a memorable Event

 どんなに機嫌が良かろうと、気分が落ち込んでいようと、時間は関係なく行過ぎて夜は終わり、朝が来る。当たり前すぎて今更論じる気にもなれない事実だけれど、この日ばかりはライも、なんで朝が来るんだよと眩く照りつける太陽に悪態をついた。
「おっはよー!」
 自分の機嫌がどれだけ最悪であっても、生活をしていく為には働いて金を稼がなければならない。ライにとっての労働は、つまり宿屋を営業し食堂を切り盛りして客を呼び込むこと。太陽を恨めしげに睨みつつ背に腹は替えられぬ、と開店準備を急いでいたライの耳に、食堂の玄関から元気のよいリシェルの声が飛び込んできた。
 テーブルに逆向きにして載せていた椅子を下ろす作業中だったライは、その位置から彼女が見える範囲に来るのを待つ。仲が良いことで知られている弟のルシアンの姿も見えて、ライは作業の手を休めてふたりを迎え入れた。
 ぎすぎすした空気をまとったままでいるのは、いい加減やめよう。兎も角今は何を差し置いても、店の営業を問題なく完了させるのが自分にとって最優先事項。椅子の背に腕を置いて身体を傾けたライは、足元を照りつける日差しを避けて考えを切り替えるべく首を振った。
 が。
「おはよう、ライさ……」
「手伝いに来てやったわよ……って、ライ?」
 おはよう、とお決まりの朝の挨拶を互いに口にした幼馴染のふたりは、流石姉弟というべきか、ほぼ同じタイミングで揃って眉根を寄せ、声を潜めさせた。二対四つの瞳が、怪訝気味にライへと注がれる。
「なんだよ」
 何かに遠慮するような、少し怯えているような、そんな感情がルシアンの表情から読み取れて、あからさまにライは顔を顰めた。ムッとなったのがダイレクトに伝わったのだろう、元々気が弱い部類に入るルシアンはびくっ、と肩を震わせて半歩後ろに下がった。
 入れ替わるように前に出たリシェルは、遠慮がない性格そのままにライへ詰め寄り、拳から一本引き抜いた人差し指でライの顔を指し示す。
「どうしたのよ、あんた」
 その顔、と空中を小突く仕草を繰り返した彼女を見返し、ライは頭にクエスチョンマークを浮かべた。分からない、と顔に出ていたのだろうか、彼女は腕を引くと呆れたように大仰に肩を竦めて溜息を零した。
「アンタ、ひょっとしてその顔でお店やるつもりー?」
 酷い顔してるわよ、と真正面から言われてしまった。
「酷い?」
「う、うん……何かあったの?」
 同意を求めたつもりはなかったが、偶々視線が合ったルシアンも姉の台詞に頷いて、心配そうに言葉を重ねる。やや背中を丸めて身体を縮めこませているところからして、今のライの顔は本人が自覚せぬところで相当酷いことになっているらしい。
 もうひとつリシェルのため息が聞こえ、振り返ると彼女は腰に手を当てて、もう片手でキッチンの方を指差していた。
「ともかく、一回顔洗ってきなさい。寝てないの? 隈が出来てるわよ」
 此処は私達でやっておくから、と背中を押され、ライは数歩前によろめいた。肩越しに振り返るとルシアンが遠慮がちに手を振って見送る体勢を作っていて、ライはなんなんだ、と愚痴を零しながらも言われた通りキッチンへ向かい、水桶に張られた水に己の姿を映し出した。
 ゆらゆらと揺らめく水面に、白い髪とアメジスト色の双眸。あまり優れているとは言い難い顔色で、リシェルの指摘した隈が確かに両目の下にくっきりと浮かび上がっていた。睡眠不足が祟ったのか、乾燥気味の肌は荒れていて、指で擦ると毛羽立った古布を思わせる感触が伝わってくる。
 確かに、これは俗に言う“酷い”顔だ。ふたりが驚くのも無理は無い。
 手や食器を洗う用の水がめに手を差し込み、透明な液体を掬い上げて顔に叩きつける。周囲に飛沫を撒き散らしながら数回顔を濡らして両手で軽く擦り、曲げた腰を伸ばしながらフルフルと犬のように首を横回転。両手もまた同じように揺れ動き、ライの足元には彼が飛ばした水滴が小さな水溜りをいくつも形成した。
 おはよう、と階段付近からも声がして、目に入った水を指で弾きながら視線を向ける。湿った前髪が額に張り付いてくるのでそれも押し退け、ライは食堂に姿を現した面々を左から順に確かめた。
 アロエリ、リビエル、そしてコーラル。燃える炎を思わせる赤い髪の青年は、見当たらない。
 ライはタオルを探し、昨晩仕事を終えた後片付けたのだと思い出して、仕方なくエプロンの裾を引っ張り上げてそれで顔を拭いた。乱暴に擦ったので荒れている肌が布目に引っかかり、少し痛い。
「おはよう、ライ。どうかしたの?」
 カウンター越しにリビエルが歩み寄ってきて、赤ら顔になっているライに首を捻る。彼女は顔の割に大きめの眼鏡を指の腹で押し上げ、丸い瞳を横に険しくさせてから、まぁいいわ、と何も喋っていないのに一方的に会話を打ち切った。
 向こう側ではアロエリが、何かを探すようにきょろきょろと落ち着きなく食堂を見回している。リシェルたちはテーブルの準備が整ったようで、ルシアンが持ってきた箒で床掃除を始めようとしていた。
「あら、ライ」
 自分も仕込みの準備に取り掛からなければならない。気分を切り替えて今日も一日乗り切ろう、とやる気を呼び起こしていた最中、出鼻を挫く格好で急にリビエルが甲高い声をあげた。腕まくりをしている最中だったライを見詰め、彼女はまたしてもずり落ちた眼鏡を持ち上げる。
「なんだよ」
 言いたいことがあるなら、さっさと言ってほしい。こっちだって仕事があって忙しいのだから。思わず愚痴が零れそうになったのをぐっと堪え、ライは反対の腕も袖を捲くりつつ彼女を見返す。後方では探し物を諦めたらしいアロエリが、ゆっくりとした足取りでふたりの側へ近づいてきていた。
 リビエルが、ライを見詰めたまま自分の首元を指し示す。付け根付近、ライから見て若干右側。
「ここ、どうかしましたの?」
 とんとん、と指先で白い肌を数回小突いた彼女がそう聞く。だが覚えが無いライは不思議そうに顔を顰めるのみだ、どうかしたのかと言われても、どうもしない。
「赤く、なってる」
 言ったのはコーラルだ。背が低いのでカウンターに両手を置き、背伸びをしてライを見上げている。
「赤く?」
「どうした?」
 話を聞いていなかったアロエリが割って入ってきて、ライの疑問は空気に掻き消される。だが構わずにリビエルが指し示したところを自分でも指を這わせて辿り、コーラルに視線を向ければ逆側だと指摘を受けた。
 首の付け根、左側。服で見えるか、隠れるか、かなりぎりぎりの位置。
 そこが赤いのだと、皆は言う。
「赤……」
 最近、そこに痛みを感じたことはなかったか。まだ生々しくも艶めかしい記憶が一瞬にしてライの脳裏に蘇り、耳元で熱く吐かれた息吹が彼の脳内に色をもって響き渡る。
 顔から火が噴き出るか、と思った。
 ――店主……
 囁きが聞こえる。昼間呼びかけられるときとはまるで色が違う、野生の獣にも似た獰猛さを秘めた男の声がライの頭の中で幾度となく反響し、こだまする。月明かりに照らし出された赤い髪が、瞳が、目を閉じていてもライの前から離れない。
「……――――!」
 跳ね上がった心臓が落ち着きを失い、ライの足を震えさせる。だが今は朝、そしてあの男はこの場には居ない。ライの様子の変化に気づかないアロエリが、振り返ったリビエルの視線を受けて首を振り、それからやおらライを見た。
 その顔が赤いのは、冷たい水で洗った直後だからだろう、と彼女は勝手に判断したらしい。様子が少しおかしいのにも気づかず、口を開く。
「そうだ。お前、セイロンを見なかったか」
 ぴしっ、とライの背後で何かが砕けた。
「…………え゛」
 明らかに上擦り、裏返り、普通の発音ではない声がライの口から漏れ出る。聞きつけたリビエルまでもが変な顔をしてライを見上げ、一部始終を見ていたコーラルだけはあまり興味がないのか、どこか眠そうな顔でカウンターに寄り掛かっていた。
 困ったのは訊いたアロエリで、大仰な反応を見せたライをいぶかしみながら、尚も問いを重ねる。
「いや、だからセイロンをだな」
「な、なんで俺に聞くんだよ!」
 声が裏返ったまま、ライが怒鳴り返した。それがあまりにも唐突だっただけに、その場に居合わせた三人が揃って目を瞬かせ、掃除中のふたりにも聞こえたらしく、立ち上がってカウンターの様子を窺っているのが小さく見て取れる。
 一斉に視線を浴び、荒く息を吐いたライは間を置いてハッと我に返った。
「別に、お前だけに聞いたわけではないが」
 彼女曰く、朝からセイロンの姿が見えない。食堂に行くのに誘いがてら部屋を覗いてみたが、ものけの空でベッドも昨晩使用した様子が無い。彼の事だから万が一は考えづらいが、何かあったのでは困るから所在を探している。そしてこの宿で一番の早起きはライだから、リシェルたちにも知らないかどうか確認を取った上で、尋ねただけのこと。
 それなのに、何故こんなにもライがセイロンの名前に反応するのか。眉尻を持ち上げて疑問を顔に出す彼女に、ライは内心しまった、と思いつつ上手く誤魔化す術が見付からず、忙しなく湿ったエプロンを握ったり、皺を伸ばしたりと落ち着かない仕草を繰り返した。
 知っているか、知らないか。そのどちらかを答えるだけでよかったのだ。それを、こんなにも隠し事がありますよ、と言っている態度を示されれば、アロエリでなくとも興味を抱く。
「知っているのか?」
「いや、や、知っているっていうか……知らない、というか」
 ライが知っているのは、皆が寝静まり夜も更けた頃、この食堂に彼が居たという事だけだ。そういえば彼を突き飛ばして逃げた後、セイロンはどうしたのだろう。呆然とした顔をしているのは見たが、ライはその後自室に戻ってしまったので、その後の彼は知らない。
 アロエリは言った、部屋にも居ないしベッドで休んでいた様子もない。
 つまり彼は、あの後部屋に戻らなかった。
「や、やっぱり知らない」
「なになに、どうしたの?」
 掃除を終えたリシェルが、用具の片付けをルシアンに押し付けて興味津々に近づいてくる。コーラルの横でカウンターに寄り掛かり、肘をついた彼女もまた、不自然なくらいに赤くなっているライに気づいて眉目を顰めさせた。どうしたの、と視線で御使いの女性二人に問いかけるが、彼女達も聞かれては困る立場だ。
 コーラルが欠伸を噛み殺す。目が半分寝入っている。
「いや、こいつが」
 ちょっと様子が変なんだ、とアロエリに指を差されてもライは言葉を返せない。言われるまでもなく、自分が今ちょっとどころではなく変なのは分かっている。
 目の前の現実と昨晩の出来事がごっちゃになって目の前で展開しており、この場に居合わせていない人間の鼓動をすぐ傍で感じている。しかも当のその人物が昨夜から行方不明と来た。
「あれ? ライ、あんた首のところ、虫刺され?」
「え」
 リビエルにも指摘を受けた部分を幼馴染のリシェルにまで気づかれ、ライの声はまた裏返った。持ち上げた手がその場所を隠そうとするが、目敏い彼女は急に剣呑な表情を作ってカウンターに上半身を沈める。一文字に結んだ口でむむむ、と唸り、重ねた両手に顎を置いて変な電波でも飛ばしているのか、ライを怖い顔で睨んだ。
 それは昔から彼女に馴染みがあるライですら臆し、半歩下がってしまうくらいの圧力。
「掃除終わったよ、ってみんなどうしたの?」
 たったひとり蚊帳の外状態だったルシアンも元気よく合流してきたが、異様な空気に包まれているカウンター付近を、特にリシェルの様子を見て近づくべきではない、と判断したらしい。苦笑いを浮かべ、助けを求めるべく視線を上げたライに両手を重ねて既に謝る姿勢を作っている。
 君子危うきに近寄らず、弟は姉に近寄らず。
「リシェル?」
「ライ、まさかアンタ、それ……キスマーク?」
「えええー!?」
 ゆるりと持ち上げた腕でライを差した彼女の一言に、居合わせたほぼ全員が素っ頓狂な声をあげた。コーラルだけが眠たげに目を擦り、頭上で展開している下世話な会話に不参加を表明している。
 ライは首に回した手に力を込め、一層強く握り、赤くなっているらしい箇所を人目から隠す。だがそれが却って怪しいとリシェルに追求され、かといってライは昨晩のことをまさか大っぴらに此処で公表するわけにもいかず、無数の好奇の目に晒されてその場で足を踏み鳴らした。
「な、なんだよそれ」
 そんな単語知らないぞ、と言い返せば、耳年増なリシェルはアンタの首についてる痣のことよ、と怒鳴り返す。横で展開に呆れ気味のリビエルが、助け舟にもならないが、キスの際に吸われたりなどして鬱血した皮膚に出来る痣のことだ、と手短に説明をしてくれた。
 聞いていたアロエリが淡く頬を染め、そっぽを向く。ライもまた首を抑えたまま、そんなものが、と昨晩の出来事に記憶が遡って顔を赤くした。
「誰よ、誰なの?」
 カウンターに大きく身を乗り出したリシェルが大声で喚き散らす。その場でジャンプを繰り返して騒ぎ立てるので、食堂内にも音が大きく響いて床が抜けるのではないか、とライは心配になった。
「だから、これはそんなんじゃなくて」
 言えるはずがない、本当のことなんて。
 あんな風に喘いだ自分がセイロンの腕の中に居た、だなんて恥かしくて言えるわけがない。
「……虫」
 不意に、ぽつりと場の空気を割る声が下から聞こえた。
 興奮しきっていたリシェルも、振り上げた拳を戻しながら視線を声の主へと向ける。まさかこの子が犯人じゃないわよね、と呟くのを聞いたリビエルがあからさまに嫌な顔をし、欠伸を何度も噛み殺すコーラルがゆっくりと視線を上げた。
 目尻を擦り、今にも閉じそうな瞼をどうにか持ち上げてリシェルを見上げる。
「昨日、虫、……うるさい」
「え……?」
 途切れ途切れに単語だけで話をするコーラルの言葉は、直ぐにリシェルの頭の中で助詞を追加して組み立ててもらえなかったらしい。が、数秒置いて真っ先に理解したリビエルが、胸の前で音を立てて手を叩いた。
「御子様のお部屋に、虫が沸いていたんですわね」
 甲高い彼女の声に、コーラルは黙って頷いた。横目でちらりとライを見上げたが、それは見られたライ以外の誰からも気づかれなかった。
「それで、ライさんも寝不足だったんだね」
 朝最初に顔を合わせた時を思い出したらしく、それまでずっと聞いているだけだったルシアンも会話に混じって、同意できないライに代わりコーラルがまたしても黙って首肯した。
 リシェルはまだ納得が行っていない様子だったが、ライと同じ部屋で眠っているコーラルも睡眠不足を隠そうとせずに言うのだから、その通りなのだろうと最終的に追及を諦めてくれた。
「え、と……」
 急に自分に向けられていた視線が他所を向いたので、呆気に取られたライは次の行動に出そびれる。皺だらけになったエプロンを掴んだまま呆然とその場に佇み、カウンターから離れていく仲間達をただ見送るのみ。コーラルもまた、意味ありげな目線を投げかけてきたものの、元から無口な体質故か何も言わず、アロエリたちについて行ってしまう。
 居残ったリシェルも、
「ライ、お腹すいた」
 色気よりも結局は食い気が勝るという事だろうか。再びカウンターに寄り掛かり、脱力仕切った顔でそう言い放つ。横でルシアンが苦笑し、気力を削がれたライも肩を竦めて握り締めていたエプロンを放した。
 自分では分からない赤い肌を指で擽り、ぶり返してきた記憶を振り払ってライは仲間の為に朝食の準備に取り掛かる。優先事項を決めて、セイロンはこの際後回しだ。自分だって空腹だし、このまま放っておいたらリシェルがまた暴れだすかもしれない。そうしたら今度こそ、宿は崩壊の危機に直面させられてしまう。
 仲間達は思い思いの場所につき、開店の準備を手伝ってくれている。過保護なアロエリに言われたのか、コーラルだけがテーブルに突っ伏して居眠りの姿勢を作っていて、部屋からタオルケットを持ってきたリビエルがその肩に掛けてやっているのをちらりと見た。
 ライは気を取り直し、ずり落ちかけていた袖を再び捲くって、手を洗う。空腹で倒れそうだと元気一杯にカウンターを叩いているリシェルを無視して、彼はまず井戸から水を汲むべく、空っぽの水瓶を持って台所を後にした。
 開けっ放しの戸口を抜けて、外へ出る。昨夜の静まり返った月の空とは一変し、太陽が燦々と輝く空は水色の絵の具をひっくり返したように綺麗な色をしていた。時折ぽっかりと浮かんでいる白い雲が綿菓子を思わせて、見上げていると自然喉が鳴る。
 宿なので、大量のシーツなんかも洗濯せねばならない。干すスペースを余分に確保しているお陰で広すぎる中庭に目的の井戸はあり、ライは瓶を落とさぬよう気をつけながら小走りにそこへ駆け寄った。
 手入れらしい手入れは殆どしていないからミントの家ほどではないが、緑豊かな庭が目の前に広がっている。茂るに任せている樹木は大振りの枝が空を目指して羽ばたいていて、長旅の途中か翼を休めている鳥の何羽かが、可愛らしい囀り声で合唱していた。一応食事に来る人も気持ちよく過ごせるように、季節の花を植えたりもして工夫している。今は淡いオレンジ色の花が緑の間に点々と咲き誇り、時折吹く風に気持ちよさそうに首を揺らしていた。
 ライは足元に瓶を置き、滑車に通された縄へ手を伸ばそうとして、その前に何気なしに己の唇に指を這わせた。
 他の皮膚とは違った、薄く柔らかな感触が伝わってくる。今は湿り気も殆どなく、擦れば簡単に切れるくらいに乾いているけれど、と左から右へ表皮をなぞって彼は視線を落とした。
 井戸の底は深く、水面は地上からだと見えない。が、片手を置いた石の囲いから砂利が散り、それが闇の中に吸い込まれていってやがて微かな反響をライの耳へ伝えた。風も届かない地底の水面は静かに波紋を広げているのだろう、同じようにライもまた、どうにか静けさを取り戻していた胸の中が、再び淡い細波を広げようとしていた。
 唇に這わせた指にそっと力を込める。それは昨晩、散々セイロンによって弄られた場所だ。
「ん……」
 不意に吹いた風にライは背中に落としたフードを揺らし、身を竦ませて舞い上がった砂を避けた。カサカサと樹木の枝と葉が擦れ合う音が静かに周辺を包み込み、足元に走った雲の影が太陽を一瞬だけ遮り彼から光を奪う。
 視界が闇に落ちる。
 ――飲むか?
 彼の声が蘇る。繰り返し、繰り返しライの中で再生される声色は低く、妖しい空気を携えてライの内部にしみこんでいく。
 リビエルやリシェルに指し示された肌にも指を伸ばす。爪で引っ掻くように触れると、熱くなった肌に吸いついて痣を作ったあの男の火照った顔が目の前に展開され、ライの顔にサッと朱が走った。
 朧な月の光に照らされて、赤い髪が踊っている。背中に回された腕の逞しさに焦がれ、触れ合った箇所から流れ込んでくる熱が心を掻き乱す。柔らかな舌に弄られた咥内に溢れた唾液が喉を這い、濡れた唇がそれをなぞり喉へ食らいつく。
「っ……」
 ぞくり、と背中に悪寒にも似た何かが走り、産毛を逆立てたライは全身に広がりつつある己の熱に困惑した。思い出したくない出来事であるはずなのに、記憶は勝手に逆回転を続けて同じシーンばかりを再生する。
 耳朶に吹きかけられる熱、胸を探る手、鼻腔を擽る酒の匂いに紛れ込んだ男の汗の匂い。ライは意識せぬうちに閉ざしていた唇を薄く開き、なぞらせていただけだった指先を前歯の内側に引き寄せていた。
 柔らかい粘膜を掻き、ぬめる舌の表皮で遊ぶ。指を包み、押し返し、また指で押し返して溢れる唾液が知らず指の股にまで届いて彼の手首さえも濡らした。反対の手は胸元へ落ち、拍動を速める心臓を鷲掴む。
「んっ、ふ……っ」
 仰け反った喉に垂れた唾液が、雲間から抜け出した太陽の光を浴びて艶めかしい輝きを放つ。何をしているのだろう、と自分でも思うのに冷静さを欠いた思考よりも本能が忠実に身体を追いたて、煽られる熱に浮かされて記憶の中の男を求めさせる。
 ライを射抜いた緋色の瞳が、今もまだライの中で棘となって彼を刺激している。あんな顔のセイロンは知らない。あんな男は、知らない。
 でもそれは、自分が知らなかっただけ、で――――
「ん、やっ……セ、……ロン……っ」
 絶え絶えになりつつある呼吸の合間、薄く瞼を開いて光を読み取りながら男の名前を呼ぶ。二本に増えた指が肉厚の舌を別々の動きで追い詰め、溢れる唾液は栓を知らずに喉を汚す。早く店に戻らなければならないと頭の中出警鐘は鳴り響いているのに、止まらない自分に涙が出そうだった。
 彼は何処へ行ってしまったのだろう。
 酔った勢いで好き勝手されたのには、正直憤りを感じている。会えば一発殴り飛ばしてやる、と眠れなかったベッドの上で固く誓ったのに、その決意すら揺らぎそうだ。がくがくと震えている膝は稀に井戸の垣根にぶつかって、微かな痛みをライに与える。その度にハッとなるのだけれど、早鐘を鳴らす心臓に煽られた熱が頭を襲い、身動きが取れない。
「セイロ、ン……」
 目尻に涙が浮かび、繰り返し呼ぶ名前に答える声は無い。乱れきった呼吸が指を暖め、垂れ落ちた唾液がそれを冷やす。口腔内部に溜まった唾を一気に飲みこんで喉を上下させ、一緒になって瞼を閉ざし光の世界から自分を逃がす。
 思い返すのは月の明かりだけが支配する闇だ。
 変、とアロエリにも言われた。
 確かに自分は変だ、おかしい。
 何かが変わってしまった気がする。昨晩の邂逅で自分はセイロンによって、何か分からないものに変えられてしまった。
 こんな自分は、知らない。
「ふっ、んく……っ」
 少量ずつ唾液を飲みこむ動作を繰り返し、ライは嘗て体感した事のない熱に戸惑いの瞳を揺らす。潤み、緩んだ世界を風が真っ直ぐに吹き抜けていって、庭を囲む木立が細波を重ね音の渦を頭上に展開させた。
 腕に抱かれているようだ、一瞬の錯覚にライは目を見張り、喉を鳴らす。垣根を越えた先、緑との中にオレンジ色の花が咲き乱れる庭の裏手から、世界を焼く炎を思わせる赤が不意に姿を現した。
「――――!」
 ライのいる場所とは正反対の方向に顔を向け、通行の邪魔になる枝を手で押し退けてゆっくりと歩く人の姿。朝方から見かけない、と仲間から心配されていた、けれど実力は折り紙つきで、傍若無人なところもあるが義侠心に厚く、自ら憎まれ役を買って出たりする、男。
 ――店主……
「っ――――!」
 囁く声が聞こえる。ライは瞬間的に目を閉じ、地中から足を伝って登ってきた強烈な熱に悲鳴を上げそうになり、必死になってそれを飲み込み、堪えた。噛み締めた指に前歯が容赦なく食い込み、痛みに涙が出る。膝から力が抜け、立っていられなくて彼は井戸に寄り掛かるようにして姿勢を崩した。
 曲げた膝が地面に置いていた空の瓶にぶつかり、音を立てる。風はいつしか止み、周囲に戻っていた静けさの中でそれは思いの外大きくライの耳に跳ね返った。彼は何度も肩を上下させて呼吸を整え、唾液まみれになっている顔の下半分を袖で拭う。心臓は昨晩のように全力疾走を遂げた後の勢いで血液を全身に送り出していて、真っ白になった頭の中は思考回路も停止寸前。
「俺、なんで……」
 今のが何だったのかさえ分からず、ライは呼吸を乱したまま小刻みに震えている掌を見下ろした。ぎゅっと握り締め身体の感覚を思い出させ、もう一度口元を拭いてから顔を上げる。男の姿は既に其処にはなく、今の自分が彼の目に留まったわけではないと知って何故か安堵した。
 こんな姿、他の誰かに見られでもしたら、それこそ恥かしくて今すぐ井戸に飛び込んでしまいそうだ。
 ライは滑車から伸びている縄を頼りに、多少よろめきつつであったが立ち上がった。半ば寄り掛かるような状態で、下へ落ちていく縄に引きずられて上半身が前に傾ぐ。本当に危うく井戸に落ちかけたのを堪え、引き上げられた桶から水を瓶に移し変えた彼は今度こそ自分の足だけで地面に立った。
 重くなった瓶を持ち上げようとして、跳ねた水が乾いた手の甲に落ちる。彼は暫くそれをぼんやりと見詰め、何かを思ったわけでもないのだが、肘を引いてそれに舌を這わせた。
 ――ん、やっ……
 脳裏にフラッシュバックした光景は、こんな風に唇を舐められた時のもので。
 一瞬で頭を爆発させたライは、赤い顔を必死に誤魔化し慌てて瓶を引っつかんで台所へと戻った。そろそろ痺れを切らしたリシェルが暴れだしている頃、仲間達も戻りが遅いライを不審に思っているはずだ。
「俺、どうしちまったんだよ本当」
 わけが分からない、と頭の中に貼り付いてはがれない男の顔を無理やり意識の外側へ追い出し、ライは屋根の下に飛び込んだ。カウンターでは空腹で今にも死にそうな顔をしたリシェルが物凄い形相で彼を睨んでいて、今用意するから、と手短に謝罪し、瓶を定位置にセットする。
 開けっ放しの扉からは涼しい風が気まぐれに流れ込み、微かに咲き誇る花の匂いがそれに混じる。ライは知らなかったが、彼が丁度井戸に背を向けて走り出した頃、木立の隙間からセイロンはその姿を遠目に見つけていた。
「…………」
 離れた距離であっても分かるくらいに赤い顔をして転びそうな勢いで駆けて行く背中をじっと見据え、彼は困った風に眉目を顰めるとややしてから小さく首を振った。溜息を木漏れ日に落とし、愛用の扇子で己の額を軽く叩く。
 なんだかんだであの後部屋に戻る気にもなれず、酒を抜こうと方々を歩き回って落ち着いたかな、と思い戻ってはみたが、実際にあの白い髪を見つけてしまうと声をかけるのに躊躇した。
 本当は、まず謝って、それから許しを請うつもりでいた。それから、出来れば。
 なかったことにしてくれ、と頼むのは勝手すぎるだろう。一発くらいぶん殴られる覚悟は固めておいたほうが良さそうだ。
「我とした事が」
 酒に酔って気分が高揚していたからとはいえ、あの少年相手に何故あんな行動に出てしまったのかが、未だによく分からない。相手が誰でも良かったという気持ちは誓って、無い。酒を飲んで馬鹿なことをした経験は過去数回あるけれど、人に対してあんなアクションを起こした覚えも無い。
 酒は人の気を大きくさせ、常日頃は心の内側に隠しているものを曝け出させる力がある。ならば自分は、彼に対してあんなことをしてみたいと思っていた、という事なのだろうか。
 それは無い……と思う。
 セイロンは風に揺れる己の着物に視線を落とし、扇子を持ったままの手でやや乱雑に髪を掻き回した。緑の葉を茂らせる枝が前面に広がり道を塞いでいる、足元には野に咲く花が控えめに可憐な花弁を広げていた。
 全く無かった、とはもう言い切れない。少なくとも昨日のこの時間の自分と、今の自分とは全く別な生き物だ。情欲に濡れた瞳の彼を知ってしまった以上、知らなかった頃の関係にはきっともう、戻れない。
 ――セ……ロン……
 鼻に抜けた甘い声が聞こえてくる。月の光を浴びて妖しく輝くアメジストの瞳が脳裏から離れない。
「これは、参った」
 頭を幾度振っても消し去ることが叶わない甘美な記憶に戸惑い、セイロンは扇子の裏に重い溜息を投げつけた。

2007/1/26 脱稿