FullMoon

 満月。
 薄く棚引く雲を従えて朧気に、そして儚げに淡い光を放っている月。
 けれど月は自分ひとりでは輝けないんだよと、遠い昔に誰かが言った。月は、自分を照らしているのに自分からは見えない太陽を捜して夜を彷徨っているのだ、と。
 その時はただ笑って、彼の変にノスタルジックで感傷的な台詞に「似合わない」としか答えなかった。彼はさも愉快そうに笑う僕を見て、困ったように微笑んだだけだった。
 あの時の君の表情は今でも忘れられない。もう、君の名前もどんな顔をしていたのかも思い出せないと言うのに。
『そんなに似合わない?』
 少し寂しそうに、哀しそうに、けれどその感情を覆い隠してしまう巧みすぎた微笑みに惑わされてぼくは気付かなかった。
 気付いてあげられず、ぼくたちは離れた。再び会うことはなくて、次に君を訪ねた時君は冷たい墓石の下で静かに眠りについたあとだった。
 花を手向ける時、君が口にした月と太陽の話を思い出した。
 自力で輝く術を持たない月は、自分を照らし出してくれる太陽を永遠に探し続けて夜の空を彷徨っている。太陽は自分に恋いこがれる月の存在に気付くこともなく、昼を照らしその残照を夜の月へ降り注いでいる。
 太陽は月の恋に永遠に気付かない、月は太陽に永遠に出逢えない。
 このことばが陳腐な皮肉だと気付いたのはそれからずっとあとのことだった。
 遠回しな言葉が好きだった彼の、最後で最後の謎かけだったのだろう。それを真に受けなかった自分は、だとしたらとても酷い仕打ちを彼にしたことになる。
 今夜は満月だ。
 そういえば、こんな事も彼は言っていた。
 暗闇の中で涙を流す月を見て恋をした蝶が、月を慰めようとか細い羽を懸命に伸ばして側へ行こうとするけれど、月を守る星々によってその羽を焼かれてしまって蝶の思いは月に届かない、とも。
 満月に恋いこがれ、身を滅ぼした蝶と。
 姿を見ることも叶わず、ただ自分へ降り注がれる光の主に恋した月と。
 月の想いに気付かず光を夜に零す孤独でけれど尊大な太陽と。
 誰が愚かで、惨めで哀れなのか。
 半分ほどに減ったウィスキーのボトルを揺らし、波立たせてぼくは小さく笑った。思えば自分も随分と滑稽な事を考えている。
 答えなど、出ない。誰もがそれぞれ、己の心情を貫き導かれた結末だ。そしてその結末は今も少しずつ動いている、変わっていく。
 栓を抜いて直接ボトルを傾けて酒を扇ぐと、ツンとした特有の臭いが喉の奥を甘く刺激してくる。
 視界を遮る邪魔な高層建築物は周囲には見えない。此処はこの城で最も高い場所、鐘楼の更に上。急勾配の屋根は油断すれば一気に地上へ滑り落ちる危険な場所であることに違いないけれど、ここが一番見晴らしが良くて気分も高揚できる場所だからお気に入りだった。
 吹き付けてくる風は地上のものよりも冷たく、鋭い。肌を刺す冷気は月へ昇って夜の眠りを手に入れる。昼の太陽は誇り高すぎて近付く事を許されないから、風が眠るのは夜を支える月の傍だけなんだよ、と詩人さながらに笑った彼を思い出す。
 ああ、そんな感じがする。今なら彼の言葉に素直に頷ける。
 名前も顔も、どんな格好をしていてどんな色の瞳をしていたのか。何も思い出せないのに君が語った言葉は今でも鮮明に思い出すことが出来る。穏やかに微笑んで柔らかな唇から紡ぎ出される言葉は、印象的で綺麗だったから。
 その声が、好きだったんだ。
 初めて見かけたとき、見つけられたとき。失敗したな、と直ぐに逃げ出そうと構えたぼくに。一瞬だけ驚いた顔をしたくせに二秒後にはとても嬉しそうに顔を綻ばせて。
『夜の散歩かい?』
 そう言った、君の声は今思えば魔力が込められていたのではないかと勘ぐってしまいそうになる。
 満月を見ると君を思い出す。
 もう一口、酒を喉に押し流して月を見上げる。月は変わることなく淡い光を放って其処にいる。
『スマイル』
 君はいつも笑っているね。どうして?
 問われても答える言葉を持たなかったぼくに、君は言った。
『心が優しい人はね、笑顔でいることで優しさをみんなに分けてくれるんだよ』
 だから、スマイルも優しいひとなんだよ、と。君の方こそ優しさを分け与えてくれる笑顔で言った。頬に触れてきたてのひらは、とても熱かったのを忘れることが出来ない。
『スマイル』
「スマイル」
 ぼくの名前を呼ぶあの声が好きだった。
『スマイル』
「スマイル」
 なんどでも、何度聞いても決して聞き飽きることはない声だと思った。もっと沢山、呼んで欲しかった。
「スマイル!」
「っ!?」
 ぐいっ、と乱暴に髪の下に隠れていた耳のリングを引っ張られて遠くに飛ばしていた意識を思い切り強引に引き戻された。しかも、我に返ったのにリングごと耳朶を引っ張る力は全然弱まってくれない。
「いだだだだだだ……っ!」
 我ながら情けないと思う声で悲鳴を上げて、ギブアップを表現する為にバンバンと鐘楼の屋根を叩く。
「痛い、いたいってばユーリ!」
 痛覚は人並みに持ち合わせているから痛くて当然、しかしそんなことお構いなしのユーリは手加減知らずで引っ張ってくる。彼の腕を捕らえて止めてくれと懇願するまで、彼は手を離してくれなかった。
「ふん。ようやく目が覚めたようだな」
 すっかり赤くなって、ひょっとしたら少し伸びてしまったかも知れない耳朶をさすっているスマイルに、ユーリは相変わらず尊大な態度で見下ろして言った。
 鐘楼の頂きに片手を置くことで滑り落ちないように身体を支えて、月を背負いシルエットを浮かび上がらせている彼の銀糸は透けるように輝いて見える。広げられた翼で風の抵抗をなるべく軽減させているのだろうが、その姿は一瞬息を呑みそうなくらいに総てがお膳立てされたように整えられていた。
「ユーリ、いつから……」
「何度も呼んだ」
 確かに誰かに名前を何度も呼ばれていたような記憶はあるが、あれはてっきり記憶の中の幻だと思いこんでいたから気づけなかったのだろう。
「お前は、月が満ちるたびに此処に来るのだな」
 自分の城でありながら自分は滅多に訪れることのない鐘楼に、毎度登っているスマイルの行動は彼に幾らかの興味を抱かせたようだ。
「満月の日は明るいからねぇ」
 見晴らしが一番良いのは此処だし、と取り繕うように選んだ笑顔でスマイルはボトルを握っているのとは反対の手で自分の足場を指さした。
「だがお前が見ていたのは眼下の景色ではなかった」
 しっかりと観察していたらしいユーリの指摘に、スマイルの表情が僅かに強張る。普段から彼の表情の変化に慣れているユーリでなければ見逃してしまっていただろう、そんな微妙な変化だ。
 随分と長い間観察されていたようだ。近くに他者の気配が迫れば直ぐに反応を返しているはずの自分が、余程油断していたとしか。それだけ、満月に気を取られていた事なのだろう。
「あー……うん、ちょっとねぇ」
 昔を、懐かしんでいたのだと。
 言いにくそうに髪を掻きむしりながらスマイルが言う。ユーリは黙って月を背負い聞いている。
「太陽に恋した月は可哀想だな、って」
 一生巡り会えない相手を想い毎夜涙を流している。その涙を拭おうとした蝶は月に触れる事も出来ずに命を燃やした。
「スマイル」
 頬杖を付いてユーリの向こうに見える大きな月を見上げた彼に、しかしユーリは少しだけ語気を強めた。
「月と太陽は、出逢える」
 太陽の光が月を照らして包み込む日がある。
「あ、日食」
 指摘されてスマイルはぽん、と手を打った。
 目から鱗、そういう手もあったのかとどうして今まで気付かなかったのか不思議なくらいに納得できた。
 確かに、日食であれば太陽は月を包んで月の輝きを奪い去る。月は太陽に出会える。
「……ユーリって、案外ロマンチストなんだねぇ」
 叩いた手をグリグリと回して、スマイルは笑った。自分で言って恥ずかしくなったのか、ユーリはそっぽを向いて闇に表情を隠してしまっている。それがおかしくて、スマイルは益々声を立ててケラケラと笑った。
「それより、アッシュが呼んでいる」
「え、どうして?」
 夕食は大分前に済ませている。今更アッシュが自分を呼ぶ理由は無いはずだと首を傾げたスマイルに、コホン、と咳払いをして気分を取り戻したユーリが鐘楼からかなり下、小さく見える庭を指さした。
「今晩は月が綺麗だから、月を見ながら茶会でもしようという話になった」
 目を凝らせば、薄明かりの下でテーブルを広げているアッシュらしき姿が小さな豆粒大で確かに見える。
「だったら、庭じゃなくってもっと月が近い此処でやればいいのに」
「何処にテーブルを広げる気だ?」
 鐘突堂である鐘楼には当然、鐘がつり下げられている。今は叩く人間もいないけれど、時刻を知らせる為の鐘の音は今でもやろうと思えば響かせる事は可能。そしてその鐘は、巨大。ひとふたりが並べば充分窮屈に感じるこの場所で、テーブルを広げて茶会など言語道断だろう。
 ましてや、屋根の上など。
「ちぇー」
 ユーリのもっともすぎる反論に口をとがらせ不満を表現したスマイル。すっかり彼の調子に戻っていることにユーリが口元に手をやってクスリと笑う。
「ねぇ」
 スマイルが振り返り、ユーリを下から見上げた。
「ぼく、ユーリの声好きだよ」
 そして何の繋がりがあるのか唐突にそんな事を言い出す。不意を突かれて理解しかねると間延びした顔になったユーリに、スマイルは目元だけで微笑んだ。
 立ち上がる。一歩進んで、ユーリとの間にあったそう大きくない距離を詰める。
「だから、いっぱい呼んでね?」
 ぼくの、名前を。
 口の形だけでそう告げて、スマイルはまだ状況を把握し切れていないユーリを抱き上げた。両手で彼の背を抱え横抱きにする。
「っ!」
 反射的に暴れて逃げようとしたユーリを力で抑え込み、その耳元に囁きかけた。
「舌噛まないでねー?」
 ひやり、とユーリの背中を冷たいものが流れていった。見上げた先にあるスマイルの顔が、普段以上の悪巧みを企んでいる顔になっている。
「や、やめっ」
 何をされるのか朧気ながら理解したユーリが更にスマイルの腕から逃げ出そうと暴れるが、完全にスマイルのペースにはまってしまっていてそれは不可能だった。
「しっかり捕まってててねー!?」
 元気良く叫んで、スマイルは勢いをつけて鐘楼の屋根から飛び出した。そのまま、重力に引き寄せられるままにユーリを抱きしめたまま地上へ目掛け堕ちていく。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?」
 声にならない悲鳴をあげてユーリは、無意識にスマイルにしがみついた。
 下から吹き上げてくる風が身体のあちこちにぶつかり、逃げていく。何度か衝撃がスマイルの腕伝いに届いたが、それが何故なのかを確かめようにも目を閉じていたユーリには無理だ。
 ただ時々、とても愉快そうなスマイルのけたたましい笑い声は聞こえてきてまだ自分たちが無事であることだけは分かった。
 やがて、一段と大きな衝撃が身体を抜き抜けていって風の抵抗も消えた。
 向こうから、アッシュが驚愕する声が聞こえる。
「とうちゃっく」
 ひときわ大きな声で笑って、スマイルが言ったので戦々恐々と固く閉じていた瞼を開く。だが最初に見えたのは地面ではなく、自分の腕と抱きついた先のスマイルの横顔。
「面白かった?」
「!」
 はっとその問いで我に返ったユーリは、彼の首に回していた腕を解くと同時に目の前にあったスマイルの右頬に強烈な拳を叩き込んでいた。
「スマイル、ユーリ! 一体どうしたんスか!」
 空から突然降ってきたかのように、地上にいたアッシュには見えたのだろう。慌てて駆け寄ってくる彼の目の前で、スマイルはユーリに殴り倒されてノックアウト。ユーリは少し赤くなった拳をさすりながら、怒り心頭という顔で彼を睨んでいた。
「あのー……」
 一体何がどうなっているのか、出しかけた手を引っ込めることもそのまま伸ばすことも出来ず中途半端にさせたまま、アッシュは困惑顔でふたりを交互に見る。
「スマイル、貴様という奴は!」
 今日という今日こそ許さない、と息巻くユーリだが叱られているはずのスマイルはまだ可笑しそうに、楽しそうに笑っている。
 草の上に寝転がって、苦しそうに息を吐いた彼の目に、満月は相変わらず柔らかな光を放って輝いていた。