肩口に埋められているらしい彼の呼吸と心臓の鼓動が少し大きいような気がするだけ。
だけれど、泣いているように思えた。
「泣いてない」
ようやく彼は呟いたが、抱きしめてくる腕の力は緩まない。
「スマイル……?」
怪訝な、問いかけの声をあげると彼はようやく少しだけ力を抜いて、顔を上げユーリを階段の上に下ろした。だがまだ完全に解放してくれたわけではなく、腰に腕を回されたままだった。
「ユーリ、君は」
台所から戻ってきたスマイルが階段で見たのは、ひとりでフラフラと頼りなさげに階段を下りていくユーリの姿だった。
本人はしっかりと握っていると思っていた手摺りも、半分ほどしか指は回っていなくて握り込めていなかったし、それになにより残りの段数があと少しと思っていたユーリの予想は、大きく外れていた。
彼はまだ、五段ほどを降りていたにすぎなかった。
スマイルは全身の血の気がサッと引くのを感じた。直後だった、ユーリが左足を滑らせて彼の身体が宙に浮いたのは。
持っていた茶器は盆ごと投げ捨てた。陶器のカップやポッドは粉々に砕け、適温に調節された紅茶は玄関の床一面に大きな衣魚を作り湯気を立てた。
落ちて行こうとするユーリの顔は落ちついていた、何が起きているのかを把握出来ていなかったのだろう。
駆け上った、階段を三段とばしで。
腕を伸ばした、千切れても良いとも思った。この手が二度も君を逃してしまうのだけは絶対に嫌だった。
「君は、ぼくに二度も……君が落ちていくのを見ろと言うのかい!?」
あの日の記憶は今でも生々しく遺っている、瞼を閉じれば直ぐにでも浮かんでくる、伸ばした手をすり抜けるようにして階段を落ちていくユーリの背中を。
掴めなかった手を、何度も恨んだ。憎んだ。
ユーリは考えていなかった、今回の事で傷を負ったのは自分だけだと思っていた。そう思いこむことで、自分を守ろうとしていた。
けれど違う。一番傷つけたくなかった人が傷ついていた、あんなにも近くに居たのに少しも気付いてやれなかった。
「スマイル……」
今頃になって身体が震えてきた。あのまま落ちていたら次はどうなっていたのか、想像するのも恐くて出来なかった。
手を伸ばし、其処にいるスマイルの服にしがみつく。彼は優しく背を撫でてくれた。
「スマイル、私は、私は……」
それ以上言葉が繋がらなかった。ただこみ上がってくる嗚咽だけが押さえても押さえきれなくて口から溢れ出るばかりだった。
「もういい、もう良いからユーリ」
背を撫でた手が髪を梳き、頬に添えられてこぼれ落ちた涙を拭ってくれる。
「ぼくが、君の目になるから」
世界で一番言わせたくなかった言葉は、この世で一番優しい言葉だった。