黄昏のぬくもり

 天気は憎らしいほど、良かった。
 これは絶好の昼寝日和だなぁ、と頭上の空を仰ぎながらマグナは足許の小石を蹴り飛ばす。トントンと跳ねた石は、整地された舗道上を数回跳ねて、また風景の一部に紛れ込み見えなくなってしまった。
 はぁ……と重い溜息を零し、彼はまた一歩足を前へ出した。左、右、その次はまた左で、右。
 身体は前に進むが、心は後ろに下がりたがっている。いや、むしろ脇道に逸れたい気分だった。右手に持った鞄がずっしりと肩に重い。
 実際に鞄が重いのではない、中身はとても軽いものだ。数枚の書類、そしてとある召喚獣と契約を済ませたサモナイト石が入っているだけなのだから。
 重いのは、運んでいるものの重要性だ。あと、付け足すとすれば届け先の某召喚術師が非常に彼の苦手とする人物である事くらいか。
 ラウル師範の頼みとは言え、引き受けるべきではなかったなと今更ながら激しく後悔を覚える。いつもなら兄弟子のネスティが引き受けるような内容の仕事だったが、生憎とその兄弟子が所用で留守にしていた為に発生した事態だ。
 いったい何に使うのかまでは聞かなかったが、急遽どうしても必要になったというサモナイト石を届ける、それだけの事。だがこの石が一般民やまたは、最悪の場合外道召喚術師の手に渡ったら大変なことになる、その危惧があるからマグナは気乗りがしないのだ。
 以前……自分が蒼の派閥へ引き取られるきっかけとなった事件こそが、偶然触れてしまったサモナイト石の暴走だということが、未だ彼の心に影を落としている。
 本日何度目か知れない溜息を零し、また新たに小石を蹴り飛ばしたマグナは右手を意識して力を込めた。
 そして左手に持っていた地図を見る、本部を出るときに師範に渡された手書きの地図だ。そこには略式ながらなるべく分かりやすく、届け先の召喚術師が暮らす屋敷への道順が書き込まれている。
「えっと、赤煉瓦の屋敷の角を右に曲がって、だろ……?」
 赤煉瓦、赤煉瓦……と口に出して呟きながら、マグナは周囲を見回した。自分は確かに、地図に書かれた経路通りにやって来たはずだ。
 なのに、肝心の赤煉瓦の屋敷が見当たらない。
 右、左、前方やや斜め、それから背後を振り返っても。どこにも赤煉瓦の屋敷は見当たらない、いやそもそも、赤煉瓦なのは壁か、塀か、それとも屋根か?
 地図にはただ“赤煉瓦の屋敷”としか書かれていない。これではどれが赤いのか分からないではないか。他の目印を捜そうにも、地図にはそれ以上の事は書かれていない。
「確か、緑色の屋根の家の角を曲がって、そこからまっすぐ来て……だろ? え、え、あれ?」
 段々分からなくなってきて、マグナは頭の上にいくつもクエスチョンマークを浮かべながら必死に地図と周囲の景観を見比べた。だが無論、地図にそんな細かいものまで書かれているはずがない。
 急いで書かれたものだから、ラウルも細かく書いている余裕がなかったのだろう。だが唯一の頼みである地図が間違っているかもしれない、という予想をマグナは出来ないでいる。
 何処かで道を間違えただろうか、届け先の人の名前は知っているから誰か通りがかりの人を捕まえて聞くことが出来ればあるいは。そう思って心細い視線を周囲に巡らせるが、タイミングが悪すぎた。
 補整された通りを歩く人の影はひとつも見当たらない。
 ぽつん、と静かすぎる中に自分ひとりだけ。
「う……」
 途端に、この世界で自分ひとりしか存在しないのではないかという有りもしない事を考えてしまい、マグナは泣きたくなった。
 そんなことない、絶対にない。心の中で呪文のように何度も繰り返し自分に言い聞かせてマグナは歩き出した。ひとまず、地図に記されている通りの場所まで戻ろうと来た道を戻る為に。
 だが、ちゃんと通った道を来たはずなのに気が付けば、また見知らぬ場所へたどり着いていた。
「あ、あれ……?」
 こんな場所通ったっけ。
 どこかで方角を間違えてしまったのかも知れない、高級住宅街からいつの間にか光景は一般住宅街へと移ってしまっている。人通りもそこそこ増え始めていたが、皆道のど真ん中で呆然と立ちつくしている彼を物珍しそうに眺めて通り過ぎていくだけだ。
 服装から、マグナは蒼の派閥に属する召喚術師の一系だと人々は簡単に想像がつく。その彼が、鞄を片手にもう片手にメモ用紙を持って唖然としている姿はさぞかし滑稽に見えるだろう。
「ちょっと待て、何処で間違えたんだ」
 通行の邪魔にならないように道の端に寄ったマグナはもう一度地図をしっかりと見つめた。そしてはたと気付いた、いつの間にか地図を上下逆に持ってしまっていた事に。
 理解した瞬間、春先だというのに真冬の冷たい風が駆け抜けていったような気がした。
 ぽろり、と力を失った右手から地図が落ちる。そのまま風に攫われて、それはくるくると回転しながら遠くへと飛んでいってしまった。しかし、地図の見方を根本的なところから間違えていた事にショックを受けていたマグナは、その事にも気づけなかった。
 我に返ったときにはもう遅い。
 大慌てで周りを見回したものの、目に映る範囲内でそれを発見することは出来ない。玄関先で、メモ帳に雑に記して引きちぎっただけのそれは、別の人にしてみればただの紙屑でしかないから、拾った人が居てもそれを親切に届けてくれるとは考えにくい。
 目の前が真っ暗になって、マグナははっきりと知れるくらいに肩をがっくりと落とした。
「はうぅぅ~~」
 唸ったところで事態が好転するはずもなく。
 仰ぎ見た天はやっぱり、小憎たらしい程に晴れ渡り澄み切っていた。

 本部に帰ると、何故か妙に騒がしかった。
 なにか起きたのだろうか、首を傾げながら彼はとりあえず帰宅の報告をしようと養父であり師範であるラウルの部屋をノックする。直後、勢いよく開かれた扉に危うくぶつかりそうになって、彼は半歩身体を引かせると中から顔を出した人を凝視する。
「どうかしたのですか」
 普段は柔和な笑みを絶やすことなく浮かべているラウルの顔が、噴き出た汗に滲んでいる。眉間に刻まれた皺は怒りではなく、不安と苦悩に満ちあふれていて彼はいぶかしみの表情を作ると、扉に手を掛け問いかけた。
「ああ、ネスか。お帰り」
「只今戻りました。ところで何かあったのですか、妙に騒がしいようですが」
「あ、ああ……」
 どうも歯切れの悪い返事しかしないラウルにまた首を傾げ、ネスティは促されるまま室内に足を踏み入れた。綺麗に整理された部屋は掃除も行き届いており、使っている人の性格が伺い知れるものだった。
 その彼が、今部屋の奥にある机の前で苦悶に満ちた顔をしている。扉前で立ちつくしたまま、ネスティはしばらく養父のただならぬ雰囲気を呆然と眺めるしかなかった。
「とうさ……師範?」
「ネスや、マグナを見なかったかね」
「マグナですか?」
 どうしたのだろう、自分にまで不安が乗り移ってきて言いしれぬ何かを胸の奥に感じながら再び質問を口にしようとしたネスティを遮り、ラウルは顔を上げてそれだけを口に出す。反射的に頭の中に浮かんだ、あの脳天気な弟弟子の顔にネスティの米神がぴくり、と反応した。
「あいつがまた何かしでかしたんですか」
「いや、そうじゃないんだ、まだそうと決まったわけではないのだよ」
 早合点は良くない、といいながらもやはりラウルの言葉の歯切れは宜しくない。本部内の慌ただしさは彼の所為かと思うと、ネスティは頭が痛くなる思いだった。
「それで、まだ問題発生には至っていなくとも彼が原因で発生の危機にある事態はいったい何なのですか」
「それなんだが……」
 言って良いものかどうかしばらく悩んだあと、ラウルは致し方がないと溜息をついた。
「帰って来ないのだよ」
「は?」
 結論だけを先に述べたラウルに、ネスティの間の抜けた声が重なる。どういう意味なのか計りかねたネスティが、思わずずり落ち掛けた眼鏡を直しながらラウルを見返すと、彼は非常に言いにくそうに、
「いや、ね……? あの子に使いを頼んだんだよ、私が持っているサモナイト石が急遽必要になったと連絡があってね」
 ちょうどネスティは席を外していて、その場にいなかった。ラウルが抱える弟子はネスティとマグナだけだけのようなものだから、手の開いていたマグナに頼むしかなかったのだと彼は説明する。
 だが、つい先程その届け先の人物からまだ届かないと言う苦情が本部へ届いた。
 マグナが出かけたのは昼前である、そして今の時刻はもうじき日暮れが訪れる夕刻。聖王都ゼラムがいくら広いとはいえ、もういい加減届け物を終えて帰ってきて可笑しくない時間である。
大体、届け先の召喚術師が住む屋敷は派閥の本部からそう遠くない高級住宅街の一角にあるのに。だったら自分で取りに来れば良いと言うのは、屁理屈か。
「兎も角、そう言った理由であの子に持たせたんだが」
 なにせ急なことだったために、簡単な道順を書いたメモを手渡すことしかできなかった。そして渡してから、ラウルはそこに書き記した目印が間違っていた事に気付いたのだった。
「それじゃあ、マグナは」
「うむ、まず間違いなく……」
「迷子、ですね……」
 情けない顔の男がふたり、向かい合って項垂れている光景はさぞかし奇妙であったことだろう。
 持たせた地図が間違っていた事。届け先の相手がまだ目的物を手に入れていないらしいこと。そしてなにより、マグナが本部に帰ってきていないことから総合して考えるに、結論はひとつしかない。
 それでなくとも、マグナは聖王都の地理に不慣れだ。滅多に外出しない彼が、初めて行く場所に地図無しでたどり着けるはずがない。その場所が公園であったなら、まだ救いはあっただろうが……。
「捜してきます」
「頼めるか」
「はい」
 苦情処理は幸い、予備のサモナイト石があったことでなんとか片づいている。だが肝心のマグナが行方不明のままでは、事態の解決とは断言できない。
 万が一、彼が不用意に石に触れてしまったら。悪意を持つ人間に襲われでもしたら。目に見えない不安はどんどんと増長されていって、それを振り切るためにもネスティは絶対に見つけだす、と言う固い決心を持ってラウルの部屋を辞した。
 流石にあの年になっては、迷子になったくらいで泣きはしないだろう。道に迷ったとて、人に聞けば本部への道くらい教えてくれそうなものだが。
「帰りづらいのだろうな……」
 マグナが出かけてから、もう五時間は楽に過ぎ去っている。目的地にたどり着けなくて用事も果たせなくて、このままでは帰っても師範に怒られるし、合わせる顔がないと思っているのだろう。
 あの子は変なところで義理堅く律儀で、普段あれだけ図々しいくせに落ち込むと何処までも沈んでいくところがあるから、適当なところで引き上げてやらなければならない。その役目は、専ら兄弟子であるネスティに一任されている。
 彼らは両方共に、閉鎖的すぎる空間で幼い頃から育ったために、親しい友人がお互い以外に殆ど皆無と言ってしまってもいいくらいだった。
 本当の兄弟のように……周囲は彼らを見ていることだろう。
 複雑な気持ちを抱えたまま、ネスティは派閥本部を出た。門の前で左右の道を交互に見、ひとまず彼が辿ったと思われる道を順に追ってみる事に決めた。目指すのは、高級住宅街近辺。
 夕暮れが西の空を包み、夜闇が迫ろうとしていた。このまま日が暮れてしまっては捜しにくくなる、その前になんとしてでも見つけだしたかった。
 高級住宅街にマグナの影を見つけることは出来なかった。あちこちを見回しながら、細い路地にもひとつひとつ目を通し、ネスティはマグナの名前を何度も叫ぶ。だが返事はなく、家路を急ぐ人の群れに奇異の目で見られるばかり。
 次第に闇が濃くなって、人通りも少なくなっていく。聖王都とはいえ、夜は繁華街を除き静かなものだ。寂しすぎるほどに。
「マグナ……」
 噴き出た汗を乱暴に拭い、ネスティは唾を飲み込んで喉の渇きを一瞬だけ潤す。ふと、横を向いた視線の先に緑の光景が飛び込んできた。
「ここは……」
 あちこちを探し回り駆けめぐっていた為、いつの間にかスタート地点でもあった高級住宅街から大きく離れた場所に辿りついてしまったらしい。そこは、ゼラム市民の憩いの場所になっている導きの庭園だった。
 まさかこんな場所で昼寝などしていないだろうな、と思いつつも可能性は否定しきれなくて、ネスティは殆ど人の居ない公園へ入った。
 薄暗い広場は気味が悪いくらいに静かで、やはり居るはずがないだろうと思い直し掛けたその時。
 ガサリ、と向こうの茂みが揺れた。
 黒い影がそこから飛び出してくる。まっすぐ、ネスティ目掛けて。
「うわぁ!?」
 突然予告もなく飛びつかれたものに押し倒され、後ろ向きのまま倒れそうになったのを一歩足を下げることでかろうじて堪えたネスティは驚きで目を丸くする。自分の胸に頭を埋め、小さく震えている存在が何であるか、薄明かりの下でもはっきりと理解できた。
「マグナ……?」
 いつも以上に小さくなった彼が、キツイくらいにネスティにしがみついていたのだ。
「ネスぅぅぅ~~~」
 ぐずぐずと鼻を鳴らしてマグナが顔を上げる。全身埃まみれで、顔は泣いていたのか涙でぐしゃぐしゃ。正直、吹き出してしまいそうになって慌ててそれを押し殺す。
「どうした、迷子になったくらいで泣くほど君は子供ではないだろう?」
「うぅぅ……」
 なるべく優しく声を掛けるように心がけ、手を伸ばしその髪に触れてやる。泣いていることを指摘されて、マグナは乱暴に袖で顔を拭うと鼻をすすった。
 よしよし、と頭を撫でてやれば安心したのかようやく、小さく笑みを浮かべる。
「ごめん……」
 いったい何に対して謝っているのか、少し疑問に思ったが突っ込まないことにしてネスティは苦笑で返す。マグナはすっかり泣きやんでいたが、どうも引っ込みがつかない手はそのまま彼の髪をなで続けている。
 クセっ毛を指先に絡ませると、するりと逃げていって上目遣いに見ていた彼が声を立てて笑った。
「何やってんだよ」
「いや、別に……」
 理由があってやったわけではないのだと自分に言い訳をし、ネスティは微妙に赤くなった顔を夕闇に紛れさせることで誤魔化した。
「師範に迷惑かけちゃったかな……」
「ああ、まったくだ。御陰で僕まで町中を走り回された」
 自分のガラでもないことをさせられて正直不快だったが、今はもう気にしていない。とにかく、目的の人物は探し出せたのだし。
「サモナイト石は?」
「此処にある」
 抱きしめていたネスティから離れ、マグナが両手にしっかりと握りしめた小さな鞄を彼に示す。落とさなかっただけでも及第点をやって良いだろうか、と思いかけたが、既に道に迷っている時点で彼は落第だ。
「それで、ネス、あの……」
「心配せずとも、君が届けるはずだったものは予備を手渡すことで既に事は完了している。あとは君が、それを持って本部へ戻れば総て終了だ」
 ぽん、と最後に頭をひとつ叩いて手を離す。片手で叩かれた箇所を抑え込んだマグナが恨めしそうにネスティを見上げるが、そのうち「へへっ」という調子でまた笑い出した。
「なんだ」
 その笑い方が不気味で、思わず聞き返してしまったネスティにマグナはまた笑う。
「ん~……なんか、さ。ネスが汗だくになって俺のこと捜してくれてたんだな、って思っただけ」
 それが嬉しいと感じてしまった自分が、また可笑しいのだと彼は何でもないことのようにさらりと言ってのけた。
 心なしか、お互いの顔が赤いような気がしたけれどそれは黄昏時の空が反射した所為だと、互いに言い訳をして見なかったことにする。
「ほら」
 また迷子になられたら溜まらないからな、そう口にしながら差し出されたネスティの手をしばらく凝視したあと、マグナは少しだけ悩んで、その手を握り返した。
「俺、そこまで子供じゃないよ」
 口では不満を告げるけれど、しっかりと握り返した手が解かれる様子はない。
「だったら、これ以上僕に面倒をかけさせないでくれ」
 前を向いたまま言うネスティの口調はいつもと大して変わらない。けれど、握りしめてくれる手の暖かさは偽物じゃないと分かるから、マグナは彼に知れないように照れた笑みを浮かべた。
「帰るぞ」
「うん」
 間もなく天頂に星が煌めき、月が輝くだろう。夜が終わって明日になっても、この手の温もりが傍に在り続けて欲しい。そう願わずに居られなかった。