今日と明日をつなぐ糸は

 それまで当たり前のように感じていたことが、実はそうではなかったことをここに来て初めて思い知らされた。
 子供だから、学生だから、といったことはまるで通用しない。そもそも、この世界では「学校」なんて物に通えるのは貴族や金持ちといった一部の特権階級に生まれた子供達だけで、そうでない子供達は親や、身近にいる知識を持った人に頼るしかない。でなければ、自力で学ぶか。
 義務教育という考え方からして、この世界にとっては奇妙なものに映るのだろう。そしてそういうことが出来るのは、日本という国がいかに豊かであったのかを証明している。よくよく考えてみれば、確かに地球上では未だ貧困にあえぎ、戦争で苦しんでいる地域が山ほど存在しているのだから。
 自分は恵まれていたのだと、改めて思い知らされる。
 そして現代日本から自分が持ってきた知識や技術は、このリィンバウムでは何の役にも立たない、形だけの張りぼてだったことを、見せつけられた気がした。
 そもそも文字が作られたのは、言葉では伝えられない遠くにいる相手に知らせたいことを教えるためであって、それは別に知り合いとかだけではなく、後世に生まれてくる人々に歴史や己の考え方を遺すためでもあった。
 だから、そういうことをしなくてもいいと思っている人には、文字は必要ない。ましてや、語ることがない人には言葉さえ不要だ。でも現実にそういう人は極度に少数派で、少なくとも自分たちの回りにそういった奇特な人物は存在していない。
 故に言葉も、文字も必要。
 でも、自分はリィンバウムの言葉は理解できても、文章はまったく読めない。いつかテレビで見たアラブの方のような、それでいてヨーロッパ辺りでも使われているような、ミミズののたくったみたいな文字の前で、苦悶するだけだ。
 新堂勇人、17歳。この年にして、書き取りの勉強中。

「あーー!! やめたやめた、やーっめた!」
 ハヤトの大声と共に、部屋中に黒い紙が舞った。
「なんだ、どうした?」
 たまたま部屋の前を通りかかっていたらしいガゼルが、そんな彼のやけくそに近い雄叫びを聞いてドアをノックなしに開けて顔を覗かせる。だが目の前に飛び込んできた黒ずんだ紙を拾い、「なんだ」と一瞬でも緊張してしまった自分が馬鹿らしくなった。
「なにやってんだよ、ハヤト」
 ドア脇の壁にもたれかかり、ひらひらと飛んできた紙を揺らしてガゼルは机の上に突っ伏しているハヤトに言った。声は呆れ気味。
「なにって……見りゃ分かるだろ」
 ベッドの横に据え付けられた小さな、ハヤトのサイズでは少し小さいかもしれない子供用の勉強机の上で、腕を下敷きにハヤトはうなだれている。主に机の回りを中心に、書き取りを練習していたときに使ったと思われる紙が散乱している。半分くらいはくしゃくしゃに丸められているが、途中からそれすらも面倒になったのか、くねった文字が踊るインクに汚れた紙がそのままの形で床を埋め尽くしている。
 ハヤトが文字の練習をしていたことは、誰が見たって明らかだ。
「別にいいんじゃねぇの? 字くらい書けなくっても」
 死にはしないんだし、と軽口を叩いて持っていた紙をそこに捨てたガゼルが笑う。だがじろり、と机の上からハヤトに睨まれ、息を呑んだ。
 完全に彼の目は据わっている。ちょっと機嫌が悪いどころではない。珍しく、ハヤトは怒っていた。
「な……んだよ、んな怒ることか?」
 自分が今口にした台詞がそんなにハヤトの神経を逆なでするとは思ってもみなくて。ガゼルはやや憮然とした表情でハヤトを負けじとにらみ返した。
 だが、長いため息をついて机から身を起こしたハヤトは、
「違うって。ガゼルに怒ってるんじゃないよ」
 フルフルと首を振り、右手に持ったままだったペンを机上に放り出す。そのまま椅子の前足を浮かせて背もたれに体重を預ける。かくん、と力を失ったハヤトの首が、椅子の後ろ側に垂れ下がった。
 視界が逆さまになる。
 きょとんとしている、ガゼルが見えた。
「自分が嫌になっただけだよ」
 勢いをつけて姿勢を正すと同時に椅子を下げて立ち上がる。反動で揺れた机の上で、ペンが転がってすぐに止まる。
「今までの自分、何もできない自分、すぐに諦めてしまいそうになる自分……そういう自分が嫌になただけ。自分に怒ってたんだ」
 ガゼルに向き直り、表情を崩したハヤトは笑う。だけどそこにどことなく無理を感じて、ガゼルは首を傾げてしまう。
「なあ」
 だから、つい疑問が口をついて出てしまった。
「なんでそんなに、字が書けるようになりたいんだ?」
 聞くと、ハヤトは一瞬驚いた顔になり、すぐにばつが悪そうにガゼルから視線を逸らした。
 そんなに言いたくないこと?
 ガゼルの胸に更なる疑問が浮かぶ。自分には何だった相談してくれると思っていたのに、それは自分だけの勝手な思いこみだったのか。自分たちの間に成立していると思っていた信頼関係は、それほどまでに薄っぺらい形だけのものだったのか。
「分かった。もういい」
 今度はガゼルが怒る番だった。
「え?」
「勝手に頑張ってろ」
 突然怒りだしたガゼルの心内が分からず、きょとんとするハヤトを置いて彼は乱暴に部屋のドアを閉じた。
 ばたん、という大きな音がして部屋全体が揺れたような気がした。行き場のない風が部屋の中を駆けめぐり、床に散っていた紙を浮かせる。思わず身を縮ませたハヤトは、ガゼルが何をあんなにも怒ったのか、やはり分からなくて顔をしかめる。
「なんなんだよ……」
 彼はしばらく、呆然と閉じられたドアを見つめていた。

 自分の名前は、かろうじて書けるようになった。ラミが書いてくれたお手本と、書き方の本が役に立ったと言えるだろう。
 続いて挑戦したのは、フラットの仲間達の名前。キール、リプレ、ガゼル、……これまで関わってきた沢山の仲間達の名前を書けるようになるのに、ハヤトは軽くひと月をかけた。最初の頃はミミズよりもひどい字だったのだけれど、今では誰が見ても読めるような文字を書けるようになっている。
 でも、その次でつまずいた。
 字が書けて、簡単な単語も読めるようになった。でも、文章が読めない。
 文法が、分からないのだ。
「英語、もうちょっと勉強しておけば良かったかな……」
 リィンバウムの文法は、どうやら英語のように述語が最後に来る形で整理されているらしい。英語が出来る出来ないの問題でもないのだが、要は気の持ちよう、だ。
 そもそもハヤトは机の前に座っているよりも、グラウンドに出て体を動かす方が遙かに得意で、大好きだった。昔から勉強はそこそこ出来るが、ムキになって勉強するのは試験の時だけで、それ以外は学校の宿題くらいしかした覚えがない。やればもっと出来るのに、と親は度々愚痴をこぼしてくれていたが。
 ガゼルのいなくなった部屋で、再び椅子に腰を落ち着けたハヤトは指先でペンをもてあそびながらため息ばかりを繰り返していた。
 目の前にはキールが出してくれた練習問題がある。単語が3つ4つ並んだだけの、多分基本中の基本問題であろうこの例題を訳すのに、ハヤトは丸一時間かかった。
 辞書を引こうにも、書いてある文字すべてがリィンバウムの文字では話にならない。教えてあげようか、というキールの言葉に首を横に振った手前、素直に聞きに行くのもはばかられて。
 どうしても解けない最後の一文に嫌気がさし、さっきの大声を張り上げたのだ。
「あーああ」
 これで何度目か、ため息をこぼしハヤトは机の上に頬を載せた。
「召喚術に、言葉だけじゃなくて文字も読めるような呪文も組み込んで置いてくれたらよかったのに……」
 責任転換を言ってみても空しいだけで、手を伸ばし問題用紙を取る。几帳面に読みやすい字で書かれた紙面には、キールの生真面目さが伺えた。
 大体、どうしてこんなにも言葉を書けるようになりたかったんだっけ……?
 さっきのガゼルを思い出し、腕を抱えた。
 理由は本当にちっぽけで、情けないもののように思えたから、言えなかった。それに、多分自分の中では彼らを驚かせてやろうという気持ちも少なからずあったはずで、だから尚更、言いたくなかった。
 それがガゼルを怒らせてしまったのだろうと、今なら理解できる。
 秘密にするつもりは無かったけれど、かといって正直に全部話すのは、17歳にもなった今の自分からしたら相当恥ずかしい。
 ──残せるものが欲しかったんだ──
 自分はいつかこの世界からいなくなる。まだ分からないけれど、きっといつか、そんな日がやってくる。そして多分、自分は帰らなくてはならない。
 だからせめて、自分がこの世界に、リィンバウムに確かに存在していたことを証明できる何かを残せるようにしたい。みんなの記憶の中で今という時間が薄れて行き、いつか今日が夢であったのではないかと疑うときが来ても。記憶という曖昧な形のないもの以外で確かに自身の存在を明日に残して行けるものが、欲しかった。
 写真を撮ったり、ビデオに記録して置いたり声をテープレコーダーに録音したり。地球の日本だったら、そうやって次の世代に今の自分を残して置けるけれど、リィンバウムにはそういう便利な機械は存在していないから。
 手紙にするしか、ないじゃないか。
「ありがとう、って言いたいんだ」
 親切にしてくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう。
 沢山のありがとうがある。いくら感謝しても足りないほどに。
 口に出すには照れくさくて、面と向かって言えないことでも手紙にすれば伝えられることがある。そういうことはガラじゃないと今まで思っていたけれど、いざ手紙にしようとしたら言いたいことはあとからあとから湧いて出てきて、とても簡単にまとめられそうになかった。 
 自分の手で、自分の言葉で伝えたい。だから人に頼ることはしたくない。
 だけど。
「くじけそう……」
 力無く呟いた声が聞こえたかのように、部屋のドアがノックされた。
「ハヤト、いるかい?」
 キールだ。
「どうぞ」
 机から顔を離して身を起こし、ハヤトはキールを迎える。キィ……と微かに木と金具の軋む音が響いて、片手いっぱいに何かを抱えたキールが扉口から顔を覗かせた。
「どう? はかどって……ないみたいだね」
 この練習問題をもらったのは今日の朝。それから彼はどこかへ出かけていたようで、さっきの大声も聞いていないはず。だけれど、床一面に散らばったままの紙を見て、ハヤトが何をしでかしたのか大体理解したようだ。苦笑が漏れている。
「何処が分からないんだい?」
 キールには隠し立てしても無駄。ハヤト自らが彼に対し、言葉を教えてくれるように頼みに行ったのだから。故に彼はハヤトが文字に執着する理由も知っている。知った上で、他の仲間達にも黙っていてくれた。
「最後のやつ」
「ああ、やっぱり?」
 後ろ手にドアを閉めて、床の紙を踏まないように注意しながら近づいてきたキールに、ハヤトはぶっきらぼうに答えた。だが、キールの妙に悟った態度に不審を抱き、椅子に座ったまま下から彼の顔をのぞき込んだ。
「ごめん、ここはまだ君に教えてなかったんだ。単語自体は簡単なんだけど……語尾の活用が、他のものとは異なってる。分からなくて当然だったね、悪いことしたよ」
「うそ……」
 それじゃあ、今までの散々頭を悩ませた時間は何だったのだ?
 ごめん、と繰り返すキールを呆然と見上げハヤトは少し、泣きたくなった。怒るよりも、空しい。それに、こんなにも自分から謝ってくるキールを怒れない。せめてもうちょっと早く教えて欲しかった、と思う程度だ。
「いいよ、もう。それより、それは?」
 椅子ごとキールに向き直って、ハヤトは髪を掻き上げつつキールの持つ白い袋を気にした。
「ああ、これかい? 君にって思ってさ」
 そう言って袋から彼が取り出したのは、練習用に使っているものとは明らかに質感の異なる上質紙だった。日本ではなんでもない白い紙だが、サイジェントでは貴重だ。通常使用しているインクのノリも悪いわら半紙並の紙とは、大違い。
「これって……」
「手紙にするとき、必要だろう? 心配しなくてもこれは僕個人の財布から買ったものだから、リプレたちに気付かれることもないよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
 そもそも、キールにはポケットマネーなんてあったのか? そういった話の次元が根本的に違っている事が先に頭に浮かんできてしまい、ハヤトは混乱した。
「気に入らない? ちゃんと人数分、ひとり一枚で計算して買ってきたんだけど」
「そうじゃなくって……」
「じゃあ、なんだい?」
 分からないことは正直に聞こう、というのはハヤトがキールに教えた人間関係を円滑にこなすための手段だった。だけどこう混乱しているときにされるのは、ちょっと辛い。
「だって、俺まだちゃんとした文章書けないし、字だって下手くそで、そんな高そうな紙に偉そうに書ける人間じゃ……ああ、俺なに言ってんだ!?」
 わしゃわしゃと髪を掻き回してハヤトが叫ぶ。ここに来てようやく、キールは彼が何を言いたいのか半分程度、理解した。
「いいんじゃないのかな、下手でも」
 とすん、といきなりキールはハヤトの前に中腰になった。俯いた彼の視線を下からのぞき込んで、否応がなしに自分の方を見なくてはいけない状態に追い込む。
「大丈夫、伝わるさ。たとえそこに書かれているのが、たった一つの言葉だったとしても」
 言葉にはそれだけの力がある。召喚獣をリィンバウムの固定化させているのだって、名前という言葉なのだし。
「それに、これは君へだけの投資ではないんだよ?」
 にこりと微笑み、キールはハヤトへ持っている上質紙の束を差し出す。
「今は真白いただの紙だけど、君が筆を走らせてここに文字を書き込むだけで、それは世界でたった一つのものへと変わる。僕は君からの手紙が欲しい。だから僕はこの紙を買ってきた。言ってしまえば、僕のための投資でもあるんだよ」
 はい、と手渡された紙束をつられて受け取り、ハヤトはキールの顔と渡された紙を交互に見つめる。
「焦らなくてもいい。君が満足できるようになったとき、使ってくれれば。時間はたっぷりとあるしね」
 それはつまり、まだハヤトが元の世界に帰る手段が当分見付かりそうにないっていうことの裏返し。
「努力はしているんだけどね……」
 そればかりを繰り返すキールに、ハヤトは時々、ひょっとして本気で探す気はないんじゃないのか? と突っ込み返したくなることがある。まさかそんなことはあるまい、と思いながらも……。
 しばらく真白い紙の表面ばかりを見つめていたハヤトは、ふと思い立ってキールを見た。
「キール、あのさ、今、一言でも気持ちは伝わるって言ったよな」
 中腰から立ち上がっていたキールを今度はまた見上げる形で、ハヤトは早口になって尋ねる。
「言ったけど……」
 紙撒き散るハヤトの部屋をぐるりと眺めていたキールは、思ってもみなかった事を質問されて驚いたのか、目を丸くしている。だが自分を見つめるハヤトがあまりにも真剣だったので、
「誰かに、伝えたいことでもある?」
 勘ぐり入れて問い返せば、ハヤトは少し顔を赤らめながらも正直に頷いた。
「教えてくれないかな。『ごめん』ってどう書くのかをさ」
「いいよ。『ごめん』だけでいいの?」
「うん」
 机上に転がっていたペンを取り、早く、とハヤトがキールを急かす。
 まだ使っていないわら半紙を拾い上げ、キールはハヤトの後ろからお手本をゆっくりと書いてやった。食い入るようにその手先を見つめるハヤトの姿がおかしくて、キールは苦笑が隠せない。
「なんだよ」
 やや憮然としてキールを振り返ったハヤトに、彼はまた「ごめん」と謝る。
 その日の夕方、庭で薪割りしていたガゼルの元にハヤトがやって来て、何も言わず彼に折り畳まれたわら半紙を差しだすと、脱兎の如く逃げていった。
「?」
 なんだろう、とハヤトの背中を見送ってガゼルは4つ折にされた紙を広げる。
 たった一文字。紙の中央に、記されていて。
「……ばっかじゃねぇ?」
 その文字を見た瞬間、ガゼルの口からはそんな言葉がこぼれていたけれど。
 どう見ても彼の表情は、嬉しそうだった。