生きるチカラ

 自分の生きる意味がなんなのか、ひたすら考えた時代もあった
 答えなど見付からなくて、ならば創ればいいと考えた
 そして……
 意味などなくとも人は浅ましく生きていくことに気付いた
 何もしなくても腹は空く。何もしなくても人は生きていける。誰かに求められなくても、人は生き続ける。
 風はあいかわらず涼しくて、緑濃い空気は慣れてしまえばもうむせ返ることもない。
 あれからはたしてどれだけの時間が流れたのか。数えるのもおっくうになりかけた頃、体は昔と同じ様な状態に戻っていた。
 傷跡は全部消えたわけではないが、折れていた左腕も骨がくっついて今は何も問題ないし、衰えた筋力も戻ってきている。食べるものが数日に一度届けられるものだけでは足りなくなって、自分で外に出て狩りをしなくていけなくなったことが、良いリハビリになったようだ。
 幸いここは獣が多い。水も澄んでいるし、人も食料を届ける人間以外はやってこなくて、忘れていたのどかさを思い出させる。話し相手がいないことに文句は言わない。煩わしくなくて良いとも思う。
 ルックといった、無口の小僧は何もいわずに食料や薬を持ってくると、何も聞かずに去っていく。彼も何も尋ねないから、恐らく数ヶ月はここで暮らしているはずなのに彼はここがどこなのかを知らなかった。
 でも困らない。自分の現在地を知らなくても、怪我が治るまでここから動けなかった彼には関係なかった。
 ただたまに尋ねてくるセレンは、どうしていたとか、体の具合はどうかとか、とにかくしつこく聞いてくる。振り払っても振り払ってもつきまとって来るセレンを、ルックは止めない。ルカも助けを求めたりしないので、結局根負けしてぽつりぽつりと語ったりするのだが。その時のセレンの興味津々と言った顔を見るのが、いつの間にか楽しみになっている事を、ルカは自覚していなかった。
 こういうのも悪くないと思いかけ、ぶんぶんと首を振る。弾みで手にしていた桶から水があふれ出て、せっかく汲んできた苦労が地面に染み込んでいった。
「俺はハイランドの皇王だぞ」
 それがなぜ、こんなところで水汲みなんぞやっていなくてはいけないのか。
 だが、だからといって代わりにやってくれる奴もいない。自分でしなければ、ためておいた水はいつかなくなるし、食料だって尽き果てる。他人に干渉されないということはいかに孤独であるか、ようやくルカは思い知る。
 今までずっと、自分はひとりなのだと思っていた。父も妹も部下も、何もかもがくだらない浅ましい生き物だと思っていた。生きることに固執する連中はクズだと、思っていた。そして自分もそんな最低な生き物のひとつなのだと……。
 丸太小屋の戸を押し開け、中に入る。昼間でも窓から入ってくる日の光は限られていて、ランプに火が入っていない今は薄暗い。扉の側の大きな水瓶のひとつに、今運んできた水を移し替えると彼は長く息を吐いた。
 最初に比べたらずいぶんと物が増えた。
 テーブルは新しいものに替えられていたし、中身が空っぽだった棚には薬類や衣服の替えや、暇つぶしにと渡された本が山のように詰め込まれている。前にセレンが来たとき、苦笑しながら片づけていってくれたが、わずか数日でごちゃごちゃになってしまった。「整理整頓」、と壁に貼られていたりするのが涙を誘う。
 食料は床板をはがした所に保存してある。もっぱら野菜や肉類が置かれているが、果物や甘いおやつまで持ってこられてもルカは食べられない。そういう物はセレンが来たときに返すことにしているが、前に無理やり口に突っ込まれたときは吐くかと思った。
「流されているな……」
 思いだし、ルカは頭を押さえ込んでベットに腰掛けた。ボロ布に近かった布団類も、いまでは新品同様な物に変わっている。これだけの生活道具を持ち運んでいて、仲間達に不審がられないかと心配までしてしまったが、ルックがテレポート出来るとかで、問題ないと本人が言っていた。
「ハイランドはもはや俺の手を放れた。俺はもう皇王ではない。しかし……」
 穏やかに流れる日々は、戦いだらけだった過去を遠くに押し流してしまう。でなければこんな風に、体力が回復してもここに停留し続ける事はしなかっただろう。
 あの記憶を消すことは出来ない。ただ、遠くなるだけだ。現実感が損なわれるだけだ。
 生きていること。それが恥であり、全てを壊してしまいたかった。
 罪を犯しながらのうのうと生きている奴らが許せない。資格もないくせに偉そうにのさばっている連中に吐き気がした。
 悪夢は消えない。今でも夢に見る。
 黒い記憶。捕らえられ、屈辱を与えられ、そしてようやく見た光は彼を更に絶望の淵に追いやった。
 父が憎い。母を見捨てたあの男が。
 だから殺した。必要なくなったから、殺した。報いを受けたのだと、悲しくも何ともなかった。
 胸の中にぽっかりと空いたなにかを埋めるのは、父親という彼を縛る以外に何もしない男の命だと思っていた。
 しかし実際に奴の座っていた椅子に腰を下ろすようになって感じたのは、言いようのない虚しさだったのかもしれない。
 ──ああ、必要なかったんだ。
 欲しかったのはそんな物ではなかった。そして今では、あの頃何を求めていたのかさえ思い出せない。
 なにを探して、人を殺していたのだろう……?
 胸の底にある獣は、今でも近づいてくる全てのものに対して牙をむこうとする。荒れ狂う嵐のように彼の心をかき乱すが、何故か獣はセレン達には刃向かおうとしなかった。それが、真の紋章を持つ彼らにはかなわないと本能的に悟っているのか、それとももっと違う外的要因に起因しているのか、ルカには分からなかった。
 ただ、いつまでも消えない胸の奥にいる獣の記憶を持て余している、そんな感じだ。
 生きていることが苦痛以外の何物でもなかった時代。
 全てが憎く、恨めしかった。
 自分には与えられなかった物を、なんの疑いもなく甘受している連中を見るのが悔しかった。それだけなのかもしれない。
 風が吹き、窓の外を眺める。昼の光は暖かいが、季節は夏を過ぎ、もう蛍が夜に舞うことはなくなった。

  その日は雨が降っていた。
 ここ数日は食料の配達がなく、自分で狩りに行くこともままならない天気のせいで保存しておいた分もかなり残り少なくなってしまっていた。水は雨水を貯めておけばなんとかなるが、いつまでこの雨が続くのか予測がつかず、薄暗い小屋の中でルカはひとり、暇を持て余していた。
 動けば余計に腹が空く。そう思ってベットに横になったままボーっと天井を見上げていたのだが、それにもいい加減飽きてきた。何も変化のない天井が、せめて雨漏りでもしたら退屈は納まるのかと考えてしまう。しかしそれはそれで大変なことになるので、首を振って忘れると寝返りを打って体の向きを変えた。
 閉ざした窓から、雨の匂いが流れ込んでくる。屋根を打つ雨音は一定のリズムを刻んでいて、まえにこんな風に雨の音を聞いたのはいつだったか、と考え込んだ。思い出せないくらいに昔のことだった気がする。
 昨日の昼過ぎに降り出した雨は一晩中降り続き、今も止む気配がない。ろうそくの明かりが頼りなげに揺れて、ルカの顔に影を落とした。
 ここにある本は全て読み尽くしてしまった。大体がくだらない恋愛小説だったり、子供が好きそうな冒険活劇だったが、中には歴史書や哲学書もあって、それらはかなり読み応えがあった。しかし一読後にもたらされるけだるさは、どの本でも同じだった。
 結局自分は何がしたいのか。それが分からないままでは、何をやっても中途半端でつまらない。
 歴史は今もどこかに向かって突き動かされている。だがその中から脱落してしまったのがルカだ。
 ハイランドはジルを娶ったジョウイの手に落ち、ルカが支配していた時代とはまた違う戦い方でラストエデン軍との戦いを繰り広げている。
 ジョウイとセレンは幼なじみだというのは知っていた。それを利用したこともあった。だが結局、敗れ去ったのはルカひとりだった。いいように操られていたのは彼の方だったのだ。
「……見抜けなかった俺の浅はかさが原因か……」
 思い出すのは昔の事ばかり。
 未来に展望がなくなった今、どこへ行くことも出来ず、生かされる日々に甘えている。それを屈辱と受け止めることも少なくなった。
 生かされているのだと思うことで、かろうじて生きる必要性を求めていた。自分がここに連れてこられたのは、必要とされていたからだと……。
「いつからこんなに弱くなった……?」
 自嘲気味に口元を歪める。必要とされない限り生きていてはいけないのか? 
「馬鹿馬鹿しい」
 重い躰を起こし、軽く頭を振る。しばらくそのままの体勢でじっとしていたが、ふと家の外に人の気配を感じて顔を上げた。
「……?」
 誰か来たのかと思った。しかし待っていても扉が開かれる様子がなく、首を小さく傾げた。気のせいだったのだろうか? しかし……気配はなかなか消えない。
 仕方がなくて、ルカはベットから降りて立つと、雨できしみがひどくなった床を数歩歩き、自分で戸を引きあけた。
 雨は激しく降っている。風が少し流れるだけで冷たい滴が屋根の下にいる彼の頬にも飛んできて、服を濡らす。
「……何を、している……?」
 ずっとそこにいたのだろうか。入口の前に、濡れそぼったセレンが立っていた。
 セレンは返事をせず、俯いたままルカの足下ばかりを見ている。濡れた髪が顔に張り付き、服もびしょびしょで滴が垂れていた。
「とにかく、入れ」
 促すと彼は素直に従った。しかし一言も言葉を発しない。部屋の中央にまで進んだところで足を止め、動かなくなった。
 扉を閉めたルカは、仕方なく棚の中から乾いたタオルを探し出し、セレンに放り投げた。空中で広がったタオルはセレンの頭に着地し、水を吸い込んでしぼんでいく。
 明らかに様子が変だった。
 セレンがひとりで来ることは前にもあったが、こんな風にルカに気付かれるまで扉の前で待っていることなんてなかった。いつも元気いっぱいに扉を押し開けて、部屋の中に飛び込んでくる。たとえルカが着替え中でも、疲れて眠っていてもお構いなしに、だ。
「なにか……あったのか……」
 その言葉は自問に近く、殆ど声になっていなかった。
 タオルを与えられも自分で拭こうとしないセレンに痺れをきらし、何故俺が……と悪態つきながらもルカが拭いてやろうとセレンの前に立ったとき。
 ふいにセレンが顔を上げた。
「ルカ!」
 泣き顔だった。それもかなり切羽詰まった表情で、一瞬ルカは呑まれそうになって足を引き戻した。
「ボクは……もう嫌だ!」
 激しく頭を振って叫び、タオルが床に落ちた。
「もう……戦いたくない! ジョウイと、戦いたくなんてないのに!」
 雨の音が遠くなる。
「みんなが傷ついている。戦って、体も心もいっぱいに傷ついて……。でも戦わなくっちゃ平和にはならないって……そう思ってここまで来たけど、ボクはもう……耐えられないよ。みんなボクを信じてくれている。ボクが戦うことでみんながひとつになれるとか、そんなことを言われても、ボクはちっとも嬉しくなんかないよ。どうして……争わなくちゃいけないんだ、誰だって求めているものは同じなはずなのに……どうして争いあうことしか出来ないの……」
 しゃくり上げるセレンの声がルカの胸に沈んでいく。
「戦いたくない、楽になりたい。もう誰かが傷つけあう姿を見たくない……」
 そしてセレンは静かな声でこういった。「殺して」、と。
「セレン……」
「殺して、ボクを殺して! ボクがいなくなれば戦いは終わる。それで済むんだ! ボクはもう……疲れたよ」
 息が詰まった。
 一体セレンに何があったのか。ルカには想像がつかなくて、ただセレンの震える肩を支えることしかできなかった。
「殺して……ルカお兄ちゃん……」
 切ない哀願。だがその時、ルカの胸の奥底にある獣が、嗤った。
 口元が醜く歪む。冗談ではない、といって。
 これが代償か? 
「ふざけるな!」
 声は、大きかった。
 それまで掴んでいたセレンの肩をはじき飛ばし、呆然といった表情の彼を睨みつける。
「俺を生かしておいた貴様がそれを言うか! 甘えたことを……所詮貴様は、その程度でしかないクズだったというわけだ」
 穏やかだった瞳に炎がよみがえる。
 許せない、許さない。こんな屈辱は初めてだ。
「俺を生かし、それが報いだと言ったのは貴様だったのではなかったのか。生き残ることが罰だと、そういったのは貴様だろう!」
 そのセレンがルカに死を望むなど……悪ふざけもいいところだった。
『生きて下さい。生き続けて、ボクと……ジョウイが成そうとしていることを、あなたの目で見届けて下さい』
『……生きて下さい。生きて…………償って下さい……』
 別れ際、セレンは言った。セレンはルカに生きることを強要した。その彼が先に死を望む……それも自分で生かしておいた人間に求めるなんて、非常識だとは思わなかったのか。
「だって……ボクにはルカしかいなかったんだ! ボクを殺してもその重さに耐えられる人が……ボクを殺しても悲しまない人が…………ルカしか思いつかなかった」
 さらりととてもひどいことを口にする。
「その為に俺を生かしたとでも……?」
 がっ! とルカはセレンの頸部を掴んだ。ギリギリと締め上げればセレンの細い首にいくつもの血管が浮き上がってくる。息が苦しくてセレンは顔を歪めたが、ルカに逆らおうとはしなかった。
 それがますますルカの気に障った。
「馬鹿にするな!!」
 勢いをつけ、彼はセレンを壁にむけて放り投げた。セレンの身体は棚に激突し、中に詰まっていた物を頭からかぶって床に沈んだ。
「決めたぞ」
 肩で荒く息をして、ルカは壁際のセレンに宣言する。
「俺は貴様を殺してなどやらん」
 頭を振り、セレンが本やら着替えやらの中から顔を出した。
「俺を生かしていたことを後悔させてやる。せいぜい苦しむがいい。あがき、嘆け。貴様が傷つきゴミくずのようになって戦場で敗れ去る様を見届けてやる。それが俺から貴様に贈る、貴様への罰だ!」
「ルカ……」
 雨が止み始めていた。
 鼻をひとつ鳴らし、彼はそっぽを向いた。セレンが崩れた荷物の山から脱出し、あちこち痛む身体を気にしながら彼に歩み寄った。
「ごめんなさい」
 頭を深々と下げてこられ、ルカが面食らう。
「それから、ありがとう」
 にっこりと微笑みながら。
「ふざけているのか? 俺は貴様を……」
「うん。おかげで目が覚めた」
 ちょっと痛かったけど、と舌を出して言うセレン。少しも悪びれていない。
「ルカがいてくれて、良かった」
 そんなことまで真顔で言って来て、ルカはますますばつが悪そうに頭をかいた。
「くだらん」
 素っ気なく言った彼に微笑み、セレンは雨の様子を見ようと閉めてあった窓を押し開けた。つっかえ棒を置こうと身を乗り出して見上げた空に、思わず感嘆の声を上げる。
「ルカ! 虹が出てるよ!」
 現金なくらいに明るさを取り戻したセレンに、ルカは思わず表情をゆるめてしまったのだった。