天路

 柔らかな日差しが頭上から降り注いでいる。野外で昼寝をするにも、お気に入りのペットと散歩するにも最高な午後だ。適度に暖かく、肌寒さを覚えない程度に控えめな風が吹き、とても過ごし易い。
 痛い程の日差しが照りつけることの多い季節にしては珍しく、程よく雲が散って陽光を遮り威力を弱めてくれているお陰だろう。いつもは目を開けているのもつらい地表の照り返しも、今日はさほど酷くない。
「んー、良い天気」
 両腕を頭上に真っ直ぐ伸ばし、背筋を伸ばして深呼吸を二度ほど繰り返す。吸い込む空気はどこか埃っぽく、彼が過去暮らした故郷とは違って乾燥している。上唇を舌で舐め、僅かに故郷を懐かしみながら彼は石畳の坂道をゆっくりと下っていった。
 向かう先はこの地区の中心部、近づくにつれて交通量も多く、人通りも増していく。行き交う人はいずれも肌が白か黒で、背が高い。一目見て明らかに東洋系と分かる顔立ちの小柄な青年は、人ごみに押し流されないよう器用に身体を捻らせながら道を進んでいく。時折きょろきょろと周囲を見回し、物珍しさからか何度も溜息をついている様子は、パックバッカーのようでもある。
 最近なんとかマスターしつつあるイタリア語の歌が流れるカフェの前を通り抜け、観光客で賑わうブランド店の前を素通りし、交差点で信号待ちをする間に小休止。
 額に浮いた汗を手首で拭い、ついでに左手に巻いた腕時計を見る。時針は午後二時過ぎをさしており、まだまだ暑い盛りだ。その手を団扇代わりにして首筋に風を送り、信号が変わったと同時に歩き出す。
 爪先がやや汚れたスニーカーに、薄いグリーンの迷彩柄パンツ、白い半袖のシャツから覗く腕は細く実に頼りない感じだ。背負ったリュックは旅行者にしては少し小さめで、身軽さを前面に押し出している。彼は信号を渡り終えると、日差しの強さに辟易したのかリュックから鍔つき帽子を取り出して被った。これもまた、迷彩柄だ。
「やっぱり、こっちに出てくると暑いな」
 他の人々が交わす言葉とは異なる言語を使い、彼はひとりごちる。
 帽子を被ってみても体温の上昇率は変化を見出せず、日陰を探して彼は視線を巡らせる。手持ちは心細いので出来るならカフェには足を向けたくない。舌に残るエスプレッソの味も、彼は少し苦手だった。
 大通りに面したオープンカフェのひとつでは、派手な色合いのパラソルの下で昼間からビールの杯を傾けている男もいる。彼の故郷であれば大っぴらには出来そうにない事も、この国では当たり前のように受け入れられており、ここが外国なのだと否応がなしに彼に現実をつきつけてくる。
 軽い吐息が零れた。
「あーあぁ」
 空を仰ぎ見る。雲間から覗く太陽の光は眩しく、容赦も遠慮もない。手を差し伸べて庇にし、ぼんやりと日陰と日向の境界線で立ち尽くす。
 そんな彼を絶好のカモと見て近づいてくる、少々ガラの悪い男の存在など目にも留めない。
「沢田殿!」
 そこを、矢を射るように鋭い声が飛んだ。呆けたように立っている彼と、程なく彼に接近し、肩をぶつけて財布を掠め取ろうと狙っていた男の間に、やはり小柄な影が割り込む。声同様に鋭い視線が男を射抜き、顎を仰け反らせて一瞬怯んだ男は、忌々しげに舌打ちをして何もしないまま踵を返して離れて行った。
 何事かと僅かに周囲がざわついたのを受け、割り込んできた青年もまた小さく舌打ちをして、帽子の青年の腕を掴む。沢田、と呼ばれた東洋系の青年は、己の腕を取り引っ張ろうと力を込めた青年の顔を、やはり呆けた印象を与える表情のまま見つめ返した。
「やあ、バジル」
「やあ、じゃあありません。沢田殿、兎に角こちらへ」
 そのまま、散歩中に既知の存在に出会った時のような挨拶をされて、バジルは益々苛立ちを募らせながら沢田の腕を引く。見た目によらずなかなかの怪力に、彼はさしたる抵抗もみせずに大人しくついていった。
 最初から見つかるのが分かっていたかのようでもある。
 人ごみを避けて裏通りへと入り、バジルは漸く足を止める。引きずられるように歩いていた沢田も習って足を止め、少しだけ目線が高い位置にあるバジルを見返した。
「案外、早かったね」
 クスクスと目尻を下げて笑う彼に、バジルは深々と溜息をついて肩を落とした。細く綺麗な彼の髪の毛がさらさらと頬を撫でる。それはそのまま、沢田と呼ばれた青年の頬に伝った。
 首が絞まるくらいに強く腕を回されて、肩口に暖かな吐息を感じとる。心底安心したせいで脱力してしまったバジルに寄りかかられ、沢田は苦笑したまま彼の背中を数回撫でた。
「大丈夫だってば。バジルは心配しすぎ」
 ぽんぽん、と子供をあやすように更に軽く叩いてやると、沢田の肩口に顔をうずめているバジルは首を振ったようだ。柔らかい髪の毛が沢田の頬と首筋をくすぐる。
「私の心臓が、大丈夫じゃありません」
 本気で言っているのかと聞き返したくなる台詞を吐き捨てるように言い、バジルは更に沢田に回した腕の力を強めた。
 大げさだなと笑いたかった沢田だけれど、それを言うと真剣にバジルは怒るのも知っているから敢えて黙って聞き流す。代わりに、微かな音量で「ごめんね」と呟くと、バジルはやっと苦しいくらいに締め付ける腕を緩めてくれた。
 離れていく時、彼は微かに触れるか触れないかの感覚で沢田の頬に唇を落としてから顔を離す。
 照れくさそうに触れられた箇所を指で撫でた沢田は、歯を見せて悪戯っぽく笑いながら、「よく見つけられたね」と彼に聞く。
 置手紙には町の名前こそ記しはしたが、詳しい行き先までは残さなかった。それほど人口が多くない町とはいえ、範囲はそれなりに広く探すとしてもどこか一点に絞り込まないと、街中に迷い込んだ東洋人の青年ひとりを探し出すのは困難を極めるはずだ。
「この町で、東洋系の人間はそう多くありませんから」
 予想よりも呆気なく発見されてしまったプチ家出の読みの甘さを指摘し、バジルは綱吉の帽子の鍔を取って持ち上げた。実際の年齢よりもずっと幼く見える大きな目と薄茶色の瞳。この町で、東洋人は逆に目立つ。行き交う人に聞けば、彼の足が向く先は大体の見当がついた。
「ここは日本じゃありません。先ほども、危なかったのですよ」
 沢田の目を覗き込み、バジルが注意を促す。そうみたいだねと曖昧に笑って沢田は誤魔化し、彼から帽子を奪い返した。それに、とバジルが続ける。
「貴方の命は、貴方ひとりのものではありません」
「……そうだね」
 意味深なバジルの言葉に、沢田は視線を落として帽子を被りなおした。彼の迷うように地表を走った視線は、帽子の鍔に隠されてバジルには分からない。
 狭い裏路地に日が差し込む。
「でもね、バジル」
 頭上を走った影に、沢田は目を細めた。先を行こうとした彼が、上半身だけを捻って振り返る。
 目が合った、沢田は笑っていた。
「大丈夫、だよ」
 

 だって。
 自分の命は、自分ひとりのものではないかもしれないけれど。
 自分という存在も、自分ひとりきりではないのだから。