残照の庭に煙る涙

 なにも残らなかった
 なにも出来なかった
「行くのか?」
 庭に立ち、着慣れたマントの具合を確かめていたキールに、後ろからガゼルが静かな声で尋ねてきた。振り返れば、ガゼルの横には俯いたままのリプレも並んでいる。
「ああ。いつまでもここにいても……仕方がないからね」
 向き直って言うと、弾かれたようにリプレが顔を上げた。
「迷惑なんて思ったこと無いよ! いつまでもいてくれていいんだよ? どうしても……行っちゃうの?」
 だんだんと小さくなっていく声に重なるように、リプレの肩が小刻みに揺れて嗚咽が漏れ始める。両手で顔を覆って涙をこらえる彼女に、ガゼルが悔しげに唇を噛んで支えるように彼女の肩を抱いた。
「どうして……こんなことになっちゃったの……」
 誰に問うともなしに呟く彼女の声に、キールもガゼルも答えることは出来ない。
 彼らの大切な友達──ハヤトがいなくなって、もう1週間になる。
 サイジェントの町は落ち着きを取り戻し、城から避難していた領主も戻ってきて以前と大して変わらない日常があちこちで繰り返されるようになっていた。ただひとつだけ、ハヤトが消えてしまったこと以外は。
「探すのか? あいつを」
 魔王となってしまった彼を。
 誰のことを言っているのか、示さなくてもキール達には分かってしまう。それが哀しくもあり、悔しい。
 戦いが終わりフラットのアジトへ帰ってきた彼らには笑顔はなかった。待ちくたびれたように飛び出してきたリプレと子供達に、皆は事のすべてを隠さず話した。隠してもいつかはばれてしまう。ショックが大きいだろうから、とガゼルは反対したが結局、ハヤトだけがいないことを説明するには、真実を知らせるしかなかった。
「ハヤトが何処ヘ行ってしまったのか……それは僕にも分からない。魔王と一緒にサプレスに行ってしまったのかそれとも、魔王の言った通り、無事に元いた世界に帰れたのか。僕には分からないよ」
「まだハヤトは、魔王のままなのか……?」
 泣きやまないリプレの背中を軽く何度も叩いてやりながら、ガゼルは続けて尋ねる。だがそれには、キールは黙って首を振った。
「分からない。だから僕は、行こうと思う」
 リィンバウムは結果的には崩壊の危機から脱した。だが世界を覆い尽くしていた結界が修復された気配はなく、今も召喚術は横行している。こうしている間にも結界のほころびはどんどんと大きくなり、いつか完全に砕け散ってしまう。
 そして、結界を支えていたエルゴはもういない──
 たとえ召喚術をすべて使用禁止にしたところで、エルゴの力が失われている今、結界は長く保たない。新たな、別の手段を探さないことには、リィンバウムは遅かれ早かれ、滅ぶことになるだろう。
 この一週間、キールは考えに考え、そして旅立つ決心をした。
 もう彼には自由を束縛してきたものはない。あるのはハヤトへの思いと、仲間達を守りたいという思い。
「方法は必ずある。諦めてしまう前に、僕は走りたい。きっとどこかに、解決策はあるはずだから」
 そして叶うならば、もう一度君に会いたい。ちゃんと世界を守れたよ、と笑って君と話したい。君が守ろうとした世界は今も平和にあり続けていることを、胸を張って教えてあげたい。
「俺は……行けないけどよ……」
「分かっている。ガゼルは、僕達の還る場所を、守っていてほしいんだ」
 フラットのこの家と、ここに住むリプレやアルバやフィズ、ラミ達をそして、今はキールの帰る場所を守るのが、ガゼルの役目だ。
 重なり合った沈黙に耐えきれず、ガゼルは視線を庭に泳がせた。日の陰る庭に、元気を失った花が頭を垂れて並んでいる。まるで植物までもが、ハヤトの不在を嘆いているように見えて寂しくなる。
「キールさぁん……」
 その庭の隅の方から、モナティが現れて不安げな顔でキールを呼んだ。両手でガウムを抱き、大きな耳を力無く垂らしている。
「……マスターは……」
 彼女にはまだ、ハヤトが魔王になってしまったことがちゃんと理解できていない。彼がいなくなってしまった理由を掴みかねている。自分が不器用でみんなに迷惑ばかりかけていたから、怒って出ていってしまった、だから自分がいい子にしていればいつか帰ってきてくれるのだと、信じて疑わない。それが見ている方には辛かった。
「帰ってくるのですの……?」
 だが日が経つに連れ、彼女もなんとなくだが理解してきているようだった。同時に部屋に引きこもり、泣いていることの方が多くなっていた。
「モナティ」
 大粒の涙を目尻に溜めて、必死に泣くのをこらえている彼女に手を差しだし、キールが柔らかに微笑む。
「一緒に、探しに行こうか?」
「キール!?」
 ガゼルが目を見開き大声を上げる。リプレも泣くのを一時中断し、キールとそれから、モナティの顔を順に見た。
「ハヤトもきっとモナティに会いたいって思っているよ。だから、一緒に探さないか? 会いたいんだろう?」
 会える保障なんてどこにもないのに、キールはごく当然のことのようにハヤトに会えると言ってのけた。
「信じてるから、ね。出来るって、会えるって。ハヤトが教えてくれたことだだから。信じることの強さは」
 だからいつか会える、信じている限り必ず。それがキールの原動力だった。
「あいたいですぅ……」
 しゃくりを上げ、モナティがついに耐えきれず涙をこぼす。次から次へと流れ出す涙につられて、リプレもまた泣き出した。
「きゅーー」
 ガウムがモナティを慰めるようにぷにぷにした体を揺する。
「おれっちも行く!」
 そこへ、緊張感の欠片もない声が飛び込んできた。ずっと彼らの会話を聞いていたのだろうか。裸足のまま部屋から庭に駆け出してきた黒い影はジンガだった。
「おれっちもアニキに会いたい! だから手伝う。おれっち、召喚術のこととか全然分かんないけど……でも、アニキに会いたいって気持ちは誰にも負けない! だから!!」
 ガゼル達とキールの間に割り込み、握り拳を作って必死になってキールにその気持ちを訴えかけてくるジンガに、初めはぽかんとしていたキールはあわてて我に返って頷いた。
「……ああ。正直僕達だけじゃ旅は心許なかったからね。君が一緒だと、助かるよ」
 手を差しだしたキールの顔をじっと眺め、それから彼の言葉を承諾と理解し、凄く嬉しそうに笑ってジンガは彼の手を握り返した。離れた場所にいたモナティも、しゃくり上げるのをやめてトテトテと走って来ると、握りあっているふたりの手の上に自分の両手を重ね合わせた。
 言葉にしなくても想いは繋がっている。皆、こんなにも彼に会いたいのだ。
「お前ら……」
 少し羨ましいのか、ガゼルが複雑そうな顔で彼らを見つめる。
「俺は残るぜ」
「ローカス!」
 話に割り込んできたのは、窓際にもたれかかったローカスだった。その向こうにはエルカの姿も見える。
「領主の勝手は収まった訳じゃないからな。俺はアキュートの連中と一緒に、サイジェント復興に賭ける。仲間を集め直して、またしきり直しだ」
 一度裏切られてはいるものの、目指すものは同じなアキュートに、ローカスはもう一度協力してみようと思っている。以前からそれは考えてきたことで、ラムダからも是非、という答をもらっていた。
「あたしも行かないから」
 生意気な口振りを変わることなく見せるのは、エルカ。
「あたしは、あたしで帰る方法を探すから。あたしを召喚した奴はまだ生きているはずだろうし、そいつを捜し出してなんとしてでもあたしはメイトルパに帰るんだからね」
「じゃあ、そのうち……」
 リプレがエルカを見つめて言う。するとエルカは視線をわずかに泳がせたあと、
「ま、まぁ、あんた達がどうしてもって言うのなら、考えてやらなくもないけど……」
「エルカさぁん」
「な、なによ」
 嬉しそうに笑うモナティにびくっとして、エルカがすぐさま牙を剥く。だが彼女が素直ではないことはフラットのメンバー全員が知っている事で、ムキになって否定することが逆に肯定しているということに、エルカはいい加減気付くべきだろう。
 雲間から日が射して、庭を明るく照らし出す。暖かな風が彼らの回りを緩やかに舞った。
「おい」
 だが、一瞬和みかけた庭に、新たな人物が割り込んでくる。これまで何度もフラットにちょっかいをかけ、喧嘩を仕掛けてきた張本人であり、ハヤトによって救われた最後の存在──バノッサだった。
 全身に無数の傷を負い、エドスによって運び込まれた彼はしばらくベッドに貼り付けられていたが、昨日辺りからようやく起きあがれるようになっていた。顔色は相変わらず優れないままだったが、カノンとエドスの必死の看病により、今日からはベッドの上ではなく皆と一緒に並んで、食卓で食事を取るようにもなった。
 以前のような荒々しく、触れればこちらが傷つくような空気はもう彼からは感じられない。やはり本当に、バノッサの中にあった憎しみや悲しみや怒り、そういった負の感情はすべて魔王に持ち去られてしまったのだろう。まるでバノッサじゃないみたいだ、と最初は誰もが困惑したが、この頃は違和感も薄くなっている。
 もっとも、一番戸惑っているのはバノッサ本人だろうが。
「起きて、平気?」
 まだ歩き回るには辛そうだったから、食事を終わらせた彼をリプレはさっさとベッドに押し戻した。見張り役、としてカノンを四六時中彼に付き添わせていたのだがどういう訳か、そのカノンの姿はない。
「あいつは、替えの包帯が切れたからって買いに行った」
「そんなの、言ってくれればついでに買ってくるのに……」
 まだ信用されていないのか、と少し傷ついたリプレにバノッサはそうじゃないと首を振る。
「お前等は、受け取ろうとしないから……」
「そんなのが欲しくて、お前を世話してるんじゃないからな」
 領主から課せられている税率は、相変わらずのまま。人数も増えて食料の調達でさえ首が回らない状態のフラットに、重傷人のための薬やらなにやらにまで、回す金なんてないはずだ。なのに、リプレ達はそんなこと気にしなくていいから、とバノッサが出す金を一向に受け取ろうとしない。
 ガゼルがふん、と鼻を鳴らして言い返したのにバノッサは複雑そうな、それでいて少し悲しげな表情を作る。これもまた、以前の彼からは想像できないものだ。
「そんなに俺が嫌いか。分かった、明日にでも出ていく」
「だーかーら! そうじゃねぇってば」
 この分からず屋、と怒鳴るガゼルに今度はきょとんとするバノッサ。何をこんなにもガゼルが怒っているのか、理解できないでいる。
「俺達は好きでお前の面倒を見て、世話して、食わせてやってるんだ。迷惑だとか思ってない、無償の行為は素直に受け取ってろ。お前が俺達に負い目感じる事なんてないんだ……いたいだけ、いればいい」
 最後の方は口の中でもごもごと言っているだけで、隣にいたリプレにしか聞こえなかった。
 ガゼルはなんとなく、ハヤトのことを思い出していた。そういえばあいつがフラットに来たばかりの頃、同じ様なことを言われて同じ様なことを怒鳴り返したような気がする。そんなに昔のことではなかったはずなのに、もう何年も前のことのように感じられて、泣きたくなった。
「はぐれ野郎を……ハヤトを、探しに行くんだろう?」
 黙りこくってしまったガゼルからキールに視線を戻し、バノッサは痛々しい包帯姿のまま庭に下りてきた。肩から上着を羽織っただけで、素肌に巻かれた包帯には所々血がにじんでいる。だが連れてこられたときに指の一本も動かせないでいた時と比べたら、遙かに体力は回復してきているようだった。これも、あかなべ特製の薬をシオンが好意で、半額以下の値段で分けてくれたおかげだろう。
 アカネとシオンは店に戻り、今もあやしげな店の奥で仕事を続けている。たまにアカネがフラットの様子を覗きに来るぐらいだ。
「ハヤトを、探すんだろう?」
 キールからの返事がなくて、もう一度バノッサは同じ事を口にした。
 一瞬警戒するようにキールの前に立ったジンガだが、近づいてくる彼の表情を見て緊張を解く。今のバノッサには戦う力はないし、そんなことをして得をするわけでもない。だがその場から退こうかとした時、バノッサの足の力が急に抜けてバランスを崩して倒れそうになったため、慌てて横から腕を差しだし体で彼を受け止めた。
「すまねぇ」
 まさかバノッサから感謝の言葉をもらうとは思っておらず、ジンガは驚いて目を丸くしてしまう。
「いやぁ、いいって事よ」
 だが人から礼を言われるのは素直に嬉しいらしく、すぐに笑ってバノッサの腕を自分の肩に回してやった。バノッサの足元があまりにも頼りなくて、これではまた倒れてしまいかねないと判断したからだ。ただ多少、身長差があってやりにくそうではあるが。
「お前は、あいつを捜すんだろう」
「そのつもりでいるが」
「だったら、伝えてくれねぇか」
 今度はきっぱりと返事をしたキールに、バノッサはわずかに視線を足元に落として言った。
「いや、……連れてきて……くれねぇか、あいつを、ここに。俺はあいつに言いたいことが山ほどある、お前が憶えきれないくらいにだ。それに俺はあいつとまだ決着を付けてねぇ。このままじゃ気分が悪い、勝ち逃げされるのは嫌いなんだ」
 負けず嫌いな台詞を聞き、キールは静かに頷いた。もとより、そのつもりだと。
「約束するよ。必ずハヤトを連れて戻ってくる。その為の旅でもあるからね」
 リンカーである彼がいれば、エルゴが失われた今でも結界を修復できるかもしれない。完全にとは行かなくても、時間が稼げるかもしれないから。その間に、人の心が召喚術を必要としない程に強くなってくれれば……リィンバウムはすべての危機から脱せられるだろう。
 彼がいてくれたら、出来るような気がするのだ。
 望みは、失わない。
 願いは、強さになる。
 守護者達もまた、旅立つ。それぞれの方法で、それぞれの目的のために。
 カザミネは新たな強者を求める修行の旅に、カイナはカノンのような混血児を差別から救うために、エルジンとエスガルドはサイジェントの町から汚染を無くすための方法を生み出すために。それぞれに、新しく進むべき道を見付けて歩きだしている。
 止まったままなのは、君の記憶、ただそれだけ。
──会いたい……
 こんなにも呼びかけている人がいるのに、君はどうして気付かないの?
──会いたいよ、君に……
 こんなにも君を求めているのに、どうしてこの手は君の元に届かないのだろう。
──ハヤト……
 何処にいるの?
 今何を想っているの?
 何を願っているの?
 
 庭が陰る。陽が落ち、黄昏が町を染める。風が冷たくなり、彼らの身を震わせた。
 不安と希望を重ねながら、今日もまた、終わりを迎える。

 訪れるのは、君のいない朝