×印がつけられた手帳は、もうじき街中がネオンに彩られて恋人達が浮き足立つ季節に差し掛かろうとしていることを彼に教えてくれた。
「は~……」
大きな溜息をつき、窓際の日向で手帳を顔の上に翳し、床の上に大の字で寝転がっていたハヤトは残り少ない今年という年月を思って二度目のため息を零す。
もうそんな季節になってしまったのか、どうりで寒いはずだ。そう思ったが元々リィンバウムと彼がいた地球とは気候の流れ方が随分と違う。寒いとは言っても、まだまだ東京の真冬には届きそうにない暖かさが漂っている。
聞いた話では、どうやら雪も山間の地方まで行かないと拝めないらしい。年に数回は降ることもあるものの、ここ数年は工場地帯が撒き散らす排気が影響しているらしくまともに積もるだけの雪が降ったことはないらしい。
金の派閥がサイジェントで勢いをつけ、町の景観を一変させてしまう前はそこそこに雪も降り、子供達が我先に真っ白い大地に足跡を刻んでいたらしい。
だがそれも、過去のものになりつつある。
「クリスマスか」
大きく赤い丸印が付けられている手帳に踊る文字を眺め、三度目の溜息。どうやら今年のクリスマスはこの家――フラットのアジトである孤児院で過ごすことになりそうだ。
「なに辛気くさい顔してるのよ」
床に寝転がったまま憂鬱そうにしていたハヤトに気づき、口うるさいフィズが近付いてきて彼を真上から覗き込んだ。そして彼が手にしている手帳に気づき可愛らしい顔を顰める。
「どうかした?」
それが、ハヤトが前の世界から持ってきたものだと感づいたらしい。妙に聡いときがあるこの幼子に心配されてしまい、苦笑しながら彼は起きあがった。しかしまだ床の上に座り直しただけで、膝の上に12月のアドレスを広げて頬杖を付く。
ハヤトの横に座り直し、手帳を覗き込みながらフィズは見たことのない文字に首を捻った。しかしまるで特別の日である事を誇示するように、小さなリースのイラストと一緒に赤丸で囲まれた24日のマスに目が行き、そこを指さした。
無数の×印は、その日のみっつ手前で止まっている。
「これは?」
「あぁ、クリスマス」
「くりすますぅ?」
耳慣れない単語にフィズは素っ頓狂な声を出して鸚鵡返しに口に出した。だがどうもしっくり来ないらしく、何度も小声で繰り返しつつ自分のものに出来るように単語を呟く。そうこうしている間に、ふたりで何をしているのか興味を引かれたらしいラミも、大きな縫いぐるみを抱きかかえてとことこと近付いてきた。
「どうしたの……?」
顔半分をクマの縫いぐるみで隠してしまう癖は相変わらずだったが、こちらから話しかけなくても言葉をかけてくれるようになった彼女に微笑み、ハヤトはふたりに簡単に、自分が知っている限りのクリスマスについて説明してやった。
その日はイエス・キリストが誕生した日の前日であり、家族や恋人に贈り物をする日であること。本来は静かに神への祈りを捧げる日であるのだけれど、彼が居た国ではむしろ一種のお祭りになっていて年に一度ご馳走を出してツリーを飾り、赤と白の服を着た髭をたっぷり蓄えたサンタクロースが、良い子にしていた子供にプレゼントを配りに煙突からやってくる、という事、云々。
それらを手振り身振りを交えながらつい熱が入って語ってしまったハヤトは、しかし終わりに近付いた頃に気づいた。
フィズとラミ、それから途中から混じってきていたアルバが一様に同じような顔をしている事を。
つまりは、彼の言葉を鵜呑みにして信じて、自分たちにもサンタクロースなる老人がやってきてプレゼントをくれるに違いない、と。
だって彼らは貧しいながらも文句を言わず、リプレの手伝いをかって出たりみんなのために一生懸命になって頑張っている。これが良い子でなくて他になんと表現するのだろうか。
目をキラキラ輝かせ、胸の前に手を結んでハヤトに同意を求める表情は彼をたじろがせた。
「うっ……」
まさかこんな事になるとは思ってもおらず、予想外の展開に彼は冷や汗を垂らす。もしかして自分はとんでもないことを彼らに教えてしまったのだろうか。事実その通りなのだが、最早後悔先に立たず。完全に手遅れ。
「ねぇ、ハヤト! さんたくろーすって、靴下にプレゼント入れてくれるんだよね!」
「じゃあ、一番おっきな靴下用意しなくちゃ」
「…………(コクン)」
子供達が勢い良く立ち上がり、ハヤトに最終確認の声を上げる。何事か、と騒ぎに台所から顔を出したリプレが不思議そうにしているのが見えて、助けを求めるような目でハヤトは彼女を見た。
もっとも、彼女もクリスマスの風習など知るはずが無く、子供達が何を騒いでいるのか皆目見当が付かないでいる。
「どうしたの?」
「あ、リプレ。いやその……」
「リプレお母さん! 大きい靴下ある!?」
エプロンで手を拭きながら近付いてきた彼女に、ハヤトは説明をしようとしたのだがそれより早く、飛び込んできたアルバが彼女に抱きつく。
「靴下?」
そんなものをどうするのだろう、と彼女が益々不思議がる前で、フィズが今さっきハヤトから教わったばかりの知識を自分なりの解釈を交えて自慢げに講釈し始めた。
もうじきくりすます、という日であること。その日はご馳走を並べてみんなで騒いで、子供達はさんたくろーすというお爺さんからプレゼントが貰えてしまうのだと言うこと。
見事に自分たちに都合の良い分だけを端折った説明に、良く解らない顔をしているリプレが困惑の表情でハヤトを見た。
しかし彼は言葉を続ける事が出来ず、困ったように苦笑しながら自分の頭を掻きむしるだけだった。
*
そして、その日の夜。
案の定ハヤトはガゼルに怒られた。
「お前なー! なんでそういう事ガキどもに教えるんだよ!」
ばんっ、と思い切りテーブルに拳を叩きつけて怒鳴るガゼルを前に、ハヤトは小さくなってゴメン、と返すのが精一杯。なんとか宥めようとするレイドにようやく落ち着きを取り戻したものの、ガゼルはまだかなり御立腹の様子でハヤトを睨んでいる。
しかしそんなことをしていても事態は変わらない。
テーブルを囲むフラットの大人達はみんなして困り顔で、一通りハヤトの説明を聞いた後でもイマイチ良く解らないクリスマスの仕組みに眉根を顰めていた。
「つまり、ハヤト。その日は本当は聖者の誕生日だけれど、お祭りの日なんだね」
「違う……けど違わない、かな」
キールが挙手をした後にハヤトにゆっくりと確認する。苦笑しか返せないでいるハヤトが曖昧な回答を口に出すと、途端にガゼルが「どっちなんだよ」と文句を言ってリプレに黙りなさい、と叱られてしまう。
「要するにご馳走とプレゼントがあれば良いのよね。子供達の分だけでも」
「あー……うん。プレゼントは子供達のだけでも良いと思う」
けれどご馳走――食べ物は。
みんなが集まって騒ぎ、一年の歓びを語り合い来年に向けての活力を手に入れる日でもある。誰かひとりがご馳走にありつくのではなく、みんなが揃って楽しみ、和を作る日なのだから。
だから子供達だけの特別メニューが許されるわけではないのだと、ハヤトは頬を爪の先で引っ掻きながら言った。その途端にまた大人達は黙りこくって表情を嶮しくしてしまう。
フラットの経済状態は決してよろしくない。レイドとエドスがなんとか頑張ってくれてはいるが、それでも食べていくのがやっとの状態だ。それを、一日だけとはいえ全員分のご馳走を振る舞い挙げ句プレゼントまで大盤振る舞いしていたら、孤児院はあっという間に傾いてしまうだろう。
それが分かるからこそ、ハヤトも申し訳ないと思っているのだ。自分の浅はかな行動がこんな結果を招いてしまったことを、一番悔いているのは彼なのだ。
何故話してしまったのか。理由を考えるとやはりひとつしか思いつかない。
懐かしかったからだ。
クリスマスが近付くと町も人もソワソワして賑わう。あの雑多な空気がハヤトは好きだった。しかしリィンバウムにはそんな風習はないから、季節が近付いてもクリスマスという雰囲気を楽しむことも考えることもなかった。
けれど手帳に刻まれる×印が増えるに従って――バインダーに挟まれているダイアリーが残り少なくなるにつれて、本当に自分はあの場所に帰れるのだろうかと不安に思うようになっていった。
そんな時に、クリスマスの話題がポッと出て。
思い出したら止まらなくなった。日本にいたときはクリスマスを楽しんだ記憶などあまりなかったのに、こんな風に感じるのはやはり年に一度きりのあの日を自分は心待ちにしていたのだと分かってしまった。
「ハヤト……」
彼の心情を、なんとなく理解してキールは低い声で彼の名前を呼ぶ。しかしハヤトは気づかず、俯いて顔を上げてはくれなかった。
絶対に帰してみせるからと約束したのに、それが今になっても果たせずにいる心苦しさはキールの胸の中にもずっと残っているしこりだ。自分の不甲斐なさを思うと同時に、ハヤトの感じている寂しさや不安を先回りして拭ってやれなかった自分が、嫌になりそうだった。
別の意味ででも沈痛な面もちになってしまっているハヤト、それにキールを見てリプレが困ったわね、と吐息を零しながら長い三つ編みの先を弄った。
「料理に関しては、何とかしてみるわ。暫くみんなのご飯、減ると思うけど……構わないわよね?」
「ちょっと待てよ、本気か!?」
水を打ったように静まりかえっていた空間の沈黙をうち破る彼女の一声に、反発したのはやはりガゼルひとりだけ。大慌てで椅子から立ち上がって彼女に詰め寄ろうとするが、リプレににっこりと微笑まれ、
「構わないわよね?」
同じ単語を、ゆっくりと力を込めて告げる。そのにこやかなのに恐ろしい迫力に早々に敗れ去り、ガゼルはがっくりと項垂れて「はい」と小さく返事した。
レイドとエドスが、仕方がないな、という顔で互いを見合う。彼らはもとより、子供達の間に生まれたささやかな楽しみを尊重させるつもりだったのだろう。リプレの提案に異論を唱えることもなく、力強く頷いた。
「ハヤトとキールも、それで良いよね?」
今度は壁側の椅子に腰掛けていたハヤトとキールに向き直り、彼女は確認のために彼らの目を見つめる。フッ、とキールの表情が綻んだ。
「僕は構わない」
「有難う、リプレ」
「どういたしまして」
ほぼ同時にふたりから発せられた言葉に満足げに頷き、彼女は右の袖を腕まくった。
しかしそこで、エドスがふと気になったのか声を上げて彼女の動きを止めさせた。
「そういや、さんたくろーすとかいう奴だっけか? そいつがプレゼントを届けるんだろう?」
煙突から入ってくる姿を想像しながらハヤトは頷く。彼の後ろには大きな暖炉があるので、子供達はこの煙突からサンタがやってくるのだと信じているのだ。
「……誰がさんたくろーすになるんだ?」
それは本当に素朴な疑問だった。
その役目を果たすには、当然煙突を通り抜けられる身体の大きさをしている必要がある。その上、垂直の壁を降りる事の出来る技術も必要だ。サイズ的にはハヤトも充分通り抜けられそうだが、彼には壁のぼりは少々苦労だろう。
となると、そんな芸当が出来そうな人間はこのフラットに、ひとりしか存在していない。
一斉に、居間にいる全員の目線が一点に集中した。
「……あぁ?」
二桁の瞳に見つめられ、当の本人はあまり分かっていなかった顔のまま周りを見回した。しかし徐々に、雰囲気が拒みきれない状況にあることを悟る。
たらり、と彼の額から汗が落ちた。
「お、俺……?」
恐る恐る彼は自分を指さして言った。声が震えている。しかし誰ひとりとして否定の言葉を紡ごうとはせずうんうん、と深く何度も頷くばかり。
「じゃあ衣装もちゃんと縫わなきゃね。ハヤト、あとでどんなデザインなのか細かく教えてね?」
「あ……うん。分かったよリプレ」
「僕も手伝える事があるなら手伝おう」
「ありがと、キール。じゃあ御言葉に甘えちゃおうっかな」
茫然と突っ立っているガゼルをひとり置きっぱなしにして、話はどんどん先に進んでいく。レイドとエドスも疑問は解消されたとばかりに席から立ち上がり、自室へ戻るためにさっさと歩き出していた。
「お、おい……ちょっと待てよ……」
弱々しい声でガゼルが呼び止めようとするが、ふたりとも完全無視。明日も仕事が忙しそうだ、とか色々と雑談を交わしながら居間を出て行ってしまった。
残ったハヤト達も、リプレを中心にしてクリスマスの料理やらサンタの衣装についての話し合いが始められており、彼の入る余地は無かった。
「おーい……」
呼びかけても、誰も反応してくれない。あまりの空しさに、彼はとぼとぼと部屋に戻りそのままベッドで呼んでも起きないくらいに不貞寝を楽しんだのだった。
*
そして、クリスマス当日。
ドスンッ! と盛大な音を立てて煤だらけの煙突から足を踏み外したサンタクロースが、居間に煙をもうもうと立ちこませながら登場。
折角リプレが手作りしてくれたサンタの衣装も真っ黒けで、掃除しておけば良かったなとハヤトが苦笑する前でしかし子供達はまったく気にした様子もなく、サンタクロースもといガゼルに駆け寄っていった。
大声を上げながらはしゃいでいる。本当に来るとは思っていなかったらしい子供達に、仏頂面を今は黒くなってしまっている白髭で隠したガゼルは順番に抱えていたプレゼントを渡していった。
自分が落ちても、プレゼントまで落とさなかったのは流石といえるだろう。
リプレが用意してくれたご馳走は本当に久しぶりにご馳走と呼べるほどのボリュームで、子供だけでなく大人達も満足させるものだった。散々食べ、呑んで、騒ぎ、遊んで、それから最後のお楽しみにサンタクロースの登場。眠そうにしていたラミも、目を輝かせて渡された小さな包みをしっかりと抱きしめている。
「良いわよ?」
開けても良い? という目線での彼女の問いかけにリプレが優しい笑顔で頷く。それを合図に、子供達は揃って包みを広げ始めた。
彼らがプレゼントに集中している間に、ガゼルサンタクロースはこっそり裏口から退場。やはり煙突を登って帰っていくのは難しかったらしい。それにあの煤だらけの中を行くのはもう嫌だと目が告げており、ばっちり視線がぶつかってしまったハヤトは恨めしそうに見ている彼に手を振って早く行け、と合図を送る。
「あー!!」
一番早く包装を解き終えたアルバが、中に入っていたものを抱きしめて歓声を上げた。続いてフィズとラミも、出てきたものに目を丸くさせてどうして自分たちが欲しがっていたものがサンタクロースに分かったのだろう、としきりに不思議がる。けれどその顔はどれも嬉しそうで、歓びに満ちていた。
「ガゼルだって気づいてないみたいだ」
「そのようだね。まぁ、あの格好じゃ無理もないかな」
赤と白の衣装で全身を包み込み、真っ白い綿の髭を顎に貼り付けて顔を半分以上隠していたのだ。教えられていなければ、きっとハヤトも直ぐにそれがガゼルだと分からなかっただろう。
キールと小声で笑いあってハヤトはあとでガゼルに御礼言わなくちゃな、とひとり呟く。
「見てみてー! これ、ずっと欲しかった奴!!」
練習用の新しい木刀を貰ったアルバは、誇らしげにそれを掲げてレイドに見せに行った。彼はずっとレイドのお古を使っていたから、自分のためだけに用意されたものをずっと欲しがっていた事に対してのレイドの配慮である。だから彼はアルバへの贈り物を知っていたのだけれど、素知らぬ振りをして良かったな、と彼の頭を優しく撫でてやっていた。
フィズには新しいリボン。ラミには彼女がいつも抱きしめているクマに似せた小さな縫いぐるみが。これはリプレが用意したものだけれど、当然知るはずのない彼女たちはリプレに報告するために駆け寄っていく。
「良かったわね」
貴方たちが良い子にしていたこと、ちゃんと見てくれている人が居たのよ?
聖母の表情で子供達の頭を撫で、リプレが囁く。
「これからも、もっと良い子で頑張ろうね?」
「うん!」
彼女の言葉に力強く頷いて、幼い子供はそれぞれの贈り物を愛おしそうに抱きしめる。向こうからまだ鼻の頭が黒く煤けているガゼルがいつもの格好でゼイゼイ言いながら戻ってきたが、本当に嬉しそうに笑っているアルバ達を遠目に見て苦笑を浮かべた。
「ちぇっ。なんかやる気が失せたって感じだぜ」
一言文句を言わなければ気が済まないと意気込んでいたはずなのに、子供達の笑顔を見た瞬間そんな気持ちも消え失せてしまったらしい。壁に凭れ掛かり、腕組みをして光景を遠くから見守りつつ彼はあくびをひとつ零す。
「……良かったね」
「本当。子供達、あんなに喜んでくれてる」
「君が、だよ」
嬉しそうにしているのはなにもアルバたちだけではない。
キールの言葉に振り返ったハヤトは自分に向けられている彼の人差し指を不思議そうに見つめた後、同じように自分を自分で指さす。小首を傾げ、「俺?」という姿は数日前のガゼルに何処か似ている。ただし状況はまったく異なるが。
「とても楽しそうだ」
「……キールは?」
「え?」
微笑みながら呟いたキールの顔を下から覗き込み、ハヤトは興味津々の子供の瞳で彼を見上げた。
何を問われたのか一瞬理解できなかったキールだったが、少しの沈黙の後に先程よりもずっと柔らかく暖かい笑顔をハヤトに向けた。
「とても楽しいよ」
「そっか。……じゃあ来年もしなくちゃな」
独白したハヤトに、深い考えがあったようには思えない。彼は恐らく思いつきをそのまま口に出してしまっただけだろう、無意識のうちに。
けれどしっかりとその耳にしてしまったキールははっとなってハヤトを見返した。しかしもうこの時には、彼はキールから目線を外しはしゃぎ回っている子供達を穏やかな目つきで見つめていた。キールの視線と困惑気味な表情の意味にも気づかずに居る。
「……まったく」
吐息と一緒に呟きを零し、キールは前髪を掻き上げた。そしてハヤトが見つめているものと同じものを、彼と同じような表情で目を細めながら見つめる。
「来年、か」
そんなことを言われたら本当に、来年も君たちと一緒にこの日を過ごす事を心待ちにしてしまいそうだ。
彼の独白は誰にも聞こえることなく静かに溶けていった。