紅い月

 闇はどこまでも闇。
 今は月の明かりさえ激しく遠い。風のうなり声が妙に空々しく大きく聞こえ、一瞬身を震わせたキールは空を仰ぐと小さくため息をついた。
 寒いわけではないが、全身を覆い尽くすこの言いしれぬ恐怖心と興奮に体が震えているのが分かる。深く底の見えない闇の中に一人佇み、彼はふっと、視線を頭上から足元に落とした。
 荒れ果てた、草さえ生えぬ荒野のまんなかに突如現れる異形の陣。複数の線と点、図形といびつな文字とで組まれた魔法陣を囲むようにして、さらに大きな魔法陣が描かれている。
 だが外側の魔法陣は、明らかに内側の魔法陣とは趣が異なっている。召喚術に知識のない人間が見ても、それは一目瞭然としていた。
 禍々しさが違う――
 内側のやや小さめの魔法陣には、見るものに恐怖と不安を植え付けるような邪悪さを秘めた文字や図形が規則正しく並べられている。かつて共に戦った仲間達がこの魔法陣を見れば、おや、と首を傾げるかもしれない。それは以前、ハヤトが召喚されたあの大穴を囲むようにして描かれていた魔法陣に酷似していた。
 だがサイズが違う。これはもっと小規模のものだ。だが外を囲む複数の魔法陣をあわせれば、全体としては以前のものと同じほどの大きさになるだろう。
 その魔法陣の最中央に、今キールは立っている。
 月のでない夜は何処までも闇。
 だが敢えて新月の夜を選んで、キールはここに来た。この夜の、一瞬のためだけに果てしない時間と力を注ぎ込んできたのだから。
 魔は闇を好む。
 本来人間という生き物には必然的に内面に闇を持つのだという。だがそれを隠すように光の面が生まれ、通常の暮らしを送る上では、内に潜む闇の顔は表に現れることはない。
 だが何かの拍子にたがが外れ、光の顔だけでは対処できないような事態に陥ったとき。人は自然と、まるでそれが初めてではなかったように――闇の顔を露見する。
 ひょっとしたら彼は、この世界に来てしまったときにその足かせをどこかに落としてきてしまったのかもしれない。でなければ、自分たちに見せてくれた明るく花を咲かせたような笑顔はすべて偽りであったというのか。
 星が力無く輝く空を見て、キールは首を振った。そんなはずはない、と。
 今でも自分は彼のことを信じている。たとえ彼が魔王であったとしても、彼と過ごした時間は嘘にはならない。だったら、それで良いではないかと。
 自分にはまだ彼を信じられる強さがある。今はそれに縋るしかない。
「…………帰ってこい」
 虚空に向けてキールは囁いた。
 彼の立つ魔法陣はサプレスの悪魔達を召喚するためのものだと、知識を持つ人間は理解するだろう。だが召喚に必要な、肝心のサモナイト石が見当たらない。それに紋章の組み合わせも、本来の召喚の際に使用される組み合わせとは少しずつ異なっていた。細かく言うなら、呼び出した召喚獣を使役するために必要な契約の紋章が欠けているのだ。
 そしてなによりも、内側の紋章を包み込む外側の紋章は。
 攻撃系の魔法陣。それも、通常戦闘で必要とされる紋章を更に強化し、すべてを破壊しつくす地獄の業火を呼び出すためのもの。攻撃範囲は、紋章の内側全体だ。
「…………」
 首魁オルドレイクを失いちりぢりになった無職の派閥は、すでに空中分解の状態にあった。彼の数多くの子供達も、それぞれに戸惑いながらも新しい自由な生き方をすでに選び取っている。キールだけが、時間を止めているのだ。
 無人となっていた無職の派閥本部へ戻り、書籍を読みあさって見付けた、おそらく今のキールが使える最高レベルの魔法がこれだった。だが完全にマスターしきる前に新月の夜が来てしまい、補助的な役目として魔法陣を強化するしかなかった。
 それでも、使えるのは一度きり。二度も使う魔力はキールにはない。それに、…………。
 無意識に右手が腰元に伸びていて、指先が冷たい無機質な物体に触れた。かちゃり、と金属が擦れ合う音がやけに大きく響き、キールははっとなる。
 視線をずらし、ズボンのベルトにつり下げられたナイフを見る。その表情には悲しみが満ちていた。
 このナイフは、キールの覚悟の証だ。
「守ると、約束した……」
 月夜の屋根の上で交わされた言葉に嘘はなかったと、今も思っている。
 自分は彼に出会えて幸せだった。彼に出会って初めて、自分が生きているのだと実感した。そしてもっともっと、生きていたいと願った。
「約束したんだ……」
 一緒にいたい。一緒に笑いたい。話したいことはまだまだ沢山ある。君のいた世界の事も知りたい。サイジェントの町だけじゃない、リィンバウムに広がる大地を歩き回り、冒険をしてみたいとさえ、思った。
 戦いが終わったら海へ行こうと、言ったじゃないか。
 地平線の向こうまで続く大きな水の大地だと、海を見たことのないキールに彼はそう説明した。蒼くて、冷たくて、水は塩っ辛くて中に入ったら体が自然と浮き上がる。波が引いては押し、太陽が沈むときには蒼い水面が一面の赤に染まるのだと。
 見てみたいと呟いたら、君は笑って言った。
『じゃあ、一緒に見に行こう』
 何気ない日常の雑談だったかもしれないけれど、キールにとって何物にも代え難い時間だった。
 君があんなにも楽しそうに話してくれたから、きっと海とは美しく面白い物なのだろうと感じた。君が一緒なら、たとえ世界の果てにだってたどり着けると思っている。
 君がいてくれたら…………。
「会いたい」
 薄くたなびく雲は星を隠し、一面の闇を地上に示す。まるでキールをあざ笑っているようで、彼は意識しないままに唇を噛んでいた。
「会いたいよ」
 こんなにも恋い焦がれている。ただひとり、君を思い出すだけで。こんなにも胸が苦しい。
 夜空を仰ぎ、キールは目を閉じる。呼吸を整え、静かに、意識を集中させる。
 この魔法陣に特別な手法はいらない。サモナイト石も、契約の言葉も書簡の呪文も必要ない。
 ただ、その名を心から紡ぐことで――――
 彼は、来る。
「ハヤト」
 闇に向けて、遠く界を隔てた先にいる君に向けて。
 キールは呼ぶ。彼の名前を。
「ハヤト」
 たったひとりだけの、キールの大切な人の名前を。
「ハヤト」
 この声は届くはずだ。
 約束した。必ず守ると。
 その約束を、果たさせてくれ――――!!
「煩い」
 こみ上げてくる涙を必死にこらえ、何度でも、何百回とでも彼を呼び続ける覚悟だったキールの背後で、暗い重い声が響いた。
「五月蝿い」
 同じ言葉が繰り返され、キールは息を呑む。
「貴様の声は、煩い」
 彼の声ではない。だが、一度だけ聞いたことがあった。
 月は見えない。何処までも続く闇だ。
 汗が流れる。足が動かない。何かを言おうとしていたはずの言葉が一瞬にして頭から吹き飛び、渇いた喉がかすれた音を吐き出しただけに留まる。だが逆に、それが彼に悲鳴を上げさせなかった。
 いや、今のキールには悲鳴を上げるだけの余裕すら許されていなかった。
 闇が重い。
 この一瞬で魔法陣の中の空気が変わった。
 息苦しい。瘴気を思わせる密度の濃い空気が、息をする度にキールの肺を焼く。重くのしかかる大気が彼の体を締め付け、冷たい汗がどっと、体中の汗腺から噴き出るのが分かった。
「ハヤ……ト……」
「五月蝿い、と言ったはずだ」
 直後、不可視の腕がキールの腹部にめり込んでいた。
「う……!?」
 内臓器官が一気に上部に押しやられ、吐き気に襲われたキールはあえなく背中から大地に倒れ込む。
「げほ、ぐぅ……がはっ!」
 背中から落ちた衝撃も加わり、こらえきれずキールはうつぶせになった瞬間胃の内容物を嘔吐していた。舌がつーんとした痛みを訴えかけ、鼻につく悪臭に自分でも顔をしかめる。
 固形物はほとんど見られない吐瀉物のうちわけに、自然と唇は歪んでいた。最後に食事を摂ったのは昨日の昼間だったから、吐き出すものは水と胃液ばかりだ。
「汚いな」
 すぐ真上で声がして、振り仰ぐより先にまた腹を蹴られた。
「ぐっ!!」
 息が詰まる。さっき殴られたのとまったく同じ箇所をつま先で蹴り上げられ、更に細い痛みに言葉もでない。倒れ込んだときに切ったらしい唇が赤い血を流し、鉄錆びた味が麻痺している舌に広がる。
「おい」
 地面に伏したまま立ち上がれないでいるキールの髪を乱暴に掴み、上向かせた相手と初めて視線が交わった。
 懐かしい人の姿。
 屈託なく笑う真昼の太陽のような彼は、もうそこにはない。
 あるのは冷たい深淵の闇だけだ。
「ハ……ヤト……」
「五月蝿いと言っている!」
 苛立たしげに吐き出し、キールの髪を掴んでいた手で魔王は彼を容赦なく殴った。鈍痛がキールの右頬の感覚を失わせ、小さな砂埃を上げて彼はまた倒れた。
 じゃり、という音を感じ薄目を開ければ、今殴られたばかりの右頬に固く冷たい物が押しつけられた。それが魔王の足だと理解するのに、キールは数秒かかった。
 歪められた視界を必死に持ち上げようとするが、上から押さえつける魔王の力は強大で、とても彼の力では抗いきれない。だが必死になって目玉を動かし、自分を今踏みつけているものの姿を視界に収める。
 闇を背に、表情は見えないが凛とした輝きを持つ彼に、身震いすると同時にキールは、彼が美しいとさえ思えた。
「何を笑っている」
 今から貴様は死ぬんだぞ、と降ってくる声にキールは自分の表情を知る。
「泣きわめくなり、哀願するなりしてみせたらどうだ。人間らしくよ」
 す……と軽くなった頬に驚く間もなく、3度目の衝撃がキールの脇腹に突き刺さった。
「ガぁ!」
 吐き出した息に容赦なく第二波が襲ってくる。かわす余裕もなく、やられるがままにキールは大地にのたうち回るしかなかった。
「貴様の声は五月蝿いんだ」
 まったくの無慈悲な声に、腹部を押さえながら顔を上げたキールの表情は、しかし魔王が望んでいるような恐怖で歪んだ見るに耐えないものとはかけ離れていた。
 人間は弱い。ちょっとつつけばすぐに死ぬ。そのくせ生きることに執着して見苦しく泣きわめき命乞いをする。それが魔王にとっての人間の価値観であり、絶対だった。だからキールが少しも彼を恐れていない素振りに、腹が立つ。
 ねじ曲げて、その顔を屈辱と恥辱に満たしてみたい。
 魔王の中に歪んだ感情がもぞりと首をもたげる。
 ふたりの距離は約五歩分。魔王ならその気になれば一瞬で間合いを詰めて攻撃を仕掛けられる距離だ。だがキールにとっては、地平線よりも遠い距離。
 地面に力無くうなだれたまま、キールは服の中から小さな宝石を取り出した。その輝きに目を留め、魔王は目を細める。
「反撃するって言うのか? 貴様が?」
 嘲笑う声に耳を傾けず、キールは片手で体を支え身を起こした。
 息をするのさえ苦痛で、全身がぎしぎしと悲鳴を上げている。肋骨が何本かひびが入っているのだろう、ひょっとしたら折れてしまっているかもしれない。裂けた上着の下からは赤く濡れた皮膚が顔を覗かせている。痛みは何も内側からだけじゃない。
「くっ……」
 息が漏れ、ダメージの大きさに苦笑する。
 だが、魔王がまだ油断しているのならそこを狙うしかない。
 チャンスは一度きりだ。
「人間如きが、むかつくんだよ!」
「ポワソ!」
 魔王が吠え、地響きを立てて不可視の闇がキールに襲いかかろうとした。しかし寸前にキールが召喚したポワソがそれを阻み、わずかにそれた衝撃波がキールの髪を激しく揺らしただけに留まる。
 召喚したポワソはひとかけらも残らず消滅していた。
「つっ……」
 もともと盾にするつもりで召喚したのだから、キールはさしてダメージを受けていない。逆に魔王の方が、自分の暮らすサプレスの同胞を使い捨てにされたことに腹を立てている様子だった。
「貴様……」
 魔王の瞳が初めて揺れた。
 冷たく底の見えない闇の中で、黒い炎がちろちろと踊る。ぞくり、とキールの背に悪寒が走った。
 同じ顔なのに……。
 ――ハヤト……
「五月蝿いと、何度言えば分かる」
 声に出したつもりはないのに、魔王にはキールの声が聞こえてしまう。否、キールが呼ぶハヤトの名前が通じてしまっているのだ。
 念じるだけで……心に思い描くだけで相手を呼びだし、心を通わせる。かつてハヤトとキールの間に流れていた空気がまだそこに、微かではあっても残っていることが不謹慎だがキールは嬉しかった。
「絶対に助ける……」
 かちり、と手の中のサモナイト石が擦れ合う。
 魔王が奇妙なものを見る目で彼を向いた。
「返してもらう……彼を、ハヤトを……」
 キールが言った瞬間、魔王は思いきり嫌な顔をした。そして、唐突に笑い出す。
「返すだぁ? この体をか?」
 自分の胸元を指さして魔王はキールを睨み付けた。
「どうやって? 俺様を攻撃するのか? だがそれじゃ、貴様が守りたいって言うこいつの体も傷つくんだぜ?」
「知っている」
 大切な体を自分から傷つけるような真似はするまい、とタカをくっている魔王をキールは一蹴する。
「うるさい、黙れ」
 幾度となく魔王がキールに向けて言い放ってきた言葉をそっくりそのまま投げ返し、キールはよろめきながらも立ち上がった。ふらつく足を叱咤し、乱れる呼吸を必死になって落ち着けさせ魔王を正面からにらみ返す。
 その瞳は、まだ死んではいない――
「お前の声は耳障りだ」
 彼の体で、彼ではない声で語るんじゃない。そう言葉の裏に含ませたキールに、魔王の顔は見る間に赤く怒りに染まっていく。
 絶対的な力の差を前にしながら、未だ勝負を諦めず抗おうとする彼が気にくわない。それは明らかに、サプレスを力で手中にしている魔王にとって、初めての屈辱に他ならなかった。
 キールの全身は傷だらけで、本当なら立っているのがやっとというはず。一方の魔王はまったくの無傷で、魔力も泉の源泉のようにわき出て尽きることがない。
「気にいらねぇ」
「お前に気に入られようとも思わない」
 呟きに即答で返され、魔王はぎりり、と唇をかみしめた。余りに強く噛んだ所為で、もともとハヤト――人間の体は赤い鮮やかな血を流す。
「貴様を殺し、この世界を徹底的に破壊してやる。でなくちゃ、俺の腹の虫がおさまらねぇ」
 忌々しげにそう吐き出し、魔王は赤く染まった唾を捨てた。その動作にわずかにキールが顔をしかめたが、魔王は気にしなかった。
「そんなにこいつが大事か?」
 ぴく、とキールの眉が片方つり上がる。
「だったら、リィンバウムをぶっ壊すのに手を貸してみせろ。そうすりゃ、返してやらなくもないぜ」
 リィンバウムに住む人々すべてと、ハヤト一人の命を天秤に掛けろ、という。露骨に顔をしかめたキールを、魔王は嗤った。
「どうした? 死ぬほどに大事なんだろう?」
 こいつのためだったら何でも出来るんじゃなかったのか、と嘲り嗤う魔王にキールは小さく首を振った。
「お前は何か誤解している」
 囁くように、ゆっくりと。キールは静かに言葉を紡ぐ。
「僕は一度も、返して欲しいとは、言っていない」
「?」
 彼の言葉が一瞬理解できず、魔王は目を細め唇を歪める。
「なんだと?」
 では何故キールはここに来て、魔王を呼んだのか。この体を――ハヤトを返して欲しいが為に、勝負の見えている戦いに敢えて臨んだのではなかったのか?
「約束した、必ず守ると。誓った、必ず助けると。
 僕は……貴様に請うために来たんじゃない。ハヤトを取り戻す為にここに来た!」
 キールの吠え声に呼応し、召喚用魔法陣が動き出した。
 白く淡い光を自ら発し、魔法陣を構成する紋章がそれぞれに輝き出す。
 キールは握っていたサモナイト石を空中に投げ放った。
「ヘキサボルテージ!!」
 機界ロレイラルの道が開かれる――
 効果範囲から逃れるために、召喚を行った瞬間キールはその場から大急ぎで逃げ出した。向かうは、あらかじめ決めていた特殊な魔法陣の中。
「ちっ」
 魔王が舌打ちする。
 キールにとって最高魔力を消費する最強攻撃魔法も、魔王にとってはそよ風程度のものでしかない。頭上に現れた複数の腕を持つ機神に向けて右手をあげると、ちらりとキールの背中を一瞥した。
 ドゴォォォォォォォン!!!!!!
 すさまじい爆音と衝撃がキールの全身を容赦なく襲いかかる。飛び退いて身を低くし、地面にしがみつくような格好で爆風をしのいだキールはもうもうと煙の立ちこめる後方を一度だけ見つめ、再び立ち上がり走り出そうとした。
 しかし。
 目的地である結界の手前に魔王の姿を見付け、足を止めるしかなかった。
 魔王は無傷。所々、防ぎきれなかった爆風による石つぶてで作った服の裂け目は見えたが、その下はきれいなまま、傷ひとつついてはいなかった。
「何処ヘ行く?」
 砂をかぶった髪を掻き回し、魔王はうざったそうにキールに言った。
「…………」
 じりじりとその場所から後退しつつも、キールは答えることが出来ないでいる。魔王にはすでにばれているはずだ。この先に、いかなる魔法をもはじき返すことの出来る結界陣が敷かれていることに。
 キールがそこに向かっていることは、問わなくても容易に想像できるはずだ。そしてそれは同時に、キールにはまだ何か秘策が残されていることを意味する。
 己を守るための結界なくしては使うことの出来ないような――そんな厄介な代物が、まだ切り札として彼の手の中に納まっていることを。
 彼は悩んだ。
 次の一手は本当に最後の賭だ。これで魔王が倒せるかどうかさえ分からない。それ以前に、全開で使用するのは初めての魔法なだけに、どれだけの効果を持ち、どれだけの被害を与えるのかさえ、キールには計算できていない。
 だから彼は、この魔法は結界の中で使う道を取った。取らざるを得なかった。
 この魔法は術者さえ巻き込む。自分もタダでは済まされない。この召喚術で駄目だったときは本当に、奥の手を使うしかない――が、それだけはなんとしてでも避けたい。
 キールの手が腰元を彷徨う。触れたナイフの冷たい感触に、彼はそっと目を閉じた。
 ――ハヤト……
 君は怒るだろうか。
 ――ごめんな
 心の中で泣きそうな顔をしているハヤトに謝り、キールは目を開く。そこにもう迷いは感じられない。
 かつて、リィンバウムがまだエルゴの王によって統治される以前。訪れた危機をしのぐために、一人の有能な召喚師がその命すべてを賭けて使ったとされる魔法があった。
 だがそれは、彼と敵対していた鬼人のみならず、周辺に存在していた無数の村や町、多くの人々を巻き込んで一面を草木の生えぬ荒野に換えてしまった。山は抉れ、大地は穿ち人は死に絶えた。
 以後その術は禁忌とされ、長く封印された書物の中で眠りについていた。キールが見付けたのは、本当に偶然だったのだが、そんな書までオルドレイクが持っていたと考えると、彼はあるいは最初は魔王の力を借りるではなく、自力で世界を破壊しつくそうと考えていたのかもしれない。
 サプレスの魔王に、サプレスの召喚術でどこまでやれるかは未知数だが……
「沈黙の闇、紅き月……」  
 袖から出したサモナイト石を握りしめ、キールは淡々と言葉を紡いで行く。その様に、その言葉に、魔王は顔を歪めた。
「白と黒に染まりし世界、サプレスの紅き月よ……」
 天使と悪魔が互いに争い傷つけ合う世界サプレス。その中で唯一、白でも黒でもない存在は魔王にとっても、脅威であることはすでに調査済だ。
「待て、貴様……」 
 ややうわずった魔王の声に耳を貸さず、キールは書物に記されていた通りに呪を唱え続ける。
 体が重い。空気が冷たい。全身を貫く痛みはもはや遠くに消え去り、感じられるのは通り過ぎて行く風の音だけだ。
 静かだった。
「止めろ、貴様、死ぬつもりか!?」
 死ぬ気で取り戻しに来たことはすでに魔王も承知の上だったはずだ。今更何を言うのか、と薄く開いた目でキールは彼を見た。
 だがそれが、キールにとって命取りだった。
 ――ハヤト……
 魔王ではなく、彼が叫んでいるように見えたのだ。
 一瞬、本当に一瞬キールの集中に波が立つ。
 ――しまった!
 後悔したときにはもう遅かった。
 呪文は完成している。あとは最後の名前を告げればいい。だが一度切れてしまった集中はすぐのは戻ってこない。
 暴走する――!
「ブラッディ・ムーン!!」
 血染めの月。
 闇の中に真っ赤な月が現れる。リィンバウムの白い月ではない。禍々しさを全身から放つ、サプレスの、紅い月だ。
 ――抑えきれない!
 悲鳴を上げたかった。だけれど声が出ない。その場に呆然と立ちつくしたまま、キールは紅い月を見上げていた。
「貴様ぁ!!!」
 魔王がキールに飛びかかり、胸ぐらを掴んで押し倒し馬乗りになって容赦なく拳を彼にたたき込む。抵抗も忘れたキールを、彼は何度も何度も殴りつけた。
 紅い月が怪しげに輝く。
 朦朧とする意識の中、キールは痛む両腕を掲げハヤトの体を抱きしめた。
「貴様、何を!?」
 狼狽する魔王を、どこにそんな力が残っていたのかと驚くほどに強い力で抱きしめ、抵抗を封じて逆に今度はキールが彼を押し倒した。ハヤトの体に覆い被さるように、キールが全身を使って紅い月から彼を隠す。
「止めろ、やめろぉぉ!!!」
 半狂乱になって叫び暴れる魔王を決して離さず、キールは固く目を閉じる。持ち上げた魔王の腕にぬるりとした感触が伝わって、暗がりの中見るとそれはなま暖かいキールの血だった。
 紅い月が不気味に嗤う。
 反撃も出来ずに地上でのたうち回っているだけの魔王を見下し、勝ち誇っている。
「放せ、殺してやる、今すぐに殺してやる!!!!」
 拘束されていない片腕で必死にキールを殴るが、彼は力を緩めようとはしなかった。ならば、とキールの脇腹付近――血を流す傷口めがけて拳を振り下ろしたが。
「……っ!」
 微かに身じろぎしただけで、キールは苦しそうに息を吐き出しつつも魔王を放そうとはしなかった。
 すでに、意識は無いのかもしれない。
 血がまとわりつく。不快な感覚が胸の奥からわき起こって、魔王は悲鳴を上げた。
 紅い炎が見える。すべてを焼きつくし、すべてを無に帰す地獄の炎が。空から落ちてくる――
「……いやだ……」
 知らない感情に押し流され、魔王は首を振った。透明な液体が頬を伝い、紅い血溜まりに波紋を描く。
 キールが熱い。開ききった傷口から流れる血は止まらない。白かった彼のローブは真っ赤に染まり、空を覆い尽くす紅い炎と一体化して、どこまでが彼なのか判別がつかなくなっていた。
 すべてが紅く染まっていた。キールも、ハヤトも、空も、大地も。
「いや、……いやぁ……」
 涙が止まらない。思い通りにならない自分自身を持て余しながら、魔王はキールを抱きしめ返した。ぴくっ、とわずかだったが反応が返ってくる。 
 手が、頬に触れた。
 土と血で汚れてざらざらになっているキールの手が、ハヤトの頬を優しく撫でる。いつものように髪を梳き、穏やかな微笑みを向けてくれる。
「キール……」
 涙で潤むハヤトの目には、キールだけが映っている。闇よりも深く、光よりも強い瞳が、キールだけを見つめている。
「おかえり、ハヤト」
 真っ赤に腫れあがり痛々しい姿でありながら、キールの表情は柔らかかった。
 新しい涙が溢れてきて、ハヤトはの肩に顔を埋める。その背中を何度もさすってやりながら、キールはとても穏やかな声で笑った。
「海を、見に行こう……。ふたりで、きっと空よりも蒼い海へ……」
 炎が踊る。
 ハヤトは黙って頷き、涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭うこともできないまま、目を閉じた。
 唇が重なり合う。ついばむような、触れるだけのキスが繰り返されて吐息が混ざり合った頃、角度を変えて深く口づける。
 飲み下せない唾液がハヤトの頬を伝い落ち、歯列を割って入ってきたキールの舌にハヤトは意識を翻弄される。何も考えられなくなる。
 そのまま静かに、ハヤトはゆっくりと意識を手放した。

「うそつき」
 紅い服をまとった少年が荒野に座り込み、泣いている。
「海に行こうって、約束したのはキールじゃないか……」
 優しい嘘。彼のつく嘘はいつもハヤトの胸になだらかな傷を残していく。
「うそつき」
 言葉は風に運ばれ、どこかへ消えていった。
 静かに、ハヤトはキールのベルトに手を伸ばした。そこにつり下げられていたナイフに触れ、鞘から抜き取る。
 鈍色の光を放つその刀身に、彼は見覚えがあった。
「サモナイト・ソード……」
 刀工ウィゼルより受け取った剣は、あの戦いの中でまっぷたつに折れてしまったはずだった。それがここにあるということは、きっとキールがウィゼルに頼んで鍛え直してもらったのだろう。
 彼がこのナイフを何に使おうとしていたのか、気付いてハヤトは苦笑した。
「ばーか……」
 語尾が弱くなる。
 彼は相打ち覚悟で、このナイフで魔王に挑む気だったのだ。最後の、あの紅い月が駄目だったときのために。
「ほんと、馬鹿……」
 涙が止まらない。
 寂光の中、ハヤトは目の前に横たわるキールを見つめた。
「……海、見に行こうな……」
 最後の約束だから。
 そしてハヤトは、己の胸に深くナイフを突き立てた。

『な、海って蒼いだろ!?』
『ああ、本当だ。どこまでも続いてる……』
『あの先に、何があるのかな』
『さあ、どうだろう』
『行ってみたいなー、海の向こう』
『じゃあ、行こうか』
『え?』
『一緒に、海を渡ってみようか?』
『本当に? いいのか?』
『ああ。君となら何処ヘでも行けそうな気がするんだ』
『俺も、キールとならどこだってきっと平気だよ』
『ハヤト……』
『これからは、ずっと一緒な?』
『ああ、約束する。ずっと、一緒だ』