光の在処


     
 声が聞こえ、ハッとなりマグナは顔を上げた。
 今までぼうっとしていたらしい、自分が立っている場所が何処であるかを認識するのに数秒掛かった。だが、その数秒が終わっても彼はそこが何処なのかを理解できなかった。
 深淵の闇が広がっている。
 右を見ても、左を見ても。上を向いても下を向いても前も、後ろさえもが。一面の闇色に染まっている、何も見えやしない。光の欠片さえ見出せないのだから。
 だのに不思議なことに自分の姿だけは認知できる、手を顔の前に差し出せば五本の指に刻まれている皺の数さえ数えることが出来そうだ。
 しかし自分以外のあらゆるものが見えない、なにも……存在していないかのように。 
 ぞくっ、とした震えが背中から迫り上がってきて、反射的にマグナは自分の両腕で自身の身体を抱きしめる。背を丸めてその場にしゃがみ込んでしまいたくなった。
 闇の中の世界、この場所を自分は知っている気がした。
 正確にはこの世界によく似た場所を。
 タスケテ、とまた声がする。
 かろうじて自分の体重を支えている両足を叱咤して、マグナは声の出所を探ろうと視線を巡らせた。
 ぽつん、と闇ばかりの世界に、小さな灯火が宿る。
 走ってくる、小さな子供。細く骨と皮ばかりの腕に抱えきれないほどの食べ物を抱きしめ、縺れそうになる矢張り細い両足で必死になり前を向いて走っている。後ろを振り返る余裕さえなく、また、腕からこぼれ落ちてしまったものを拾いに戻る余裕もない。
 ボロボロの衣服を身に纏い、髪も櫛を一度も入れたことのないような癖毛で乱雑に伸びている。しかしその間から覗く双眸は獣のように鋭く、牙のように輝いていた。
「あれは……」
『待ちやがれ、この盗人!!』
『今日という今日こそ、とっつかまえてとっちめてやる!』
『何処行った、あの餓鬼は!』
 真っ直ぐ自分の方へ走ってくる子供の顔に見覚えがあって、呟いたマグナの耳に彼の思考を邪魔するような大人達の野太い怒声が割り込んでくる。どれもが苛立ちと強い怒りを感じさせるもので、それはあの子供に向けられて放たれたものだった。
 だがその声はマグナの心にさえ深く刃を突き立て、彼をその場に立ちつくさせる。
 聞き覚えが、あった。
 あの声、この台詞、そして……あの子供の強すぎて哀しい瞳の色も。
 駆けてくる子供が、マグナへ直進する。ぶつかる、と彼が身構えて逃げ出すよりも先に、子供は彼の身体をすり抜けて反対方向へ走っていった。
 そう、マグナなど最初から居なかったように。彼にはマグナの存在が見えていなかった、否、違う。マグナがあの子供の前に居なかったのだ。
 続いて、パン屋や肉屋などの商店主が赤ら顔で頭から湯気を立てんばかりの勢いで駆けてくる、やはりマグナの身体をすり抜けて今去っていったばかりの子供を追いかけて走っていってしまった。
 彼らの腰よりも背が低い子供を、何人がかりで追いかけて捕まえて、殴り、蹴り、地面に叩きつけ、子供が血を流し気を失っても構うことなく。彼らはあの子に暴行を加えるのだろう。
 闇の中に灯った小さな光は消え失せ、また世界は闇が一面を色濃く染めあげる。子供とそれを追う大人達の姿も一緒に見えなくなってしまっているのに、マグナにはその後あの子供を襲う不幸が分かってしまう。
 だって、あれは幼い頃の自分自身に他ならないから。
 直ぐに気付くべきだった、あの瞳はひとりきりで生きるしかなく、盗みを働いてでも襲ってくる飢えを凌ぐためになんだってやっていた頃の、彼。
 マグナ、という名前だけしか自分の財産を持っていなかった。その名前すら親が付けてくれたものなのか分からないのだ。親なんて、気が付いた時にはもう居なかった。
 最初の記憶。雨の中、ズタボロの自分が裏路地にぽつんと立っているその光景。忘れていたはずなのに思い出して、不意に涙が溢れてくる。
 あれはネスティ達に会うずっと前の自分。頼るものも何もなく、縋るものもなく、力さえなかった幼少時代。
 与えてくれる存在などなかった、手に入れるためには奪うしかなかった。
 ゴミさえ漁った、浅ましい子供と石を投げられた事もある。野犬に追い立てられたことも、飼い犬を嗾けられた事もあった。あんな風に盗まれた食べ物を取り戻そうと商店主にまとまって追い立てられ、袋小路に追い込まれ、丸二日動けなくなるくらいまでに痛めつけられた事もざらにあった。
 それが日常だったのだ、マグナにとってはそれが一日の総てだった。
 家などない。川に架かる橋の下、誰かの家の軒下、打ち捨てられたゴミの山の一角。寝床を何度も転々とさせ、町の不要物と見てくる人々の冷たい視線にも慣れきっていた。
 そう、だから平気だった。蒼の派閥で成り上がりと蔑まれ、公然とした差別を受けていた日々も少しも気にならなかった。
 まだあのころよりは、ましな生活が――少なくとも屋根のある場所で、狭くとも自分だけの部屋がありベッドで眠ることが出来、盗まなくても食事を与えられる生活が保障されていたのだから。
 何の皮肉かと思っただろう、当初は。
 あまりにそれまでの日々とかけ離れた優雅すぎる生活に、自分は此処にいるべきではないと何度も思って逃げ出した。その度にまた追いかけられ、捕まえられたのだけれど。
 追いかけられる、という事には今でも激しい嫌悪が生じる。後ろから伸びてくる幾多の腕が恐い。だから暴れて、怪我をさせたし自分も傷ついた。
 殴られる、そう思ったら先に自分が殴るようにしていたから喧嘩も絶えなかった。
 その度にラウル師範やネスティが間に入って、相手側を宥めて大事になる前に対処してもらっていた。ネスティにはたっぷりとお灸を据えられた。
 ただ彼も、マグナの境遇をある程度理解してくれていたのだろう。頭ごなしに怒鳴る事もあったけれど必ずその後は、優しく頭を撫でて手を握り、気にしなくていいから、と言ってくれた。
 それだけが救いだった。その言葉に救われた気がした。
 そのうちに喧嘩の数も減って、卑屈になることも減っていった。真面目に召喚術を勉強する、という日はついにやって来なかったけれど。
 どうして思い出したりしたのだろう、もうとっくに忘れ去ったと思っていたのに。
 再び闇の中でひとり佇んで、マグナは考える。するとそれに呼応したかのように目の前の闇が薄くなって、追放同然の命令を受けて旅立ってから出会った仲間達の顔が順番に洗われ、消えていった。
 最後に、哀しい涙を流し謝罪の言葉を繰り返し繰り返し告げて去るしかなかった少女が現れる。
 勝手に呼びつけられ、命令され、間違った情報に踊らされそれに気付いて逃げ出した。自分がしてしまったことをずっと悔い、哀しみ、やり直そうと懸命になったけれど駄目で。自分を縛るものに縛られ続けてまた傷つけて、傷ついて、悲しんで悲しめて。
 彼女は何も悪いことをしていないのに、彼女はせめられる。ゴメンナサイ、と何度謝っても伝わらない。涙だけが絶えず零れてきて、心の中では悲鳴を上げていたはずだ。
 タスケテ、と。
 聞こえたその声に応えてあげたくて、マグナは剣を振るい召喚術を使った。仲間達も協力してくれた。
 彼女の心は結局、救えなかったけれど。
 本当は優しい子なのに、友達にだってなれるのに。
 許すまじはあの召喚術師。ユエルは利用されただけ、けれど何も知らなかった事が罪にならないとは言えないから……苦しい。
 何も知らないことは、知ろうとしなかった事に等しい。善悪の判別がつかず、生きることに固執すればどこかで誰かを傷つけてしまう。そして真実を知った時、傷つくのは自分自身なのだ。
 ああ、そうか。
 マグナはまた闇が広がった空間を見つめて呟いた。
「ユエルは、昔の俺にそっくりなんだ……」
 生き残るために盗みをする。なにも知識を与えられぬままに世界の片隅に突然放り出されてしまった存在。ちっぽけで、けれど生きているから生きていたくて、自分を守るために悪いと言われる事すら平気でやってのけた時代。
 似ている、だから分かった。
 彼女の孤独も、苦しみも、哀しみも。そして救いたいと思った、自分が孤独の中に光を見出して救われたように。
 自分にとってのネスティやラウルのような存在に、なってやりたいと思ったのかも知れない。
 誰だって平等に幸せを手に入れる権利を有しているのだと、声高く宣言したかったのかも知れない。
 泣くことしかできなかった彼女が、少しでも早く笑顔を取り戻してくれれば良い。彼女は心の底から今が幸せだと言ってくれる日が来ればいい。その孤独が埋まるものを彼女が見つける日が来ればいい。
 この世界が大好きだと、この世界にやってきて本当に良かったと思ってくれる日がやってくれば……いい。
 自分が、この世に生まれてきた事を感謝出来るようになったように。
 ありがとう、と心から言える人が隣にいてくれるようになれば……いい。
 闇が薄れていく。足許が急速に弱くなり、目の前に闇を解かす光が迫ってくる。けれど恐くない、大丈夫。平気だと心の中で何かが告げている、もう目覚めなさいという声が聞こえてくる。
「……ナ、マグナ……」
 肩を揺すられて低く呻いたマグナが、薄く重い瞼を持ち上げる。けれど飛び込んできた光の眩しさにまた目を閉じて寝返りを打った。
 肩の上に溜まっていた蒲団を引っ張り頭から被って横を向く、ちょうど壁に向き合う格好になって、真上の存在が呆れたように溜息をつくのが聞こえた。
「いい加減に起きろ。もう皆、食事も終わらせているんだぞ」
 後は君だけだ、と呆れ声が告げるがマグナは蒲団を被ったまま動かない。半分覚醒して残り半分はまだ夢の中に潜っている状態で、聞いている声も半端にしか理解できていない。
「あとちょっと~……」
「駄目だ、起きるんだ!」
 ぐっ、とマグナが掴んでいる蒲団を上から握りがばっ、と一気に引っ張って剥ぎ取る。途端、冷たい朝の空気が吹き込んできて毛布と身体の間の温められていた空気が消えていく。
「ひゃぁ!」
 その寒さに身を震わせたマグナは自分を抱きしめ、蒲団を抱えて勝ち誇った顔をしているネスティを恨めしげに見上げた。今ので完全に目が覚めてしまった、夢の余韻を楽しむ事さえさせてくれなかった。
「起きたか?」
「うぅ……酷いよ、ネスぅ」
 簡単に折り畳んだ蒲団をベッドに戻したネスティの、実に晴れやかな言葉に頷きはしたものの、不満顔を隠さないマグナは今度は枕を抱きしめ彼を睨む。
「何時までも起きてこない君が悪い。僕の所為じゃないだろう」
 それはその通りかも知れないが、だからって他に起こし方があるのではないだろうか。もっとこう……優しい起こし方が。
「甘えるんじゃない。起こしに来てもらえるだけ、有り難いと思え」
 不満を口に出したマグナの寝癖まみれの髪に指を入れ、軽く梳き解したネスティが苦笑する。
 そしてマグナの頭の上にいつの間にか用意されていた彼の日常服を、固まりにして落としてきた。咄嗟に伸ばした両手でそれを受け取り、やや茫然とした顔を向けるとネスティは掛けている眼鏡を直し、
「朝食、片付けられてしまいたくなかったらさっさとそれに着替えて食堂へ来るんだ。分かったな」
「あ、……うん」
 朝から空腹を抱えて昼までを過ごすのは地獄である。けれどネスティの事だからきっと、早くしなければ本当に片付けて仕舞いかねないので慌ててマグナは寝間着を脱ぎに掛かった。
 ネスティがそれを見て、ひとつ頷くと踵を返し部屋を出ていこうとする。
「あ、ネス!」
 その背中を思わず呼び止めてしまい、怪訝な顔をして振り返った彼を見てマグナは自分が何を言いたかったのか忘れてしまった。いや、最初から言いたいことなど無かったのかも知れない、何も思い浮かんでこなかったから。
「どうした?」
 そう広くない部屋、既に扉に手を伸ばしていたネスティが戻ってこようとしてマグナは慌てて手と首を振った。
「ななななんでもない! ごめん、ちょっと呼んだだけ……」
「? 変な奴だな」
 口元を緩め、微笑みを形作らせるとネスティは今度こそ扉を開けて部屋を出ていった。
 残されたマグナは、足音が去っていくのを確かめると自分の服を抱きしめて長く息を吐き出す。
「……ありがとう、ネス」
 面と向かって言えなくて、彼が渡してくれた服に向かって呟いたマグナはいそいそと寝間着を脱ぎ捨てて着替え始めた。