闇空の向こうへ

 ファナンにあるモーリンの道場は、敷地が広い所為で見回す限りそこよりも背の高い建物がない。だから高い位置に行けば見晴らしは相当宜しい。
 気に入ってしまったかもしれない、とマグナは夜の月見を道場の屋根で実行しながら思った。
 なんとなく昼間、眺めが良さそうだなと思って見上げた屋根へは、壁に立てかけた梯子を使った。それも、昼間のうちにモーリンの尋ね、倉庫の奧から自分で引っ張り出してきたものだ。年代物で、乱暴に扱うと壊れてしまいそうな代物だったけれど文句は言わない。
 自分ひとりの体重はなんとか凌いでくれた梯子をちらりと見て、もう一度天頂で穏やかに輝く月を見上げる。その周辺には月に負けじと光り放つ星々が。
 こうして空を見上げていると、今が戦争を間近に控えた非常事態だという事を忘れてしまいそうになる。否、忘れたいと願ってしまう。
 戦争なんて起きなければいい、今始まろうとしていることは夢幻で、月が沈み太陽が昇れば長閑で平穏な世界が待っている。そう、思いこみたくなる。
 現実逃避だとは分かっている、そんなことが起きるはずがないことも。
 自分の目で見てきたことだ、スルゼン砦での事もローウェン砦での事もそして、トライドラでの悪夢も。
 殺された人々の叫びも、死して尚救われない魂の悲鳴も、なにもかも現実に起こってなおかつ自分はその一部始終を見てきた。知ってしまった、今更逃れる事など出来るはずがない。
 自分は充分すぎるほどに関わってしまった、意図しなかったこととはいえ。望んでいなかった事とはいえ。
 ぼんやりと月を見る、視界を遮るものが何もない為か空が近く感じる。
 手を伸ばせば、届きそうな程に。
 右腕を緩やかに伸ばし、手を広げる。目の前に無限に広がる夜空へと差し出して、一番大きく輝いている星を掴もうと藻掻いた。
 掴めるはずなど、ないのに。
 同じ行為を幾度か繰り返しているうちに、不意に涙がこぼれた。けれどマグナは構うことなく、虚空へと手を伸ばし続ける。
 座ったままで届かないのならば背を伸ばし、それでも駄目であれば立ち上がって、さらには爪先立ちになり。
 屋根の上である、足許は当然斜めに傾いでいる。それすらも忘れて彼は、ただ星だけを求めていた。無意識に、その行為にいかなる意味があるのかも考えず、ただ、あの無駄とも思える程に毎夜空を焦がしている星の輝きを欲して。
 手を伸ばす。
 やがてバランスを崩した彼は、姿勢を正すことも出来ず前のめりに身体を崩した。それでも、手を伸ばし続けるのは。
 何故?
「マグナ!」
 痛切な叫び声が間近で聞こえて、すぐ眼前に迫っていた屋根瓦に直撃する寸前にマグナの身体はなにかに抱き上げられだ。胸元に回された腕が、他者の体温を彼に伝えている。
「なにをしているんだ、お前は!」
 大丈夫か、の前にまず叱りとばすその声は耳慣れすぎてさえいる、彼の兄弟子の声。
 虚ろな瞳に次第に光が戻ってきて、マグナはようやく自分がどういう状況に置かれているかを徐々に認識し始めた。伸ばしていた腕は、力無く垂れ下がり今、ネスティの肩に置かれている。
 無意識だったのだろうが、支えを求めていたらしい左手はネスティの腰辺りに溜まっている布地を握りしめている。位置的にマグナの方が高い場所にいるくせに、彼は前のめりに身体が倒れかけている所為で兄弟子の顎骨のすぐ下に頭が行っていた。
 斜め前から抱きかかえられている体勢、と言えば分かりやすいだろうか。ちゃんと抱きしめられているわけではないが、これでは自分の方からネスティにしがみついている感じがしてマグナは赤く染まった顔のまま慌てて飛び退いた。
 しかし、バランスが崩れたままだったのでそのまま尻餅を付いてへたり込んでしまう。
 呆れた顔のネスティが、顎を引いて顔を上げた先に見えた。片手を腰に当て、肩を竦めている。眼鏡の奧にある瞳の色は冷ややかだ。
「なにがしたかったんだ?」
 問いかけの口調は穏やかだけれど、言葉尻に響く気配は剣呑だ。怒っている、それが長年のつき合いの御陰でひしひしと伝わってきて痛い。
「いあ、その……」
 座り直し、胸の前で左右の人差し指をつき合わせ上目遣い。けれどネスティの顔色は少しも変わることなく、穏やかだけれど末恐ろしい表情でマグナを見下ろしている。腰にあったはずの手はいつの間にか前で組まれていた。
 問いかけ以外にネスの口から落ちてくる言葉はない。巧い説明をしようにも、こうなったネスティに下手な言い訳は通用しないし、嘘は簡単に見抜かれてしまう事は過去の経験上実証済みだ。救いを求めて視線を周囲に流すものの、立地条件の問題もあってこの場に居合わせる不幸な存在は見当たるはずがない。
 冷ややかな月の光だけが、彼らを頭上から朗らかに眺めているだけだ。
「マグナ」
 口調がきつくなっている、このまま無言を押し通しても益々彼の不機嫌を煽るばかりだろう。そうなってしまったときのお叱りは実力行使も含まれるので、反射的に首を引っ込めたマグナは泣きそうな視線でネスティを見上げた。
「だ、だってぇ……」
 十八歳にもなって、そういう子供臭い仕草はやめるべきではないか。実年齢よりも十は幼く感じさせるマグナの態度に溜息をつき、ネスティは言いかけた言葉を呑み込んだ。
 前髪を掻き上げるついでで、眼鏡に神経質に触れる。冷たい指先よりも冷えた眼鏡のフレームが月光を反射して輝いた。
「怒らないから、何をしていたのかだけでも言うんだ」
 その言葉自体が既に怒っていることを表明しているのだが。
 星を掴もうとした、などと言えるはずがなくマグナは口ごもる。聞いた時のネスティがどんな反応を返すか目に見えて明らかだ。
 呆れられるだろうし、バカだと詰られるだろう。
「マグナ」
 声色は変化ない、淡々としていて冷え切った空気のように肌を刺してくる。
「あ、あの、さ……」
 おずおずと、マグナは右手を伸ばして空を指さした。相変わらず星は瞬き月が輝いている。
「ん?」
 ネスティもつられて空を見上げるが、普段と変わらない夜の光景が一面に広がっている事だけしか確認できない。マグナが意図している事の意味を掴みかねて、彼は小首を傾げながら視線を戻した。
「星、が、さ……」
 近くに見えたから。
 掴めそうな錯覚を覚えて、手を伸ばしたのだ、と。
 途中までは声もはっきりと聞き取れる音量だったが、後半に行くに従って言葉は淀みぼそぼそと口の中だけで呟くように小さくなっていく。聞き取りにくいマグナの台詞に眉根を寄せ、だが中盤までの彼の言葉からマグナがなにを言わんとしていたかを大方察したらしいネスティは、伸ばした人差し指で自分の米神を押さえ込んだ。
 そして、深く吸い込んだ息を一気に吐き出す。いくつかの言葉と一緒に。
「…………また、か」
 呆れというよりは同情か哀れみか。そしてそれは、むしろマグナへではなく自分自身へと向けられたもののような響きがあった。
「ネス?」
 顔を上げて今度こそちゃんとネスティの顔を見返したマグナは、ひとしきり首を傾げて不思議がったあと、唐突に或る疑問に陥った。
 曰く、何故ネスティはここに居るのか。
「僕か?」
 そのまま言葉に乗せて問いかけると、米神から指を離したネスティが大仰に肩を竦め、そして屋根の端に立てかけられ先端だけが見えている古い梯子を指さした。
「あんなものが、昼間になかった場所にあることを不思議に思わない方が可笑しいと思わないのか」
 怪訝に思い、そのまま視線を上に流していけばなんと屋根の上に爪先立ちになり、上ばかりを見て今にも倒れそうになっているマグナが居るではないか。驚きが先に立ち、次の瞬間ネスティは梯子を駆け上っていた、そして倒れかけたマグナを間一髪で助けた、と。そういう事だ。
 手短に要点だけを掻い摘んだ説明をし、ネスティは納得したか、とマグナに視線で問いかける。頷いて返したマグナは、では、と次の質問へ移行した。
 それはたったいまさっき、ネスティが口にした言葉。
「“また”、って?」
 自分は以前にも屋根から落ちるような事をしでかした事があっただろうか。星や月を眺めるのは好きだが、わざわざ昇る手段がない家屋の屋根に登ってまで眺めた記憶は乏しい。
「覚えて……いない、か。だろうな」
 まだ派閥に引き取られてから時間もさほど経過していない時だったし、あまり大っぴらに語れるような武勇伝でもない。どちらかと言えば隠しておきたい恥ずかしい過去の部類に入るだろう出来事を、マグナが自分から記憶の片隅に起き続けて時折思い出すような真似はしないだろう。
 納得顔で頷き、ネスティはマグナの横に腰を下ろした。裾を踏まないようにマントを揺らし、片膝を伸ばす体勢でくつろいでいる。一方のマグナは、どうもネスに見下ろされていた居心地の悪さも手伝って両足を揃えて膝を曲げ、両手で抱きかかえているという状態だ。
「君は前にも、派閥本部の屋根から落ちたことがあるんだ」
 そういわれても、覚えていないマグナは少しもピンとこなくて頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。首を傾げたまま横に座るネスティを見返すと、彼は幾分困った顔をしてマグナを見た。
「悪戯がばれて謹慎処分を受けていたところを脱走して、屋根に登ったんだ」
 覚えていないのなら一から説明してやるしかなく、あまり気乗りしないままにネスティは語りだした。聞くに従って、マグナの顔が赤くなり慌てていく変化に面白そうに目を細めているが、あまり口元は笑っていない。彼としても、思いで語りにするには不本意な出来事だったのだろう。
「え、嘘! 俺そんなことやった!?」
 思い当たる記憶に直ぐに辿り着けず、マグナは大きな声で叫ぶが即答でネスティにこっくりと頷かれてしまうと反論も出来ない。自分より遙かに記憶力に優れているネスティがそういうのだから、間違いないのだろう。
 こうやって自分は忘れているのにネスティだけが何時までも忘れないでいる事、そういう事が日増しに多くなっていく気がする。
 黙り込んだマグナを見て何を思ったのか、一呼吸置いてネスティは中断していた昔語りを再開させた。
 屋根に登って降りられなくなったのか、突然動き回るのを止めたマグナはずっと空を見上げていた。地上から派閥の人々が口やかましく、そこから動かないようにと叫んでいる声も聞こえていない様子だった。
 ネスティはまるで昨日の出来事のように話す。視線は直ぐ近くにあるはずなのに、彼が見ているのはもう十年以上前のマグナの姿なのだ。
 自分を通り越した先にいる自分に、何故かヤキモチに似た感情を覚えてマグナは少し不機嫌になる。
 幼い日のマグナは、屋根の上で手を伸ばしていた。何かを掴もうとしているのか、手が数回握り開きを繰り返し、背伸びを続ける。バランスが崩れ、助けの手が届く前にマグナは屋根から滑り落ちた。
 悲鳴が轟き、誰もが最悪の結果を想像した。
 けれどマグナは生きていた、落下地点が草木の生い茂る庭園の一角だった事が功を奏したらしい。
 なのに。
「頭をぶつけたのだろう、血を流していた」
 ここに、とネスティは久方ぶりに現在のマグナを見て指を伸ばした。彼の体温が低い指先が、マグナの右米神付近を辿る。少し髪の生え際に潜り込ませた位置で指を止め、思い出しているのか何度かその周辺を指の腹で撫でて離れていった。
 自分でも触れてみるが、傷痕など残っておらず触れたときの痛みも皆無で、首を捻ることしかできない。
 意識のないマグナは、ラウル師範の意向で彼の屋敷に移され治療が施された。怪我は召喚術を使って完璧に治癒されたはずだった。
 なのに、マグナは目を覚まさなかった。彼は三日間、意識がないまま眠りにつき、医者も原因が分からないとお手上げ状態で。
「僕たちは、このまま永遠に君が目覚めない覚悟を決めなければならなかった」
「あ……」
 ちりり、と頭の片隅を焦がすような痛みがして、マグナは口元を手で隠した。
 思い出した、かもしれない。いや、実際には少し違う、聞いただけだ、その時の事をラウル師範から。
 きっかけを手に入れると、次から次へと記憶は溢れかえってくる。膨大な情報の詰まった箱をひっくり返したような感じで、余計なことまで色々と思い出してしまいマグナは自然と表情を崩していった。
「それ、思い出した」
 ずっと暗闇にいた気がする。ひとりぼっちで、とても冷たい場所に閉じ込められていた。心細くて、膝を抱えてずっと泣いていた。それが現実ではなく眠っている間の夢に見た事であるのは明白だったが、幼いマグナにとってそれは現実の事とだぶって記憶されていた。
 別の記憶に紛れて、混ざり合って異なる出来事の一環にされていたのだが、ネスティの話を聞いてそれが間違った記憶であることを思い出した。抜けていたパズルのピースがかちりと音を立てて合わさる。
 長い間空白だったものが、色つきで埋められていく感じだ。
 ゆっくりとネスの瞳を見つめると、少し困った顔で微笑まれる。その顔に嬉しくなってマグナは深く頷いた。
「知ってる、俺。ネス、ずっと手握っててくれた」
 持ち上げた手の平はあのころよりもずっと大きくなっているけれど、握りしめてくれていた手の体温や、力強さは少しずつ戻ってくる。それこそ、昨日のことのように。
 目を覚ましたとき、最初に見えたのは真っ白い天上ではなくてネスティの顔だった。
「あの時、ネス、泣いてた」
「泣いてなどいない!」
 真上から覗き込んでくる顔は、ずっと眠っていた所為で焦点が合わずぼやけて見えたけれど、確かにネスは涙ぐんでいた。彼はムキになって否定して、マグナを笑わせたけれど。
 やや拗ねた顔でネスティはそっぽを向く。その背中に笑って、マグナはことん、と額を預けた。僅かにネスティが身じろぎするが、振り払われる事はなかった。
「ネス、ずっと俺のこと呼んでくれてたんだよな……?」
 三日三晩ずっと、枕許についてくれていたのだとあとになってからラウル師範に教えられた。ネスティはそんなこと、ひとことも言わなかったけれど。
 マグナが戻って来られたのは、暗闇の向こうから呼ぶ声が聞こえたからだ。彼の名前と、帰ってこい戻ってこい、其処に居ちゃいけないこっちへ来るんだ、そう呼び続ける声が聞こえたからだ。
 そして決め手となった、闇を貫いて差し伸べられた、手。
 その手を握り返した途端、強い力で引っ張られた。そして目が覚めて、最初にネスティの顔が見えた。
 重たくて動かない腕を懸命に伸ばすと、ネスティは握りしめてくれた。抱きしめてくれた。
 その瞬間悟ったのだ、自分は此処にいても良いのだと。此処に居たい、彼とずっと一緒にいたい、と。
 星は掴めなかったけれど、それ以上の輝きを放つものを手に入れた。
「それ以来、脱走はしても屋根には登らなくなった」
 だのに彼はまた屋根の上に昇って、星を求めて手を伸ばしていた。ネスティが危惧した事へようやく思考を巡らせることが出来たマグナは、ネスティから離れ折り曲げていた膝の間に顔を埋める。
 忘れかけていたが、自分は叱られている真っ最中だったのだ。最後の最後で、ネスティに釘を刺されてしまい口答えも封じられた。
「ごめんなさい……」
 素直に謝ると、見えないがネスティは肩を竦めたらしく衣擦れとマントが揺れる音が重なり合った。
「もうしないな?」
 問いかけられ、素直に頷くと頭を撫でられた。いつもなら子供扱いするな、と突っぱねる優しい手も、今日ばかりは振り払う気になれなくてマグナはそのまま受け入れた。
 髪を撫で、癖毛を掬い上げて優しく指で梳いて。そんなことをされると眠くなってくる、膝の間に置いたままの顎がカクン、と落ちて滑りかけた身体はネスティの腕にまた阻まれた。
「言った先から」
「あはは……御免」
 もう謝ることしかできなくて、シュンと小さくなるとまた頭を撫でられる。
「な、ネス」
 今度は落ちないよう、自分からネスティの服に手を伸ばしてしがみつく。皺になるからやめるよう、言葉で注意されたものの彼は行動には移ってこなかったので甘えることにした。
「なんだ」
 彼の手は優しい、人よりも少し体温が低くて几帳面な指先は神経質だけれど。こうやって触れられると良く解る、彼に触れられるのは好きだった。
「もし、……もし、また俺が迷ったら」
 闇に囚われて、自分ひとりで抜け出せない事になった時は、その時は。
 握りしめた服を、更に強く握って、マグナは彼の胸元に顔を埋める。今のこの泣きそうな顔を、彼に見られたくなかったから。
 頭を撫でていた彼の手が背に回され、軽く抱きしめられる。びくっ、とその瞬間だけ反応したマグナだったが、宥め賺すように手を上下されて背を撫でられると、ホッとしたように息を吐いた。
「分かっている。また呼んでやる、何度でも」
 それこそ、喧しいと怒鳴り返される程に。
 確信犯的な笑みを湛えたネスが笑い、表情を俯くことで隠していたマグナもつられて笑った。弾みで、我慢していた涙が出てきた。
「俺も、さ。ネスが迷ったときは呼ぶから……ネスのこと、俺が此処にいるって分かるように、大声で」
「それは、僕に自力で探し出せと言っているのか」
「だって、俺ひとりだったら迷うもん」
 待ってるから、見つけだして。
 ようやく顔を上げたマグナが笑いながら言うと、無邪気な笑顔にデコピンが飛んできた。
「やれやれ、君はまったく。どこまで僕に手間をかけさせれば気が済むんだ」
「一生」
 心底呆れかえったネスティの溜息に、楽しそうにマグナの声が重なる。ツッコミの手は瞬時に飛んできたけれど、避けずにいるとあまり痛くなかった。
「約束、だからな」
 暗闇を照らし出し道を示す星の輝きを、マグナがネスティに見たように、その逆もまた同じはず。
 光は、光を受けるものがあって初めて、自分が輝いている事を知ることが出来るのだから。