耳を劈く叫びは天井高くまでこだまし、去り行こうとしていたセイロンの心臓を鷲掴みにして彼の思考を一瞬停止させた。
立ち上る黒煙、無数の木箱が崩れ落ちる音。それらに掻き消されようとしている白銀の髪が脳裏を駆け抜け、彼は己が意識するよりも早く振り返り叫んでいた。
「店主!」
けれど彼の声さえも飲み込んでしまう大量の煤煙に彼は眉根を寄せて咳き込み、同じく悲鳴を聞いて駆けつけたリシェルが黒煙に顔を顰めてカウンターの向こう側で一歩を躊躇した。お気に入りのコートが汚れるのを敬遠してか片手で口と鼻を同時に塞ぎ、片目を閉じて懸命に灰色の視界に目線を走らせる。セイロンもまた彼女に向けていた注意を前方へと戻し、それから息を呑んでぞっと背筋を登っていった悪寒を耐えた。
体中のあらゆる場所から血の気が引いていくのが分かる。痙攣気味に反り返った指をどうにか宥めるが、緊張と恐怖に震えて心臓が激しく拍動するのは止められない。全身を巡り行く血が心臓の周辺だけを往復しているようで、指先足先は段々と冷えていく。
「ライ!」
濛々と立ち込めていた煙が少しずつ薄れ、視界が開ける。目の前の出来事に呆然と立ち尽くしていたセイロンは、横から飛んでいったリシェルの甲高い悲鳴に我に返って唾を飲んだ。じゃり、と奥歯に細かな煤が挟まって嫌な感触がしたが、気に病んでいる暇などない。彼は右腕を大きく横へ薙ぐと、眼前に残る煙を切り裂いた。
それでもまだ曇り気味の視界の下方、バランスを失い崩れ落ちた木箱に埋もれる格好で床に横たわっている小さな身体を見つけ出した彼はその瞬間、ズンと脳天に巨大な金盥でも落ちてきた衝撃を受けて立ち眩みを起こした。気づかなかった血の臭いが意識した瞬間に喉元へ痛烈な吐き気を呼び起こし、胃の中身が逆流しかかったのを必死で押し留めセイロンは自分までもが崩れそうになるのを懸命に堪えた。
「リシェル、治癒を!」
反射的にカウンターの向こう側にいる少女に怒鳴りつけて、セイロン自身はストラを施すべく丹田への意識集中に取り掛かる。だが目の前の黒と赤に濡れた惨状がどうしても彼の心を乱し、上手くいかない。
「え、え?」
まだ床の上で倒れている少年の姿を視界に収められていない少女は、セイロンの怒号に顔をあげ、視線を沈め、どこを見て良いのか分からない様子で右往左往している。言われて慌ててポケットに手を突っ込み、鉛色のサモナイト石を取り出すけれども、どれがどれだったかが分からなくなっているようで、掌に転がしたそれぞれをひっくり返している。
「ベズソウ、違う。ドリトル……違う、これも、これも……」
早口にまくし立てるが、感情と思考が行動についていかない様子で、同じ石を何度も指で抓んでは違う、違うと繰り返す彼女にセイロンは反射的に舌打ちしていた。
せめてリビエルがいてくれたなら、そう思うが生憎彼女の姿は何処にも見当たらない。大きく響き渡ったライの悲鳴を聞いた誰かが、何事かと駆けつけてくれるならば良いが、そうならない可能性だって充分にあるのだ。セイロンは内心の焦りを隠せぬまま、膝を突いて床に屈んだ。
膝元に添えた掌に、ぬるりとした感触が伝わる。整った眉目を顰めた彼は再度舌打ちし、摺り足気味に前へと進み出た。先ほどまで自分が居た地点には崩れた木箱が横倒しになって、中身が無残な状態で散乱している。
だがそれらを丁寧により分けている猶予は彼になく、セイロンは乱暴な手つきで転がっているものを後ろへと投げ捨てる。キッチンを覆い隠していた煙は今や殆どなくなり、涙目のリシェルもまたセイロンが投げては落ちて行くものの軌道を追って自分もまた、必要ない攻撃系の召喚石を後ろへ放り投げた。
早く、早く。ことの顛末を知らず、何が起きているのかまだ良く分かっていないリシェルも、セイロンが治癒を求めたことからライになにかあったのだというのは想像が付いているらしい。段々と青褪めていく彼女が最後に残った石を握り締めたところで、セイロンもまた木箱の隙間に倒れているライを見つけ出した。
店主、と呼びかけようとして彼の声が止まる。舌の上には乾いた息だけが滑り落ちていき、ほぼ同時に吸い込んだ埃っぽい空気に彼は喉を硬直させ、布地を越して染みこんで来る生暖かな液体に全身を強張らせた。
濡れた手で、己の口元を覆う。苦い、錆臭い味と臭いに彼は一瞬にして顔色を青くさせ、掠れた声にならない悲鳴をあげた。
まさか、そんな。ありえない、どうして、何故、こんなことに。
様々な出来事が脳裏を去来し、セイロンを責め立てる。自分がもっと慎重に行動をしていれば、言葉を選んでいれば、行為を慎んでいれば。沢山の “もしも”に彩られた取り返せない時間が、彼の心を握りつぶした。
「インジェクス、お願い!」
鼓膜を突き破るリシェルの声。惚けていたセイロンはハッとして、自分の前に横たわっている存在に目を向ける。指の隙間に流れ込み、堰き止められた赤い液体に唇をきつく噛み締め、彼は鈍い動きで灰色に汚れたライの頬に触れた。
「うぐっ……」
途端、ひくりと動いた彼が苦しそうに息を吐く。生きている、まだ生きている。
「ライ、どこ!?」
指先を伝った微かな体温と気配に思わず安堵しながら、それでも全容が見えていない以上慢心してはいられない。セイロンは彼の胸から下半身にかけて覆い隠している木箱を蹴り飛ばし、最後にライを引きずり出そうとして彼の腕を取った。
軽く引っ張って、
「うぁぁぁ!」
絶叫をあげたライにセイロンは目を丸くし、急ぎ彼の、まだ半分隠れている足を見た。何か、黒いものが床に突き刺さっている。
セイロンの腰の高さまであるもの、一直線に床に突き刺さり根元は逆さまになった木箱に隠れて見えない。
ぞわり、と悪寒がセイロンの中を駆け巡る。まさか、まさか、まさか、まさか。
まさか―――――
「ライ!」
床を流れる血の行方を追いかける。どこから流れてきているのかを探す。意識を失っている彼は荒く呼吸を繰り返し、激しく胸を上下させて苦痛に耐えていた。その上半身は擦り傷や打撲傷は見えるものの、セイロンの衣服をべっとりと汚すほどの出血はみられない。
ならば、この大量の血は、いったい。
血の気が引いたままのセイロンは、最後にライの上に残っていた木箱をゆっくりと退かした。リシェルもまた、呼び出したインジェクスをどう扱うべきかで困惑気味にセイロンを見、開かれたキッチン内部にカウンターから身を乗り出した。
「――――っ!」
直後、彼女は今にも卒倒しそうな勢いで後ろへ身体を傾がせ、よろよろと後退していく。カウンターに置いていた手は悲鳴を押さえる為に口元へ、ふたつとも硬く重ねられて小刻みに震わせる。
あふれ出した涙が頬を伝い、最早それは彼女の意思では止められない。呼び出されたままのインジェクスが中空に浮かびながら困惑しているのが伝わってくる、だが彼女は何の指示も出せなかった。
出せるはずがない。
「くそっ」
セイロンが悔しげに息を吐き、握り締めた拳を床へ叩きつける。跳ねた血が炭と混じって彼の頬に跳ねた。
「はっ……ぐ、ぁぁぁ……」
意識を手放せないでいるライは時折全身を痙攣させ、苦しげに熱のある息を吐き出す。キッと唇を引き結んで顔を上げたセイロンは、鈍い痛みが残る拳を持ち上げてライとの距離を詰めた。頬に触れ、撫でると薄らと瞼を持ち上げたライが、アメジストの瞳を揺らして彼を見た。
だが焦点が合わず朧げな輪郭だけでしか視界を確保できないライは、紫色に変色した唇を懸命に動かし、何かを呟こうとした。
「いい、喋るな」
「……ぃ……」
「喋るな!」
声を荒立てたセイロンは彼の肩を抱きあげると、床に沿えた膝に載せた。傷に触らぬよう慎重にライを動かし、背中に手を差し入れて彼を支え、決して動かしてはならない右足に視線を集中させる。
床に突き刺さる黒い鉄の棒、竃の火を調節する為に用いられる火掻き棒は垂直にそそり立ち、まるでセイロンを嘲笑っているかのようだった。
悔しさに涙が出そうなのを堪え、彼はこのあとどうすべきかを考えて躊躇する。下手に動かせば傷を深くさせるばかりで、しかしこのままでは出血は止まらない。リシェルはもう頼りに出来ない、宿は無人なのか誰かが様子を見にくる気配もない。
焦りがセイロンを呑み込もうとしている。
「店主……我が分かるな」
ライの太股に突き刺さった鉄の棒。重く、太く、鋭く、そして不衛生な。
出血量は半端では無い、このまま放置すれば間違いなく失血死となる。だが太い血管を傷つけている可能性を考慮すれば、不用意に引き抜くのは危険だった。治癒を施しながらゆっくりと、慎重に、細心の注意を払って抜き取るしかない。だが果たして自分にそれが出来るのか。
ストラの回復だけで追いつくかどうかも、分からない。ショック状態にあるライに無理をさせるわけで、彼の体力がもつかどうかの保障もない。
「…………ぅ、――――」
力なく崩れている彼の手を取り、きつく握る。白く冷たい手に己の熱が伝われば良いと願い、セイロンは彼の左側から頭を抱くようにして彼に顔を寄せた。右腕を伸ばし、意識を高めながら床に聳える鉄の棒へと触れる。
「――――あ゛あ゛あ゛!!」
だがたったそれだけでもライの全神経は鋭い痛みを発して彼に襲いかかり、熱を暴走させて彼の身体を本人の意思に関係なく掻き乱した。跳ね上がった左足が床を蹴り、その衝撃に右の太股がまた揺れる。セイロンは膝を打ったライの背中に驚き、彼は細い目を更に細めて苦悶の表情を作った。
手の施しようがないだなんて、思いたくもない。
だが、これはあまりにも絶望的過ぎる。
「店主、しっかりしろ。大丈夫だ、必ず助ける!」
そんな事が堂々と言える根拠もないくせに、と自分の後先考えない発言を後悔する余裕もなく、セイロンは必死に自分を宥めながら右の掌に研ぎ澄ました意識を集約させていく。
青白い、そして夜空に神々しく輝く月を思わせる光。
呼吸を整え、心を落ち着ける。左手でライの頬を撫でながら彼の意識が深く沈んでしまわぬように気を配り、薄く開かれた瞼の向こう側が自分を見ているのに安堵する。
けれど足りない、ストラだけでは。
流れ出た血の量が多すぎる、治癒の奇跡でも体力を消耗しているライには今や毒だ。外からストラによって補ってやれる分にも限界がある、破れてしまった血管を補強してやれても外へ溢れてしまった彼の血までは戻せない。
セイロンは奥歯を噛み締め、心を決めるとライの額にそっと口付けを落とした。大丈夫だからと彼を安心させ、自分をも鼓舞するためにそっと、触れるだけのキスを。
「………ロ……」
「心配ない」
微かに揺れる彼の唇は、音らしい音も刻めぬままただ震えるばかり。本当はそこへも口付けを落としたい気持ちを押しとどめ、彼は意を決して彼の右太股を貫く鉄の刃を握り締めた。
ぎりぎり、彼の赤黒く染まった肌に触れるくらいの距離に。ストラを込めた拳を宛がい、渾身の力を持って引き抜きにかかる。
「ア――――っ!」
瞬間、カッと見開かれたライの瞳が虚空を射抜き開かれた唇からは乾いた、音にならない声が溢れ返った。かはっ、と空気の塊を吐き出した彼の上半身が激しい痙攣を起こし、セイロンを強く揺さぶる。膝から落ちそうな身体を彼は懸命に抱き支え、折れそうになる心を叱り付ける。
傷口から噴出す血、そこにストラを注ぎ込み少しずつ彼の肉を抉っている鉄棒を引き抜いていく。柔らかな筋肉を摺る感触が肌を伝い、指の隙間にもぐりこんだ血が滑って握る力を弱くして彼の心を挫こうとする。奥歯を噛み締めた彼は必死の形相で堪え、自分よりもずっと痛みに苦しんでいるライにすまないと何度も詫びた。
「うああああああぁぁああぁがぁぁぁぁあぁあぁぁあ――――!!」
喉が裂けてそこからも血が噴き出そうな悲痛な声に、リシェルは首を振りながらへなへなとその場に膝を着いた。彼女の気力が尽きると同時に召喚された異界のものも姿を消し、両耳を塞いだ彼女は聞きたくないと折り曲げた膝の間に頭を押し込む。
カタカタと噛みあわない奥歯が寒くもないのに打ち震え、帽子ごと抱きかかえた頭を床へ押し付ける。溢れる涙は止まらず、頬だけではなく彼女の顔全体を濡らして途切れることがない。しゃくりをあげて上手くいかない呼吸を繰り返し、彼女は赤く染まった床に倒れる白い髪を必死に脳裏から追い出した。
助けて、と叫ぶ。心で。
お願い、誰かライを助けて。
彼を助けて、誰か。
誰か――――
セイロンの腕にはずぶずぶと肉が抉れる嫌な感触が伝わってくる。溢れ出す血は止まる気配がなく、鮮血が彼の手を、袖を、顔を、髪を黒く染めあげる。最早彼の衣服を飾る文様は姿を隠し、重くなった布は肌へと張り付き剥がれない。
鉄の棒が擦れ合うたびにどこかの血管が引き千切られているようで、更に綺麗な円錐ではなく凹凸のある表面は彼の神経を容赦なく傷つけた。
ストラの回復量が彼のダメージに追いついていない。絶望的な気持ちに陥りそうになる自分を励まし、セイロンは荒い呼吸で必死に生きようとしているライをより強く抱き締めた。そんな事をすれば余計に彼の傷に響くと分かっていても、止められなかった衝動に彼は唇を血が滲むまで噛んだ。
セイロン自身も限界が近くあり、掌を包む淡い光は常に揺れて頼りない。鉄棒は未だ彼の内腿を貫いたままで、床からは外れたものの骨の間に挟まってか動きは鈍くなりつつあった。セイロンは肩で息をすると右の奥歯を噛み締め、ぐっと腹に力を込めて鉄棒を握り直す。油断すれば容易く滑ってしまう指は痺れて感覚も遠く、見れば皮膚が裂けて自身の血も滲んでいた。
「ライ……」
これが、罰だというのか。
指が引き千切れそうな痛みに耐え、セイロンは目を閉じる。口の中に広がった血の味が苦しくて、彼は呼吸さえ止めてそれを唾と一緒に飲みこんだ。
ふわり、と空気が下から上へと流れていく。
「…………」
何かが彼の顎に触れて、セイロンは目を見開き真下を向いた。気が抜けて右手の力が萎んでしまうのにも気づかず、彼は呆然と己を撫でている存在を視野の中央に置く。
何故、と。
ライが微笑んでいた。
灰色と黒と赤の斑に染まった髪と顔で、けれど澄み切ったアメジストの瞳は以前と同じく穏やかな色をしていた。薄く微笑みを浮かべた唇は色が抜けて土気色にまで落ち込んでしまっているし、額やこめかみに浮かぶ汗は生温く、彼が苦しい状態にあるのはなんら変わっていない。
それなのに彼は、辛いのを我慢してセイロンへと手を伸ばし、本人が気づかぬうちに流していた涙を汚れた指で掬い取った。
光、が。
セイロンはライから、いや、ライの周辺に浮き上がった微かな光に目を奪われる。
それは蛍火よりも弱く、小さく、床に積もった灰塵にも等しかったけれど、明らかに性質が異なり、ゆらゆらと下から上へふたりを包むようにして広がっていた。いったいいつの間に、どこから、とセイロンが困惑に眉間へ皺を寄せるが、ライはこれを不思議に思う様子もなく、むしろ光の温もりを心地よいと感じているようだった。
「これは……」
自然と右手から力が抜けていき、セイロンは血と灰真っ黒になっている己の掌を広げた。中空を漂う光がふよふよと当て所なく彷徨い、やがて彼の人差し指付け根に落ちる。すぅ、と音もなく粉雪のように一瞬で解けて消えた光に、微かに覚えた痛みで喉を引き攣らせた彼は、しかし次の瞬間驚愕に心を支配された。
指を曲げ、伸ばす。皮の剥けた指の付け根から滲み出ていた血は止まり、ぱっくりと開いていた箇所が真新しいピンクの肉に覆われて塞がっていたのだ。完全とはいかないが痛みも殆ど消えてなくなっており、わけが分からないと彼は浅く息を吐く。
震え上がった心臓を押さえ、セイロンは改めてライの右太股へ視線を流す。淡い光は思った通り、そこに集中していた。
どこかから湧き上がる光が彼を包み、癒している。セイロンは何者かの意思をそこに感じ取るが、それが果たして誰のものなのかまでは分からない。ただ微かに伝わってくる慈愛に満ちた感情が、セイロンにも安心して、大丈夫だからと語りかけているようで、彼を勇気付けた。
休めていた手に力を取り戻し、彼は未だライを貫いている無骨な鉄の棒との格闘を再開させた。下を向けば流れて行く光の欠片を瞳で追っていたライも気づき、セイロンを見上げる。汗ばんだ肌がかわいそうで、拭ってやりたい気持ちに駆られたが両手は塞がっていて自由にならない。何かを呟かれたが聞き取れず、セイロンは腰を屈めて若干無理な姿勢を取り、少しばかり色を取り戻しつつある彼の唇へ耳を寄せた。
「うぐ……っ」
鉄棒を強く握れば、その度に彼は苦しげな息を吐く。耳朶に掛かる呼気は熱く、こみ上げる切なさに心臓が押し潰されそうになりながらセイロンはそれでも彼へストラの癒しも施し、出血が徐々に減りつつある彼の肉を穿つ存在を排除していった。
荒く、短く、幾度も息を吐く。肩を大きく上下に揺らし、彼は渾身の力で最後の抵抗を封じ込め、ライから火掻き棒を引き抜いた。
血肉がこびり付いた鉄が、重い音を響かせて床に転がる。宙を舞った血液が床の血溜まりに跳ね、セイロンの手首を汚した。彼は構わずに疲れた肩をだらりと垂らすと、黒々とした火傷のような痕になっている彼の太股に視線を投げる。
光が穴を塞ごうとしているのか、集まって大きさを増していた。鉄棒を引き抜いた瞬間にも痙攣を起こし、耳を覆いたくなる悲鳴をあげたライはぜいぜいと喘ぎながらセイロンの左腕に身体を横たえ、ぐったりとしている。
意識は残っているが今にも途切れてしまいそうな様子で、強く肩を抱くとそちらの痛みに気が紛れるのか左だけ瞼を持ち上げて弱々しくセイロンを見上げた。
「大丈夫か」
そんなわけがないのに他にかける言葉が見当たらず、己の語彙の少なさに嫌気をさしながらセイロンは彼の瞳を覗きこんだ。
殆ど力の入らない肘に無理をさせ、彼はライの太股に手を置く。残っている最後の力を集めて彼の表層部の傷を癒せば、傷口が熱いのか彼はセイロンの膝で鯉の如く跳ねた。
「くぁっ……あ、はぁ……」
身体全部を使って呼吸し、熱を吐く。力の抜けた首がセイロンの胸に寄り掛かり、先ほど彼の頬を撫でた手が上着を捕まえた。
治癒はまだ完了していない。傷口が塞がっても血液が即座に復活するわけではないから、貧血状態が続いて当分起き上がれないだろう。表面上は治ったように見える傷も、内側は完全に癒えたとはいえない状態の場合もある。予断が許されない状況に変わりは無い、ただ命の危険が遠ざかっただけで。
己のストラが弱まっていくのを感じ取り、セイロンはライの後頭部を撫でながらほうっと息をつく。
自分だけでは彼を救えなかった。痛いくらいに感じて、セイロンは気持ちが苦しくなる。
あの光はなんだったのだろうか、目線を脇へ流すがあれほどに溢れていた淡い輝きはもうどこにも見つけられなかった。セイロンごとライを抱き締めていた何者かの気配も遠ざかり、追跡さえも許してもらえそうにない。だが暖かく、とても優しい声が何処かから聞こえて来た気がして、セイロンは臍を噛む。
それは遠く離れた地に眠る母の手に似ていた。だとすれば、あれは。
「ライ……」
か細く震えるリシェルの声に、意識を彼方へ飛ばしていたセイロンは顔をあげて振り向く。カウンターに寄り掛かる彼女の涙でぐちゃぐちゃになった顔に、もう大丈夫だと薄く笑んだ表情で告げれば、あの光を見ていないのか彼女はその場で再びへなへなと崩れ落ちた。
今頃になってどかどかと足音が聞こえてきて、セイロンはライの呼吸が落ち着いているのを確認してから疲れ切っている身体に鞭打ち、彼を両手に抱きかかえて立ち上がった。
なるべく傷口に障らぬ様、ゆっくりと時間をかけて。台所に駆け込んできたリビエルとコーラル、そしてアロエリの顔を順番に眺めた彼は、お互い血まみれの自分たちをさてどうやって説明しようか、と木箱に囲まれながら苦笑した。
「ライ!」
「……っ」
乾ききっていない血はライの白い足を汚し、床へと滴り落ちていく。セイロンは赤黒く染まったズボンが肌に張り付く気持ちの悪さを堪えながら、青褪めた顔で倒れそうになっているコーラルに、心配は不要だとだけ告げた。
アロエリがコーラルを後ろから支えるのを見て、リビエルが遠慮がちにふたりに近づく。この時既にライは意識を手放していて、熱っぽい息で浅い呼吸を繰り返しながらセイロンの胸に額を押し付けていた。
「本当に、大丈夫ですの?」
床に広がる血溜まりから出血量を把握したリビエルのくぐもった問いかけに、セイロンは恐らくは、とコーラルには聞こえないよう声を潜めて返す。傷は塞いだが出血量が多く、体への負担も相当なものだから恐らくはこの後熱が出るはず。体内残る雑菌が悪さをする場合も考慮せねばならず、それらに打ち勝つだけの体力がライにどれくらい残っているかは、未知数。
自身の胸に手を当てて不安に目尻を下げた彼女は、自分が出来る癒しが役に立たないのを悔いているようだった。もっと早く駆けつけていたなら、と呟いたリビエルにセイロンは首を振って返し、リシェルの様子を見てやってくれるように頼みこむ。
「貴方は?」
「店主を部屋へ。このまま此処に置いておくわけにもいくまい」
至極尤もな返答にそれもそうだと頷いたリビエルは、言われて気づいたリシェルの存在に慌ててカウンターを回りこんでいった。入れ替わるようにアロエリに支えられたコーラルが歩み寄って、怯えを含む表情で手を伸ばし、意識のないライに触れる寸前で躊躇して肘を引っ込めた。
アロエリの問いかける視線に淡く微笑んで返し、セイロンはずり落ちそうになるライの体を抱き直した。彼の足は、特に右足は元の肌の色が分からないくらいに赤黒く変色してり、布地に染み込んで乾いた部分が重たそうに先を垂れ下がらせている。
「セイロン」
「今は気を失って眠っているだけだ」
「……そうか」
名を呼びながらもアロエリの視線は彼の腕の中に向いていて、肩を竦めた彼は手短にそう返すに留める。あの光の正体は不明のままだし、言わない方が良いだろう。そう判断した彼は彼女に湯を沸かして清潔な布を用意してくれるよう頼み、歩き出した。
「あ……」
半歩遅れたコーラルがついていくべきかで迷い、俯く。行っても邪魔になるだけだと悩んでいる様子で、ここは自分が片付けるからと横から囁いたアロエリに顔を上げた幼子は、感謝の心を込めて彼女に頭を下げると、一足先にキッチンを出ていたセイロンを追って小走りに駆け出した。
なるべく衝撃を与えないようにゆっくりと進んでいたセイロンに追いつくのは簡単で、コーラルは小さく肩を揺らし横に並ぶ。ライはセイロンに首を向けているので、背丈が足りないコーラルには育て親の顔が見えない。様子を窺うようにしてそわそわとセイロンを見上げる竜の子に、彼は罪悪感を隠しながら笑みを返した。
大丈夫だから、と頭を撫でてやりたいところだが、両腕は生憎ライの身体で埋まっている。上手くいかないものだと嘆息した彼は、辿りついた角の部屋の扉を前に難渋した。
気づいたコーラルが横から手を出してドアを開けてくれ、入り込んだ部屋は主人が朝起きた時のまま。
シーツが捲れ上がり、片側に寄せ集められている。斜めになった枕が互い違いにふたつ並んでいて、点々と床に続く赤いシミを思い出したセイロンは、果たしてこのままベッドに彼を寝かせて良いものか考えた。
けれどそろそろ、人ひとり分の体重を支え続けて来た彼の両腕は限界を訴えていた。このままではライを床に落としてしまいかねないセイロンは、シーツ一枚くらいで細かい事は言わないだろうとライの性格を熟考し、ベッド脇に歩み寄ると右の膝を先に曲げて腰を屈めた。
腕を伸ばし、身体ごとベッドに乗りかかるようにしてライをクッションが効いたベッドへと下ろす。最後に背中とシーツの間に挟まれた腕を引き抜き、一息ついた彼はそのまま膝が抜けて床に崩れた。
「……ぁ」
後ろで見守るしかなかったコーラルが声を上擦らせ、尻餅をつく格好で座り込んだセイロンに一歩近づく。なにより本人が驚いている様子で、目を丸くした彼は肩越しに振り返って目があった相手に参ったな、と苦笑いを浮かべた。
一気に力が抜けた感じだ、よく見れば膝も笑っている。床に着いた指先は細かく震えていて、人前ではどれだけ自分が虚勢を張って気丈に振舞おうとしていたのかが知れた。決して情けない姿を見せてはいけない、ゆくゆくは同胞を従えて龍に至る道を志すと己に課した枷は、無意識にセイロンを締め上げていたらしい。
右肘は辛うじてベッドの上に引っかかって残っており、指先が横たわるライの腕に触れる。感じる体温の確かさに胸を撫で下ろし、彼は爪で床を引っ掻くようにして左手を握った。
コーラルはそんな彼を笑いもせず、じっと見詰めている。表情から感情が読み取りづらいのはいつも通りだが、何かを考えている様子にセイロンは顎を持ち上げ、腰を捻って振り返った。
「御子殿?」
「……あのね」
コーラルは小さく呟くと、セイロンの真横に並び同じように膝を折った。腰を浮かせ気味にして足を揃え、そこに腕を重ねる。身体の正面はベッドを向いているが、首から上は角度をつけてセイロンの横顔を窺い見ていた。
一度言葉を切り、瞳だけを動かして眠るライを見る。セイロンもまたライの寝顔に目を向けて、背筋を伸ばすとぎりぎり届いたシーツを引っ張り彼の身体に被せた。腕を戻す最中に指を曲げ、彼の頬の汚れを軽く擦って拭い取ってやる。
穏やかで慈しみに溢れている彼の横顔に向き直ったコーラルは、丸めた手を顎に押し当てて視線を伏した。擽られたのに反応したライが、目を閉じたまま顔を顰めて首を振った。頬の位置が入れ替わり、セイロンの指に彼の唇が触れる。
「……」
無事でよかった、その一言に尽きる。同時に己の力の無さを痛感させられ、自分が不用意に招いた行動の帰結を彼は悔やんだ。
もっと注意を払えばよかった、もっと言葉を選べばよかった。自分ばかりを優先させて、自分の考えを彼に押し付けて、それで終わりにしようとした。話し足りない様子だった彼を振り切って立ち上がった時の自分に戻れたならいいのに、今更願ってももう遅いけれど。
唇の柔らかさに笑みを浮かべ、セイロンは血がこびり付いている彼の髪を撫でた。後で綺麗に拭ってやらなければならない、血と灰で汚れきった彼をこのままにしておきたくなかった。
「なに、……あったの?」
静かな声が響き、セイロンは手を止めて横を向く。瞳だけをじっとセイロンに投げつけるコーラルの問いかけに一瞬ぎくりとした彼は、視線を彷徨わせて結局ライの横顔を見つめた。
「店主が竃の掃除をしている時にバランスを崩した木箱が崩れて、上に乗せていた火掻き棒が」
「ちがう」
全てを見ていたわけではないからと憶測が混じるけれど、と前置きした彼の言葉を遮り、ぴしゃりと言い切ったコーラルは首を傾けて膝に置いた手に頬を載せた。
「きのうの、夜」
「…………」
跳ねた心臓がまた不穏気味に拍動を速めたのが分かる。何故そのことを、とつい口に出しそうになって、寸前でセイロンは言葉を飲みこんだ。
ライはこの部屋でコーラルと一緒に眠っている。昨晩、逃げ出したライが向かったのは他でもないこの部屋だ。戻ってきた彼の様子がおかしいことくらい、同室のこの子が気づかないはずが無い。何があったか、と聞いてきているのでライが詳細を告げたわけではないだろうが。
「セイロン」
「なんでしょう」
「喧嘩、よくない」
「……そうですね」
単に仲違いしたのだと思われているだけなら、まだ救いがある。ふたりして眠るライの穏やかな表情に頬を緩め、セイロンは崩していた足を寄せると片膝を立てた。
「店主は何か……言っていましたか」
「ううん」
声を潜めて問えば、コーラルは静かに首を横へ振る。セイロンに倣ったわけではないだろうが、同じく腰を落として三角に膝を立て、両手で抱き締めて胸を寄せた子は長い髪をそっと引き寄せた。
「でも、五月蝿かった」
「……」
気持ちよく眠っていたところを騒々しく起こされて、また眠ろうとしたけれどベッドの隣に潜り込んで来たライは明け方までずっとひとりで唸っていた。敢えて何も言わなかったコーラルだけれど、そんな状態で熟睡できるはずもなく。
朝の台所での騒動も、虫が五月蝿かったなどと言ってはみたが本当のところは違う。ただ睡眠不足の理由をライは言いたくなさそうだったので、そういう形にしてみた。実際コーラルがああ言った時のライは助かった、という表情をしていて、幼子の助け舟がなければ騒ぎはもっと長引いていただろう。
けれど、だからこそ。コーラルは首を曲げてセイロンに顔を向けて、まだどこか眠たそうな目を細めた。夜中、それこそ一晩中ライが唸っていた名前の男。
朝方に頭上に展開していた女性陣の邪推まみれの会話は、まだコーラルが全部を完全に理解するのも難しいけれど、彼の名前を出さなかったのは正解だろう。
キスマーク、マーキング行為。その意味、意図、想い。知識としてはあっても、理解は追いつかない。ただ獣と同じで己の所有物だと主張する目的があるのだとすれば。
「セイロンは」
コーラルではなくライを見詰めている男の横顔を、コーラルは睨むように見詰める。自分を支えてくれる御使いのひとり、大切な仲間。自分と同じくらいにライを支え、助け、共に戦ってくれる頼もしい存在。
「お父さんのこと」
すき?
え、と目を丸くして振り向いたセイロンの耳に、騒々しく床を踏み鳴らし近づいてくる声が響く。
「どいてどいて~」
「ああ、もう、零れてますわよ!」
リシェルとリビエルだ。湯を沸かしてくれるよう頼んでいたのを思い出し、セイロンはコーラルからそのまま視線をずらし、戸口を見た。中断させられた会話に頬を膨らませたコーラルも、セイロンがゆっくりと体を持ち上げて立ち上がるのを見送り、首を振る。
ライを取られるのは、嫌だ。けれど彼も失えない。
彼の汚れ切った着物の裾を掴み、引く。注意を自分へ向けるように仕掛け、コーラルは最後に彼に縋った。
奪わないで、と。
けたたましく部屋に雪崩れ込んできたふたりに肩を竦めたセイロンは、俯いた先で座り込んでいるコーラルを見返す。
彼はライとコーラルを、同じ土俵で扱うつもりは無かった。コーラルは守らなければならない、御使いとしての勤めとしても、旅の最中に自分を必要としてくれた先代に報いるためにも。義理は果たすし、終わりまで付き合う。そうでなければ喪われた多くの魂に対しても示しがつかない。
ライも大事だ。最初は威勢が良いだけの子供かと思っていたけれど、接していくうちに考え方は呆気なく覆った。気風のよさと良い、思い切りの良さといい、気持ちがいいくらいの彼の考え方は好ましかった。春の草原を駆け抜ける青臭い風にも似て、その背中をどこまでも見守っていたくなった。
セイロンは自分の服を掴むコーラルの手に掌を重ねた。強張っている指を一本ずつ解いていき、乾いた血で汚れてしまった肌を撫でやる。
「ご心配召されるな」
自分は見守ると決めた、そしていずれ自分はこの場所を去っていく。想いは、墓場まで持っていく。だからコーラルの心配は杞憂だと暗に告げ、彼はすぐに崩れたがる足腰を叱咤して女性陣から湯の張った盥を受け取った。ついでに渡された布を湿らせ、自分の両手を洗う。皮膚の細かな隙間にまで潜り込んでいた血は一斉に溶け出し、透明だった湯は見る間に赤黒く濁っていった。
「セイロン、貴方も着替えなさいよ」
「そうだな。……そうしよう」
この場は彼女達に預けても大丈夫だろう。ベッド脇に座っているコーラルと、動かないライとを交互に見詰め、セイロンは頷いた。
「任せた」
泣き止んではいるものの、まだ目が充血しているリシェルの頭を軽く撫で、セイロンは右足を引きずるようにしてライの部屋を出た。後ろ手に扉を閉めると、ずっしりと肩に重圧を感じて彼はその場で激しく咳き込み、肩を壁に押し付けてもたれかかった。
浅い呼吸は気管支にもぐりこんだ煤がまだ健在であると教えていて、情けないと自嘲気味に笑い彼はよろめきながら起き上がる。台所の片付けはアロエリがやってくれているのだろうか、男勝りの彼女の姿だけが見えずに想像を巡らせ、彼は自分に宛がわれた部屋へと向かう。右肩が痺れてあがらず、半身は時々壁にぶつかってその度に頭がふらついた。
思い返す、幾人もの顔。ライが傷つけば皆が心配し、不安を抱く。誰もが彼を失うのを恐れているし、大切な存在だと感じている。
だからこそ、彼に選ばせるわけにはいかない。突出してしまった自分の感情を押し殺し、セイロンは自分の額に爪を立てた。
「それくらい……分かっている」
コーラルの瞳が蘇る。言葉よりも雄弁に語りかけたあの瞳に、自分は抗えない。そのつもりもない。
だからあの時、ライが呟いたことばをも彼は聞かなかったこととして記憶の闇に葬った。大量出血で意識が朦朧としている最中、セイロンに触れながらライが告げた想いを。
本人もセイロンにあのことば呟いた事を覚えていまい。だから無かった事にしてしまう、自分は聞かなかった、聞こえなかった。忘れろ、暗示は幾重にも重なってセイロンの記憶を塗りつぶした。
「……はっ」
歪んだ笑みが落ちる。彼は掠れた声で笑い、赤黒く染まった髪を掻きむしった。頭皮が引っ張られ痛みを訴えるが、全てを無視し彼は胸に沸き踊る己の嘲笑を蔑んだ。
最初から望みのない想いなど、何故抱いたのだろう。自分はあこがれたのだ、彼の自由さを。決して誰にも汚し得ぬ崇高さを。貫き通す強さを。
自分には無いものを遍く内包している彼を。
焦がれたのだ。
謂われ無き蔑視を受けても、不遇な扱いを受けても挫けずにむしろそれを糧として背筋を張り、己を高めようとする彼の気概に。竜の子等というとてつもなく重い存在を前にしても責任を果たすと誓い、その通りに実行する彼の心根の優しさと強さに。行き場のない者を等しく扱い、命としても扱われぬ者達への涙を厭わない素直さと、偏見を持たず全ての命は優劣の無い尊いものだと認識する懐の広さ、深さ。
誰もが理想と掲げながらも実践するのに躊躇し、結局は踏み出せないでいる一歩を気後れもせずに当たり前のものとして受け入れている彼の、魂の清らかさに。
だからこそ、告げられるわけがない。この汚らわしく後ろ暗い、浅ましいまでの感情を、彼に知られたくはない。こんなにも自分が卑小な存在である事実を、わざわざ教える必要もない。
抱きしめたいだけなのに、それが出来ない。
許されない。
あの瞳を裏切れない。全幅の信頼を受けているからこそ、あの瞳の奧に先代の意思を感じるからこそ、この感情は間違いであり秘されるべきだと思い知る。
「分かっている……っ」
吐き出した吐息は熱い。眩んだ視界に影が落ち、セイロンは壁に両手を置いて崩れ落ちそうになった膝を支えた。
だから忘れよう、全てを。今は己の想いを全面に出すべき時期ではない。目の前の苦難に立ち向かい、竜の子を支え、優しさに溢れた場所を取り戻す――優先すべき事項を間違えるな、自分に言い聞かせ、彼は床に落ちたひとしずくの涙を無視した。
儚い望みは絶たれた。気付かなければ良かった、知らなければ良かった。
告げるべきではなかった。
「御子殿……申し訳ありません」
ここで詫びたところで、伝わりはしないけれど。
やっとの思いで辿り着いた自室に篭もり、彼は壁に背を預けずるずると崩れ落ちた。両手で顔を押さえつけ、こみ上げる笑いを殺す。
涙に濡れたアメジストの瞳が優しく告げた言葉は、最早過去の遺産でしかない。浅ましき夢として消えてゆけ、祈りは霧散して彼の吐息に掻き消される。
「我は、あの者を……ライを」
最後まで告げさせぬ空気に唇を噛み、彼は己に残る彼の血の臭いに酔った。
2007/2/22 脱稿