欣快

 余韻を残し、チャイムの音が空に溶けていく。
 頭の中に響くメロディを追い払って、綱吉は立ち上がった。気の早いクラスメイトは既に教室を飛び出して、部活や自宅に向けてダッシュを決め込んでいた。
 親友である山本も、野球部の練習に向かうべく大きな鞄を肩に担ぎあげていた。視線に気付いて振り返って、白い歯を見せてニッと笑う。
「また明日な」
「うん。練習、頑張ってね」
「おう」
 気さくに手を振って、去って行く。綱吉も僅かに送れて鞄に手を伸ばした。
 獄寺は、午後の体育が面倒だからと先に帰ってしまっていた。要するにサボりだが、彼の素行の悪さは先生も諦めている節がある。それに授業を全く聞いていなくても、試験を受ければほぼ毎回百点満点だ。
 彼の記憶力の良さには、感動すら覚える。その百分の一で構わないので、譲ってはくれないだろうかと本気で思うこともある。
 空っぽの机に目をやって、綱吉は肩を竦めた。
「帰ろう」
 珍しくひとりでの帰宅だが、これまでずっとそうだったのだから別段寂しくはない。胸に吹く隙間風に強がりを言い張って、彼は半分以下に減ったクラスメイトを掻き分けて廊下に出た。
 太陽はまだ高く、外は明るい。だがもうカレンダーはもう十二月も後半で、あと二週間足らずで今年が終わる。
「早いなあ」
 期末テストも終わって、後は終業式を待つばかり。今学期の成績表も期待できそうにないと苦笑を浮かべて、重くも無いが軽くも無い鞄を揺らす。
 体操服が入っているので、膨らんで見た目だけは大きい。パンパンになっている表面をそうっと撫でて階段を下ろうと角を曲がったら、突然目の前に壁が現れた。
「うわっ」
 ぶつかりかけて慌てて飛び退き、壁の正体を探って目を泳がせる。自然と上に流れた視界にどん、と尖った黒い物体が見えて、綱吉は顔を引き攣らせた。
 落ちて横倒しになった鞄を踏みそうになって足をもつれさせて、転びそうになったところで腕を引っ張られた。
「沢田」
「草壁さん?」
 咄嗟に振り解こうとしたのを、上から降って来た声に止められる。吃驚して瞬きを繰り返せば、陽が当たらなくて暗い階段の片隅に真っ黒い学生服の男が立っていた。
 中学生には見えない、顎の割れた強面顔には覚えがあった。並盛中学校風紀委員会副委員長の肩書きを持つ男は、綱吉がバランスを取り戻して落ち着くのを待ってから、掴んでいた手を解いた。
 本人は軽く、のつもりだったのかもしれないが、手首に痣が出来てしまった。十分としないうちに消えるだろうが気になって撫でさすっていたら、周囲の視線が気になるのか草壁が身じろいだ。
「えっと。ありがとうございます」
「いや」
 彼がこんなところに立っていたから倒れそうになったわけだが、それは言わずに頭を下げる。草壁はどこか歯切れの悪い返事をして右手を握っては広げて、上着の裾に掌を擦りつけた。
 自分は汚くない。反感を覚えてむっとして、綱吉はもう一度彼に会釈した。
「じゃあ、俺はこれで」
「ああ、待て。沢田」
「はい?」
 雲雀の副官とはいえ、草壁とはあまり親しくない。世間話に花を咲かせる間柄でもないし、不躾な同級生らの視線も気になる。
 風紀委員と馴れ合う一般生徒など、滅多にない。物珍しげに見詰められるのは不愉快で、早く此処から立ち去りたかった。
 だのに引き止められて、綱吉は眉間に皺を寄せた。
 露骨に嫌そうな顔をした彼に出した手を引っ込めて、草壁は立派なリーゼントを揺らしながら頬を掻いた。体格の割に小粒な瞳が宙を彷徨い、天井を一周して綱吉に戻って来た。見下ろされて怪訝な顔をしていたら、急に咳払いをされた。
「なんですか?」
「いや、ちょっとな。時間はあるか」
 どうにも挙動不審な彼を睨み返し、心持ち低い声で問う。すると草壁は周りを気にしながらボソボソ小声で聞き返してきた。
 腰を屈めて顔を寄せてこられて、綱吉はつい後退して逃げた。
 嫌な予感しかしない。だが彼の目は真剣で、切羽詰っており、必死の様子が窺えた。
 大半の生徒は教室を去ったのか、階段を通り過ぎる足音が一気に減った。前を塞がれたままの少年は苦虫を噛み潰したような顔をして、数秒の逡巡の後に首を縦に振った。
「そりゃ、暇ですけど」
 部活動には所属していないし、委員会にも入っていない。補習もないので後は帰るだけで、帰っても特に急ぎでやらねばならない事もない。
 ゲームをするか、漫画を読むが、子供達を相手に遊ぶか。勉強する、という選択肢は最初から頭にない。ため息交じりに言った彼に草壁は途端目を輝かせ、拳を作った。
 腹に力を入れてガッツポーズを作られて、益々意味が分からなくて綱吉は口を尖らせた。用件があるなら早く済ませて欲しいと、拾った鞄で自分の太腿を叩く。
 はっとした草壁が慌てた様子で両手を背中に隠した。ゴホン、と先ほどよりもずっと大きく咳払いをして、ちらりと黒い目を脇に流す。
 つられて後方を振り返るが、特になにもない。大判の窓が横に並んで、陽光が斜めに差し込んで床に影を落としているくらいだ。
「ちょっと、すまんが」
「なんですか?」
「手伝って欲しいことがある」
「俺にですか?」
「ああ」
 全く知らない間柄ではないものの、さほど親しいわけでもない彼の頼みとはなんだろう。想像もつかなくて首を捻り、綱吉は真顔を崩さない男を仰ぎ見た。
 山本よりも上背があるので、見上げなければならないのが悔しい。本当に自分と同年代なのかと、とっくに成人していそうな外見の草壁をまじまじと見詰める。
 琥珀色をした大粒の瞳に照れたのか、またも咳払いが聞こえた。ごほごほやって、彼は噴き出た汗も拭わずに右手を真っ直ぐ右に伸ばした。
 示されたのは、一般教室棟の奥だった。その先には渡り廊下があって、特別教室棟に繋がっている。
 応接室がふっと思い浮かんで、綱吉は一気に青褪めた。
「怖いことじゃないでしょうね」
 咄嗟に鞄を抱き締めて、草壁との距離を広げて捲くし立てる。唾を飛ばして来た彼に苦笑を返し、副委員長は顔の前で手を振った。
「いや、悪いようにはせん」
 風紀委員長こと雲雀恭弥のストレス発散に、殴られにいってくれ、という依頼ではなかったらしい。真面目に否定されて胸を撫で下ろし、ではなにか、と綱吉は目を眇めた。
 可愛らしく睨まれて、草壁は肩を竦めて腕を下ろした。
「ついてこい」
「嫌だって言う権利、俺にありますか」
「ない、な」
「……」
 断られるとは考えていない彼の態度に反発し、つい声を荒らげる。しかし効果はなく、草壁はさらりと言って目を細めた。
 それはつまり、遠回しではあるが、雲雀の依頼ということだ。
 草壁個人の頼みならばまだ拒絶するゆとりもあるが、雲雀にはそれがない。嫌なら直接、面と向かってそう言うしか他に方法が無い――殴られるのを覚悟で。
 痛い思いをしたくなければ素直に従えと、無言の圧力を受けて綱吉は唇を噛んだ。
 今日は厄日だ。折角家でのんびり出来ると思っていたのに、予定が狂った。
「時間かかります?」
「どうだろうな。お前次第だ」
「ちぇ」
 念のため聞けば、曖昧な返事しか得られない。口を尖らせ、綱吉は足を前に蹴りだした。
 避けた草壁が横をすり抜け、歩き出した。三歩ばかり行って停まって、振り返る。
 ここで逃げ出したら、明日が怖い。いや、今日の夜にでも雲雀が家に押しかけてくるかもしれない。窓から入ってくるあの男を想像したら寒気がして、綱吉は鼻をずび、と言わせて腹に力を込めた。
 覚悟を決めて、それでも嫌々草壁について歩き出す。
 正面玄関から遠ざかって、向かうは特別教室棟。人通りは完全に途絶え、吹奏楽部の練習する不揃いな音ばかりが耳についた。
 しかし予想に反し、綱吉が連れていかれたのは応接室ではなかった。
「あれえ?」
 思いがけない展開に目を真ん丸に見開いて、つい素っ頓狂な声をあげてしまう。間抜け面を晒した少年を振り返って、草壁はやれやれといった様子で肩を竦めた。
「入れ」
 そう言って、大きな手で家庭科調理室の扉を横に滑らせる。
 中には誰も居なかった。カーテンは解放されていたが、西日があまり入らないので薄暗い。規則正しく並べられたテーブルと椅子の群れに、何故か違和感さえ抱かされた。
 教室、という学生が居て当たり前の空間が無人だというだけで、こうも不気味になるものなのか。背筋に冷たいものを覚えてうろたえていたら、その背中を軽く押された。
「うお」
 おっとっと、と前のめりになりながら飛び跳ねて、二メートルほど中に入ったところで両足で着地する。腰を屈めた状態で振り向けば、押した犯人である男が飄々としながら教室内を横断していった。
 頭上でチカチカと光が明滅したかと思えば、ぱっと周囲が明るくなった。無体を働いておきながら謝りもしない風紀委員の暴挙に腹を立てるが、言ったところでどうせ聞き届けられまい。
 姿勢を正して背筋を伸ばし、苛立ちを唾と一緒に飲みこんでいたら、準備室に入っていった草壁が、なにかを手にして戻って来た。
 紙袋だ。それも、大きい。
「頼みと言うのは他でもないのだが」
 怪訝にしている綱吉に苦笑いを浮かべて、彼は黒板に近いテーブルに袋を置いた。
 ほぼ正方形の机は、六人は余裕で座れるスペースがあった。綱吉もそちらに歩み寄り、興味本位で袋の中身を覗き込んだ。
 白い箱が入っている。賞味期限を記したシールには覚えのある店名が記されて、ほんのり甘い匂いが嗅覚を刺激した。
 思わず唾を飲んだ少年に、草壁は黙ってフォークが載った皿を差し出した。
「好きなものを選ぶといい」
「えっ」
 咄嗟に両手で受け取った綱吉が、告げられた魅力的な台詞に甲高い声を響かせた。
 大粒の目をぱちぱちさせて、頬を緩めてだらしなく笑う。一分前までの仏頂面はどこへ消えたのか、あまりの変わり身の速さに草壁は失笑を禁じえなかった。
 一抱えはある箱を傾けぬよう袋から取り出して、テーブルに置く。紙袋を退かせてシールを捲り、蓋を外してゆっくり開く。
 もったいぶった男の手つきに焦れて、綱吉は鞄と皿とフォークをまとめて上下に揺り動かした。
「うわぁ……」
 現れた中身は想像以上だった。感嘆の息を漏らし、あんぐり開いた口からは今にも涎が垂れ落ちそうだ。
 待て、を命じられた犬と化した少年に目を細め、草壁は箱の四隅も開いて立体だったものを平面に作り変えた。
 出て来たのは色鮮やかなケーキ、それも全部で八個もある。同じ種類のものは、ひとつとしてない。
「どうしたんですか、これ」
 駅前商店街にあるラ・ナミモリーヌのケーキだ。京子やハルが大好きで、奈々や子供達もお気に入りだ。
 綱吉だって嫌いではない。男だから、という変な意地だけで近付かないようにしているが、ショーケースに飾られた見事なケーキは見ているだけで食欲を刺激した。
 もう少し安かったら、食べたいときに好きなだけ食べられるのにと、何度思ったことか。
 そのなかなか手が出ないケーキが、目の前にどん、と並べられていた。
 音立てて唾を飲んだ彼の方へ甘い洋菓子を押し出し、草壁は手を引っ込めた。背筋を伸ばして気をつけの体勢を作り、またしてもゴホンとわざとらしく咳払いする。
「いや、まあ、色々あってな。処分に困っておってな」
「うわあ、うわー、わー! ――……あれ、でも良いんですかホントに」
「構わん。委員長には、黙っておいてくれ」
 何故この場にケーキなどという、校則違反な代物があるのか。その理由については言葉を濁し、草壁は誤魔化すように右目を閉じた。
 似合わないウィンクに、綱吉はぷっと吹き出した。けらけらと声に出して笑って、鞄を床に置いて椅子を引く。座ると、一段とケーキとの距離が縮まった。
 どうやら雲雀は、この一件に絡んではいないらしい。杞憂だったと安堵して、彼はもう一度草壁を見上げてから、赤に黄色、ピンク、白と、まるで春の花畑を思わせる箱の中身に目を輝かせた。
 苺のショートケーキといった定番から、一面チョコレートでコーティングされたケーキもある。求肥でスポンジをくるんだ和風のものや、飴色の焦げ目がついたクリームブリュレなど、選び放題だ。
 草壁は好きなものを選べとしか言っていない。つまり、何個選んでも良いということだ。
「えっと、これと、あと……これと、これ」
「そんなに食べられるのか」
 ケーキバイキングよろしく、欲張って三つ目を指差したところで、草壁が止めに入った。四つ目を決めようとしていた少年は途端に頬を膨らませて、制服の上から腹を撫でた。
 昼食の弁当はとっくに消化済みで、今は腹が減って仕方が無い。かといってあまり食べ過ぎれば夕食が入らなくなる可能性が生じるが、その時はその時だ。
 任せろと言わんばかりの眼に眉を顰めはしたが、草壁はそれ以上なにも言ってこなかった。綱吉は堂々と四つ目を引き寄せると、皿に隙間にフルーツたっぷりのケーキを捻じ込んだ。
 角が崩れてしまったが、どうせ口の中に入れたら一緒だからと構いもしない。フォークを握り締めて、えいや、とショートケーキのスポンジに尖端を突き刺す。
「いっただっきまーす」
 満面の笑みを浮かべて、口を大きく開いて頬張る。
「んっ、ん~~~」
 久しぶりに食べた生クリームは百点満点の出来栄えで、舌が蕩けてしまいそうだった。
 あまりの美味しさに感動し、全身をぶるぶる震わせる彼に苦笑がとまらない。草壁はそっと嘆息すると、もう一度準備室に戻り、沸かしておいた湯に紅茶のティーバックを沈めた。
 綱吉は、あの大量のケーキを風紀委員への貢物かなにかかと判断したのだろう。雲雀も草壁も、一般の委員もあまり甘いものを得意としていないから、自分に白羽の矢が立ったと。
 そんな風に解釈しているに違いない。
「ここまでは順調か」
 ちらりと腕に巻いた時計を見て、彼はひとりごちた。
 調理室に戻れば彼はひとつ目をぺろりと平らげ、ふたつ目に取り掛かっていた。
 薄く焼いた生地の間にクリームを挟み、何枚も重ね合わせたミルクレープ。形を崩さないように注意しながら切り分けて、ひとくち頬張るたびに幸せそうに身を捩っている。
 心底嬉しそうな姿に、草壁は少しばかり罪悪感を覚えた。準備室に隠したもう一つの箱を思い浮かべ、急ぎ足で紅茶を運んで渡してやる。
「ありがとうございます」
 なんら疑いもせずに受け取った少年は、唇についたクリームを舐めてホッと息を吐いた。丁度喉が渇いていたのだと礼を言って、まだ熱い液体を喉に流し込む。
 そうして案の定、舌をやけどして噎せた。
「落ち着け」
 波立ったカップをテーブルに置いて、苦しそうに前屈みになった彼の背中をトントン、と撫でてやる。何度も咳き込んでは唾を飲みこんで、綱吉はぜいぜい息を吐いて胸を叩いた。
 そそっかしいところは、相変わらずだ。だがこうでなければ、沢田綱吉ではない。
「すみませ、ん」
「気をつけるんだぞ」
 鼻声で謝罪した彼に目尻を下げて、草壁は落ちたフォークの代わりを探しに準備室に向かった。そして戻るついでに、隠しておいたもうひとつの箱を小脇に抱えて扉を潜る。
 荷物が増えている彼に、椅子に座った少年は小首を傾げた。
「それは?」
「まあ、先に食え」
 疑問には答えず、真新しい銀色のフォークを差し出して誤魔化す。綱吉ははてなマークを頭に生やしつつも、ケーキへの欲望に負けて好奇心を遠くへ放り投げた。
 ここできちんと追求しておけばよかったと、後で悔やむことになるとも知らずに。
 調子よくふたつ目も平らげて、いそいそと三つ目のケーキのシートをはがす。表面に張り付いたクリームまで丁寧に削ぎ落として舐めるという、あっぱれと言わんばかりの食い意地の汚さを発揮した彼に、草壁は肩を竦めた。
 見ているだけでも胸焼けがしそうだ。
 彼が食べ終えるまでは暇で、手持ち無沙汰を解消すべく選ばれなかったケーキを回収し、再び組み立てた箱に並べて片付ける。忙しなく動き回る草壁をちらりと盗み見て、綱吉は甘酸っぱい苺を奥歯で噛み潰した。
 そういえばもうじき、クリスマスだ。
 なんの脈絡もなく、急に思い出した。明後日が終業式で、その翌々日はクリスマスイブ。冬休みまでもう少しだ。
 今年もあっという間だった。年末に向けて立て込んでいる予定を順に頭に並べて、綱吉はふんわり柔らかいスポンジを前歯で切り刻んだ。
 イブは獄寺や山本たちと一緒に騒いで、クリスマス当日は家族だけでしんみりと。終われば大掃除をして正月の準備に入り、大晦日、元日と行事は盛りだくさんだ。
 友人が増えたお陰で、出かける機会が増した。
 楽しい一年だった。来年もそうであればいいと願いつつ、ようやく落ち着いた草壁を一瞥する。
「草壁さんは、クリスマスとかどうするんですか?」
「っど、どうした急に」
「いえ?」
 一寸興味を持ったので聞いてみただけなのに、クリスマスの五文字を耳にした途端、彼は大袈裟なまでに反応して座ろうとしていた椅子を蹴り飛ばした。
 吹き飛んだ背凭れの無い椅子が、他を巻き込んでガタガタと音を立てて倒れた。舞い上がった埃からケーキと紅茶を守り、綱吉は中腰になって狼狽している男に眉を顰めた。
 怪しい。
 なにか裏がある気がして、草壁を睨む。
 険しさを増した眼差しにまたまたわざとらしい咳払いを繰り返して、彼は倒した椅子を起こすと制服を軽く叩いた。胸を張って居丈高に構え、下からねめつけてくる少年を見詰め返す。
「草壁さん?」
「沢田、ケーキは美味かったか」
「あ、はい。それは」
「そうか。だが学校内での間食が、基本禁じられているのは知っているな」
「……はい?」
 最早シラを切りとおすのは無理と判断して、草壁は頭を切り替えた。
 空になったアルミ箔や、食べかけのケーキと一緒に校則違反の少年を見下ろして、低い声で確認して行く。
「でも、これは」
「食べろと勧めたのは確かに俺だが、違反をしたのはお前だ」
「ちょっと!」
「委員長には黙っておいてやる。ただし」
 なにやら不穏な気配が急速に強まって、綱吉はテーブルを叩いた。
 反論を試みるが遮られ、語気を荒げても通用しない。冴えた眼で睥睨されて、綱吉は突きつけられたひとつの条件に目を見開き、歯を食いしばって涙を堪えた。

 トントン、とドアがノックされた。
「ン?」
 長らく机に向かって書類仕事に勤しんでいた雲雀は、窓の外がすっかり薄暗くなっているのに気がついて目を細めた。
 時計を見れば、もう午後五時に近い。そろそろ下校時刻だと握り締めていたペンを転がした彼は、ノックへの返事も忘れて背筋を伸ばした。
 肩を回して凝りを解し、欠伸をひとつ零して眉間の皺を揉み解す。それからようやく、閉ざされたドアに目を向けた。
「誰?」
 草壁だろうか。
 こんな時間に応接室を訪ねてくる人間など、他に思いつかない。椅子の背凭れに身を預けてゆったり構えて返事を待つが、なかなかどうして、誰何の声への応答は得られなかった。
 信用を置く副官ならば、瞬時にドアを開けて入ってくるに違いないのに。なにかあったのかと怪訝にして、彼は耳を澄ませた。
 話し声がする。詳細は分からないが、誰かと誰かが部屋の前でなにやら言い争っている。
 片方は草壁のようだが、もう片方が誰なのかが分からない。委員のうちの誰かだろうかと頭を捻るが、それらしき人物は浮かんでこなかった。
 もっとも、問題なのは相手が誰か、という点ではない。人が折角仕事を中断させて入室を許可したというのに、すぐに反応しないことに問題があるのだ。
 気に入らない。集中を乱された分も加味して腹を立て、雲雀は椅子を引いて立ち上がった。
 資料の散らばった机を回りこんで前に出て、豪奢な応接セットの脇をすり抜けて戸口へ向かう。カツカツ響く足音が廊下にまで聞こえたのだろう、騒ぎ声が途端にしなくなった。
 シンと静まり返った空気にひとりほくそ笑み、雲雀は右手を素早く振った。
 隠し持っていたトンファーを片方だけ取り出して握り、左手は真っ直ぐ前に伸ばしてドアノブを掴もうと指を広げる。
 キィ、と。
「……?」
 先手を打ったつもりか、扉が軋んだ音を立てた。
 内側に開こうとするドアを知り、雲雀は咄嗟に後ろに下がって身構えた。姿勢を斜めに、左半身を前に出して警戒を露わにする。
 だが扉は三センチほどの隙間を作ったところで停止した。ふらふら揺れるだけで、前にも後ろにも進まない。
 やる気があるのか。苛立ちを強め、雲雀は残る手にもトンファーを握りしめた。
 来ないのなら、こちらから出向いてやるまでだ。怒り心頭に目を吊り上げて、彼は勢い勇んで右足を前に踏み出した。
 刹那。
「メリー、クリっス、マーッス!」
 どんっ、と突き飛ばされた扉の向こうから、甲高い雄叫びが轟いた。
 そこにパンッ、と火薬が炸裂する音が重なる。咄嗟に腕を交差させて顔を庇い、目を閉じれば、鼻腔にツンとくる火薬の臭いが紛れ込んだ。
 細長い糸のような紙がひらひらと宙を舞い、何本かが雲雀の頭に落ちた。黒髪を飾る紙切れを無造作に掴んで放り投げて、雲雀は肩を怒らせて奥歯を噛み締めた。
 ふざけている。
 冗談としては最低だ。
 いったい誰の仕業なのか。
「咬みころ……――」
「ひぃぃ!」
 怒髪天を衝く勢いで怒鳴ろうと口を開いた彼の視界に、赤い衣装の少年が飛び込んできた。白いファーで縁取りされた上着に、真っ赤な帽子を被って茶色い髪の毛を隠している。
 全体的にもこもことした服はとても暖かそうだが、裾から覗く足は肌色でそちらは随分寒そうだ。膝まであるブーツも赤と白で統一されており、作り物の緑色の柊が彩を添えていた。
 ズボンを履いていないのか。丸見えの白い太腿に、雲雀は顎が外れそうになった。
「……なっ」
「いや、あの。ちょ、ごめんなさい。っていうか見ないでください。俺は、ほっ、ホントは嫌だったんです。けど。でも。草壁さんがどうしてもやれって。やってくれって、言うから」
「沢田さん、それは言わない約束では!」
 絶句する雲雀を他所に、サンタクロースの衣装を身に纏った綱吉は忙しく言い訳を捲くし立てて鼻を愚図らせた。戸口の影で聞いていた草壁は、極秘事項をあっさり口にした彼に驚き、声を潜めながら怒鳴った。
 ゆらりと、雲雀から立ち上る怒りのオーラが矛先を変えた。
「ちょっと待ってて」
「へ? え?」
 トンファーを握りなおし、雲雀は恥ずかしそうにしている綱吉の背中を押した。
 ふらついた彼は中身が空になったクラッカーを手に振り返り、小首を傾げた。その目の前で、ドアが物凄い音を立てて閉じられた。
 呆気に取られているうちに、木の板一枚を隔てた向こう側から聞くも無惨な絶叫が轟いた。
「っ!」
 草壁の悲鳴にびくりとして、綱吉は自分を抱き締めて小さくなった。ガタガタ震えて待つこと数分、回転したノブの向こうから現れた雲雀は何かをやり遂げた顔をして、清々しげに返り血を拭っていた。
 爽やか――と取れなくも無い笑顔を浮かべてトンファーを片付け、肩を回す。次は自分の番かと戦々恐々していた綱吉は、ビクリと身を強張らせて隠れる場所を探し、慌しく室内を見回した。
 ソファの影、テーブルの下、机の裏。
 いっそ窓から飛び降りてやろうかとも考えたが、こんな格好で外を出歩くなど、正気の沙汰とは思えない。
 グラウンドは運動部が陣取っているし、校舎内にも居残っている生徒はいる。教職員だって、言わずもがな。
 調理室から応接室まで、誰にも見付からずに移動できたのは奇跡に近い。
 摺り足で近付いて来る雲雀から離れようとして、彼は尻餅をついた。そのままずりずり後退して、尻に巻き込まれた分、着ている赤い服の裾が捲れ上がった。
 健康的な太腿が丸出しになって、気付いた綱吉が慌てて膝を倒し、服を引っ張った。
「ひゃっ」
 一応ズボンを履いてはいるものの、丈はとても短い。足の付け根まで露わになって、その上サイズが少し小さめなので身体のラインが丸見えだった。
 足首を外に向けてぺたんと床に腰を落とした少年に眉目を顰め、雲雀は三歩手前で足を止めた。音もなく膝を折って屈み、恥ずかしそうに俯いている後輩の、紅色に染まった頬や耳に見入る。
「なんなの、その格好」
 並盛中学校はいつからそんなファンシーな衣装を制服に指定したのだろう。全く覚えが無いと真顔で問えば、奥歯をガチガチ鳴らした綱吉が鼻を啜り、頬を膨らませた。
 琥珀色の目にうっすら涙を浮かべて、愚図つきながら睨みつけてくる。
「俺だって、好きで着てるわけじゃないです」
 唾を飛ばして怒鳴られて、雲雀は顔を顰めた。怪訝にしながら首を捻り、ついでとばかりに閉めたばかりの扉を窺う。
 動くものの気配はないので、草壁はまだ廊下に這い蹲ったままか、とっくに撤退したか。
 視線を戻し、雲雀は蜂蜜色の髪を押し潰している帽子にそうっと手を伸ばした。
 白い綿毛の飾りを弾けば、結び付けられている三角帽子も一緒になって揺れた。服と同じ素材で作られているのだろう、触り心地はふわふわして、柔らかくて暖かい。
 赤と白、そして時折混じる緑の配色は、間もなくに迫ったクリスマスカラーだ。
「サンタクロース?」
「草壁さんが、着ろって」
「どうして」
 家庭科調理室で差し出されたもうひとつの箱の中身、それこそが今現在、綱吉が着ている衣装だった。
 彼は言った。校内で堂々とケーキなどという甘味を貪り食った事実を秘匿しておいて欲しければ、今すぐこれを着て応接室に行け、と。
 食べて良いと言ったのは他ならぬ草壁なのに、なんという無茶な論理だろう。だが少しでも疑いを抱き、断っておけばこんな目に遭わずに済んだ。迂闊だったと反省したところで、もう遅い。
 甘いものに釣られたとは言いたくなくて、綱吉はごにょごにょと言葉を濁し、胸の前で両手を小突き合わせた。
「えっと。その。ヒバリさんに、クリスマス……気分を、ちょっとでも、だとかで」
 なにか巧い言い訳を、と懸命に足りない頭を働かせて知恵を搾り出す。しどろもどろに告げられた嘘八百に、雲雀は切れ長の目を真ん丸に見開いた。
 鼻で笑い飛ばすかと思っていたのに、この反応は意外だ。
 日頃お目にかかるのも稀な彼の驚いた表情をぽかんと眺め、綱吉は瞬きを連発させた。
 物珍しげにされていると知り、雲雀がハッと息を飲んだ。気まずげに口元を手で覆い、微妙に赤味を増した肌色を隠して顔を背ける。
「ヒバリさん?」
「あの馬鹿……」
 どうかしたのかと綱吉が問うが、彼は独り言をボソボソ呟くだけで返事をしなかった。
 聞こえなかった綱吉の頭にクエスチョンマークがふたつばかり生えた。大粒の目をまん丸にしている少年に渋い顔をして、雲雀は手を外すと肩の高さでひらひらと横に振った。
「悪かったね、変な事につき合わせて」
「あ、いえ」
 まさか謝られると思っていなかったので、咄嗟に否定してしまった。後から訂正するのもどうかと思い、まったくもってその通りだと、心の中でだけ呟き直して肩を竦める。
 驚いているところだけでなく、殊勝にしているところまで見てしまった。あの天下の暴れん坊の、並盛中学校風紀委員長雲雀恭弥が、だ。
 雪が降るのではないか。薄暗い空を一瞥して、綱吉は笑った。
 照れ臭そうにしながら、頭を掻く。指が当たった弾みで帽子が落ちてしまった。
「あっ、と」
 膝で受け止めた綱吉が、ふかふかの布を握り潰して丸めた。
 小さく舌を出した姿は、なんとも可愛らしい。とても十四歳には見えない外見に一瞬見蕩れて、はたと我に返った雲雀は気取られないようにゆっくり顔を反らした。
 思い出すのは、数日前のこと。
 ここ応接室で、草壁と喋っている時に、どういう経緯かもうじきクリスマスだという話題になった。
 町中が浮かれ調子で、風紀も緩みがちだ。去年の出来事を振り返って不機嫌にしていた雲雀を宥め、彼は今年の予定を聞いてきた。
 だが勿論、雲雀に予定などあるわけが無い。強いて言うなら風紀委員としての活動くらいか。クリスマスは違反者を狩る格好のイベントとしか捉えていない彼に嘆息して、草壁はまたひと言、二言、言葉を続けた。
 そのうちに妙な流れになって、サンタクロースの話が出て、赤と白の衣装に言及して。
 似合いそうだな、と雲雀はつい、呟いてしまった。
 上はだぼっとした感じの、少し大きめサイズ。脚が綺麗だから下は短パンで、けれどそれでは寒かろうから膝まであるブーツを履かせて。帽子は先端に白い綿毛がついているのがいい、それも真ん中でクタリと折れ曲がって垂れ下がっているのが一番。
 そんな話を確かに、した。
 あの日雲雀の頭に描き出された綱吉が、現実となって目の前にしゃがみ込んでいる。
「似合うね」
「へ? ええ!?」
 無意識のうちに声に出してしまい、今度は音を拾えた綱吉が素っ頓狂な声を上げた。
 それで呟いてしまったのだと自覚した雲雀が、一気に首から耳までを真っ赤に染めた。つられて綱吉も赤くなって、ワタワタと両手を振り回した後、首を竦めて小さくなった。
 お互い向かい合ったまま俯いて、十数秒後気になって顔を上げようとしたところでまた目があった。
 タイミングが被ったのに慌ててまた下を向いて、もぞもぞしながら居心地の悪さに奥歯を噛み締める。
「えっと。えと、あの。あ、……ありがとうございます」
 なにか言わないと間が持たない。膝の上で帽子を弄り回しながら綱吉が小声で言えば、パッと目を見開いた雲雀が直後、頬を緩めて穏やかに微笑んだ。
「寒くない?」
 ただ生憎と、それは綱吉の視界に入らなくて、彼は惜しいことに世紀の一瞬を見逃した。丸めて潰した帽子を今度は横に引き伸ばして、腰をくねらせながら落ち着きなく身を捩らせる。
 優しい気遣いに恥じ入って背中を丸め、左手は裾から覗く太腿に触れた。
「脚が、ちょっと」
 床に直接腰を落としているのもあって、下半身全体が冷えていた。膝を擦り合わせて摩擦熱で身体を温めようとしている彼を盗み見て、雲雀は数秒考え込み、やがて自らの肩に手を回した。
 どんなに暴れまわっても落ちることのない学生服を背中に滑らせ、床に沈む直前で受け止める。
「ヒバリさん?」
「これでも被ってなよ」
 仄かに体温を残す黒の学ランを差し出されて、綱吉はきょとんと目を丸くした。潰れた帽子の上に落とされた重い布の塊にまたも驚かされて、視線を忙しく上下させる。
 赤味を残した顔をそっぽ向かせた男にじわじわと温かなものがこみ上げてきて、彼は有り難く学生服を引き寄せると、ぷっ、と可愛らしく噴き出した。
「なにがおかしいの」
「いえ」
 理由を訊くが、答えてもらえない。気に入らない返事に小鼻を膨らませた彼をまた笑って、綱吉は膝に広げた制服を被せ、余った袖を背中に回した。
 雲雀に抱き締められている気がして、妙にくすぐったかった。
「ヒバリさん」
 本番はまだ暫く先だが、当日の彼はきっと仕事で忙しいに違いない。
 言う機会は今しかないと勇気を振り絞って、顔を上げる。
 雲雀が目を眇め、小首を傾がせた。
「メリークリスマス、です」
 にこやかに告げられたひと言に、唖然として。
 彼は瞬時に頬を緩め、力の抜けた笑みを浮かべた。

2011/12/23 脱稿