失くしたかったんじゃない。
壊したかったんじゃない。
守りたかった。
本当に、守りたかったんだ。
それだけだったんだ。
信じてほしい。
世界中の誰も信じてくれなくても
君だけが信じてくれるのならば
僕はそれでいいんだ。
君だけでいい。
どうか、守らせて。
大切に思えるこの世界を
大好きな人達を────
何気ない日常がこれほどに心地よいものだと知ったのは、つい最近のことだった。
周りは皆大人で、自分に対してあまり良いとは言えない感情を抱いている人々の中で生活することになれてしまっていた僕を、ここの人達は温かく迎え入れてくれた。
初めてだった、こんな事は。
見ず知らずの、いってしまえばいきなり押し掛けてきた素性もしれない人間を受け入れてしまうなんで、僕がいうのも何だが、迂闊すぎやしないだろうか。元々は孤児院だったというこのフラットのアジトで、僕は未だ慣れない人との共同生活に戸惑いを隠せないでいる。
「キール、いる?」
ドアがノックされ、返事をする前にドアは開かれた。だがノックの主は返事がないことで二の足を踏んでいるのか、なかなか室内に入ってくる気配がない。
「どうぞ」
ぶっきらぼうに(聞こえるらしい)声でそう言うと、安心したのか、ようやく彼は部屋に入ってきた。
「なにか?」
「あ、いや……別に用って程のものじゃないんだけどさ」
机に向かい、魔導書を開いていた僕はそれを閉じ、椅子を退いて彼に向き直る。自然と僕が彼を見上げる形になってしまって、彼は困ったように頬を掻いた。どうやら視線が同じ高さにないと落ち着かないらしい。
「座ったら?」
言って、僕は向かい側のベッドを示してやる。すると彼は一瞬考え込み、それから首を振って、
「あのさ、キール。今日はすっごくいい天気なんだ」
この部屋には彼の部屋同様、窓がない。だから外の天気がどうなっているのかは、部屋を出ないと分からない。
でも、天気がいいのがどうしたんだろう?
不思議に思っていると、彼はいきなり僕の腕を掴んだ。
「だからさ、部屋に閉じこもってるのなんて勿体なさ過ぎだろ!? 散歩、行こうぜ!」
強引に僕を椅子から立ち上がらせ、彼は半ば引きずるようにして僕を部屋から連れ出そうとする。
「ちょっと、待ってくれ!」
とは言っても、生まれてこの方ろくな運動もせずに本を読み、召喚術を勉強し続けてきた僕が力で彼にかなうはずがなく、些細な抵抗はあっけなく徒労に変わってしまった。
部屋の中だったから愛用のマントも着用せず、魔力増幅のアクセサリーも防具も何も付けていない格好だった僕は、外に出た瞬間吹いた強い風に身震いする。気が付かなかったが、室内は外気よりも少しだけ気温が高かったらしい。
「あ、ごめん。寒い?」
気が付いた彼が僕の顔をのぞき込んで尋ねる。
「取ってこようか」
「いや、いい」
寒いといっても、耐えられないような寒さではない。それに日向に出れば、太陽の熱が体を温めてくれる。なるほど、確かに彼の言ったとおり、外はいい天気だった。雲ひとつない。
「これであの煙がなければ、文句無いんだろうけど」
空を見上げていた僕の脇で、彼が東を見つめて呟く。彼が何のことを言っているのか、僕は見なくても分かった。ここの東側には、工場区がある。そこから流れ出す水は河を汚し、空を黒く染め上げる。そのことが、彼には気にくわないのだ。
いつだったか、彼はこんな事を言った。
河に汚水を垂れ流しにするのではなく、排水溝の手前に浄化水槽を作れば汚染を完全に遮断することは出来なくても、ある程度は防ぐことが出来る。煙突の煙だって、フィルターを設置してそこを通すようにすれば、空気を汚す度合いが低くなるはずだと。よくよく聞けば、彼のいた世界でも、似たような事が起きているのだという。
「それで、僕を連れだしてどうするんだい?」
言葉に刺があることは自分でもよく分かっている。でも、この言い方しか今の僕には思いつかない。もっと、彼らを傷つけない言い方を、僕は探すべきなんだろうか。
「え? あ、そうそう! 折角のいい天気なんだし、どっかいかないか?」
「どこへ?」
「えと……あー、うー……」
即答で聞き返した僕に、彼は言葉を詰まらせる。どうも、考えていなかったらしい。
散歩に行こう、彼はそう言って僕を部屋から連れだした。でも具体的に何処ヘ、何をしに行くのかをまったく想定していなかったのだろう。きっと、思いつきで行動しただけなのだ。
僕はため息をつく。彼に気付かれないように。
「行こうか」
その言葉は、ごく自然に僕の口からこぼれ落ちていた。
「え?」
「散歩、だろう?」
振り返る彼に続けて囁くと、彼は途端に嬉しそうな表情を作る。
「そう、行こう!」
どこだって良い。この日溜まりの下で、君ともう少し話がしてみたい。僕とはまったく違う世界で、まったく異なる日々を送り、考え方を持って生きている君といれば、僕は変われるような気がするんだ。
今までの色のない日常から抜け出して、僕はこの場所へやって来た。君が、僕を連れだしてくれたんだ。君は知らないだろうけれど、僕は本当は、君に感謝している。君がいてくれて、あの場所に現れたのが君で、本当に良かったと思っている。
空が青い。そんな当たり前の事にさえ気付かないくらい、僕は狭い世界を生きてきた。
君が羨ましかった。日の光に満ちた温かい世界を何の疑いもなく甘受してきた君が、羨ましい。
僕にも手にはいるのだろうか?
「ハヤト」
名前を呼ぶと、前を歩いていた彼が振り返る。
「なに?」
「……なんでもないよ」
あどけない表情のまま、君は僕を見ている。
「変なキール」
「君こそ」
頭の後ろで腕を組んだ彼を、僕は足元の石を蹴飛ばして笑う。
「俺が? どこが!?」
「全部。僕を簡単に信じてしまえるところ、疑うことを知らないところ、……何も聞こうとしないところ、とか?」
「はあ? そんなの、当たり前じゃないのかよ」
君は笑う。僕の知らない沢山のものを、君は持っている。それを僕に示してくれている。君は気付いていないだろうけれど。
僕はそれが嬉しい。
「誰にだって触れて欲しくないことがあるだろ? それに、前にも行ったじゃないか。俺は、キールを信じてるって。確かに嘘をつかれるのは気分がいいものじゃないけど、そうしなくちゃいけない嘘だったら、俺は許すよ」
ほら、やっぱり君は変だ。なんの見返りもなく、君は僕を包み込んでしまう。
「いつか、話すよ……」
時が来れば、きっと。
僕は君を、信じる。
だからどうか、君も僕を信じて。
嘘じゃない気持ちがここにある。
本当の僕の気持ちがここにある。
それは嘘じゃない。
君を無くしてしまうことが僕には恐い。
でもそれは君を信じていないことになるのだろう。
だから、いつか僕が恐れなくなったなら、全部君に話すよ。
ありのままの僕を、これまでの自分を、君に示すよ。
「キール」
名前を呼ばれた。いつの間にか俯いていた僕は、顔を上げた先に一面の緑を見つけて息を呑む。
「いいところだろ。この前、アルバに教えてもらったんだ」
河原の土手の側で、花が溢れんばかりに咲き乱れている。風を受けて花びらが舞い上がり、地表に影を落とす木立の枝が揺れている。蝶々が蜜を求めてあちこちで飛び交い、緑の匂いが僕の鼻孔をくすぐる。気持ちいい。
嫌なことをすべて忘れ去ってしまえる、まるで絵画の世界をそのままに映し出した光景が、そこにあった。
「ちがうよ、キール。絵画が、この光景を切り取ったものなんだ」
最初にあったのはこの自然に溢れる世界。それはちっぽけな人間が描いたものなんかよりもずっと、色に満ちて鮮やかに輝いている。
知らなかった。こんな世界もあったことを。
「どう? 来て良かっただろ」
「……そう、だな」
声が震えているのが分かる。多分彼も、気付いただろう。でも彼は何も言わず、僕の側で僕と同じ光景を眺めている。
「いい天気だし、ちょっと昼寝でもしていこうか」
彼が言う。
歩き出す。
その後を僕が行く。
小さな影がふたつ、並んで進んで行く。
君といた日々を、きっと僕は忘れないだろう。いや、忘れたくない。
生きたいんだ。君と一緒に。どこだって良い、君がいるなら、何処ヘでも僕は行ける。
だって、君がいる場所こそが、僕が探し求めていた、僕だけの居場所なのだから…………