世界が変わるとき

 彼は願う
 願いは想いになる
 想いは力となり、力は彼を強くする
 その瞳の彩は鋭き刃のよう 気高き獣のよう
 全てを切り裂き、己が信念を決して忘れ去らぬ
 亡者のごときその力強さ
 ──黒き刃の紋章よ。もし本当にお前が27の真の紋章で、僕に力を与えてくれるのだと言うのなら……
 幸せな日々が待っているのだと思っていた。戦争は終わったのだと、疑いもしなかった。
 あの夜までは。
「う、っく…………」
 口の中が切れている。金臭い味がして、目を閉ざしたままジョウイは眉を寄せた。左頬に冷たい土の感触がある。
「ほう……? こいつは確か……」
 頭上で男の声がする。身じろぎし、体を起こそうとしたが上手くいかない。どうやら、意識を失っている間に両手を背中で縛られているようだった。
「えっ、ええ。どうやら今度こそ、本当に都市同盟軍の手先に成り下がったようで…………」
 おべっかを買うようなこの声は知っている。ラウド隊長だ。
「ふん。死に損ないのブタどもめ。こんな奴を送り込んできたところで、この俺を止められるはずがないことがまだ分からんらしい」
 自身に満ちあふれた、それでいてとても冷たい声。これは誰だ?
「お、気がついたようです」
 薄目をあけたジョウイは、瞬間飛び込んできた光のまぶしさに急速に意識を覚醒させていく。自分が意識を失う直前のことを、少しずつ思い出して行った。
 ──そうだ。僕はセスを逃がすために時間をかせごうとして……紋章の力を解放して、それから…………それから?
 そこから先の記憶を、ジョウイはどうしても思い出せなかった。当然だ。彼は紋章の力を使ったあと、力つきてその場に倒れてしまったのだから。
 ──ぼくは、捕まったのか……?
 殺されるのだろうか? このままラウド隊長が見逃してくれるとは、過去のことから考えてもとても思えなかった。だけれど。
 約束したんだ。絶対に生きて帰るのだと。帰って、セスとナナミと、ピリカを悲しませないためにも、僕は……。
「おい、貴様」
 鉄靴で顎を蹴り上げられ、ジョウイは思考を中断させられた。重い瞼を持ち上げ、目の前に立つ男を見る。
 逆光の中、純白の鎧がまぶしい。だが、そのシルエットは忘れようにも忘れ得ない、憎悪すべき対象である人物をそのまま無言のうちに物語っていて、ジョウイは反射的にその場から飛びずさった。反動を利用して、身を起こす。足までも拘束されていなかったことが幸いだった。
「ルカ・ブライト……!」
 憎々しげに吐き出された自分の名前を面白そうに聞き、狂皇子は一歩、ジョウイへと歩み寄った。
 ここは王国軍のキャンプ。しかも皇女であるジルまでもがいたのだ。軍の最高指揮官であるルカ・ブライトがいても何もおかしくない。いや、むしろいない方がおかしい。だが……これで、微かに望みをつなぐ逃げ道を、ジョウイはいっそう細くされてしまった事に違いなかった。
 武器は取り上げられている。周囲は完全に王国兵でふさがれていた。
「どうした? 貴様らお得意の命乞いをしてみたらどうだ?」
 喉元に広幅の剣を突きつけ、ルカ・ブライトが狂気に染まった瞳でジョウイを見下している。
 はたしてこの剣は、一体どれだけの人々の血を吸ってきたのだろう。どれほどの人達の思いを汚してきたのだろう。
「僕は……」
 声が乾く。全身から大粒の汗が噴き出し、肌に着衣が張り付いてくるが、その気持ち悪さも何もジョウイは気にならなかった。
 どうすればいい? 
 死にたくない。帰るんだ、みんなの元へ。僕がここで死んだら、ナナミが泣いてしまう。セスが悲しんで、苦しむ。
 そんなことはさせない。させたくない……!
「僕は……僕は……死なない! 貴様なんかに、殺されたりはしない!」
 キッと睨み上げた視線の先には、狂皇子がいる。誰よりも強く、誰よりも激しく、誰よりも冷酷な男が、いる。
「僕には生きる理由がある。僕には生きなければいけないだけの理由がある。貴様なんかにそれを奪わせたりはしない。僕は貴様に負けない!」
 強く強く唇を噛んで、片足立ちのジョウイは吠えた。気迫だけでも負けるわけにはいかないと、一生分の度胸もなにもかもを使い切って。ジョウイは、ルカ・ブライトを睨んだ。
「………………フン」
 だが、狂皇子はジョウイを鼻で笑っただけだった。そしておもむろに、剣を引く。
「なにを…………」
 傍らのラウドが、ルカ・ブライトに尋ねようとした刹那。
「!!」
 彼の蹴りが、ジョウイの腹部を強襲していた。
「ぅぐっ…………ガハァッ!」
 衝撃に内臓が圧迫され、胃の内容物が食道を逆流。こらえきれず、ジョウイはその場で吐き出した。
「ウ……、ゲハッ、ゲホッ!」
 両手を拘束されているため、口元を拭うことさえ出来ない。苦しくて、涙さえ目尻に浮かんできたジョウイだったが、これだけでルカ・ブライトが終わりにしてくれるはずが、なかった。
 続いて、鉄の篭手がはめられた拳で容赦なく顔を殴られた。踏ん張りのきかない体勢だったこともあり、ジョウイは簡単に吹っ飛ばされてしまった。肩に激痛が走り、顔を歪めたところで髪を掴まれ、頭を持ち上げられた。
「う…………」
 もう、彼を睨む体力も気力もなかった。
「どうした? 俺に負けないのではなかったのか?」
 先ほどきった啖呵のことを揶揄されたが、もはや言い返すだけの力さえ残っておらず、ジョウイはただ呆然と、目の前にある狂皇子の眼だけを、眺めていた。
 ──強い……
 惑うことのない瞳。狂気のままに、思うままに。この男は果てしなく強い。
 ──僕は……弱い…………の、か?
 力を手にしたはずだった。セスを、ナナミを守るはずだった。二人を悲しませないためにも、僕は生きなければいけないのに。
 ──僕は……負ける…………のか?
 強くなりたかった。この男に負けないだけの力が欲しかった。セスとナナミを守る力が欲しかった。ピリカのような子が二度と現れないような世界を、作りたいと願った。……僕には、それだけの力が宿ったのではなかったのか?
 ギリ、と噛んだ唇が切れ、血が流れる。
 思い出すのは、あの祠で決断を迫られたときの親友の横顔。強固なまでに力を欲した僕に、セスは少し悲しげな表情を見せた。
『力……なんかなくても、ぼくはジョウイがいてくれるだけで強くなれるよ。……でも君は、…………それでは納得出来ないんだね』
 見えない絆という力を信じたセレン。僕は、君が羨ましかった。そう、とても。
 けれど僕はどうしても手に入れておきたかったんだ。誰にも負けないだけの、はっきりとした形のある強さを。
 なのに今、僕はルカ・ブライトの前に無力な存在として横たえられている。いったい、僕にはなにが足りないのか……?
「クズめ。やはり貴様も、生きるに値しないブタどもと同じか!」
 どこか怒りを感じさせる荒々しい声に、ジョウイははっとなった。
 目の前にいる男。とても強く、そして……
「同じ……じゃない」
 切れた唇から出た血を飲み下し、ジョウイは呻くようにして呟いた。
「僕は……強く、なる……。お前なんかよりずっと、強い存在に……なることが、出来る……」
 僕に足りないものがあるとしたら、それはなんだ?
「ほざけ。たかが数発殴られた程度で死にそうになっている貴様が、この俺よりも強くなるだと?」
 カチャリ、と剣を握る手に力を込めた狂皇子の顔を、ジョウイはひどく冷め切った表情で見つめる。
「僕には力がある。僕にはそれが分かる。今ここで僕を殺せば、後々後悔することが必ず起きるはずだ」
「ほう……? えらく自身があるようだな」
 面白そうに目を細めたルカ・ブライトを、斜め後ろで控えているラウドが不安げに見ていた。
「自分が役に立つとでも、言いたそうだな」
「少なくとも、そこにいる木偶の坊よりはずっとお役に立てるでしょうね」
 ちらり、と自分たちの運命を大きく動かす原因ともなった、愚かしく見苦しくもある男──ラウドに目をやり、ジョウイは皮肉気に唇を歪めさせた。
「な、なんだと!?」
 馬鹿にされたことに気付いたラウドが、耳の先まで真っ赤になって怒鳴り、ジョウイに殴りかかろうと拳を上げたが、
「…………!」
 すでに思いを半ば以上固めてしまっていたジョウイに睨まれ、情けなくも凍り付いてしまう。
 くだらない、と硬直したラウドから視線を外し、挑むように狂皇子に目を戻すと、
「なんでしたら、今ここで僕の持つ力の一部をお見せいたしましょうか?」
 表情の見えない凍てついたマスクをかぶり、ジョウイはルカ・ブライトを真正面から見据えた。そして静かに瞼を閉じ、縛られたままの右手の紋章に触れ、そっと語りかける。
「黒き刃の紋章よ……今一度、僕に力を。僕にチャンスを。僕の願いを叶える力を……!」
 ──セス……。
 共にあることが当たり前だった親友を思い出す。
 ──僕は君を、……裏切ったのかもしれないね…………
 チリチリと焦げたロープがゆるみ、両手の自由を取り戻したジョウイは、自然と自身の右手を胸元に抱き寄せていた。
「……おおお…………」
 周囲からはどよめきが起こり、それまでジョウイのことを、弱者を見るときの目で見下ろしていた兵士達は、一瞬にして彼を新たな恐怖の対象とした。凶悪な肉食獣から、一斉に餌にされることを恐れ、茂みに身を隠すしかない草食獣へと変貌する。
「……たしかに。殺すには惜しいやもしれん」
 感心したようにジョウイの背後に広がる光景を見やる狂皇子の声も、今ばかりは彼の耳には届かなかった。彼は決して、今自分が望み、その通りにもたらされた結果を見ようとはしなかった。
 黒こげの死体。焼けた地表。異臭漂うその空間は、ジョウイが最も嫌う地獄絵図に等しかったから。
 それでも……。
「おわかりいただけましたか?」
 この思いは変わらない。紋章の力を手にする、その選択肢を自分が選び取ったときから、戦うことは避けられなかったのだと。
「面白い」
 尋ねられた狂皇子は、率直に答えた。
「だが、まだ信用はできん」
 きっぱりと言い切ったルカ・ブライトの横で、ラウドがしきりに頷いている。
「そうですとも。こいつは都市同盟の送り込んできたスパイです。私たちに取り入って、情報を横流しにするつもりに決まっています」
 そんなせこい真似をするのはお前ぐらいだろう、とジョウイが思っているのも知らず、ラウドはさっさと処刑してしまうべきです、と唾まで飛ばしながら力説する。だが、狂皇子はまともに聞いていないようだった。まっすぐ、ジョウイを見下している。
「同盟軍のスパイである貴様が、この俺に従うというのか?」
「僕はハイランドで生まれ、ハイランドで育ちました。都市同盟に従う義理など、初めからありはしません」
 迷いなく答える。言葉はすらすらと口からこぼれ出ていった。
「ほう。ではその証拠を見せてもらおうか」
 なにを企んでいるのか、面白いことを思いついたとばかりに、ルカ・ブライトが嗤う。
「ミューズ市の市長、アナベルの命を獲ってみせろ。そうすれば信用してやらんこともない」
「アナベルさんの……?」
 予想外の言葉に、ジョウイは一瞬声を失った。
 彼女のことなら知っている。ミューズを守るため、失わないために戦っているのだと答えた、真っ直ぐな瞳を持った人。強い女性だ。でも……おそらく、彼女ではこの大地を、救いきることは出来ない。都市同盟の諸都市でさえ、まとめあげる技量を持たない彼女では……。
 黙り込んだジョウイに、ラウドがしてやったりと舌なめずりをした。
「出来るわけがありませんよ。こいつは正真正銘のおぼっちゃまで、暗殺なんて出来る度胸を持ち合わせてなんか……」
「分かりました」
 ラウドを遮るようにして、ジョウイの澄んだ声は大気を震わせた。
「それくらいのことでよろしいのでしたら、ご期待に添えて見せましょう」
 後悔はしない。これは自分で選び、決めた道だから。
 野に放たれた獣のごとき光をその双眸に宿し、ジョウイは揺るぎない信念をもって答えた。
 ラウドが目を丸くしている。ルカ・ブライトは面白い退屈しのぎを見つけた子供のような目で、ジョウイを品定めしていた。
「ならば、やってみせるがいい……」
 彼は指を鳴らし、奪っていたジョウイの武器を兵に持ってこさせた。更にもう一つ音を鳴らせば、いずこからか黒装束の男が現れ出て、ジョウイの顔をしかめさせた。
「こいつを連絡役にする」
 カゲ、と名乗った黒装束の男は、またすぐに現れたときと同様に、唐突に姿を消した。
 夕暮れが近づいていた。

「アナベルさん。あなたの命を……もらいに来ました」
 手にしたナイフが冷たい光を放ち、困惑の表情を浮かべる彼女を映し出す。
 全ては、あらかじめ決められていた事なのかもしれない。
 僕は力が欲しかった。そして僕は、力を手に入れる術を見つけてしまった。
 それは君の目に、いったいどう映るのだろう。
 でも、分かって欲しいんだ。僕が決して、君たちを悲しませたっかたんじゃないってことを。
 願わくば、君に昔と同じ、安らかな笑顔を…………