西の空の雲行きが怪しくなっていると気づいたのは、五時限目がもうそろそろ終わりそうな、憂鬱な午後。どうやっても頭に入ってこない英文法を、ただ促されるままノートに複写させられる退屈な時間に、ばれぬようあくびを噛み殺して何気なく窓の外を見やり、雲の流れ方が異様に速いのを目にした為だ。
「……?」
家を出る前、ただ見るとも無しに電源だけが入っていたテレビの、星占い直前の天気予報では、今日は一日すっきりとした青空が広がると謳っていた。ピンクのスーツを着込んだ予報士のにこやかな笑顔が思い出される、今頃彼女は空の動きを見て何を思っているだろう。
降るだろうか。降水確率も低く、傘など持って来ていない。恐らく他のチャンネルの予報を見ていた人も同じではないだろうか、今朝の登校風景で傘を持って歩いている人は皆無だった。
とはいえ、専門の知識を持っているわけでもなく、本当に降るかどうかも分からない。ただ予感が、胸の奥底でざわめいている。
「じゃあここを……沢田、答えてみろ」
どことなく落ち着かない雰囲気に足をもぞもぞとさせていると、余所見をしているのを目聡く見つけた教師が、教科書ごと腕を伸ばして綱吉を指名する。静まり返っていた教室内が一瞬ざわつき、ノートを取る手を休めた級友が一斉に綱吉に目線を向ける。
咄嗟に自分が教師に当てられたのだと気づけなかった綱吉は、挙動不審に慌てて周囲を見回し、教師の刺さるような視線に気づいて大急ぎで立ち上がった。広げていた教科書の間に置かれていたシャープペンシルが衝撃で転がり落ちる。それが余計に綱吉を慌てさせて、教室の一部からはクスクスという笑い声が発生する。
頬を赤く染めて、穴があれば入りたい気分に陥った綱吉は、指名された問題の回答など無論頭に浮かび上がるはずもなく、
「あ、あっ」
と上ずった声を零しながら腰を曲げ、床に落としてしまったシャープペンシルを拾おうとした。だが急いでいる時ほど見つからないもので、最初に落ちたはずの方向に素早く目を走らせたけれど、肝心のものが見当たらない。どこへ行ってしまったのだろう、と反対側に手を伸ばしかけたところで、不意に視線の端から目的のものが差し出された。
何事かと瞳だけを動かし、シャーペンの根元を見る。先端をつまみ持つ指には見覚えがあって、顔を上げると椅子に座ったまま屈んでいる獄寺と目が合った。
「It is important for me to study」
「へ?」
早口で耳慣れない言語を告げられ、きょとんと目を丸くした綱吉に、獄寺は素早くもう一度同じ言葉を繰り返した。シャープペンシルも同時に綱吉に突きつけられ、反射的に受け取ってから漸く、彼が綱吉に、教師の問いかけに対する答えを教えてくれているのだと知る。
急ぎ机に向き直って、広げていたページのもうひとつ次のページに、今獄寺が発音したのとほぼ同文が掲載されているのを見つける。違うところは、文中に括弧が設けられており、その部分を埋めなさいという指示がついているところだった。
「ええと、ふぉ、ふぉー……?」
首を傾げつつ、これで正解なのか不安を覚えながら、酷くたどたどしい発音で答える。英語教師は眉間に皺を寄せ、神経質そうな動きで眼鏡を押し上げると、ただ一言「宜しい」とだけ告げた。ホッと胸を撫で下ろし、綱吉は脱力して椅子に崩れるように座った。
彼を振り返っていた生徒も、英語教師が咳払いしたところで姿勢を戻し、新たに板書される黒板の文字をノートに写し取る作業に戻っていく。
床に落ちた際に付着したらしい埃を取り払い、自身もシャープペンシルを握ろうとした綱吉だったが、何気なしに窓とは反対の教室側を振り返る。
綱吉にはついていくだけでも必死な中学生のカリキュラムは既に終了しており、今更机に向かって勉強する必要性が全く無い生徒が、退屈そうに頬杖をついているのが見えた。少し長めの、色素の薄い髪の毛をセンター分けにして、今は煙草の変わりにシャープペンシルの尻をせめてもの慰めにと口に咥えている。視線は黒板ではない場所に向けられていて、しかしその方角には何も無い。
明らかにやる気を感じさせない態度を、最初こそ先生陣も注意していたが、改善される余地がないと知れると誰も気に留めなくなっていった。成績がよければ多少問題行動が目立っても許容されてしまう。問題児でもないが成績もよろしくない綱吉にしてみれば、少し羨ましくも妬ましくもある。
とはいえ、今は彼に助けられた。
もう一度教師に指名されないよう注意深く獄寺に視線を送り続けていると、そう鈍くない彼は程なくして気づいた。宙を浮いていた視線が前方に戻り、それから綱吉に向けられる。目が合い、獄寺の口からシャープペンシルが落ちた。
ありがとう、のつもりで顔の前で両手を立てて笑いながら小さく会釈する。獄寺は今度は自分が落としてしまったシャープペンシルの行方と、綱吉の視線とどちらを優先させるべきかで迷い、結局どっちつかずの間に綱吉は姿勢を前向きに戻してしまった。
既に黒板の左端から右側まで埋められていたチョークの文字を、雑になりがちな字でノートに写し取っていく。英語教師がチョークを黒板に押し当てる音と、それにあわせる格好で居並ぶ生徒達の字を書く音が重なり、そればかりが静かな教室に流れ続ける。
雲行きは依然怪しいままで、閉められた窓を叩く風の音も少しだけ強くなっている。何人か気づく生徒も出てきて、顔を上げては不安そうに眉根を寄せる姿がちらほらと見受けられた。
雨が降らなければ良いのに、そう思っているうちに授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。一気に騒がしさが戻った教室に、更に英語教師のやや不機嫌な声が重なって、日直の号令の下起立礼が形式的に行われる。他の皆よりもワンテンポ遅れて綱吉も立ち上がって頭を下げ、椅子に座らずに机の上に散らばっていた教科書とノートをひとまとめに片付けた。
何気なしに振り返る。丁度同じようにノートを閉じていた獄寺が気づき、再び目があった。逸らす理由も見当たらないので、僅かに目尻を下げて笑いかけ、作業に戻る。そのまま流れで窓の外へと目を向けると、さっきよりもずっと暗い色をした雲が空に立ち込めていた。
「降りそうだな」
窓枠に手を添えて眺めていると、頭の上から声が降ってくる。人の気配を感じて上を向くと、綱吉より頭ひとつ分背の高い山本が、綱吉の背中から覆いかぶさるようにして立っていた。綱吉の視界には山本の顎から鼻筋に掛けてがよく見えた。彼は綱吉の手より二十センチほど離れた場所に大きな手を置いて、綱吉が見ていた方角を見つめている。西の空から広がってきていた雲は、もう少しで学校の真上まで到達しそうだ。
「降るかな」
山本から視線を戻し、彼の身体にすっぽり隠されてしまった状態のまま綱吉が呟く。どうだろうな、という独白めいた呟きが聞こえた。
「山本は、傘持ってきてる?」
「いや。ツナは?」
「持ってない」
窓に額がぶつかりそうな距離まで詰めて、空を上目遣いに見やる。こちらの心配を余所に、雲の流れは依然速度を落とすことなく町を覆い尽くそうとしている。
「てめっ、こら山本。十代目から離れろ」
しかし雷は違う場所で真っ先に落ちたようで、飛んできた声に振り返ると分厚い山本の胸板に視界が塞がれてしまった。その山本もまた、綱吉から離れる事無く首から上だけを振り返らせている。仕方なく背中を丸めて姿勢を低くし、山本の腕の下から背後を覗き込むと、案の定そこには激高した獄寺の姿があった。
人を指さしてはいけないと教わらなかったのだろうか、人差し指を山本へ突き立てて、さっさと離れろと怒鳴っている。
「おーっと、そういやもう次が始まるか。じゃあな、ツナ」
「うん」
しかし山本はいつものように、獄寺の怒りの意味を正しく理解していないようで、暢気に壁際の時計を見上げるとさっさと身を翻して自席へと戻っていく。ひらひらと振られた手に、手を振って返し、綱吉はまだ眉間に深く皺を刻み込んでいる獄寺を見る。
視線に気づいた彼は、居住まいを正して綱吉の前で畏まる。背後では六限目の始まりを知らせるチャイムが鳴り響き、間もなく教師が入って来るだろう。騒々しかった教室内も生徒が席に戻るにつれて静まりかえる。
「獄寺君」
「あ、はい」
「授業、始まるから」
何か言いたそうで、けれど綱吉からの言葉をまず先に待っている獄寺に、綱吉は溜息を零しながら座るように促す。逐一綱吉に命じられなければ動けないような彼はあまり、好ましくない。
言ってから自分も席に座り直し、まだ机の上に残ったままだった教科書を片付けて、数学の教科書を取り出す。ノートも交換し、シャープペンシルの芯を出しては引っ込め、引っ込めては押し出して教師が来るまでの短い時間を潰す。
綱吉を十代目と言って、信を寄せて来る獄寺。綱吉と親しい山本に、何かと喧嘩を売っては受け流されて肩すかしを食らっている彼。綱吉の為ならば恐らく燃えさかる炎にだって飛び込みかねない、向こう見ずで直情的な、獄寺。
いつだって傷だらけになりながら、笑って、死ぬかもしれない事にでさえ突っ込んでいってしまう、彼。
嫌いではないのだけれど、綱吉は時々彼がとても恐ろしい。
黒縁眼鏡の中年教師が入って来て、日直の号令が下される。淡々と始められた授業に意識を集中させた綱吉は、時折感じる斜め後ろからの視線を振り切るように、より一層授業に聞き入った。
校舎よりもずっと高い空の上では、不穏な音が立ちこめ始めていた。
「あー、こりゃ降るな」
長いようで短かった授業が終わり、ホームルームも終わって帰り支度をしていた綱吉に、素早く帰り支度を終えた山本が近付いて来て言った。彼の視線は窓の外に向けられており、短い一言ではあったが綱吉には充分意味が通じた。
クラスメイトも一様に外を気にしている。今にも降り出しそうな鉛色の空は見るからに気を重くし、不安を加速させてくれる。
何人かは置き傘があるようで、持ってて良かったと胸をなで下ろしているが、大半の生徒はそうではない。降り出す前に一刻でも速く家に帰ろうと、慌ただしく鞄に教科書類を詰め込んで教室を飛び出していく。
「山本は、部活?」
「ああ、外で出来るかどうか分かんねーけど」
手で窓に触れる。五限目終了時よりも少し冷たさを増した気がするひんやりとした感触に、思わず身震いがした。
「顔は出さないとな」
雨が降りそうなので部活を休みます、なんていう理由は通用しない。すっかり真面目に野球少年をやっている山本は、少し照れたように笑って目を細めた。綱吉も、彼が好きな野球に戻れたのを嬉しく思い、笑いながら頷き返す。
「ツナは?」
「一昨日の課題提出出来てなかった奴、終わったから、出してから帰るよ」
立てた鞄から二つ折りのプリントを取り出し、山本の前で軽く揺らす。化学の授業で提出時間に間に合わなかった為、宿題にされてしまったプリントだ。綱吉の成績の悪さは教師陣でも有名だから、焦らせても仕方がないと心優しい先生は配慮してくれたらしい。
居残りを命じられるよりはずっとマシだからと受諾したのだけれど、他の宿題も山積みであった為思ったよりも手間取ってしまった。明日にはまた化学の事業があるのだからその時に提出でも良いのだけれど、嫌なものはさっさと手放してしまいたい。既に終わっているものならば、尚更に。
「そっか。あの先生、いつもどこかほっつき歩いてるから、すぐに見付かるといいな」
「本当だよ」
肩を竦め、綱吉は盛大に溜息をつく。化学教諭は変人でも知られており、職員室にあまり居着かない。化学準備室に入り浸ってなにやら怪しい研究をしているという噂もあり、出来ればお近づきになりたくない人でもある。しかも机の上は常に物が散乱しており、いつ雪崩が起こってもおかしくない。
先生がいなければ机にプリントを置いて帰れば良さそうだが、あの先生の場合、本人に直接手渡さないと、他の大量の荷物に埋もれて行方不明になりかねない。折角苦労して提出したのに、先生側で無くされた上に提出出来ていないと判断されるのは非常に困る。
山本の心配に心の底から同意して、綱吉はプリントを鞄に戻した。山本も手を振って教室を出て行く、彼を見送って流した視界に獄寺の不機嫌そうな顔が混じり込んだ。
既に帰り支度を終えているらしく、退屈そうに椅子に座っている。綱吉と目が合うと、慌てて視線を逸らしたけれど、彼がずっと綱吉と山本の会話を気にしていたのは丸わかりだ。
「ツナ君、またね」
綱吉のアイドルである京子が手を振って去っていく。思わず頬が弛んだ綱吉も手を振り替えし、鞄を取って立ち上がった。
背後、窓の向こう側でごろごろと雲がうなり声を上げる。振り返った綱吉の視界には落雷の輝きは見えない。
「早く帰りましょう、十代目」
痺れを切らした獄寺が綱吉までの距離を三歩で詰めて言った。
「ああ、うん」
不穏な音を響かせている外に意識を半分奪われたまま、綱吉は生返事をする。獄寺が有無を言わせずに綱吉の手から鞄を奪い、自分の物もあわせて、当たり前に持つものだから、綱吉はそれ以上言わずに彼について歩き出した。
「いいよ、自分の分くらい持つ」
「いえ、十代目のお手は煩わせませんから」
既に充分気を煩わされているのだけれど、とは言えなかった。獄寺の真剣な表情と声に、綱吉はいつだって気圧されて強く言い返せない。素直に甘えてしまえばいいのに、すっかり卑屈に歪曲してしまった性格が、それを許さない。
山本の親切心は素直に受け止められるのに、獄寺のそれはどうしても心の底から受け容れがたいのは、初対面時に彼に抱いてしまった恐怖心に起因しているのは、綱吉も自覚している。
ただ、単純にそれだけが理由だと聞かれると、自分自身でも納得が出来ない。何故、こうも自分は彼が恐いのか。彼の親切、優しさを真正面から受け容れられないのか。
「ああ、ごめん。獄寺君、ちょっと寄るところがあるから」
真っ直ぐに正面玄関に向かおうとする獄寺の背中に言って、少し急ぎ足で、開いてしまっていた彼との距離を詰めて追い越す。
「すみません、十代目。職員室でしたか?」
「うん、いるとは思わないけど」
やはり山本との会話を盗み聞きしていたらしい獄寺が、すんなりと綱吉の目的地を言い当てる。綱吉の返事が渋いのは、目的の教諭の放浪癖を心配しての事だ。
そして案の定、足を向けた職員室には荒れ放題の机が鎮座しているだけで、椅子に座る白衣の姿は見あたらない。積み重ねられた本やプリントの山が雪崩を起こさないか、恐々としている隣席の教諭に話を聞いても、持ち受けのクラスのホームルームが終わって戻ってきてから、すぐ何処かへ行ってしまったらしい。
空模様は雨こそ降り出していないが、今すぐに降り出しても可笑しくない色合いになっている。教室を出た時よりも鈍色の度合いが増している。
一礼をして職員室を後にし、待ち構えていた獄寺に首を振って答え、手にしていたプリントを鞄に戻す。そのまま鞄を獄寺に奪われる前に自分でしっかりと握り、不満げにしている彼には気づかない振りをして、歩き出した。
目指すは、二階の特別教室棟。実験室や準備室が並んでいる一角で、普段の授業では殆ど足を向ける事もない場所だ。廊下の明かりもあまり点灯させられておらず、昼間でも薄気味が悪くて、用事が無ければ近付きたくない。しかも今は空模様も怪しく、薄暗さが一層濃い。
「俺が行って来ましょうか」
綱吉の歩調が鈍るのを受けて、獄寺が後ろから提案してくれたが、こんな事で怖がっていると思われるのも、男として癪に障る。首を振って彼の申し出を断り、綱吉はさっきよりも大股に廊下を進んだ。獄寺がつかず離れず、三歩後ろをついてくる。
廊下は他に歩く生徒もおらず、足音が不気味に反響を繰り返して消えていく。これが深夜であったなら、肝試しに最適だなと思われた。
「そういえば」
獄寺がふと、気晴らしになればという気持ちからか、口を開いた。
「この先の教室で、有名な怪談があるらしいっすね」
綱吉はつい、握りしめた拳で彼を殴りつけたくなった。
よりによって、その一番触れて欲しくない話題を振ってくるのかと、怒りがこみあげてくる。
それはこの中学でも有名な怪談で、内容はどこにでもある、化学室で実験中に爆発を起こして大やけどを負い、それが元で死亡した生徒が学校を恨んで夜な夜な実験室に現れるというものだ。色々なパターンがあって、生徒も男女両方の話があるが、中核は大体同じ。最近聞かされた内容では、その化けて出た生徒が硝酸を掛けてくるというもの。自分と同じように火傷を負わせて、顔の皮を垂れ下がらせて苦しむ姿を見て笑いながら消えていくのだという。
勿論冗談の類だとは思われる。綱吉だって本当の事だとは思っていない。だけれど薄暗い廊下、人気のない教室、降り出しそうな空、反響を繰り返す自分のものだけではない足音。時間帯が深夜ではないだけで、いつそういう化け物が飛び出してきても可笑しくない。
「十代目?」
「ああ、もう。うるさいなぁ」
「大丈夫ですか? 声が震えてますが」
「獄寺君が変な事思い出させるからだろ!」
怒鳴りながら振り返ると、獄寺の顔は思ったよりも近くにあった。綱吉の様子がおかしいのを心配し、距離を詰めていたらしい。目を丸くしている彼の綺麗な顔が目の前にアップで広がっていて、悔しいかな、同じ男として羨ましく思えてしまう。
女生徒からの人気も高く、成績優秀、運動神経も抜群で、実家はお金持ち。何から何まで完璧な彼が、どうして平凡以下の、何をやってもダメな自分と一緒に居てくれるのか。自分の為に、命を擲つような真似を平気でやって。
そんな事を、して欲しいわけじゃないのに。
獄寺が心底心配してくれているのが解るから、綱吉は自分が怒鳴ってしまったのを悔いて、情けなく思って顔を伏せる。最終目的地は目の前で、急にしおらしくなってしまった綱吉の態度の変化に狼狽した獄寺が、ほらほら、と鍵の掛かっていなかった化学準備室のドアを開けて綱吉の背中を押した。
乱暴な扱いで準備室に押し込まれた為、若干前につんのめりながら綱吉はドアから数歩先で立ち止まった。
職員室の机と大差ない、乱雑に積み上げられた書籍の山が床からいくつもの柱を形成し、人がひとり通るのもやっと。両側の棚にも所狭しと、何が入っているのか解らない薬品が並べられている。奥には机がふたつ並んでいるが、どちらも職員室の机より酷い有様で、人の姿は皆無。ここも外れだったかと、綱吉は鞄ごと大きく肩を落とした。
「いませんね。実験室の方でしょうか」
綱吉の後ろから身を乗り出して机を見た獄寺が言う。もぞもぞと動いているから、なんだと思って彼を振り返ると、獄寺はちょうど綱吉の脇を通り抜けて前に出ようとしているところだった。
実験室へは綱吉の前方、先生の机が並んでいる壁際の先に扉があって、そこから出入りが出来る仕組みになっている。無数に置かれた機器、瓶に入った薬品や居並ぶ書籍類。それらの行列を崩さずにすれ違うのはかなりの労力を必要として、獄寺が肩をぶつけた、何か解らない液体が入っているビーカーが危うく床に落ちるところだった。
「あぶねっ」
慌てて手を伸ばして傾いたビーカーを押さえ、落下を防ぐ。その咄嗟の動きに驚いた綱吉が、半歩下がって背中を本棚にぶつけた。後頭部が、はみ出ていた本の角に直撃する。
「あいたっ」
「十代目?」
大丈夫ですか、と獄寺が振り返る。その直後。
視界が光に包まれ、網膜が焼かれたかと思う衝撃が綱吉の脳髄を直撃した。目の前が真っ白に染まり、獄寺の影さえも見えなくなる。
至近距離で落雷があったのだと気づくのに、二秒半の時間が必要だった。というのも、その時間の後に、光に遅れて轟音が頭上から降ってきたからだ。
「ひっ」
綱吉が肩を大きく竦め、全身を硬直させる。喉を擦って漏れ出た声は恐怖に怯み、直後の呼吸が停止しているのだと獄寺に教える。
「十代目!」
手を広げ、腕を伸ばす。僅かな距離でしかないのに、綱吉との間に広がっている空間が非常に彼にもどかしく思えた。
校舎全体が震えるような近距離での落雷、屋上には古びた避雷針が設置されているので直撃を受けても平気なのだが、綱吉にも獄寺にもそんな事は即座に理解出来ない。虚空を掻いた綱吉の手が獄寺の上着を掴む。獄寺の手もまた、綱吉の肩を抱いた。力任せに引き寄せる。
第二の光線が窓の外を焼いた。綱吉は無我夢中で目の前の獄寺にしがみつき、顔を胸に押しつけて眩んだままの瞳がこれ以上焼かれぬよう、力一杯に瞼を閉じて堪える。獄寺も綱吉を己の胸の抱え、衝撃の全てから彼を庇い、膝を折って抵抗するのも忘れている綱吉ごとその場にしゃがみ込んだ。
周囲を囲んでいる本が雪崩を起こす。ばさばさと音を立てて崩れる本が、獄寺の身体のあちこちにぶつかって床に散らばる。落雷音がそれを覆い隠して余りある音量で轟き、ふたりの鼓膜を打ち震わせる。
「うぅぅー」
力一杯に抱きしめる腕に力を込められ、綱吉が苦しそうに呻く。気づいた獄寺が腕の力を緩めると、ホッと胸をなで下ろした綱吉が息を吐いたが、直後にまた、先程よりも少し遠ざかった光が床に窓の形をはっきりと描き出し、ほぼ反射的に綱吉は獄寺の胸元に顔を埋めていた。
雷は決して苦手ではないのだが、こんなにも近い場所への落雷は、生まれて初めてだった。
「十代目……」
獄寺の声が耳元で低く響く。背中に回された腕から、頭ごと身体を抱きしめる身体から伝わる体温と、心音が心地よい。
「大丈夫です、十代目。俺が、ついています」
優しく、諭すように、静かな声が綱吉の心に染みこんでいく。
雨が降り出したようだ。落雷音はまだ続いているが、徐々に遠ざかっていく。代わって窓を叩く無数の雨音が激しさを増している。音しか聞こえないが、きっと雨のカーテンで外の景色は一気に霞んで見えなくなってしまっているに違いない。
バケツをひっくり返したような豪雨に、教室内の空気が冷えていく。冷静さを少しずつ取り戻した綱吉が、数回瞬きをして顔の位置はそのまま、瞳だけを上向ける。
獄寺は遠くを見ているようだった。
「獄寺君……?」
「俺が、十代目を守ります。命を賭けてでも……だから、大丈夫です」
綱吉の呼び声は、彼に届いたのだろうか。抱いた綱吉の頭をそっと撫でた彼の指は、僅かに震えていた。
彼のことばには、きっと嘘はない。綱吉を包み込む腕の力強さ、暖かさは紛れもない本物であり、安心出来るものだと綱吉は感じている。実際今の自分は、彼の腕の中で、幼い日に母に抱きしめられた時同様の安堵を覚えている。
だけれど、同時に不安の影を感じずにいられない。
綱吉は瞳が乾燥するまで瞬きを忘れて、獄寺を見上げた。彼が気づいてくれないか、それだけを願って。
けれど獄寺は綱吉を抱きしめ直し、その肩口に顔を埋めただけで、綱吉の視線には気づかなかった。
「獄寺君……」
囁きは、彼に聞こえないのだろうか。いや、聞こえないままであって欲しい。切に願い、綱吉は目を閉ざす。
抱きしめられる腕の暖かさに眠ってしまいたくなる。何もかも考えずに済む、夢の世界に沈んでしまいたい。
問えぬ問いは、胸の中に淀んでやがて消える。拾い上げられる事のないまま、きっと自分たちは答えを出せぬまま、時を過ごすのだろう。
守られる側と、守る側との境界線は、高く、深く、狭まる事もなく。そう、きっと綱吉が彼を恐いと思っているのは、彼が明確に、答えを示してしまう日が来ると解っているから。
自分たちがいつまでも、どっちつかずの、曖昧な関係を続けていられないと、無意識に気づいてしまっているから。
ねえ、獄寺君。
君が、守りたいものは、ダメツナな沢田綱吉?
それとも、……ボンゴレ十代目としての沢田綱吉?
落雷が呼び込んだ炎は、綱吉の胸の底で、静かに、燻り続ける。