命を賭けても、守りますと彼は言った。
命など賭けなくていいから、生きていて欲しいと彼に言った。
彼は黙って、笑うだけだった。
「やはり此処か」
冷たい潮風が髪を揺らし、頬を叩くように撫でて通り過ぎていく。
同じように抑揚もなく冷たい声が後ろから流れて来て、綱吉は背後に立つ人物の存在を確認する。振り返らずとも分かる、よく知った声。
綱吉は返事をせず、黙ったまま前方を見据え続けた。眼前に広がる青い海は穏やかで、頭上を照らす太陽も眩しい。けれど何故かこの場所は、暗く沈んだ空気に包まれている。
遠くから鴎の、どこか物悲しい鳴き声が聞こえる。群れをはぐれたらしい鳥の鳴き声は、胸を打つ哀しさに満ちて苦しくなる。
「……」
背後の彼は無反応を貫こうとする綱吉にそっと溜息をつき、音もなく気配も隠したまま、彼との距離を幾ばくか詰めた。綱吉は動かず、その場に佇み続ける。
一際強い風が吹き、綱吉の背中を軽く押す。よろめいた綱吉が半歩ほど前に出るものの、彼をそれ以上先へ進むのを阻むものがある。己の足元に視線を落とし、そこから続く異質なるものを視界に納め、綱吉は薄い唇を噛んだ。
乾いた土の上に突き立てられた、真っ白い十字架。慰みに掛けられた花輪はすっかり色も抜けて朽ち、風が吹くたびにカサカサと音を立てて端から崩れていく。
顔を逸らしたかったのに、全身が竦んでしまって視線を動かせない。
「気は済んだか」
淡々とした声、突き放すように言われて綱吉は更に唇を噛み締める。目の前に突きつけられた現実を未だ受け入れられずにいるというのに、その言い方は酷いと思う。
けれど言い返すことさえ出来ず、ともすれば溢れそうになる涙を堪えるのに必死で、綱吉は黙ったまま静かに首を振った。
「そうか」
背後の彼は静かに呟き、そしてふたりの間に沈黙が戻る。
既に亡いと聞かされた瞬間の衝撃は未だに胸の奥で燻り続け、どこを探しても居ない彼の背中を求めてあちこちを走り回った。ベッドで目を覚ました時、身体の痛みより何より耳から飛び込んできた報せに我を失い、仲間を傷つけ困らせたのも覚えている。
けれどあの一瞬、隣に居たはずの綱吉は、彼の最期の時を覚えていない。だからきっと自分は騙されていて、嘘をつかれていて、きっと探せば通路の角から笑って姿を見せてくれるに違いないと、まだ心のどこかで、信じている。
一般市民を巻き込んでの戦闘を極端に嫌う綱吉を狙っての敵対勢力による奇襲は、卑怯というほか無い。辛うじて市民への被害は免れたものの、綱吉の命もギリギリのところで無事だったけれど、それ以上に彼の精神に与えられたダメージは凶悪すぎた。
自分が死ねばよかったとさえ口走った綱吉を殴り飛ばしたのは、彼の教育係りとして長い間綱吉の傍にいる人物。今は真後ろに立っている、リボーン。
「お前を守って散った命だ」
低い声で囁かれる。そんな酷いことを言わないで欲しくて、綱吉は唇を噛んだまま首を何度も横に振った。茶色の癖毛が揺れて、思いのほか近くに居たリボーンの帽子の鍔に当たる。
リボーンは何も言わない。堪えきれなくなった涙が綱吉の頬を伝い、彼は嗚咽を漏らさぬよう懸命に息を殺す。一度溢れてしまったものは止め処なく流れ出て、彼の頬に川を作る。
認めたくない現実は目の前でこうやって彼に真実を告げ、受け入れがたい宿命を彼は拒否したくて瞼を閉じる。
思い浮かべたい彼の笑顔はひとつ残らず朽ち果てて、色を失い闇ばかりが覆っている。遠く水平線の彼方にある懐かしい故郷で、共に過ごした時間は何にも代え難いもののはずなのに、彼の居た場所だけが真っ暗に塗りつぶされている。
いつも笑いかけていてくれたのに、その笑顔さえ思い出せない。
自分だってなんて酷いのだろう。こんな命など、守る価値すら見出せない。
生きているのが辛くて、哀しくて、どうしようもなくて、感情の行き場も見つけられず綱吉はただ涙を流すばかり。
「泣くな」
リボーンが言う。
初めて出会った時は本当に赤ん坊で、両手で抱きしめるとすっぽり胸に収まってしまう大きさだったのに、いつの間にか彼はすっかり大きくなって、今では綱吉を楽に見下ろしてしまえる。喉仏が出て声変わりも済み、気がつけば彼は立派な大人になっていた。
いつまでも背も低く、身体も小さいままの自分だけが置いていかれている気がして、綱吉はしゃくりをあげる。
置いていかれたという感覚が全身を包み込んでいる。置いていかれた、とさえ思う。
そんな事は無い、そんなはずは無いと分かっているのに。彼は、彼らは、いつだって足踏みをしてばかりの綱吉を辛抱強く待って、その手を伸ばし捕まえて、綱吉と一緒に歩いてくれていたのに。
もう二度と隣で歩けない。その事実に、全身の血が沸騰しそうになる。
綱吉の両頬を涙がはらはらと流れる。背中に感じた僅かな衝撃は、リボーンが綱吉に、頭を預けたからだろう。布越しに彼の体温は伝わらない。元から体温が無いのではと思わせる冷徹な彼が、珍しく、綱吉に体重を掛けて寄り掛かる。
「泣くな、ツナ」
もう一度、呟かれる。
その声はおおよそ彼らしく無い、微かに震えている。
感情を感じさせない、本当に人形ではないかと疑って信じたくなる彼から、もしかしたら初めて聞いたかもしれない、生身の人間らしい声。
けれど懇願されても涙は止まらなくて、綱吉は幾度と無く首を振り、堪えきれなくなった嗚咽を漏らす。
腰から回された腕が綱吉の臍の前辺りで結ばれる。顔を伏せ綱吉の背に頭を預けたまま、リボーンは静かに綱吉が泣き止むのを待つ。
俯いた綱吉から零れ落ちる涙が、その彼の握られた拳に落ち、跳ね返っていく。このまま涙の海に沈んでしまいそうな白い手は、まるで彼が神に祈りを捧げているように見えた。
信じる神など持ち合わせていないであろう彼が、いったい何に対し、何を祈るというのだろう。
「泣くな」
彼はもしかしたら、泣いていたのかもしれない。それとも、涙を流せない彼の代わりに、彼の分まで綱吉が涙を流しているとでも言うのか。
このまま目が干乾びて腐ってしまうかもしれない、それでも尽きない涙に、綱吉は奥歯を噛み締め首を振り続ける。
全てが涙で歪み、何もかも洗い流してしまえるなら。
これが悪い夢だったら、どんなに良かったか。
風が吹く、十字架に掛けられた花輪が揺れる。忘れないでくれと訴えかけて、カサカサと音を立てて崩れていく。
綱吉が身をよじった。リボーンが頭を浮かせ、やや丸めていた背中を伸ばし今度は綱吉の右首筋に顔を埋める。綱吉に回した腕に力を込め、まるでどこかへ行ってしまいそうな彼を束縛し、閉じ込めてしまいたがっている。
「ツナ、泣かないでくれ」
どうすれば良いのか分からないと、震える声のリボーンが繰り返す。そんな事、綱吉にだって分からないのに、年下ぶって甘えないで欲しい。
顔も見せないで、ただ縋り付くだけで、こんな時だけ甘えてこないで欲しい。
「頼むから……」
違う、泣いているのは自分だけではない。君こそ泣いている、泣いているではないか。
心の叫びが聞こえる。
痛い。
苦しい。
哀しい。
寂しい。
悲しい。
辛い。
……会いたい。
ぽっかりと空いた胸の空洞、そこを埋めるものはもうきっと手に入らない。二度と戻らない時間を悔やんでも無駄な事と、頭で理解しても心が追いつかない。
顔が痛くなるまでに涙を流しても、そこから何かが産まれてくるわけではない。それでも止まらない涙と、声にならない叫びに、胸が張り裂けて潰れてしまいそうだ。
会いたい。
返して。
会わせて。
止め処ない涙に世界が狂ってしまえばいい、このまま自分は壊れてしまえばいい。二度とこんな思いをしないように、最初から心など押し殺して消し去ってしまえたらどんなに楽になるか。
「……俺がっ」
搾り出されたリボーンの声が、波打ち際で仲間と再会を果たした鴎の鳴き声を打ち消す。
「俺が、もっと早く気づけていたなら」
違う、と綱吉はなおも強く首を振る。
彼は悪くない、彼を責めようとは思わない。責めたくも無い、そうすればきっと綱吉は楽になれる、けれどそれでは何も解決しない。
誰も笑えなくなってしまう。
悲痛な声、己を責める彼など初めてで、震える足に力を込めてともすれば崩れそうになる身体を懸命に支える。
二重三重に張り巡らされた罠は周到で、誰も気づけなかったことを責めるつもりはない。完全にこちらの裏をかいた作戦は見事なものであり、それは悔しいが認める。あちらだって必死なのだ、こちらと同じように。
ただ、被害の大きさを厭わない作戦内容には賛同できない。奴らは卑怯だった。それが全てを物語っている。
報復をすべきだという意見も出ている、目には目をの精神を貫いて復讐を果たすべきだと語気を荒立てる同胞も少なくない。彼らを押し留められるのは綱吉だけであり、これ以上の悲しみの連鎖を引き起こさないためにも、まず誰よりも、綱吉がひとりの大切な仲間の死を認め、憎しみを断ち切らなければならない。
だから哀しみの涙は、この場所に捨てていく。
「俺が、代わりに……盾になっていれば」
違う、違う、そうじゃない。
過ぎた時間は変わらない、終わってしまった日々は巻き戻らない。もしも、の世界はどこにもなくて、求めたところで虚空を指先がかすめるだけ。
「泣かな……で」
掠れた声で綱吉が、やっとの思いでそれだけを呟く。
泣かないで。どうか、泣かないで。
リボーンの硬く結ばれた両手に己の手を重ねる。涙で湿った肌は冷たく、突き刺さるように痛い。指先まで白く染まった皮膚は、力を込め過ぎて血流も悪くなり、このまま砕け散ってしまいそうだった。
「俺が……今度は俺が、守るから。あいつの分まで、俺がお前を、守るからっ」
違う、そうじゃない。そんな思いのまま泣かないで、どうか泣かないで。
守ってもらわなくても良いから。前に立って欲しいわけじゃないから。
綱吉は首を振る。この想いが伝われば良い、そう思って彼の手を上から握り締める。強く、強く、いっそひとつになってしまえ。
「泣かないで……」
枯れることを知らない涙が光を受けてキラキラと輝く。水面を駆ける鴎の群れは、ここからどこへ向かうのだろう。
命を賭けてでも、守り抜く。彼はそう言った。
命など賭けないで、最後まで一緒に居て。彼にそう言った。
返事は、なかった。