優しい嘘

 いつか、必ず。
 約束は、けれど最悪の結果で果たされてしまって。
 苦々しい気持ちを抱えたまま、重い足取りでただ前だけを目指して歩いていく。その視界に収まるものは、己が踏み出す足とそれが踏みしめている大地ばかりだ。
 茶色の、多くの旅人や行商人が長年をかけて踏みしめ固められた道は穏やかに傾斜しており、それに合わせて周辺の景色も幾ばくか変化する。なだらかな丘陵に沿うようにして走る一本道は、行き交う旅人もそれなりに多く雑多だ。
 だのに、彼を中心とする一団は十人を軽く越える大所帯にも関わらず、一様に重苦しい雰囲気を背後に背負い皆して無言だった。
 まるで葬列の集団のようだが、それらしき物も見当たらずすれ違う人々は怪訝な顔つきをしながら、彼らが通り過ぎていくのをただ見守るばかりだ。あるいは、厄介事を彼らが抱えている事を気配で察し自分から道を譲り避けていく人々も多い。
 そして事実、彼らは厄介な内情を抱えていた。それも、自分たちだけでは到底解決を見ないだろう非常に辛く、苦しいばかりの現実を目の前に突きつけられ、それを認めずにいる事は出来ないに関わらず、否定しようと心の底で藻掻いて止まない代物だ。
 誰だって嫌だろう、自分が罪人の一族であったことを前触れもなく、知識さえないままに告げられては。ましてやその罪は、己の一生涯をかけても償いきれないものであれば尚更。
 嘘だと言いたくなるし、言って貰いたくなる。
 けれど真実は真実に変わりなく、それを証明するかのように無言のままそびえ立つ古代遺跡と、過去の因縁に囚われたまま生きていた仲間と信じた人の本当の姿を見せつけられては。
 嘘、と言葉にすることさえひどく愚かしく滑稽で、哀しい。
 短い説明で詳しい事を知る由もない旅の道中に出会い、行きがかり上一緒に居てくれている仲間達にも、当事者である三人が背負っている重くどんよりと湿った空気は充分すぎるほど感じられて、詳細を聞く気にもなれなかった。
 たとえ短期間であっても寝食を共にし、なおかつ命を削るような苦難の連続を共に乗り越えてきたからこそ、言葉にせずとも通じ合うものが絆として形作られて来ていた矢先だった。
 時折ささくれ立ち言い争いも多かった仲間達がそれぞれ心を許しあい、多くを語り出そうとしていたその和やかな空気を一瞬でぶちこわした、あまりにも痛すぎる真実。
 だが誰よりも辛いのは、知らなかった真実を目の前に突きつけられ、どうしようもなく戸惑い苦しみ、どうすることも出来ず茫然とするしかなかったまだ年若い召喚師であろう。
 信じてきたもの、今まで培ってきたものがものの数秒としない間に総て崩れ去っていったのだ。
 長い時間をかけて彼が苦労を重ねながら積み上げてきたものがあっさりと踏みにじられ、突き崩されてしまった。遠目にはとても頑丈で堅固に見えたはずのものの、近付いてよくよく目を凝らしてみればそれは、砂の上に建てられた楼閣でしかなかったのだ。
 古びた遺跡を後にし、旅の最中で偶然出会い同行を申し出てくれた異世界の巫女によって再び深く因縁深い森を結界で閉ざしてもらって。そして数日が経過しようやく、彼らが今帰り着くべき場所を目の前にしても。
 マグナは、ひとことも口を利かなかった。
 彼だけではない、彼を弟のように可愛がり、また厳しく接してきたネスティもまた無言を押し通していたし、彼ら程ではないにしろ己の生い立ちとそうならざるを得なかった遠い昔の哀しい戦いの被害者であった少女も、常以上に口数少なかった。
 アメルは、呼ばれれば返事をするし受け答えもしっかりしている。彼女は祖父と慕っているアグラバインに自分があの森で拾われたことを教えられてから、或る程度の覚悟をしていたのだろう。それほどショックを受けた様子もなく、淡々としてなおかつ、静かだった。
 ネスティは融機人として自己の血液に先祖達の記憶を保有している、という特殊な機能を持ち合わせている為に、予め総てを把握し知り、その上で行動してきていた為に動揺もなく、やかり彼も静かだった。
 ただひとり、何も知らず、何も知らされず、そして何も知ろうとしてこなかったマグナだけが激しく胸の内を混乱させ、自己を保てなくなり挙げ句己を傷つけようとした。
 その瞬間、止めに入ったカザミネの手刀を頸部に受け彼は失神したのだったが。
 咄嗟の判断で他に方法がなかったとカザミネは翌日、意識を取り戻したマグナへ謝罪している、だがあの場面で、彼以外に動けた人間が彼とカイナくらいしか居なかった事を考えると、彼らが一年前に経験したという戦いもまた、とても厳しいものだったのだろう。
 カイナがぽつりと呟いた、気を失ったマグナを気遣う時の言葉は誰もが耳にしたはずなのに、誰も彼女に追求しようとはしなかった。
『なんだか、あの時と似ていますね……』
 独り言だったのだろうが、横で聞いていたカザミネが小さく頷いたところをみると、彼女が口にしたのは一年前、サイジェントで起きた戦いの事を指していたのだろう。
 その場に無色の派閥の乱にまつわる詳細を知る人物が居なかったため、いったいどのような事件が起こり彼女たちの身に災いが降りかかったのか誰にも分からない。カイナもそれ以上の事を口に出しはしなかったしカザミネも元々多くを語りたがる性格をしていない。聞けば答えてもらえただろうが、それも納得がいくような答えではなかっただろう。
 ギブソンもミモザも、そしてこの場に居合わせたカイナたちもまた、無色の派閥の乱を語りたがらない。なにがあったのかは派閥の機密事項として伏され、真実を知るものはごく僅かだ。
 金の派閥代表であるファミィ・マーンもきっと知っている事は多いだろうが、娘であるミニスに語ったことはないらしい。サイジェントには彼女の叔父に当たる人物がいるにも関わらず、ミニスは事件の内情を何も知らされていなかった。
 情報は、何処かで食い止められてしまい総てが明かされる日は永遠に訪れることはない。知りたければ、自分で捜すしかないのだろうか。
 それとも、自分が意図としない形で突然、心の準備も出来ていない瞬間を見計らって真実を告げられるのと、どちらが良いのだろう。
 どちらにせよ、ありのままを受け入れることは難しい。
 孤児で、頼れるものもなく。ゴミを漁りその日食べるものにも事欠き飢えを抱えながらひとりきりで生きてきた自分が、何故突然召喚術を使うことが出来、迎えにやってきた人に無理矢理連れてこられた派閥で、けれど心優しく暖かな人に保護されて、愛されて。
 しかしそれもすべて、自分が過去業深き咎を犯した一族の末裔だったから。
 必要とされたのは籠、閉じ込めておくための檻。守られていたのではなく囲われて見張られていたのだと、教えられてショックを受けないはずがない。
 なにもかも信じてきたものが基盤から揺らめき崩れ落ちていった。
 泣くことも出来ず、自失呆然と立ちつくすしかなかった。
 真実はあまりにも重く、彼が抱えきれるものでは無い。罪の深さは歴史の長さと、リィンバウムが直面した危機とその中で数多に失われただろう生命の分だけ底が見えない。
 だからこそ真実は隠れたがり、秘される。ネスティが語ることを拒んだ理由は他でもないそれで、彼の心を守るための手段であった事は誰もが認めるだろう。
 あどけなさと無邪気さを残す、青年の領域に入っているはずなのに幼さが抜けきらない少年らしさを持った彼の表情が、哀しみによって翳らないように。それはネスティの最大級の愛情であっただろうし、優しさだった。
 それが分からないマグナではない。
 だがそれでも、疑いを抱いてしまった心はなかなか元には戻らない。隠されていた、意図して自分には隠し通されていた真実が今までのような関係をもう二度と、築くことが出来ないことを嘲笑っている。
 潰れてしまった関係は、また最初から作り直していくしかない。問題なのは、同じ場所に崩れる前と全く同じものを築けるかどうか、だろう。
 辛いのは、自分だけではない。
 出来うるものならば永遠に隠し通し、傷つける事なく大切に守っていきたかっただろうものを自分から傷つけるような真似をせねばならなかったネスティも。
 人々を慈しみ、平等に愛し守るために遣わされながら守るべき存在に裏切られ、道具として扱われ無惨に切り捨てられた存在の魂と記憶を受け継ぎ、果てしない時の放浪を閉ざされた世界で過ごさねばならなかったアメルも。
 皆それぞれに傷を抱え、だのにそれをおくびにも出さずその日を懸命に生きていこうとしている仲間達も。
 辛いのは、変わらない。
 抱えている苦しみや哀しみや、辛さは同じだ。其処に秤で比較できるような目方は存在しない。
 やがて日は沈み、夜の帷が降りてきて一日歩き通しだった仲間達は次第に歩を緩め、そして月が天頂に輝く時間にはすっかり野営の準備も整っていた。
 場所を空け、焚き火を起こし明かりと暖の用意が調うと慎ましく夕食が始まる。
 旅の席なので保存の利くやや塩っ辛い乾ものが主体ではあるが、立ち寄った村で購入したパンがあるだけ、今日はマシと言えるだろう。大所帯な上、金銭面で補助を与えてくれる存在に欠いている彼らにとっては、村の宿で一泊、という真似も許されない。
 身を寄せ合い接近する獣や夜通しでかけていく早馬などに一々気を配り、大きな物音がするたびに目を覚まさねばならない、そんな旅だ。更に付け加えるならば、彼らはデグレアの兵士達からも狙われている存在である。
 可能な限り無関係な人々から離れ、自分たちだけで行動するように心がけていると自然と、野宿が多くなる。冒険者家業が長いフォルテが火を起こす作業であったり、簡単な調理に手慣れていたりするのは流石と納得がいくが、今となっては他の面々も彼にまけず劣らずの腕前になっていた。
 慣れとは、恐ろしい。
 あまり量の多くない夕食を慎ましやかに終え、次に待つのは身体の疲れを癒すための浅い眠りだ。男達がくじで焚き火の番と周辺警戒の順序を決め、一番目の赤札を引いてしまったらしいバルレルがひたすら文句を口にしているが、すっかり彼の扱いにも慣れてしまったメンバーはそれぞれにさっさと自分の毛布を引っ張り出し、柔らかな草の上に横になる。
 見張り役を最初から除外されている女性陣も、片寄せあって眠りにつく。くじを作成したフォルテに怒りの矛先を向け、眠ろうとしている彼の背中を蹴り飛ばしていたバルレルも、そのうち飽きたのか静かになった。
 月明かりだけが眩しい。雲ひとつない空は明るく、こんな夜であれば明かり取りの焚き火も必要ない。手で掬い上げた砂を薪の上でくすぶっていた火に降りかけ、彼は炎を消した。
 そうでなくとも、明かりが地上にあり続けると自分たちの存在を遠くまで知らしめる事になるので、幾らか時間が過ぎれば火は消す事になっていた。それが早まっただけだが、意外にも焚き火の光量は重要だったらしく、火が消えると同時にかなり濃い闇が彼らの上に降りかかって来る。
「ちっ」
 不本意だったらしく、バルレルの舌打ちが聞こえた。続いてガシガシと地面を蹴る音か、これは。どすん、とその場に座り込んでそれっきり音がしなくなった。
 静か、だった。
 いつもは女性陣優先で回される毛布を手渡され、礼も言えぬまま横になったマグナは眠ることも出来ずじっと、闇ばかりを見つめていた。
 草間に埋もれて見える虫たちが、巨大な生物に気付いて慌てて逃げていく。目を閉じるとあの遺跡で見た禍々しく愚かしく、哀しいだけの映像が浮かんで来るので瞼を閉ざすことも出来ず彼は動かない。
 アルミネは救われなかった、リィンバウムを結果的に救ってくれたのに彼女の魂は救われる事無く、還る場所も失いあてもなく彷徨わねばならなかった。力の欠片が形を作り、幼子となってアグラバインが連れ帰らなければ、アルミネの魂は今も虚空の中で漂っていたに違いない。
 ライルの一族は糾弾され追いつめられ、迫害を受けた。自由を失い、咎人としての屈辱を一身に背負い辛い記憶を捨てることも忘れることも叶わず、細々と歴史の裏側に囚われ続けた。逃げることも、瞳を逸らすことも許されなかったネスティの苦しみが、まるで分からないわけではない。
 アルミネの記憶を取り戻したアメルが、どんなに苦しい思いを抱えているのかも、分からないはずがない。
 重すぎる、なにもかもが。
 けれど本当に痛いのは、自分だけが知らされず知りもせず、のうのうと今まで生きてきた事に他ならない。
 分かっていなかった、分かってあげようとしなかった自分の浅はかさが恨めしく憎く思えてならないのだ。自分の幼い感情が彼らを傷つけ、悲しませてしまっている。そんな自分自身が一番許せない。
「……ん?」
 遠くで虫の鳴く声だけが聞こえてくる、仲間達の寝息さえ響かないそんな不気味なほどに静かすぎる空間に、しばらくぶりのバルレルの声。そのいぶかしみ、どことなく不穏な気配を混じらせている彼の声に気を向ける前に、別の声が響いた。
「交替しよう」
「まだ時間でもねーし、オマエの順番でもねーぜ?」
 そもそもオマエは見張り番の面子に加わってなかっただろう、と生意気な口調を崩さないバルレルに声をかけたのはネスティだった。立ち上がったのであろう衣擦れの音に、マグナは無意識のうちに被っていた毛布の端を握りしめる。
「気遣いは有り難いが、生憎と眠れなくてな」
 眠れないのであれば、見張り役として起きている方が良いだろうと、彼は普段と変わりない調子で告げ、バルレルは小さく唸る。
 自分としては眠いし退屈な当番から逃れられるわけだから願ったり叶ったりだが、彼だってネスティに任せてしまうことには幾らかの抵抗を感じている。望みは叶えてやりたいが、だからといってもし明日の朝、この事が知れて仲間内から非難の声を浴びるのは非常に面白くない。
「良いんだ、バルレル」
 ネスティにしてみればむしろ、こうやって慣れない気遣いをされるほうが疲れる。以前と同じ扱いで接してくれる方がずっと、心も体も楽になれるのに。
 みな、分かっていても実践に移ることが出来ないから戸惑っている。
 ちらり、とネスティはマグナの背中に目をやった。この辺りは見かけに反して非常に聡いバルレルだ、彼が本当は何を求めて寝ずの番を申し出たかに気づき、あからさまな態度で肩を竦めた。
「へいへい、分かりましたー」
 自分は命じられて仕方なく、と言い訳するための動作だろう。いかにもやる気の無さそうな声で言うと、彼はくるりと身体の向きを反転させさっきまでネスティが横になっていた場所に転がった。広げたままにされていたネスティの毛布をちゃっかりと懐に抱いて。
 やれやれ、とネスティは弟弟子の護衛獣を見送りポジションを替えたその場所に座った。
「眠っている、か……?」
 風に溶けていきそうな、静かな声。
 それが誰に向けて放たれたものか、マグナは彼に背を向けたままだったが気付いていた。
 返事はしない、したところで自分は彼に向ける顔を持たない。どんな表情をして何を語れば良いというのだ、この罪深き魂は。
「………………」
 流れるのは風、そして沈黙。高いびきのバルレルも今日ばかりは静かだ。
「恨んでいるのだろうな、君は」
 僕を。
 独り言かはたまた語りかけか、背を向けているマグナには判別がつかない。だからといって、振り返り確かめる勇気もない。ただ握っている毛布に深く皺を刻み込み、震えを堪える事しかできない。
 否定したかった、けれど否定しきれる自信もなかった。
 恨まれているのは自分の方だ、無知であった愚かしい自分を見て彼はずっと何を考えていたのだろう、それを教えられるのが恐い。
 見限られるかもしれないと、そう思ったから。
 顔を向けることも出来ない。
「恨んでくれて、構わないと思っている」
 淡々と、彼は告げる。其処に感情を見出すことは出来ない、どんな顔をしているのかも見えない。
「僕はずっと、君に嘘を吐き続けていたのだから」
 本当は最初に会ったときから知っていたのだ、マグナがクレスメントの末裔であることを。
 最後の融機人とクレスメントの生き残りが出会ったとき、誰もがそれを運命と思い、何かが起ころうとしている前触れだと危惧した。真実が隠されたのは必然であり、大々的な変化を嫌う派閥の上層部にとっては、彼らを隔離する案も強く推すに足るものとして見られた。
 けれどマグナは召喚師への道を歩み、ネスティと共に成長する道を許された。総て、ラウルの計らいによるものだったし、この時彼らは知らなかったが派閥の長であるエクスの意向も反映されての事だった。
 彼もまた、人として当たり前の幸せを求めて良いはずだ、と。
 古き罪は償われなければならないが、その総てを新しく生まれてきた命に求める事は間違っている、と。
「けれど、これだけは分かって欲しい」
 優しく注がれる月の光、聞くだけで心が落ちつき安心させてくれたネスティの声は、昔と少しも変わることなくマグナを包み込んでいる。
 信じたいと、思う。彼を、今まで通りに……今まで以上に、信じられたらと思う。
 けれどまだ、彼と一対一で向き合う勇気が出ない。いつから自分はこんなにも臆病になったのだろう、と唇を噛みしめてマグナは草の間に顔を埋めた。
 緑の匂いが鼻腔を擽る。泣くな、と懸命に自分に言い聞かせて熱い息を吐き出す。
「マグナ」
 そっと腕を伸ばして、ネスティは横たわるマグナの髪をそっと撫でた。癖毛はいくら櫛を入れてもまっすぐにならなくて、鏡を見て笑いあったのはもうずっと昔の事だ。
「それでも僕は、君に巡り会えて」
 自分の境遇を不幸だと呪ったことはない、諦めに似た感情が大部分を占めていたネスティにとってマグナは太陽だった。
「君に会えて、良かったと心から思う」
 嘘じゃない。
 告げ、彼は離れていく。重なり合った体温は一瞬で消え失せ、寒い。
 ただ今は無性に哀しくて、マグナは毛布にしがみつき声もなく泣いた。