朧々とした月の映える空の下で、僕らは、いつもと同じように、けれど今までとは確実にまるで違ってしまった空気を感じながら、屋根の上に座っていた。
お互い、ことばのひとつも発さぬまま、こうやってじっとしているだけの時間が果たしてどれほどの間続いたのか、もう憶えていない。語り合うべき言葉などにはもはや僕らにとってさしたる意味もなく、ただ互いの肌が触れ合うか否かという非常に危うい距離の許、こうしている。
告げられた真実は確かに痛く胸を貫いていったけれど、それはきっと彼も同じかそれ以上のはずで、たとえ何かを語ったとしても、そこには重みを持たない風のような虚しさばかりが残るのみだ。
だからただ、僕は君を待つ。
真実は紛うことなきものであるかもしれないが、だが真実が事実と同義であるとは限らないと以前、なにかで読むか聞いた気がする。故に、彼にとっての事実がいかようなものであったかだけが今の僕にとっての最大の気がかりだった。
現実から目を逸らすのではなく、本当の君と今度こそ向き合いたいから、すでに言葉のない約束となったこの時間の逢瀬にも応じた。
「信じる」と言った気持ちに嘘はない。今でも僕は君を信じている。
けれどそんな僕の願いも、現実のはかなさの前では砂上に建てられた楼閣の如く、今まさに揺らめき崩れようとしている。疑うことの苦痛が、僕の胸をよぎるのだ。
今まで通りの生活がこの先も送ることが可能だという甘い考えが通用するような現実など、どこにも有りはしない。壊されようとしている穏やかな日常を再構築したいと真に願うのならば、なにより君が、君自身の言葉で語らねばならないだろう。
そこに想像もできないほどの苦難が待っているとしても。
そうしなければ、君と共に過ごし笑いあえたあの過去さえも、偽りの姿だったとして記憶がすり替えられてしまうだろうから。
「あのさ……」
月ばかりを見上げていた彼が、ふいに、視線も姿勢もそのままに呟いた。
「俺、死ぬつもりだったんだ」
そう、感情のひとかけらも感じさせない抑揚のない声で。
まるで空想劇のような感覚で、僕は彼の横顔を眺めていた。月の光に冴えた彼の頬が、いっそう彼の白さを際だたせている。どう足掻いても届かないであろう距離を感じさせるに充分な、彼の姿はまさしく、人の常識を遙かに凌いだものに捧げられる供物だった。
「死ぬ覚悟はとうに出来ていた」
ぽつりと、やがて徐々に彼の目線は空から己の手元へと移り、だがやはり僕を見ようとしない彼の言葉はあたかも贖罪を求める懺悔の声に響く。
「その通り、俺はあの時死ぬつもりでいた」
あの時、とは彼が魔王召喚の儀式を実行したときの事だろう。
すべてが始まった、あの時間。僕が彼によって呼ばれ、この世界へ来ることになった直接の原因。サプレスの魔王へと捧げられるはずだった彼の魂は、だが今も僕の前で小さく震えている。
「なのに、俺はこうして生きている」
血の気の引いた両手を広げ、食い入るように見つめながら彼はそう吐き出した。
死ぬはずだった――魔王のものとして捧げられた彼の肉体は、しかし今現に僕の前で動いている。血の通う人間として、体温を持つ生者として、存在している。
「変だよな?」
初めて、彼は僕を見た。
微かに涙を浮かべて、彼の瞳は月明かりの下で美しく輝いている。世界中のいかなる宝石さえも、彼の瞳の前では色褪せて映ってしまうだろうと錯覚して、僕は自嘲気味に笑った。
「どうしてそう思う?」
不自然な笑みを誤魔化すように僕が問えば、彼は少し首を傾げる素振りを見せ、
「俺の時間はあの時に止まるはずだった。なのに、こうして俺と、俺の周囲の時間は何もなかったように着実に過ぎていく。……いったい、何の意味があるんだろうな」
ふい、と遠くの闇に浮かぶ山並みを見やり、彼は呟く。
「死者になるはずだった生き物が、こうやってまだ地上でウジ虫みたいに這いずり回りながら生きている。そこまでして生きながらえようとする意味……もう、俺には分からない」
死と、生との狭間で揺れ動くもの。それが命だと誰かが言った。
人は生まれてきた以上、生きなければならない。しかしやがて人は死を迎える。動かなくなり、冷たくなり、消えてなくなる。それでも人は生きなければならないのかと、いずれ死ぬ命ならば生きていても意味はないと。
……なにかの演劇だったような気がする。もう内容もまるで憶えていないけれど、その部分だけが妙に衝撃的で、忘れられなかった。
同時に、恐ろしかった。
考えたことなどなかったから。生きる意味、死ぬこと、生まれてきたことさえも恐怖なのだと初めて知らされたのだから、それもある意味仕方のないことだっただろう。
それまで、生きていることが当たり前だと思いこみ、死を考えることもなくのうのうと生きてきた自分が、恥ずかしく思えてならなかった。生きることが辛いことだとか、そういう思いをひとつも重ねてこなかった自分のそれまでの人生が、ひどく薄っぺらいものに見えて無性に哀しく、悔しく、そして安堵している自分がいた。
死を考えないのは、まだ自身がそこまで逼迫した体験をしていないからだ。それは己の命の安全が保障された国に生まれ育ったからで、これほどの幸福は考えられないだろう。
だが最初からそのぬるま湯に浸かった状態で育てば、自分がいかに幸運の星の下、庇護されて生きているかに気付かぬまま一生を終えることになる。
死を考えなくても良い生活……それが以前の僕のすべてだった。
だけれど、リィンバウムではそうはいかない。
己の命は己自身が守らなければならない。誰も代わりに戦ってはくれないし、助けてもくれない。協力しあうことはあっても、結局最後にものを言うのは自分の持つ力だけだ。
だから……争いが止まないのかもしれない。
力に頼ろうとするから、その間に軋轢が生じてバランスが崩れる。確かに力による支配は簡単で、一番楽な手段かもしれないが、同時に一番壊れやすく危うい支配体系であることを近代国家の建設者は学んだのだ。故に法による統治体制が成立し、民主主義という型を成して国家は乱立した。
自由を求め、不自由を拒み、力を捨て目に映るものばかりに固執した結果が、僕の生まれた世界だった。
何故に争う、何故に傷つけ合う。未だ平和は遙かに遠く、だが目の前にある現実はひどく穏やかすぎて、紛争を繰り返す地域を報道するテレビ画面を見てもどこか現実味に欠けている。飢饉で苦しんでいる子供達や、兵士として浚われて行く子供達の映像も、まるで作り物のようにしか映らない。
だが、それは今も確実にどこかでひり広げられている現実であることは否定しようがない。映像として入ってくる情報は一方的で、そして無機質だ。そこに感情を挟み込む余地などない。現実を伝える情報は確かに人の心を刺激して、悲しみや怒り、そういったものを呼び起こすかもしれないが。
けれど僕達のような世代では、戦争を知らない世代では、餓えを知らない世代では、伝わらないのだ。伝わりきらないのだ、どうしても。
だから今でも、僕は生きる意味が分からない。
どうして生きているのか、問われても答えられない。ただ生まれてきてしまったから生きているのだと……そうとしか言えない。
多分、それは彼が求めている答とは違うのだろう。
僕達は生まれた世界が違えば、育った環境もまるで違う。考え方も……とても言葉で説明しきれないくらいに、違いすぎて。たまに君が何を考えているのか分からなくなることがあったけれど、それは君も同じ気持ちだっただろうと今なら思える。
なんてすれ違いの多いことだろう。
言葉にしなければ伝わらないことは多いけれど、言葉にしても伝わりきらない感情もあるなんて、なんてもどかしい。
「生きている意味、か……」
呟いて僕は月を見上げる。薄く雲をかぶった月は、朧気に輪郭を揺らめかせて空に浮かんでいる。
地球の月よりも大きい月。重力に引かれて、地球に恋い焦がれながらも決して合わさることのない惑星と衛星の悲恋……なんて表現をしていたのはどこの誰だったか。
「分からないんだよ。どうして俺がまだ生きているのか、お前がここにいるのか、それすらももう……」
そもそもどうして、オルドレイクはリィンバウムの消滅を願っているのか。根本的な動機そのものが僕も、そしてオルドレイクの息子である彼もまったく知らされていない。
世界の消滅を求め、新たな世界の王となる。それが彼の野望であることは確実であろうけれど、ではそこまでして手に入れたいものなのか? 世界とは、そこまでしてでも己の手中に収める価値のあるものなのか?
「考えてもみなかったな……」
生きることが当たり前だったからこそ、生きることへの疑問にぶつかったときになかなかその袋小路から脱出できない。堂々巡りの思考の中で、僕達は立ち止まったまま動けずにいる。
「僕がここにいるのは、君が僕を呼んだから……では、駄目なのかな」
軽くはないが重くもない感情を込めて言えば、宙を彷徨っていた彼の視線は再び僕の前に帰ってくる。
「駄目だ。それじゃあ、俺がどうしてお前を呼んだのか、その理由が見えない」
「魔王召喚の儀式の中、君は無意識に救いを求めていた。死にたくないと」
「言っただろう。俺は、死ぬ覚悟は出来ていたと」
最初に、と付け足して彼は挑むような視線を僕に向ける。強さと脆さを併せ持つ彼の瞳の奥には、数え切れない逡巡と戸惑いが隠されているのだろう。決して表に出ることのない無数の感情が、今の彼を創りだしたのだ。
「俺は死ぬつもりでいた。魔王が俺の身体に入ることは乃ち俺の死を意味する。だが俺は魔王を受け入れる器として生み出され、育てられた。その為だけに、俺は生きてきた。魔王の生け贄となることが、俺の存在理由だったんだよ!」
初めて見た、彼の激昂する姿。だが果たして彼が誰に向かって怒りを憶えているのか、僕には分からない。僕の身体をすり抜けて遠くへ流れて行くばかりの彼の感情を受け止めることが出来なくて、哀しくなる。
まだ僕は本当の君を知らないのだと、思い知らされる。
「存在理由……」
「そうだ。俺は、それだけを求められてきた」
そして疑うことなくその運命を受け入れてきたのだろうか、彼は。
違う、と心の中でもうひとりの僕が告げる。
「ソル、違うよ……人は死ぬことをそう簡単に受け入れきれるものではない」
そこまで強い存在ではない、人は弱いものだ。避けることの出来ない死を目前にしながらも、なお生きたいと抗う生き物が人間と呼ばれる生物ではないのか?
「俺はそこまで弱くない!」
泣き出したかと思える声で、しかし懸命に涙をこらえて彼は叫ぶ。
握られた拳はわなわなと震え、かみしめた唇には強く歯が食い込んでいる。血が出る、と止めさせようと一瞬持ち上げかけた手は、しかし刹那の逡巡の後、僕の胸に納まった。
「でなければ、俺は生まれてきた意味がない!」
求められて生まれてきた子供であると。たとえその先に死しか待っていない運命だとしても、それでも望まれて生まれた子供であると信じる理由が欲しかった。
生まれて、死ぬ。その短い一生の中で、確かに自分は誰かに必要とされたと思えたらきっと、それで充分だった。それ以上を求めたら止まらなくなる。もっと生きていたくなる。だから彼は、死ぬことを受諾したのに。
まだ彼はこうして生きている。僕の隣で、心細げに己を保とうと必死になって、生きている。
人は常に揺れている。生と、死の狭間で揺れ動く魂。
ならば地上は魂のゆりかごか。
「どうしてお前だったんだ……」
一番聞いて欲しくなかった弱さをさらけ出した相手が、何故リィンバウムとはまったく関係のない、どこから来たのかさえ分からないお前だったのかと。彼は両手でついに顔を押さえ込み、くぐもった声で呟く。
「ソル……」
動かない時。消えない闇。冴え渡る月の光も遙かに遠くに感じ、今はただ沈黙だけが優しい。
伸ばした手は、けれど触れる直前に躊躇して結局また届かなくて。何をやっているのだろうと自己嫌悪にさえ陥りかけて僕は髪を掻きむしった。
救いにもならないのであれば、最初からすべきではないこともある。いたずらに相手を傷つけるような真似だけはしたくない、それがたとえ優しさから出た行為であっても。
膝を抱え、また僕はじっと君を待つ。見上げた空にのびる薄い雲は、時折月をおぼろげに隠して通り過ぎて行く。真実を隠そうとする雲と、現実を見せようとする月が密かに喧嘩をしているようで、変な感じだった。
「お前は狡い」
ぽつりと、ほとんど独白だったらしい彼の声に僕は我に返り彼を見る。だが彼は相変わらず顔を俯かせたままで、何かを呟いた気配さえもうそこには残っておらず、僕は嘆息と共に小さく舌打ちしていた。
こういうときに、言いたいことがあるならさっさと言え、と怒鳴りたくなってしまう自分が情けなかった。
彼に必要なのは恐らく時間で、だがひとりで閉じこもっている時間はひたすらに後悔と罪悪感に苛まれてしまうことは、僕も過去に経験済みだったから。ならばせめて僕と一緒にいる時間くらいは心休まるようにしてあげたいと考えていたのに。
これではまるで逆効果ではないかと、やるせなさが心に染み入って己の力量の狭さが恥ずかしくなる。
「お前は……どうして俺の呼びかけに応えたんだ」
恐れるはずのなかった儀式が始まり、しかしやはりまだどこかで生に対する未練でも残っていたのだろう。生きたいと願う心を押し殺すことはもうあの時の彼には不可能で、だけれど、まさかその声が誰かに届くだなんて、思わなかった。
応えてくれるなんて、思いもしなかった。
「なあ、どうしてだ?」
行き場のない魂と、行き場を求める魂とが惹かれ合ったのだとつい、そんな台詞が頭をよぎって僕はおかしくなった。それはあまりに都合が良すぎる解釈で、しかしそれ以上の理由らしい理由も見付けられず、僕は口を濁す。
「君の声が、ひどく切なく聞こえたから……かな」
生きたいと。
死にたくないと。
助けて欲しいと。
救って欲しいと。
守って欲しいと。
「君の声があまりにも真剣だったから……逃げるのは卑怯だと思ったんだ」
こんなにも救いを求めている相手を見捨てて行く事なんて、出来なかった。何もできないかもしれないけれど、何か出来ることがあるのならばそれをしてあげたかった。
同時に、僕自身も救いを求めていたから……。
「居場所が欲しかったんだ」
誰かに必要とされる場所、自分が本当に心休まれる場所、充足出来る場所を。
ただ当たり前の生を甘受するのではなく、生まれてきたことに感謝しながら懸命に日々を生きて行ける場所を、探していた。自分の可能性を確かめたかった。何が出来るか、どうすれば出来るのか、それを知りたかった。
「ただ生きているのではなく、生きたいと思える生き方を見付けたかったんだ」
ゆっくりと流れる時間は、けれど決して歩みを早めることも遅める事も、ましてや止まることもない。万民の上に均等に配分された命の時間の中で、どこまでやれるかを試す場所が、欲しかったのだろう。
でもそれよりもなによりも。
「僕は君を救いたかった……」
助けを求めて来た相手を、見捨てたくなかった。助けてあげたいと思った。だから僕は、今ここにいる。君の横にいる。君と同じ空の下、大地の上で、同じ時を刻んでいる。
「僕達は似ていたのかもしれない」
助けを求め、救いを願い、生きる意味を模索し、生きる必要性を捜し、誰かに必要とされる生き場所を欲しがっていた。駄々をこねる子供のように。
「違う」
今度は彼が否定する番だった。
「俺は……俺はお前とは違う。俺には生きる意味も目的もあった」
首を振り、微かに残る涙で頬を濡らして彼は力無く呟く。でもそれは負け惜しみに似た言い訳であることを、おそらく彼が一番よく分かっているはずだ。
「ソル、それは生きる意味ではなく死ぬ意味だよ」
「!?」
静かに、冴え冴えと空から地上を照らす月の光のように。僕の声は彼の心を優しく傷つけているのだろうか。
「生きる意味ではなく……死ぬ意味だ。そしてそれは君のものではなく……オルドレイクにとっての、君の意味ではないのかい?」
彼はオルドレイクに必要とされている事が、己の生きる意味だと思って信じようとしていたのかもしれないけれど。でも違うのだ。彼が信じてきたものはどれも、全部、オルドレイクにとってだけが都合の良いようにねじ曲げられた現実でしかない。
「気付いているんだろう、ソル。君はオルドレイクにいいように利用されていただけだって」
「言うな!」
ぱしん、と。
乾いた音が闇夜に響き、勢いで立ち上がった彼の身体を僕は下から上に見上げた。叩かれた頬は赤く色づき、鈍い痛みを僕に訴えかけてきているが。それよりもずっと、涙を流しながら荒く息を吐き出して肩を震わせている彼の方がずっと痛々しく映った。
「君はまだ、父親を信じようとしている。僕よりも、自分自身よりも」
冷たく言い放たれる僕の言葉は止まらない。
「ちがうちがう違う!!」
必死になって叫び返す彼の声は僕の言葉を遮り、闇に押し消そうとするけれど。その否定こそが僕の言葉を肯定している事だと、彼は気付いているのだろうか。
認めたくない気持ちは分からないでもない。だが、今ここで逃げたとしてもいつか必ずぶつかる壁なのだ。ならば今打ち破らなければ、いつまで経っても彼はこの壁を越えられない。父親という、大きすぎる壁を。
彼は父親の道具として生み出され、道具になるべくして育てられてきた。だが彼がそれを知っていながらも道具として使われることを了承したのは、抵抗が無駄だと思ったとか、そういう部分に理由があるのではないのだろう。多分、どこかで父親に愛されたいと……思っていたからだ。
愛情を与えられずに育ちながらも、微かに愛情に似た感覚を相手に対して感じたのならば、子供はそれを糧として生きて行けるの。求めて、与えて欲しくて、相手に対してどんどん従順になってゆく。疑うことを知らない純粋な子供である方が、大人は扱い易いのだ。
子供をどんな人間にするかは、親の力量に依るところが大きい。だから子供は、いつも犠牲者だ。好きなように生きてきたと思っていても、必ずどこかで親の影を感じざるを得ない。事実僕もその通りであるから。
特殊な環境で育ち、一般的に流布している常識や感情を知らなかった彼は、おそらくフラットに来るまでは人間とも言えない中途半端な生き物だったろう。だが今の彼はそうじゃない。怒りもするし、笑いもする。悲しんだり喜んだりもできる人間だ。
「ソル!」
答えてくれ、と。
僕の手が彼の腕を掴む。力を込めて引き寄せれば、ささやかな抵抗の後に彼の小さな身体はすっぽりと僕の胸に収まってしまう。
育ちきらない子供の身体だ。骨張っていて、決して抱き心地は良いとは言い切れない体つきをしているのは、フラットに来る以前からだったはずだ。栄養が行き届いていないというよりも、彼はわざと自分の命を縮めようとしているみたいだった。
食が細く、好物がない。嫌いなものも特にないかわりに自分から食事を求めることもない。空腹を訴えてくることなど、一度もなかった。
何故こうも違う。何故こうも君は変わろうとしない。もう魔王の生け贄という運命からは解放されたはずの君なのに、未だ自分から死を求めるような真似をして。
「トウヤ、痛い……」
強く抱きしめられた彼の肉体は、骨と皮ばかりなのが服の上からでも良く分かる。だから抱かれることの痛みがダイレクトに神経に伝わって、彼は僕の中で何度も身じろぎした。
しかし力の差がありすぎることを痛感させられるだけの彼の抵抗も、しばらく黙って待っている間に徐々に弱くなり、そのうち逆に一番苦しくない体勢を見付けて彼はそこに収まった。
ホッとしたような息づかいが聞こえて、僕の心に棘を残す。
君には、きっとこの痛みは伝わらない。その方がいい。君を苦しませるだけならば、気持ちはここに捨てて行く。
その覚悟くらい、とうの昔に出来ている。
守りたい、この命を。自分で守ることを放棄してしまった殻を持たない胎児のような君を、何よりも守りたいけれど。
言えば君は逃げていくだろう。その価値が自分にはないと強がり、突っぱね、迷惑だと叫び、泣いて。君はそういう性格をしている。そんなところだけが君よりも詳しくなってしまった。
「聞かせてくれ。ソル、君がどうしたいのかを」
生け贄として必要とされなくなり、父親からも見放され、求めている愛情がすぐそこにあることにすら気付かないで。生きる意味を持ちながらそこから目を逸らして逃げている君を、どうか壊さないで。
神様なんて信じちゃいないけれど、居るのだとしたら、神様、どうか彼の心を壊さないで。
「君は自由だ。誰も君を束縛することは出来ない。君の生きたいように生きればいい。オルドレイクが求めた君の生き方ではなく、君自身が何をしたいのか、どうしたいのか、僕に教えてくれ」
腕の中に居る彼の身体はまだ震えている。その頭を抱き、彼の肩に埋もれるようにして僕は問い続ける。
「答えてくれ、ソル。君の命だ。生きたいと願った君の命だ!」
血を吐くような想いで僕は叫ぶ。無意識のうちに彼を包む腕に力が入り、苦しげに彼が身を捩らせてきた。だが僕は腕を緩めず、より強く彼を掻き抱く。
「トウ、ヤ……」
「答えるんだ、ソル。でなければ僕は君を放すことが出来ない」
語気が荒くなる。責めるような口調は出来るならば止めたかったのだが、もう今更後には引けないから、そのままにした。傷つけるつもりはなかったのに、結局こうすることでしか君の本心を聞き出せない。
自分の無力さに腹が立つ。
「分からないよ……」
不意に、腕の中の存在が小さくなった気がした。
「俺には分からない……。死ぬ覚悟は出来ていたのに、いざとなったら足が竦んで、逃げ出したくなって……でも周りの連中は冷たい目で俺を見ている。どうしようもなかった、泣くことも出来なかった。死にたくなかった!」
僕の上着に縋りながら、彼は泣きじゃくっていた。
「死にたくない、死にたくなんかない! でももう止められなかった。始まってしまったんだ、俺が始めてしまったんだ!」
魔王召喚の最高責任者、ソル・セルボルト。その身を魔王の生け贄として捧げ、器として魔王を受け入れる為だけの存在だった者。
「恐かった、自分でなくなるのが恐かった。これは俺の身体だ、俺だけのものだ。でも魔王は俺の中に入ってこようとする。俺を追い出して、俺になろうとしてた。嫌だった。吐き気がして、泣きたかった。でも出来なかった。俺は臆病者だ、卑怯なのは俺の方だ!」
無意識に求めていた救いの声は、遠く界を隔てた先にいた僕の脳裏に響き、不安定になっていた地場の影響と魔王の力によって、リィンバウムへの道は開かれた。
通常ならば繋がるはずのない界と界が繋がったのは、魔王の力の成せる業だろう。
彼の迷いが魔王召喚の儀式を失敗させ、そして僕がかわりに召喚された。僕の中にあるこの不思議な力が、本当に魔王のものかどうかは分からない。でも、彼は言ってくれた。この力は危険かもしれないが、僕自身は危険な存在ではないと。
それは僕を信じ、認めてくれたからではないのか?
「僕では君の力にはなれないのか?」
「ちがう……そうじゃない……。
巻き込まれただけのお前に、俺が原因でお前はこの世界に来てしまったのに、そのお前に……そんな風に優しくされる資格なんて俺にはないんだ」
僕の腕の中で、彼は泣いている。涙を隠そうとせず、時折漏れる嗚咽に苦しみながら、彼は初めて本心をさらけ出していた。
「壊したくなかった。俺のせいで、俺が弱かった所為で沢山の人が死ぬ、そんなのは見たくない。だけど……俺一人の力じゃもうどうにも出来なかった……」
だからせめてお前だけでも、元いた世界に還してみせたかった。この界とは何の関係もないお前まで、巻き込みたくなかったと、彼はしゃくりを上げながら呟く。
でも。
「もう遅いよ、ソル」
僕は充分関わってしまった。今から逃げるのは無理だ。それにバノッサに関しては、僕が当事者であるわけだし。すべてを投げ出して、皆を見捨てて逃げるような事をしたら、二度と顔を上げて歩けなくなる。
「……ソルが止めたいのは、オルドレイクだろう?」
「…………なぜそう思う……?」
静かに問い返されて、僕は微笑んだ。
「君が命をかけて叶えようとしたのは、誰の願いだった?」
だから君は、本当はあの男の事が大切で仕方がないのだ。ただ、最後の最後で自分自身の願いが勝っただけで。多分、君が言ったように死の覚悟は出来ていたのだろう。召喚儀式場へ出向いたその時も、君の心は揺らがなかったのだから。
そうでなければ、儀式場へ行く前に君は逃げ出していたはずだ。
「そう……なのかもしれない」
宥めるように背を撫でてやり、月に透ける髪を優しく梳いてやると、くすぐったそうに彼は肩を揺らした。
「よく分からないけど……でも、あんなでも一応、俺の親だから……死んで欲しいとかは、思わない……」
何故オルドレイクが権力に固執し、魔王による世界の破壊とその後の支配を切望するようになったのかは分からないけど。
知識の更なる探求を続けながらも、権力という欲にまで囚われた哀れな男、オルドレイク。何ものにも囚われない無色の派閥を名乗りながら、誰よりも何かに囚われている事に気付こうとしない、妄信者。
「ソルは魔王がどういう存在か、知っているよな」
「んー……まあ、必要範囲だけなら」
尊大で、自分勝手で、絶大な力を所有しそれを余すことなく揮ってみせる。何ものにも屈せず、とらわれず、自由であり無慈悲。破壊を喜びとし、すべてを焼きつくすまで止まらない。サプレスが破壊されずにあるのは、魔王と対等の力を保有する存在が彼の世界にはあるからだ。
「魔王の前では、リィンバウムなんて赤子同然だよ」
抵抗する力さえ持たず、紙切れのように容易く引き裂かれてしまうだろう。それに危惧すべき事は他にもある。
「エルゴの結界が壊れても、魔王はやってくるんだろうな……」
マナに満ちたこの世界は、他の界にとって喉から手が出るほどに欲する世界だから。
オルドレイクは結界が砕けようとしていることを知らない。魔王を召喚してしまったら、恐らく確実に、まず間違いなくまだ残っているか細い結界の糸も切れてなくなるだろう。その先に待つのは、奴が望んでいた世界などではなく、争いが止まない非業の大地だ。それに魔王が素直に奴に従うとも思えない。
「止めよう、オルドレイクを。魔王召喚を止めさせて、そして結界を守ろう」
な? と腕の中をのぞき込んで僕は彼に同意を求めると。
「そう……だな。あんなでも俺の親だし」
好きじゃないけど、嫌いにもなれなかったと、彼は嘯く。本当、素直でない。
「今なら……生け贄に選ばれたのが俺で良かったと、思うよ」
兄弟は沢山居る。会ったことはほとんどないけれど、でも同じ様な境遇で育てられていたことは知っている。そのなかで何故自分が選ばれたのかが未だによく分からないところだけれど、と。行き場のない両手を僕の服に絡ませることで安堵し、彼は小さく笑った。
「お前に会えたから」
この生き方も、あながち悪いものではなかったと。
「まだ先は長いよ。そういう言い方は、心臓に悪いから止めてくれるかい?」
生きている意味など、生きている限り分かりはしないのだろう。何のために生きたのかなんて、死ぬ直前に思い出せばいい。歴史は歩いていく道にあるのではなく、歩いてきた道に遺るものだから。
すべきことは、目の前にある壁を打ち壊して進むこと。
生まれてきた意味は、生きたかったからだ。この魂が、生きることを求めたから僕達は生まれてきたのだ。
「なあ、トウヤ」
「ん?」
「キスしよう」
「は?」
話の脈絡からいきなり外れた彼の言葉に、僕は素っ頓狂な声を出してしまう。
「嫌か?」
「あ、いや……嫌とか、そういう事じゃなくて……」
「じゃあ、いいか?」
畳みかけるように一気に告げて、彼は可愛らしく小首を傾げてみせる。一体彼が何を考えてのことかさっぱり分からず、僕の頭の上ではクエスチョンマークが乱舞していた。だが理由を聞こうにも恥が先に立って言葉が出ない。
すると彼はくすっ、と笑い、
「お前は体裁をすぐ気にするからな」
と言った。
「……だって、お前、俺のこと好きだろ?」
ぐさりと。
その言葉が僕の胸に突き刺さる間に、腕の中にいたソルは背を伸ばして僕に迫った。
息が顎をかすめたかと思うと、柔らかく温かな感触が一瞬だけ触れて通り過ぎて行く。瞬きする暇さえなかった。
「お前、バレバレなんだよ。俺が気付かないとでも思ってた?」
腕の拘束が緩んだ隙に、彼は悠々と脱出して僕から離れていた。月光に下で実に楽しそうに、笑っている。
「正直になれよ。俺はちゃんと言ったからな!」
そう言い残し、彼は屋根裏部屋に下りる窓に身を翻した。
「………………」
唇を押さえ、僕は顔を真っ赤にする。一瞬だったけれど、確かに僕らは触れあった。まだ感触はリアルに残っている。恥ずかしいくらいに、どうやらすぐには忘れられそうにない。
「バレバレ……だったのか?」
自分ではちゃんと隠し通せていたと思っていた。特にソルに対しては慎重になっていたつもりだったのだが。
ポーカーフェイスは得意だった。感情を表に出さず、隠すことには慣れていたはずなのに。まさか本人にばれているとは予想だにしなかった。
「うわぁ……」
これは恥ずかしい。
僕は頭を抱え、鳴りやまない心臓の鼓動をしきりに抑え込もうとするけれど、上手くいかなくて。
でも、と。去り際に彼が言い残した台詞を思い出して眉を寄せる。
「僕の気持ちを知ってて……その上で正直になれっていうのは……どういう意味だろう……?」
「鈍感!」
首を傾げていると窓の方から声が飛んできて。振り向くと茶色の髪が慌てて逃げていった。
「…………ソル!」
僕は立ち上がると窓縁に手を置く。下をのぞき込むが暗くてそこに彼がいるかどうかも分からなかった。けれど多分、隠れて聞いているはずだ。
「いいのかい? 調子に乗るよ?」
からかうような声で告げる。返事はなかった。
「ソル、僕は君と一緒に生きたい。返事を聞かせてくれないか。ソル、いるんだろう?」
「お前……それ言ってて恥ずかしくないか?」
暗がりの中から月明かりの下へ、彼は進み出て僕を見上げる。
「恥ずかしくないよ。聞いているのが君だけだからね」
それに、正直になれ、と言ったのは君の方だろう。即答すると彼は呆れたらしい。肩をすくめて首を振る。
「聞くまでもないって、思わないのか?」
「思わない。ちゃんと聞かないと不安になる。僕はそこまで聡くないよ」
素直でないのはお互い様だと笑って、僕は屋根裏部屋に降り立つ。窓を閉めると月が一気に遠くなって、長い影が床を覆う。
「言わなくても分かれ、馬鹿」
「馬鹿ですから」
戯けた調子で答えると、拗ねたらしく彼はそっぽを向いた。
「僕は勝ち目の薄い賭には出ないよ。いつも勝算を気にして生きてきた。でも今回だけは、そうだね。負けてもいいって思えるよ。君にだけなら、僕は負けても悔しくない」
「すげー台詞……」
「君が言わせたんだろう。返事は?」
目を細めて問えば、彼は少し躊躇した後、小さく頷いた。
「聞くなよ、いまさらだろ……」
「そうだね」
大体お前は気付くのが遅いんだ、と愚痴りながら。それでも僕に抱きしめられるソルはもう震えていなかった。
夜が明ければ、最後の戦いが始まる。
「守るよ」
「それは俺の台詞だろう」
ふたり、ずいぶんと長い間そうやって抱き合って、まるで子供のように、無邪気に。
命の鼓動を感じて安堵する。
大切だから守りたい。失いたくない。ようやく気付いた。ようやく届いた。やっと伝わった。ふたり通じ合えた。
だから。
「俺、生きたい……もっともっと生きたい……」
「うん」
「生きていいのか? 俺、生きててもいいのか?」
「うん」
「俺、一緒にいたい。ずっと、お前と一緒に生きていきたい」
「僕もだよ」
涙は、止まらなかった。